第四十八話・匹夫と愚者と
二ヶ月の間に、戦後処理自体は抜かりなく行っていたので、帰りの際にしなければならないことはさほどなかった。信広義父上には話をしに行ったが、ハルの事はご存知であるようで、一言『恭が産んだ子に跡を継がせろ』という釘だけ刺された。それは大切なことだと思い頷いた。『目が変わったな、男にはな……』と言い出したことについては三度目ですので結構ですと言ってとっとと屋敷を後にした。
道中寄る場所は二ヶ所。一つは岐阜城で、吉乃様の墓を参った。父は葬儀の後菩提寺を建て供養するようだ。正室にして子のない帰蝶様はいずれ菩提寺に居を移すかもしれないとの事。吉乃様に限らず、織田信長ゆかりの人物を弔う寺を正室である帰蝶様が守る。帰蝶様の織田家での立場や風聞も宜しいであろうし、良き思案ではないかと思った。
話は前後するが、岐阜に戻る前にもう一ヶ所寄った場所がある。近江、観音寺城だ。此度の戦、大小幾つの戦いがあったのか分からないが、その中で最も鮮やかに勝利を収めた戦いの場所。
「某も名を改めました」
「揃いですな」
出迎えられた茶室で頭を下げると、彼、織田家の出世頭木下藤吉郎秀吉改め羽柴秀吉殿は鷹揚に笑い、頷いた。
「此度も大活躍でありましたな」
褒めた。事実を言っただけではあるが、それで褒めたことになるだろう。戦があり、そこに斉天大聖あれば大活躍は確実であるのだ。
「何の、お手前こそ見事な武働き」
「勝つこと叶いませんでした」
「二千の兵で三万と三日戦い、三千の兵で三日間籠城し、見事殿が御帰還なさる時間を稼いだのです。此度の大戦において織田が負けなかったのは古渡勢あったればこそ」
彼も又、今回の戦いを敗戦とは取っていないようだった。そういうものであるのかと思いながら、抹茶を喫す。
「されど、羽柴殿であれば勝っていたような気がしてなりませぬ」
「それは過分な御評価というもの」
万が一観音寺城が落城していたら織田家は畿内と東海で分断されこれを回復させるのには時がかかっただろう。最悪の場合、父が全軍を率いて京都から撤退となったかもしれない。今羽柴殿は正式に観音寺城守備の任を受けている。父の草履取りをしていた人物が今や近江一の名城と謳われた観音寺城の城代だ。恐ろしい出世速度である。
「羽柴殿、と呼ぶようになったのですな」
「はい。某は村井重勝。これは一門衆であるという驕りを捨て、家臣として家を栄えさせる決意を表したもの。同輩であり、先達でもある羽柴殿を、最早斉天大聖などとおどけて呼ぶことは出来ませぬ」
「某は好きであったのですがな、斉天大聖」
菓子を口に入れた羽柴殿が、ホウッ、と息を吐いてから言った。
「古の英雄に、某もなれたかのような、どこまでも飛んでいけるかのような、そんな心持が致しました」
「某も、名刀と呼んで頂けたことは誉に御座る」
「目の色が変わられた、と皆に言われましょうな」
この時俺達がいた部屋は茶室と呼ぶにはまだまだ不格好が過ぎる部屋であった。一期一会や一座建立を是とし、狭い茶室の中では誰もが等しい価値を持つ。客を迎える者は部屋の細部に至るまでもてなしの心を配置し、招かれた者はそれに気が付き、感謝をする。後の世にそう洗練されてゆく茶道からしてみれば、余りにも粗削りで、行き届いていない。それでもこの時俺達二人は心根で話し合うことが出来た。
「既に三人のちちうえから言われており申す」
「これから何人にも言われましょう。村井殿、貴殿は見栄えが宜しい故変化もよくよく目立つ」
「分かり易すぎるのは良き事ではありませぬな」
「そのようなことはありませぬ。何を考えているのか分からぬ相手が主人では仕える者の気苦労も多くなり申す故」
くしゃりと笑うと、やはり彼は猿顔であった。この笑顔が、今後も羽柴秀吉の武器となってゆくのであろう。
「某、出世しとうござる。己の力で」
「ようござるな。某と同じでござる」
「左様。故に、今後は羽柴殿も、頼りになる味方であるのと同時に手柄を取り合う競争相手ともなり申す」
「それを宣言しに、わざわざ来られたので?」
「いかにも」
言うと、羽柴殿が笑った。明るく朗らかで、相手を馬鹿にするところのない笑いだ。
「いや、やはり貴殿は育ちが良うござる。そのようなことは申さず、ただただ出し抜けば良いものを」
「お互い名を変え、良い機会かと思いまして」
「まあ、そうやって宣言してしまった方がやり易いという事もありましょう。ですが」
その時の羽柴殿の笑顔は、勿論脅すようなものでもなく、敵対する相手に向けるものでもない。競い合うと言ったところで、直接矛を交えることは無く、俺達の関係上、足を引っ張り合うという事も考え辛い。寧ろお互いがお互いをうまく利用し合うのが上策であるだろう。故に、決して害意のある笑顔ではなかったのだ。だがそれでも、
「この孫悟空はそう簡単に人後には落ちませぬぞ」
かかって来るがよいと朗らかに笑うその笑顔に、初めて俺は畏れを感じた。羽柴殿だけではない。筆頭家老の権六殿、幕臣の十兵衛殿、彦右衛門殿も良い働きをしていたし、可成殿が隠居したとはいえ男子が多く跡付ぎに困らない森家もある。丹羽に佐久間、実家の塙家とも競うことになるかもしれない。弾正少弼様や、池田勝正殿らも、皆ひとかどの人物だ。彼らの中にあって、俺如きがどれだけの力を示せるのか。
「ありがとうござる。羽柴秀吉殿」
「なんの、村井重勝殿」
「最後に一つ、お尋ねしたいことがございます」
「何なりと」
俺は父が京にて御座所を作らない理由の話をした。羽柴殿は成程と言いながら頷いていた。そして、最後に俺は質問をした。
「であるのならば、なぜ殿は京の中心に二条御所を築かれたのでしょうか。二つに分かち、片方を自分のものとすれば同格であることを主張することも出来たはずです。京は危険であると、多少中心地から離れた場所に御所を建てることも出来たはずです」
俺の質問を受け、羽柴殿が腕を組んで何かを考え始めた。沈思黙考し、やがて足を崩し、尖らせた唇に指を当て、更に考えることしばし。
「某如きに分かる問題ではございませぬが、殿のお人柄を考え、殿のなさりようを考えれば想像は付き申す」
「その想像をお聞かせ願いたい」
されば、と言い、再び居住まいを正す。
「そも、殿はなぜ公方様を将軍に推戴した際に副将軍にも管領にもなられなかったのか。なっていれば織田家は斯波氏の傍流であります故、殿やそのご一族は尾張・美濃・伊勢・志摩の四ヶ国を認められたでしょう。あの当時の殿からすれば良き話であった筈です。ですが、それを断られた。恐らく、殿は足利幕府という枠組みの中での立身などに興味をお持ちではない」
瞠目した。正解であったからだ。
「ならば殿は織田幕府を作らんとしておられるのか。織田幕府を作るのであればそれは朝廷よりの任命が必要となり申す。即ちそれは我が国が作り上げてきた長い歴史の秩序。果たして、幕府内での立身出世を目的としない殿は朝廷の、帝の権威を背景とした政権樹立を望んでおりましょうか? 恐らく、殿は帝の事も将軍の事も、使うべき道具と見なしておりまする」
「まさか、そんな……」
「あり得ませぬか? 博学な村井殿にお聞きしたい。この国の歴史の中で帝の権威を蔑ろにした者が誠におりませぬか?」
「それは……」
居る。俺の知る限りは二人、一人は平将門。それまでの皇室の系統を離れ、自らを新しい帝、新皇とした人物だ。もしそれが成し遂げられていたら現在の皇室はなく、関東において平将門を初代とする皇室が栄えていただろう。
もう一人は高師直。足利尊氏公の執事で、極めて合理的な人物であったとされている。南朝方に肩入れする太平記においては悪辣な人物として描かれるが、一つ、確実な事実がある。あの北畠顕家公を討ち取った人物であるということだ。彼は『王だの院だのは必要なら木彫りや金の像で作り、生きているそれは流してしまえ』と発言した人物で、利用できるなら利用する。という方針は正に今父が行っているものと同じだ。
「もし殿が、新しい秩序、新しい日ノ本を創造するということでありますれば、長く日ノ本の中心であった京をも、既に古いものであるのかもしれませぬな。即ち、王が京都に住む、のではなく、殿がこれから住む場所こそが王の居場所である。そうなさりたいが為、殿は京に御座所を置かぬのでは?」
なにやらワクワクしてきますなと、羽柴殿は笑ったが、俺は笑えなかった。父はそこまで考えているのか、いや、考えている。以前本人から聞いた話と、今羽柴殿が言った言葉は見事に合致する。父はこの世にあるすべての地平を平らげようとしているのだから。
「その、新しき天下人の御座所とは、一体どこなのでしょうか?」
「さあ、そこまでは分かり申さぬ。長い歴史の中で福原に遷都されたことも、鎌倉に幕府が開かれたこともございましたが、殿は先例主義をそこまで重んじてはおりませぬ。というより、自分が先例となりたいというお方です故」
案外、近場であるかもしれませぬ。という言葉を聞き、俺は席を辞した。
「貴殿が見送りか」
「ご不満でございますか?」
「いや、貴殿とも話したいことがあった」
観音寺の見送りには竹中半兵衛が現れ付いてきた。相変わらず女子のような顔つきでひょろひょろと体が細い。
「貴殿は羽柴殿の側近となられたか」
「与力として付けられたものでございますが、いずれは羽柴様の直臣となれればと思うておりまする」
この男について分からないところは山ほどあるが、なぜ羽柴殿にここまで肩入れするのかもその一つだ。このような知恵者は、生まれや外見などをもってして人を馬鹿にしている様子がどこかに出てしまうものだが、羽柴殿と会話をしている時の竹中半兵衛は常に主君と話をしているかのような態度を取る。
竹中半兵衛は羽柴殿の事や弟小一郎殿の事、或いは妻寧々殿のことなどを話し、自分はあまり飯を食わず寧々殿に怒られる。だが米で作った酒は毎日飲んでおるのだと、冗談を言って笑い、最近は金回りがよく、その金を使って買った本を朝方まで読み、塩をつまみに酒を飲む。それが楽しみなのだと語った。
「竹中殿、これを」
「おや、某に太刀持ちをさせますか」
やがて竹中半兵衛の話が途切れた頃を見計らい、俺は少しだけ馬を寄せて大小の刀を手渡した。立場上俺と竹中半兵衛は同格だ、小姓扱いなどして良い筈もない。
「そうだな」
だが、否定せず腕を伸ばすと、竹中半兵衛は微笑みながらそれを受け取った。
「森可隆殿の死を匹夫の勇と言ったが、あの考えは変わっておらぬな?」
「変わっておりませぬ」
「では、森可成殿についてはどう見る?」
「あれこそ真の勇にございまする。坂本の戦いにおいて、味方は相手の十分の一もおりませなんだ。大将が敵前に現れ豪胆を見せつけ勝てると思わせなければ、戦いは半刻にて終わっておったでしょう。あの戦、ひいては此度の戦役において森様が見せた剛勇は織田を救い申した。将たる者が持つべき勇とはああいうものでございます」
「うむ」
俺は竹中半兵衛に背を見せるようにしながら馬を進める。手には何も持っていないし、腰に刀を差してもいない。
「であるのなら、その後宇佐山城において某が何度となく打って出たこと、あれは蛮勇であるな」
「蛮勇でありまする。先の戦いにおいて既に城兵の士気は高く、また殿の援軍も間もなく到着すると分かっていた筈。であるのならば帯刀様は大将として決して動かず、味方の前で意気軒昂たる姿を見せておくべきだったのでございまする」
「その言は正しい」
俺の勇もまだ匹夫の勇から逸脱しないという事だ。生きてこそ、出る芽がある。名将は己の死を恐れるものだ、父然り。
「某が匹夫の勇なる者であることは分かった。そこで一つお聞きしたいが、竹中殿の智は何の智であろうか。賢者の智か、天下の智か」
「某の知恵など大したものでは」
「酒を毎日飲み、飯は食わず、朝方まで書を読む貴殿は、一体お幾つまで生き永らえるつもりか?」
竹中半兵衛の言葉を遮り、聞いた。はて、と首を傾げる竹中半兵衛。
「元々武人にて、長く生きられるとは」
「仮に生き延びたとしても、その生活では早死にするであろうな」
また、言葉を遮った。そうですね、と返される。
「貴殿の知恵がどれだけ働こうが死んでは役にも立つまい。見たところ顔色も悪い。後十年は生きられぬと見たが、如何か?」
「……そうかもしれませぬな」
竹中半兵衛の声はもう笑っていなかった。
「であれば、貴殿に勝りたいと思えばただ十年大人しくしていれば良い訳だ。貴殿がどれだけの知恵者であろうと羽柴殿は後十年しかあてには出来ぬわけだ。それでは天下には届くまい。仮に届かせることが出来たとしても、己から死に近づくような真似をする者が保てる平和などあり得ぬな、竹中殿」
馬を止め、振り返った。白い顔が、僅かに青みを帯びている。
「戦場において己から無用の死に近づく勇を匹夫の勇と言う。日常において己から死に近づく者の智を、何と言うのであろうか。某が決めて進ぜよう。貴殿の智をな、愚者の智と言うのだ」
俺が言ったのと同時に、竹中半兵衛の顔が真っ青に染まった。普通怒れば顔が赤くなるものだが、元々白い顔に血が昇ると寧ろ青く色づくようだ。
さあ、どうする? と、視線で問いかけた。刀は渡してある。俺は丸腰だ。
「仰せ……御尤もに……御座いまする」
一体どれほどの時間睨み合ったであろうか、竹中半兵衛は屈辱に塗れる顔を無理やりに笑顔で歪め、俺に頭を下げた。
「そうか……その太刀は差し上げよう。我が領内で作ったものだ。切れ味は腹をお召しになられた九郎信治様直々のお墨付きを頂いておる」
「ありがたき……幸せにございまする」
こうして俺は観音寺城を後にした。美濃で吉乃様の墓参りをしたのは先に述べた通りだ。古渡城へ戻ってからはまず嘉兵衛に対して家督及び家禄の継承を行い、此度の戦の後処理について纏めを確認した。流石と言うべきか、蔵人の仕事は確かだった。
「帰りが遅いですよ!」
「いや申し訳ありませぬ、色々とありましてね」
「坂本や宇佐山など、危険な戦場へ出たそうではありませぬか、母は気が気ではありませんでした」
「ええ、某も気が気ではありませんでしたよ」
「少し屈みなさい、そなたは背が高くなりすぎて頭を撫でられませぬ」
「仰せの通りに」
膝を曲げて、頭を前に突き出すと撫でられるのではなく抱えられた。囁くように、良かった。と言われる。母恋しさに泣く年ではないが、長く離れていた分ホッとする思いがあったのは確かだ。
「母上も、そろそろ腹が大きくなってきた頃でございます。これよりは女子の戦、ご自愛をなされませ」
「ええ、見事そなたのように可愛らしい子を産んでご覧に入れますよ」
「某のように可愛いですか? それは難しいでしょう、某の幼い頃の愛らしさと言えば尾張中に轟いておりましたからな」
そんな戯れ事を言いつつ、その日は母子妻の三人で夕餉を共にした。夜は恭と共に閨に入る。久しぶりに嗅ぐ恭の肌の香りは瑞々しかった。
「今日は良かったです。直子様が元気になりました」
「そうか、母上も人の親だな」
言いながら、恭の胸元に鼻先をうずめる。恥じらって逃げる恭は逆に俺の胸元にしがみ付くことで俺の攻勢を防いだ。
「あの子に何かあったらどうしようと、普段行っている様々な実験も手に付かぬようでしたわ」
「御仏にでも祈っていたか?」
御仏を奉る連中との戦が主戦になってしまったが故に、余り効果はなさそうだが。
「いえ、祈りなど時間を無駄にするばかりで有害であると言い、意味のあることを行うと」
「意味のある事?」
恭の前髪をかき分ける。形の良い額が見えたので口付けし、それから甘噛みしてみた。食べないで下さいませ、と怒られる。
「武田の経済を少しでも圧迫させるためにと塩の料金を徐々に高くしておりました。また、朝倉領を少しでも物不足にするためにと飛騨経路で越前へ向かう荷は全て買い上げ、古渡の物品は一切を輸出禁止にもしておりました」
「母上らし過ぎるな」
腹を撫でながら書類を審査する母。目に浮かぶな。部屋からは一歩も出ないであろう。
「あの子が帰ったから明日からは遊ぼうと仰っておりました。まずはパンとピザを食べたいとか。パン、それとピザ、殿はご存知ですか?」
「パンは知っている。種子島と同時に伝わって来た南蛮の食い物だ。だが、ピザは知らぬな」
じゃれているうちに下腹部に血液が溜まって来たので、俺は恭を仰向けにし、上から覆いかぶさるようにしつつその口を吸った。
 




