第四十五話・坂本退き口
元亀元年三月二十二日早暁。
「敵兵五千、鶴翼の陣形にて我らを包囲せんとの構え」
五千、という数を聞いて首を傾げた。延暦寺の援軍を得て、当初の三万を超す数を揃えた筈だ。なぜこの期に及んで味方を温存する必要があるのか。
「敵先方は朝倉景鏡」
景連がそう言った事で合点がいった。朝倉景鏡、一門衆筆頭であった朝倉景恒と対立していた人物だ。景恒は先の金ヶ崎の戦いにおいて金ヶ崎城を防衛していた人物である。そして、その景恒および金ヶ崎城を助ける援軍大将として差し向けられたのが景鏡であった。だが景鏡は援軍でありながら金ヶ崎城へ現れず味方の城を見殺しにした。石山本願寺の蜂起を聞き、危険が少なく手柄を挙げやすい追撃戦に戦局が変わってからはいの一番に駆け付けて朝倉の大将として槍を振るった。
戦後景鏡は、景恒に対して朝倉の武名を落としたる一族の恥さらしとして非難する。結果景恒は失意のうちにどこぞの寺へと遁世したと聞いている。
「今なら労せず我らを討ち取れると思い手柄を独り占めにしようとしているのか」
愚かなことだがそれならそれで構わない。一族の内紛を鎮めることも出来ない朝倉義景に、お家が栄えるか滅ぶかというこの期に及んで己の立身出世しか考えていない朝倉景鏡。そのような体たらくで打ち崩せる相手であるのかどうか、この一日でとくとご覧に入れてやろう。
「一丸となって戦わねば勝てる者も勝てぬ。此度の戦の指揮は全権を森可成殿に預ける。森殿が敵陣に突っ込めと言ってくるのであれば突っ込む。逃げよと言うのであれば逃げる」
俺の言に異議のある者はいないようだった。坂本周辺の街道は封鎖し、前後左右から取り囲まれることは無い。後は正面からのぶつかり合いにどれだけ勝てるかだ。敵は負けても次がある。こちらは一度押し切られれば壊滅である。丸一日でどれだけの押し合いになるのかは分からないが。ともかく全てに勝つという前提で動く。
「進め!」
森勢が前進を始め、青地茂綱殿や信治叔父上の軍も前進を始めた。ぶつかるのは敵の右翼。馬鹿正直に正面から飲み込まれに行くような愚は犯さず、向かって左へと斜めに切り込んでいった。
「遠くから一斉射撃でもすれば労せずこちらを蜂の巣に出来たものを」
弾薬を惜しんだか、それとも矢玉で倒しても武功とならぬと見たか、単にまだ弾薬がしけっているのか、定かではないが、いずれにせよ好機だ。
ぶつかってすぐ、敵が崩れ始めた。正面からぶつからなかったことに対して『卑怯な』などとこちらを罵倒している者すらいる。寡兵の俺達がわざわざ無駄死にしに来ると思っていたのだろうか、だとすれば余りにも愚かだ。
敵右翼を崩し、そのまま押し込むように中央へと向かう。中央にあるのは朝倉景鏡の首。これを奪い取れば敵の前衛は崩れる。崩れた前衛を追撃し、中軍まで崩してしまうことが出来ればと思いながらただただ前進を続けた。
流石に敵もそこまで脆くはなく、敵勢の中央辺りで森勢の動きが止まった。すぐに俺達後続の軍がそこに加勢し二千の兵が一丸となって敵を押し込む。互角の押し合いとなり、暫くもみ合いになってから両軍が弾かれるように距離を取った。
「少しは本気になったらしいな」
鉄砲隊が前に出て来てこちらに銃口を向けている。二百丁はあるだろうか、一斉発射で前衛が崩れれば戦局は一気に崩れるだろう。ぶつかる前、こちらが突撃する際にそれをされていたならば危なかったが、この状況においてそれをするのは少し遅い。睨み合いを続けてくれるのであればそれに越したことは無いのだ。
「出てきますな」
鉄砲隊を前にした敵前衛五千が、その状態のままじりじりと前進し始めた。射程距離に入れば一方的に攻撃されてしまう。こちらも少しずつ後退すべきか、それとも突貫し、死中に活を求めるか。
戦場を見据えたまま時間が少しでも早く経過するよう祈っていると、突如、両軍の中央に一人の騎馬武者が現れた。見覚えがある。誰あろう森可成殿だ。可成殿は馬一騎のみにて敵の前に踊り出し、そのままのんびりと馬を進ませている。
「やや!? 朝倉の鉄砲では当て辛かろうと前に出てきたが誰一人弾を放たぬとは、さてはそこに並べられておるは遠眼鏡の類かそれとも杖か!?」
こちらにもはっきりと聞こえる大音声で敵を挑発する森可成殿。二百の銃口が自分に向けられているというのに、敵に背を向け、ひょいと馬を降りたかと思えば草を引き抜き馬に食わせる。馬鹿にするという行動を体現したかのような動きである。敵ならずともこのようなことをされては引っ込みがつくまいと分かる。
やがて、朝倉軍の中央から身なりの良い男が一人現れた。見たことは無いが恐らく朝倉景鏡だろう。肩を震わせ何かを叫んでいるが、供えられた肺袋のでかさが違うのか彼の者が叫んでいる内容は一向に聞こえない。
「はっはっは! ではその飾り棒を使って某一人撃ち殺して見せられよ! 出来ますまいて!」
前方に一人あって朝倉景鏡が何を言っているのか聞こえている森可成殿が呵々大笑しながら言い返す。馬首をふいと返し、こちらに戻ろうとしているところで、朝倉景鏡が腕を振り上げ、何か叫んだ。恐らく『放て!』であろう。
二百丁の銃が響かせる轟音。雷神が舞い降りたかのような音が一瞬世界を包み、弾丸を放った銃の先端から煙が立つ。そして、その前方、弾丸の雨あられを見舞われた森可成殿はといえば、
「おやおや? 今、銃を放ったのですかな? 何一つとして某には届きませんでしたが、流石は弱兵にして勇将一人もなしとの呼び声高き朝倉の鉛玉、まるで霧雨のような優しさに御座るな。いや天晴天晴、感服仕りましたぞ!」
果たして森可成という人物は鬼か魔物か、あれだけの鉄砲からの一斉射撃を食らって死なないどころか傷一つさえない。まさか本当の名将を相手にすると鉛玉は黙って道を空けるというのであろうか。
隣を見ると、鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情で驚いている古左がおり、同じく瞠目して驚いている景連がいた。長則も又、驚いているようではあったが、彼一人はその理屈を理解出来ているようであった。
「歴戦の森様は、種子島の射程距離を知り尽くしているのでござろう。彼我の距離があるうちに近づき、ただ一騎のみで敵を挑発し、弾を放っても届かぬ、届いても致命傷足り得ぬ場所を計っていたのでござる」
「間合いを計っていたと?」
あのように敵を挑発しながら、距離を測り間違えれば馬ごと撃ち殺される危険を冒しながら、そのようなことを?
「しかし、一言に種子島と言ったところで性能には差があろう」
「故に、豪胆であり歴戦であるのです。あの種子島であればこの程度であろうとあたりを付け、もし目測誤れば即ち死の状況において見事敵に無駄弾を二百撃たせた。この長則、胆力において人の後ろに名を連ねればならぬと認めるは初めての事にござる」
森勢の中に戻った可成殿は、その後も『霧雨の如き鉄砲しか持たぬ貴殿らの槍は大根程の切れ味しかござるまい!』『当方、兵二千では少々多すぎた、今半分を尾張に返す故少々お待ちあれ!』などと絶え間ない挑発を繰り返し、味方を笑わせている。そこまでコケにされて引くようでは最早景鏡とて失脚は免れまい。直ちに兵を纏め、五千を正面からぶつけて来た。
「鉄砲隊、前にでろ!」
敵が近づいて来るのを見て、こちらも僅か十丁だけ持ってきた鉄砲を前に出した。森勢の鉄砲隊も確かその程度だった筈だ。故に一斉に放ち、敵先陣の騎兵を撃ち抜こうと構えさせる。
敵が肉薄して来ると、成程これは焦って早めに弾を放ってしまう者がいるのも無理はないと思えた。だが、尚味方全軍をその背中で率いている森可成殿は腕を高く振り上げたまま下ろさない。引きつけ、引きつけ、もうぶつかってしまうのではと思うほどに引きつけ、漸く腕を振り下ろすと、先程には及ばないものの、それでも耳をつんざく轟音が鳴り響き、狙い違わず敵先陣の騎兵がバタバタと倒れた。
「それえ!」
先陣が崩れるのと同時に、可成殿が再び最前線に立って駆け出す。俺も駆け出した。あの背中に置いていかれてはならない。恐らくこの戦場の織田勢二千名誰もが、そう考えながら走っていた。とりわけ俺は、友人が見られなかった立派な父親の背中を、誰よりも強くこの目に焼き付けたかった。
それからは乱戦に次ぐ乱戦で、自分で言うのも憚られるが俺達は正に鬼神の如き働きをしたと思う。一隊の大将たる俺が直接倒した敵は二人や三人ではなく、槍も刀も、早々に返り血で使い物にならず、敵から奪った物、落ちていた物を取っ替え引っ替え使用し、立ち止まることなく、休むことなく戦い続けそして日が中天を越えるまで、引くことなく寧ろ押し気味に戦いを続けていた。
「街道より敵兵二千、側面より急襲!」
疲労も限界に達し、徐々に押されかけた頃、それはやって来た。敵の誰かが街道を大回りしこちらの横から攻撃してきた。正面から次々に押し寄せる敵の大軍と戦うのに精いっぱいであった味方が一気に押される。
「朝倉にも、指揮の取れる者がおったか」
長則が吐き捨てるように言った。やがて見えて来た旗は朝倉家の『三つ盛木瓜』ではなく、『三つ盛亀甲』即ち、浅井家の旗だった。
「やはり朝倉にまともな将はおらんようだな」
「そのようで」
絶え絶えになった息で、それでもそのような強がりを言うと、長則が笑った。側面から攻撃されたのは青地茂綱殿の部隊。ぶつかられて即座に壊滅とはならないのは見事であるが衆寡敵せず、押し返すことは出来ず飲み込まれつつある。
「正面より、山崎吉家・阿波賀三郎隊が突撃を開始、延暦寺の僧兵も前進しつつあり、浅井久政本隊もこれに続かんとしております!」
「いよいよ総がかりか」
押し返せるような策も体力もない。最早切り果てるまで戦うのみと覚悟を決めたところに伝令がやって来た。森可成殿と信治叔父上二人からの厳命であると言われた。
「帯刀様は直ちに宇佐山城へ撤退し、兵を纏め籠城、殿のご出馬まで城にて耐えられたしとのこと!」
思わず歯を食いしばった。自分達が死ぬのでその代わりに逃げよと言われている。そんなにもこの俺が頼りないのか、同じ戦場にて死ぬに値しないのか、そう憤りたくもなった。だが、
「殿の御子である帯刀様が撤退しなければ誰一人撤退を許されませぬ。ここは」
「分かっている!」
分かっているからこそやりきれない思いがあった。味方を少しでも生かしたければ、俺は先頭を切って逃げなければならないのだ。金ヶ崎から誰よりも先に京へと逃げ帰った父のように。
「ついてこれぬ者は置いてゆく! わき目も振らずに走れ!」
言うが早いか、馬の腹を蹴って駆けだした。朝から戦っているのは馬も同じこと。疲れているのは百も承知だがそれでも疾駆させた。
走り出してすぐ、俺が全軍の先頭に躍り出た。馬上にて後方を見る。続く味方は明らかに減った。金ヶ崎の折のように、怪我人を助けてやることなど出来はしない。寧ろ足手まといは切り捨ててでも進まなければならないのだ。俺が生きていることで、兵の死が報われる。俺が逃げ切ることで、他の部隊が逃げられる。誰よりも先に駆け抜けた。
「合図を出すぞ!」
走り続け、穴太の辺りまで到着した。戦いの前に指示を出しておいた穴太衆への頼みは、朝倉軍が一日間を空けている間に承諾された。先頭の俺が撤退路から外れ、穴太衆が陣取っているであろう森へ向けて腕を向け旗を振った。暫くして、森の奥で明かりが見えた。火を焚いている。旗も用意してあるはずだ。だが、まだ日没までには少々時間がある。もう一度、どこかで時間を稼ぎたい。
「長則! 景連! 古左!」
馬を止め、後続の兵を待った。すぐに三人が追い付いてきて、二百程度の味方が集まって来た。
「穴太衆の伏兵で時を稼ぎたいが、まだ日が高すぎる。日没とはならなくとも夕暮れの方が伏兵の効果は上がる。ここで身を伏せ、もう一度だけ反撃をし、しかる後宇佐山城まで撤退したい」
「森様、九郎様は直ちに逃げよと仰せでありましたが」
「分かっている。長則。これは俺の我儘だ。このままでは後続の武将三人が全員死ぬ。森殿、九郎叔父上、青地殿、誰か一人でも救いたい」
死ぬつもりはない。一あたりすれば相手の追撃が一旦止まる。その僅かな時がきっと生きて来る。それ以降は攻撃などしない。ただただ逃げるのみだ。
「某の主は織田弾正忠様に非ず、森様に非ず、ただ織田帯刀様にございます。御命令であれば従いましょうぞ」
景連が言うと、長則がその分厚い胸板に大きく息を吸いこみ、そして吐き出した。
「誰か一人は逃げねばなりませぬ。帯刀様の代わりに、古左、お前が逃げよ」
言いながら、長則が俺の兜を取り、古左に被せた。大急ぎで、取り換えられる物は取り換えてしまう。この中で誰よりも馬が上手であるのは古左だ。逃げるのなら一番得意だろう。
「帯刀様、言っておきますが、これでもし帯刀様が討ち死にとなり某のみ生き残ったとなれば切腹ものでございまする。何が何でも生き残って下されよ」
「大丈夫だ、俺が死んだら母に縋れ、きっと守ってくれる」
「いや、直子様は某がどこに逃げても草の根分けて見つけ出し、首を刎ねると思いまする」
そうかな、そうかもしれない。そうなったら可哀想だな、古左は。
「伏兵の部隊は百五十だ。古左は皆を先導して逃げ、宇佐山城へ導け」
損な役回りだと眉を顰める古左を宥めすかして行かせる。そうしてから俺達は琵琶湖側ではなく、山を背にする状態で身を伏せた。伏兵と言うべきか、集団で死んだふりをしていると見るべきかよく分からない体勢だった。
「古渡勢は真っ先に逃げ出した分多いですな。二百は下回りませぬ」
「その分、浅井勢の攻撃をもろに受けた青地茂綱殿の兵が少ない」
一旦横になってしまうと、身体を落ち着かせた分自分がどれだけ疲れているのかを冷静に理解してしまい逆に辛かった。このまま眠ってしまいたいような。このまま二度と目が覚めないのなら、それで楽になれるような気持ちさえする。
「来ましたな」
森勢と信治叔父上の部隊がある程度の塊になって逃げて来る。追うのは朝倉、それと延暦寺の僧兵達だ。殆ど軍勢としての体を成していない。取れる首を取るため追いすがって来る。という感じだ。
「横合いから攻めかかる。敵の首になど拘るなよ。一旦ぶつかり敵の動きを止めたら即座に逃げるのだ。行くぞ!」
味方が目の前を通り、そして、味方の最後尾が敵の前衛に後ろから攻撃されているその只中へ駆け込む。既に馬も捨てた俺は近場にいた騎馬武者に刀を突きあげた。脇の下を通り、そのまま鎖骨の辺りから刀が出て来る。苦悶の表情で騎馬武者が倒れ、俺はその馬を奪って即座に撤退を開始する。前方に騎馬あり、一人は項垂れ、一人は馬の口を取ってもらってようやく走れている。
「可成殿、叔父上も!」
「帯刀様……」
追いついた二人の姿を見てギョッとした。信治叔父上は意識がなく、馬の鬣にしがみ付いたような体勢で何とか落ちずに跨っている。森可成殿もまた、右足から大量の血が流れ顔が青白くなっている。
「助かり……申した」
「もう少しです。今の一撃で敵が怯みました。穴太衆に旗指物とかがり火を用意させております。彼らが偽兵となり更に敵の足を鈍らせます」
「見事な……知略」
「喋らずとも宜しいですので、意識をしかと保ち、宇佐山城へ!」
言うと、森可成殿は頷き、そして俺達は駆けた。




