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信長の庶子  作者: 壬生一郎
織田信正編
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第四十四話・近江坂本の戦い(地図有)


挿絵(By みてみん)



歯の根が噛み合わないほど震えていた。


『敵は三万の大軍ゆえ、まさか我らが打って出るとは思っていない筈。その油断を突き、穴太・坂本辺りへと進軍し奇襲を仕掛ける所存。出陣するは我ら森勢のみにて、諸将は宇佐山の守りを固めて頂きたい』


援軍として、連合軍より一足早くやって来た信治叔父上の二千の兵を加え、宇佐山城防衛の軍は都合四千となった。三万を超す浅井朝倉連合軍との戦力差は約八倍。森家の兵は千程度。一度に全員とぶつかるわけではないにせよ四十倍の相手に野戦で攻撃を仕掛けようという大胆不敵な計略だった。


『これは彦七郎の弔い合戦でもある。我らが城の中で震えているようでは何のための援軍であるか分からん』


これを突っぱね、自分も出陣すると主張したのが信治叔父上だった。信興叔父上と年が近く仲も良かった信治叔父上。織田家の者らしい気性の荒さも持ち合わせており、朝倉義景が率いる三万程度、何ほどのものであるのかと鼻息が荒い。


『我らにも、手柄を立てさせて頂きたく』

青地茂綱殿も又出兵を志願し、こうして指揮官全員が頷いたことにより初戦は野戦と決まった。


流石に全軍を城から降ろすという事は出来ず、城の主将として各務元正殿が残り、信治叔父上の兵を中心とした二千を守備隊に、騎兵や足軽といった機動力に優れる者達二千を攻撃隊に分けた。我が古渡勢は直臣の兵と出撃を志願した者らとで三百を編成、三月二十日、宇佐山城を出撃した。


「怖いですか?」

「怖くなどない。武者震いだ、それに今日は寒いのでな」


戦を前に、寧ろ気持ちを高ぶらせているようですらある長則に言われ、俺はとっさに強がった。本当は怖かった。北陸での戦いは終始勝ち戦だった。撤退戦では大いに怯えたものの結局戦闘にはなっていない。こうして、劣勢な戦況で敵を迎え撃つという状況は初めてだ。恐ろしい。武者震いの正体見たり、強がりと意地だ。


「確かに、雨とは服にしみこんでくる分体の熱を奪いますな」

「そ、そうだろう」


人並みに緊張しているのか、多少口数が減った古左から言われた。同意してくれるのは嬉しい事なのだが、古左にはずっとひょうけた事を言っていて欲しい。


「ただ、この雨は恵みの雨となるやもしれませぬな。火薬がしけります」

「そうだな、うん、その通りだ」


続けて言った景連の言葉にただ同意した。恐らく普段の俺であれば雨が降り始めた時点でこれは恵みの雨だ、全軍弓を持って移動、行軍する敵兵の横合いから弓を放ち奇襲を仕掛け、先手の大将を討ち取る。くらいの事を言ったのではないだろうか。今はそんなことを考える余裕が全くない。


三月十九日、浅井朝倉連合軍が合流し琵琶湖西岸を南下、その報告を受け、翌二十日、つまり今日の明け方に宇佐山城を出た。鎧兜を身に纏い、刀を差し、槍を持ち、弓を背負い馬に乗ったところで異常な緊張に見舞われた。それ以降ずっとこうだ。


「敵が現れるまで、我らは目立たぬよう息を殺して待つ以外のことは出来ませぬ。身体を冷やさぬようなさって下さい」


言われて頷き、言われた通りにした。それから届けられる報せは、連合軍の行軍速度が思ったよりも遅く、戦闘は日没前になるかもしれない。ということだった。一思いに早くこの緊張感を終わらせて欲しいと思っていた俺は、それから二刻三刻と敵味方の一挙手一投足に狼狽え、怯え、慌てた。そうこうしているうちに段々と緊張している理由がよく分からなくなり、怯えていることに疲れ、いつの間にか周囲を見回せるようになっていた。


「景連、伝令を出すぞ」

雨は随分と強くなっていた。目の前も見えないとまでは言わないが、視界が悪くなっていることは間違いない。


「森様にですか? それとも城へ?」

「どちらでもない、穴太衆へだ」


視界も足元も悪くなっているという事は敵の行軍は更に落ちるだろう。未だ冬が終わったばかりで日は短い。日没から半刻もすれば周囲は暗闇だ。つまり今日の合戦は長くとも二刻、短く見積もれば一刻足らずで終了となる。


「今日の戦に限れば、士気の高い我らが勝利を収める公算は高い。問題は明日よ」


寡兵が大軍にぶつかって勝てる状況は限られる。今日は視界の悪さや行軍してやってきた敵の疲労やこちらが奇襲を仕掛ける事など、状況が整っているが、明日日が昇ってより日没まで戦い続けるとなれば確実にこちらの部隊が崩壊する。一騎当千は夢物語と心得なければならない。


「穴太衆に援軍を求めるので?」

「それが出来れば良いが応じてはくれまい」

「では何を」

「旗を渡し、偽兵となってもらう」


金ヶ崎退き口で、斉天大聖がかがり火を多く焚き、旗を多く立て、味方の数を多く見せようとしたらしい。それと同じことをする。


「今日の奇襲が上首尾であればあるほど、敵は奇襲に怯えよう。その間に撤退する」

「成程、調子が戻ってこられましたな」

俺の話に、話を聞いていた長則が言った。うむと頷く。


「どうやら俺は肝が小さいらしい。情けない話ではあるが今後も戦のたび、このようになってしまうやもしれぬ」

「仕方がありますまい。己の行動によって数百数千、多ければ数万の人間が死ぬのですから、大将こそ怯えて当然、それが普通です」

「しかしなあ、たまに、大将で初陣で、それでも首級を取るような者もいるのでな」

「誠に」


景連が含むように小さく笑った。ひゃひゃひゃ、と古左の笑い声も聞こえた。古左もまた調子を取り戻したようだ。


「前方より朝倉軍の先手が見えたとのこと」

その時、待っていた報せが漸く入り、俺達は直ちに戦闘準備に入った。戦場となるのは坂本の町外れ。味方のうち、ある者は地に伏せ、ある者は木に隠れ、風雨に晒されながら敵を待つ。


「森家だけに手柄をやるな。大将首は我らのものぞ」


長則が力強く言っている。黙って話を聞く景連は弓の手入れに余念がない。この雨では火縄を使った銃は使用できない。弓が銃に勝てる珍しい戦場だ。嬉しいのだろう。

現れた敵兵は、先手衆だけで明らかに俺達よりも多くいた。味方として見ていた三万の兵と、敵として見る三万の兵は受ける印象が全く違う。


「森可成殿らが駆け出したら、我らは一斉発射だ。一人につき二矢放ったら弓を置いて突撃する」


それ以降は、俺がどう指示を出すのかにもよるだろうがその場にての白兵戦となる。

収まっていた心臓の鼓動が、再び大きくなる。先頭の騎兵は既に表情を伺うことも出来る。


「行った」


誰かが呟いた。森隊が動き、全速力で走る。朝倉勢の中にはすぐに森隊に気が付く者もおり、全く気が付かない者もおり、朝倉勢の先手衆が『敵襲だ』と叫んだ時には、既に俺達の放った矢が雨の合間を縫って降り注いでいた。


最初の一撃は、ぶつかったというよりも蹴散らしたという方が正しい。何も警戒していなかったのか、騎馬武者は森家の先陣にすぐ馬を追い落とされ、そこに群がった足軽達の手によって首を打たれた。

敵前衛が崩れる。後退し、後方にいた味方とぶつかり、陣形を自ら崩してしまう。森可成殿もまた、そうなるように手勢を動かし、敵が隊伍を組んで反撃できないように指揮をしている。まだ父が尾張統一を成し遂げる前から前線で戦い続けて来た男の経験値を感じさせる動きだった。


「突っ込むぞ!」


二矢を放った俺達古渡勢も走り、そして敵にぶつかった。とにかく走り続け、押し続けた。雨の音を掻き消す歓声・怒号・悲鳴が響く。立ち止まるとたちまち敵に取り囲まれてしまう気がして、俺達は走り続け、敵の塊を見つけるとその中央へと躍り込んだ。奇襲に驚き混乱する者が多い中、勇敢にも立ち向かってくる若い朝倉の足軽。決して質が良いとは言えない刀を振り上げたその男の胸に、深々と槍を突き刺す。


鎧を通し、皮を突き破り、肉を割き、骨を砕き、そして人間一人の身体を貫く。ただの一突きで、様々な感覚が俺の手を通して全身に回った。これこそ、人間を殺す感覚。俺が生涯で初めて、人を殺した瞬間だった。


ぶふっ、と、くぐもった声と共に血を吐いた男。突き刺した槍が身体から抜けず、焦っていると古左が男の身体を蹴飛ばし、引き抜いてくれた。雨のせいで地面は泥にまみれ、水たまりが出来ている。その地面が茶色から赤に染まってゆく。


「お見事にござる」


槍の穂先を拭きながら、馬上の俺に古左が笑いかけた。戦場の興奮はあった。恐怖も勿論感じていた。だがもう、今朝のような前後不覚には陥っていない。頷きかけ、次なる敵を探す。ともかく日没まで敵の前進を阻みたい。


それからの乱戦について細かな記憶はない。分かったのは、戦場においては槍の切れ味など忽ちに失われてしまい、あっという間に鋭い棒きれになってしまうという事。叩き潰すとか、薙ぎ払うとか、そういう使い方をしながら何とか騙し騙し戦い続けた。


「敵が引いてゆきますぞ!」


そうして戦い続けて日没がやって来た直後、朝倉勢が撤退を開始した。坂本から北へ、堅田まで後退はしていないだろうが十分な距離を取り、初日の戦いを終えた。

「……もう終わったのか」


疲労は一切感じなかった。物足りないと思った訳ではなく、本当に一瞬のように感じられたのだ。ただ、最初の一人だけに限らず、人を殺し、傷つけた時の感触は体にこびりついたかのように消えない。


「お見事な大将ぶりでございました」


手を握り、開き、という事を繰り返していると長則に話しかけられた。返り血を浴びているようだが、それもすでに雨によって流されつつある。何と答えればいいのか分からず頷くと、それで緊張の糸が切れたのか、今度は体が震え始め、そして抗い難い倦怠感に包まれた。


「これが明日も続きますぞ」

「明日はこれが丸一日か、生きていられるとは思えないな」


素直に言葉が出て来た。生きていられるとは思えない。死のうとは思わないが、死を受け入れられるような気もした。



「初戦は大勝利にござる」

そして俺達は、敵軍三万に聞こえるよう高らかに勝鬨を上げた。



「子供とは誠良いものにござる」

恐らく闇の向こうにて準備を整えているのであろう軍勢を見据えながら、可成殿がそれとは全く関係のないことを呟いた。


「某と妻とは運よく多くの子宝に恵まれ申した。戦場にあって面倒を見られぬことも多くござるが、やはり一人一人がそれぞれに可愛い」


その言葉に、俺は何とも答えることが出来ず、黙ってその横顔を見た。可成殿の顔は疲れているようでもあり、悟っているようでもあり、又寂しそうでもある。五男二女を奥方との間に設け、側室を持たない森可成殿は、十兵衛殿と並んで妻一筋の愛妻家として織田家では有名である。


「某、息子より年下の弟もおりましてな、合わせれば六男にもなり申す、こやつらの将来を考える事、娘達の夫にはどのような男が良いか、そうやって考えることが戦場にあって殺伐とした気持ちを癒す救いにございます」


五人の息子に弟を足して六人と可成殿は言う。そこには当然、可隆君の事も数えられている。一人減ってしまいましたね。などとどうして言えるだろうか。はいと頷くことが精一杯だ。


「可隆は、弟と比べると武に秀でておりませんでな。兄としてこれではいけないと思っておったのでしょう。強くあるという事に必死でありました」

「可隆殿が武に秀でておらぬ、劣ると? 確か弟御は今年十……」


「十二になり申す。上背では可隆の子供の頃の方が高いですが、力も強く、気性も戦向きでしてな。それでいて可隆と仲が悪い訳ではないのが却って可隆を追い詰めてしまったのかもしれませぬ。弟に落胆させてはならぬと、焦っておったのやも。仲が悪いか、お互いに不干渉であれば当主となる長男に武勇など不要であると開き直ることも出来たでしょうが」

「そうですか」


あの可隆君をして武勇に秀でておらぬといわしめる弟が、一体どれほどの怪物であるのか気にはなったが、今聞けることではないと口を噤む。


「可隆は、帯刀様にとって良き友でありましたか?」

「はい、誠の友でありました」


その質問には胸を張って答えることが出来た。小谷城では助けられた。俺の従者をしてくれている時には常に、何かあれば自分が戦い、その間に俺の事を逃がそうと考えてくれているのだと、手に取るようにわかった。真面目で責任感があり、同じ長男として苦労の類も近かった。


「人を失って、これ程辛いと思うたのは初めての事にございます」


俺がそう言った後、暫く会話が途切れた。これ以上余計な世辞などを並べ立てても言葉が薄っぺらくなるだけであると思った。


「忝い」


やがて可成殿が何かを振り切るようにそう言い、その一言をきっかけに話が戦についてのものへと移った。


「敵は三万、こちらは二千。今日の戦にて先手に多少の損害は与えましたがあの大軍からすれば大した痛手とは申せますまい」

頷いた。千人倒せていたとして誤差でしかない。


「夜陰に乗じて撤退するという事も考えましたが、もし宇佐山城に籠った場合、敵が抑えの兵だけを残し他全軍でもって京都へ向かうという事が予想されまする。殿の本隊が挟撃を受ければ織田勢は崩壊、それ即ち織田家の敗北でござる。我らはあと二日、ここで時間を稼ぎたい」


「畏まった」


翌日朝、後方から報せがあった。野田福島に出向いている父が摂津での戦いを引き上げ、本隊を率いて京へ帰還中とのこと。この報告は大いに味方の士気を上げた。

日中、坂本にて防戦の構えを見せている俺達はいつまでも俺達を遠巻きに見ながら攻めて来ない連合軍を見て首を傾げた。大軍なれば正面からぶつかれば有利であろうと。


そして夕刻、浅井朝倉連合軍に、延暦寺の僧兵が加わったという報せを受け、味方の士気は落ちた。高島七頭のように、敵わないから屈服したわけではない。滅びぬために苦渋の選択をしたわけではない。坊主達は本来領土争いなどしないものだ。中立を守る事も出来る筈である。ただ勝ちそうな方に付き、甘い汁だけを吸おうという魂胆が透けて見えた。


「明日は総攻めでしょうな」

「一日、戦い抜けると思うか?」


さしもの長則も、俺の質問にはいとは言えないようで、先手の大将朝倉景鏡を討ち取る事が出来れば或いは。などと言って来た。

翌日、坂本は晴れ渡る快晴で、数を増やした敵軍の様子がよく見えた。

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