第四十二話・総力戦体制
朝倉義景、加賀門徒の蜂起を受け撤退。若狭は織田派と朝倉派に分裂し情勢定かならず。
武田信玄・徳川家康共に撤兵。遠江は掛川城開城の後徳川に、駿河は北条に。今川氏真は駿河国主の立場を保ったまま伊豆へ。駿河は今川家臣の領地を保ったまま北条氏康五男氏規が指揮官として入る。
伊勢長島の一向宗は長島願正寺に下間頼旦・下間頼成を迎え入れ進軍を開始。伊勢国に美濃国・尾張国を加えた東海三ヶ国の本願寺門末に対し改めて檄文を発し織田家打倒を呼びかけた。この軍に前美濃国主斎藤竜興の姿もあり、斎藤竜興らは尾張攻撃後美濃をも奪還すると宣言している。
伊勢長島は木曽川の中州に存在し、尾張の西の端、伊勢の東の端に存在する土地である。同地にある長島城は数万に上る一向宗の蜂起により陥落。尾張の西を守る小木江城を攻撃する構え。これらの動きに呼応し、先に織田家へと服属した北伊勢四十八家らの小豪族の中にも織田家に反旗を翻す者が現れる。北畠・神戸・長野工藤氏内部にも不穏な動きがあり、伊勢の織田勢力は他方へ援軍を出すことが不可能な状況となる。
伊賀で兵を挙げた六角義賢・義治親子には伊賀十二人衆などの国人らが合流。百地丹波・植田光次といった名のある者らと共に北上を続け観音寺城手前まで迫ったが織田勢の迎撃態勢を見て田畑を焼くなどの行動をした後撤退。国一つが天然の要害である伊賀にて織田家を迎え撃たんとしている。
紀伊で蜂起していたとされた熊野三山は、どちらの味方もせず中立の立場を取るという書簡を織田・本願寺両陣営に送る。しかしながら織田家の伊勢支配が弱まっているのを見て、熊野三山の力が強い南伊勢の一部、大和南部を事実上切り取ってしまう。現状反撃する術のない織田家はこの動きを黙認。松永久秀・久通親子が大和北部の防備を固める。
本願寺に味方した雑賀衆であったが、雑賀衆全てが本願寺と結び織田に反旗を翻した訳ではなかった。大きく五つに分かれる雑賀衆のうち、反織田の旗幟を鮮明にしたのは十ヶ郷のみ。これを率いる鈴木孫一・土橋守重は大坂城に撤退した後間を置かず西、野田福島へと向かい三好勢と合流。これに対して、公方様が河内南半国の領主畠山昭高殿に要請し、雑賀衆の残り四郷、そして根来衆を味方に付けんと動いている。
比叡山延暦寺と琵琶湖南西湖岸に位置する堅田は織田勢殿の通行を許可した。武装した状態のままではあるものの中立を守ると宣言。しかしながらいつ敵に回るかもしれず予断を許さない。
延暦寺、堅田を挟んで京都の北に位置する高島七頭は織田勢に味方するという旗幟を鮮明にした。だが、北に朝倉南に延暦寺と、いずれもいつ攻めて来るか分からぬ大敵を抱えており援軍や戦力としての期待は出来ない状況である。
「尾張にまで敵兵が攻めてくることになるとは、これで安全と言えるのは美濃のみですか」
京に戻り殿軍を率いた大将達はすぐに父と面会をした。父はまず斉天大聖に黄金の板金を十枚与え、殿の功に報いた。続いて同じく殿を務めた十兵衛殿、彦右衛門殿、池田勝正殿の三将にも同様の褒美を渡し、池田勝正殿に対しては直ちに摂津へ向かうことを許した。追って援軍という話もし、池田勝正殿は急ぎ摂津へと向かった。
俺はというと、特に何の恩賞もなかった。それはもう、俺の存在が見えていないのかと思えるほど、公式に俺の名前は出てこなかった。しかしながら、面会直後から呼び出された俺はそのまま父の傍で動き回っている。
「いや、美濃も分からぬ」
地図を睨みながら、父が呟く。片膝を立てて自分で抱えるようにしながら、持ってこさせた瓜の漬物をバリバリと音を立てて食べている。
「武田ですか? 何が起こるか分からないというのは勿論ですが、武田は織田家以上に周囲を敵に囲まれています。そこまでするでしょうか?」
俺が疑問を口にすると、違うと言われた。地図上に指を置き、尾張と、その西近江をなぞる。
「おとうとの動きが読めぬ」
おとうと、という言葉を聞いて一瞬どの弟だろうかと思った。父は弟が沢山いるのだ。だが、指をさしている場所を見て合点がいった。同時に新たな疑問も湧く。
「浅井様が? まさか」
「沈黙を保っておる。此度の朝倉攻めも結局兵を出さなかった。追撃する朝倉を助けもせなんだが、逃げる織田家を助けることもまたしておらぬ」
「余呉湖近くまで兵を出したとは仰っておりましたね」
「そうだな。賤ケ岳までは出たらしい。しかしそれも、攻めてきた者は迎え撃つという構えに見えなくもない。結局此度の戦、そして今日までも含め、浅井家はどこにも味方しておらぬのだ。俺にも、朝倉にも、公方にもな」
むう、と、唸るような声が漏れた。そう言われると確かにそうだ。日和見しているということも出来るし、或いは漁夫の利を狙っているのかもしれない。
「好意的に見れば、朝倉殿との関係も捨てきれず、かと言って義兄を攻撃することも出来ず、悩み悩んで国に籠っている。という事になりますが」
「その可能性は十分にある。だが、あそこの家臣共は海千山千だ。宗滴ありし頃の朝倉家や定頼ありし頃の六角家と渡り合ってきた者らもおる。楽観論では足元をすくわれるぞ」
頷く。六角定頼。楽市楽座や城割といった制度の生みの親とされる人物だ。父はあらゆる人物のあらゆる点について、優れていると見做せばすぐに取り入れる。そんな父の中で最も見習うべき点が多い人物は彼ではないだろうかと、俺は勝手に評価している。
「読めませんね」
「であろう」
何の解決にもなっていない同意の言葉を述べると、父がなぜか満足そうに笑い、言った。指は美濃と近江の間を抑えている。
「攻めてくる可能性もあるとお考えですか?」
「無いとは思う。だが、出来るか出来ないかで言えば出来る。俺に敵対する者らからすれば、今美濃を攻める事、或いは南下して観音寺城を攻める事、これはどちらも戦略的に極めて重要なことだ」
再び頷く。そしてその二択のうち美濃攻めを選択した場合、攻め口は一つしかなく、美濃を守るために迎え撃つべき場所も一つだ。
「関ヶ原」
「うむ」
以前小谷に出向いた時通った不破郡にある土地、ここであれば小勢で大軍を迎え撃つことも出来る。
「ここを守るというのは、父上が好む戦ではありませんね」
「そうだな。俺は寸土でも敵地に分け入り戦うが上策と考えておる。信玄坊主辺りと同じよ」
「長島一向宗に尾張まで入られてしまったことは、誠に痛恨の極みですね」
父上がチィ、と舌打ちをして足を投げ出した。そのまま両足を開き、体を前に倒す。
「何ですそれは?」
「直子から教わった柔軟体操だ。やると頭がよく回る。貴様も手伝え」
開脚している父のくるぶしの内側に、開脚した俺の足の裏を当て腕を軽く引っ張った。やっている方のこちらの股関節も少し痛い。しかし成程、やってみると痛みはあるもののそれが何となく気持ちいい。
その後俺は立ち上がり、父の背中を押した。父はふうー、と息を吐きながら前に体を倒し、そして肘をそのまま地面に付けた。足を閉じて、長座の姿勢を取る父、それをまた同じように押す。
それから、立って背中を合わせ、肘を組み合わせてそのまま背負うようにしたり、横並びになって手首を持ち引っ張ったりと、幾つかの柔軟体操を行った。体が温まり気持ちがよくなってきたように思える。
「青野ヶ原ですが」
柔軟体操を終えた後、俺は言った。青野ヶ原という呼び名はかつて南北朝が争っていた時の呼び名だ。南朝北畠顕家公の軍が土岐頼遠ら北朝方の軍勢を破った。
「天満山の南北、昔不破の関所があった辺りに馬防柵や土塁を用意し、鉄砲を配備するだけで防御力は格段に上がります。或いは東、南宮山の麓に砦を築くことも出来ましょう」
古戦場であり、美濃近江国境の東西に位置する勢力が争う際には最も決戦が行われる可能性が高い場所だ。これから戦いになる可能性も考えてはいた。関ヶ原は北に伊吹山系、南には東から順に朝倉山・南宮山・松尾山・天満山に囲まれる盆地である。南宮山と天満山の中央にある平地で決戦を行うとなれば十万単位の戦力が一堂に会するということも出来る。流石に、そんな事になるとまでの予想はしていないが。
「浅井が敵に回ったのであれば必要な措置であるが、そうでない今それをすれば下手な刺激を与えることにもなりかねぬな」
「そうですね」
「逆に、圧力をかけ肚を決めさせる効果があるかもしれんな」
「どっちですか」
突っ込むと、ケケケと笑われた。予め組んでおいた馬防柵を立て、兵に背負わせた土嚢を並べるくらいであれば一日かからないと言うと、であるなと言われた。
「公方が又名を上げた」
父が話を変えた。俺は苦笑する。そう、此度の戦役において、公方様は三つ、織田家の為に文働きを見せてくれた。一つは先にあった高島七頭の説得。次に雑賀衆・根来衆の引き込み。最後の一つが東海の戦についての仕置きだ。
東海の戦において、織田家はいち早く戦闘を終結させ、同盟者たる徳川殿の後援を得たかった。その為には遠江・駿河の旧今川領をどう分けるかが問題となった。大義名分としては北条が強い。今川家を家臣としたわけであるから、解釈によっては三河まで全て北条の物であるという名分も立つのだ。一方で、徳川という姓により三河領有の大義を得た徳川家康殿であるから、三河の大義名分は当然譲れない。折角手にした遠江についても同様で、最悪の場合武田と組んででも守ろうという構えを見せていた。武田家としてはここで話が纏まらず、寸土でも土地を得たいところである。
これらの状況に先手を打って公方様が手紙を書いた。要約すれば『関東管領職を認めたのだから、北条と徳川は一国ずつの分け合いで認め合って欲しい』という要求だ。国力という意味で武田・北条に劣る徳川家はこれを快諾。武田との戦いで多くの死者を出した北条も、幾度かの説得の後条件を受け入れ、一連の戦いは終わった。徳川殿は撤兵した後に、織田家へ援軍を出すことを申し出てくれている。
これには一つ大きな不利益があった。即ち北陸にいる軍神を怒らせてしまったことだ。関東管領上杉の名を受け継ぎ、前将軍足利義輝公から輝の字を賜ったその軍神を、上杉輝虎という。
此度の戦役においても直接戦闘の強さをまざまざと知らしめた武田家。その武田家当主武田信玄が負けたと言える戦は俺が知る限り三回。一つは第四次川中島。引き分け、痛み分けと言われることの多い川中島戦役であるが、戦闘においての被害は武田の方が多く、また武将も多く討ち死にしている。勝ちか負けかで言えば負けであると思う。残りの二回の負けはいずれも村上義清なる人物によるものだ。そのうちの一回は砥石崩れと呼ばれる歴史的な敗戦である。信濃の豪族であった村上義清はその後、真田という名の別の豪族により城を奪われ北へ逃げ、上杉輝虎の世話になっているらしい。つまり、武田信玄を破ったことのある者は越後上杉家にしか存在しない。その上杉輝虎を公方様は怒らせた。北条の関東支配を認めることは、上杉輝虎の関東管領職を否定することに他ならないからだ。
権威の力と言うべきか、やはり武家の棟梁という立場は紛争解決について強力に働く。そして、それら旧勢力の権威というものを本心では認めていない父としては、公方義昭様に助けられるという状況は必ずしも好ましいものではない。
「申し訳ございませぬ。父上の御意には沿わぬことと存じまするが」
「良い。今回の危難、確かに公方の力が必要だ。負けそうであれば和議を結び、勝てそうであれば叩き潰す。これを繰り返し各個撃破する以外にはあるまい」
頷いた。戦いは継続される。まずはどこと戦うかだ。
「本願寺を叩く。石山本願寺さえ屈服させることが出来れば長島も鎮まる。阿波三好家や雑賀衆ら助けとなる者を潰してゆけば今の堪え性がない坊主など何とでもなろう。権六を始め、本隊は石山や野田・福島方面へ進める。三好義継、松永久秀、和田惟政らも連れてゆく。京では兄が俺の名代だ。吉兵衛が内務一切を取り仕切る」
頷いた。各個撃破、近くそして強い連中を最初に潰す。分かり易いやり方だ。
「美濃・尾張・伊勢・志摩はその場に居る連中に任せた。皆やるべき時にはやるであろう」
「京都周辺の備えは?」
「猿と五郎左を観音寺城に送る。南の六角への備えは勿論だが、場合によっては北の備えともなる。それと今三左に命じ宇佐山に城を築かせている」
「宇佐山でございますか?」
父が頷く。堅田や延暦寺の南にあり、湖西周りで京都に向かうには避けて通れない場所だ。
「朝倉は必ず京へ押し寄せる。高島七頭にはその際は助けてやれぬ故、とっとと降伏しろと言ってある。延暦寺と堅田がどう出るかは分からぬ。良くて中立悪ければ敵に付く。宇佐山に城があり、ここで十日耐えることが出来れば摂津方面からでも美濃方面からでも援軍を送れる。撃退することが出来ればざっと二十里に渡っての追撃戦だ」
左様ですか。と、聞いたことを頭の中で反芻していると、どうしたと声をかけられた。
「某も、宇佐山城築城の手伝いをさせて頂いて宜しゅうございましょうか?」
「興味があるのか?」
「はい。石垣でもって築城する様子を以前から見たいと思うておりました。山城となります故、平地での戦とは違う点もございましょう。後学の為是非に」
そうやって頼むと、父は少しだけ悩んだ。
「築城が終ったならばすぐ京都に戻り、貴様の養父と義父を助けよ」
「それが実父の助けとなるのでしたら勿論そのように致します」
「京に戻ったら戻ったという連絡を寄越せ」
「畏まりました」
「三左の言うことをよく聞くのだぞ。癇癪をおこしてはならぬ」
「癇癪など起こしたことは一度もございませぬ」
「たわけが」
頭を小突かれた。俺が笑うと父も笑った。
「良いだろう。学んでくるが良い」
「ありがたき幸せ」
そうして父はそれから弟妹について話をした。勘九郎は家を率いるという重責に耐えられるだろうか。茶筅はまだ馬鹿をやっているのか、少しは大人になって欲しい。お徳は徳川家で大切にされているのか。相の事を見てやれたことは殆どないが、どのような娘であるのか。直子はどのような子を産むのか、男か女か。色々と話をしたが、意外にもこの日最も多くしたのは勘八の話だった。
「あれは、真面目で賢く優秀だが、腹に貯め過ぎてしまうところがある。気性の激しさという意味では、一番であるかもしれぬ。それが悪い方に出なければいいのだが」
一人一人の子供について、父が思いのほか考えてくれていることが、俺は嬉しかった。
この後俺は兵を纏め宇佐山城へと向かう。だが、約束と違い俺は築城後すぐに京へ戻ることは出来なかった。築城した宇佐山城に、すぐに籠城することとなったからだ。




