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信長の庶子  作者: 壬生一郎
織田信正編
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第四十一話・ノブマサのいろは

『信長上洛に就て、此の方迷惑せしめ候。去々年以来、難題を懸け申し付けて、随分なる扱ひ、彼の方に応じ候と雖もその詮なく、破却すべきの由、慥に告げ来り候。此の上は力及ばす。然ればこの時開山の一流退転なきの様、各身命を顧みず、忠節を抽らるべきこと有り難く候。併ら馳走頼み入り候。若し無沙汰の輩は、長く門徒たるべからず候なり。あなかしこ』


「これは?」


「本願寺顕如の手によるもの。これによれば貴君の主織田弾正忠は石山本願寺を破却するとのこと。顕如が言によれば織田弾正忠は今後もこのような要求を繰り返すに違いなく、仮に本願寺が従えば次は熊野三山、根来、そして延暦寺と次々に同じことを行うことは必定であるとか。となれば当寺としても本願寺と共に戦わざるを得ぬ」


置かれた手紙を読み終わると、はっきりとした口調で戦うと言われた。唐突に、話が進められ唐突に、俺は説明を求められた。


「誤解にございます。この文の中にある破却という言葉も、ただ顕如めが言っているだけであってそのようなことを主が言ったという書もなければ、破却の為の兵を差し向けたこともございませぬ」

「なれど、実際弾正忠は京を制圧してすぐに石山本願寺に五千貫を求め、以降も度々矢銭の要求をしているとか」

「五千貫は京都御所再建の為の費えにござる。又、石山本願寺のみに要求したものではござらぬ。京都の荒廃ぶりを見て、人々の救済を是とする石山本願寺が力を貸すのは至極当然の事」

「破却についてはどうお考えか?」

「繰り返しまするが主織田弾正忠が石山本願寺を破却すると大々的に天下に触れ回ったことはございませぬ。仮に、もしも仮にでございますが、それを公言していたとして、そもそも、何故浄土真宗の寺が堀で囲まれ、矢倉を立て、砦と化する必要があるのでございましょう? 六角氏と法華宗徒により山科本願寺が焼き討ちされたからにございます。六角氏は我が織田家が近江より追い落とし、法華宗を名乗る日蓮宗には比叡の僧が仏罰を下しました。最早あのような城郭は必要なく、天下泰平の妨げになるもの。そして城郭などなくとも教えを広めるに何ら悪影響はございませぬ」

「織田家は寺社領を横領していると聞く、いずれ寺社を日ノ本よりなくすつもりであろう?」

「具体的に、どこのどういった寺社領を横領していると仰せなのでしょうか? もし横領している寺社領が本願寺のものであるのでしたらば、敵対した勢力の利にならぬことをするは当然の事。例えば織田家は熱田神社を篤く保護しており尾張ではいかなる門徒も蜂起など致しませぬ」

「三河では一向一揆が起こったそうであるが」

「三河は徳川殿の御領地にて、我々は関知しておりませぬ。その上で申せば、三河一向衆の蜂起は蓮如上人が唱えたる王法為本の考えに著しく反するものであり、彼らは既に仏門に帰依する者とは言えませぬ」


王法為本とは、現在の王即ち統治者に従い、政治と秩序を助けることが仏法の道であるという考えだ。現在の機内で言えば即ち父、名目上は公方義昭様である。


「ならば此度の石山本願寺蜂起も仏法の道に反すると言うか?」

「仰せの通りにござります」


これらの質問は一対一ではなく、誰かの質問に俺が答えるとまた別の誰かが質問するというやりとりが繰り返された。それはまるで俺がどこかで受け答えを間違え、『ならば戦を』という機会を待っているかのようでもあり、もっと単純に集団で俺を嬲っているかのようでもあった。


「織田家では五畜の肉を食らうそうであるな?」

やがて話は当初と全く違うところへと飛び、俺にとっては実に心当たりの多い質問へ至った。


「誰もが常食しているという訳ではございませぬ。限られた時に、限られた者が喰らうのです」

決して、天台宗の教えを蔑ろにするものではないと強調しつつ言うと、貴君は喰らうのかと、確信を突いた質問をされた。


「猿を喰ろうたことはござりませぬ」

「牛、馬、鶏、犬は?」

「犬もござりませぬ。牛、馬、鶏は農耕用や鶏卵を得る為のものが亡くなった時に供養として喰らうのでございます。決して、御仏を蔑ろにするわけではございませぬ」


受け答えが正しいのかどうか不安はあったが、強気で答えた。正式な教義として肉食妻帯を認めているのは確か浄土真宗だけだった。ような気がする。


「はて、拙僧は尾張にて肉食用の牛馬を育てる牧場を作ったという女の話を聞いたことがありまするが」

誰かが言った一言に、俺は内心ギクリとした。まずい、バレている。俺がやっている訳ではないのに、稲荷の化身がやっているだけで俺は関係……あるけど。


「肉食を行う者とは手を組むことが出来ぬ、と仰せでございましょうか?」

言い返すことが出来ず、俺が口ごもった瞬間、竹中半兵衛からの助太刀が入った。助かったが、この男に助けられるのは癪に障る。


「そうは言うておらぬ」

「では、宜しゅうございまするな」


そう言ってにっこりと笑う竹中半兵衛。確かに、延暦寺の歴史でこれまで武家と手を結んだことなど数えきれぬほどある。そこではいと言ってしまえば逆にではどうしてあの時は、というこちらの質問攻めが始まる。


「我らは今、幕府に従わず天下を乱す賊徒等に囲まれて難儀しておりまする。鎮護国家の大道場たる比叡山延暦寺に御助勢賜りたく」

話が途切れた隙に、ようやく言いたかったことを言えた。この一言を言う為に既に一刻は経過したのではなかろうか。


「言いたいことは分かったが、しかし我らには修業があり、戦に費やせる銭もないものでな」

嘘つきやがれ、修行などしていないし金は持っているし、先程の話で言えば肉も食らっているだろうが。などと心の中で罵倒しつつ、そこを何とかと頭を下げる。


「ただ、我らを通して下さるだけでも構いませぬ。織田家の兵が石山の賊ばらめを討伐して参ります故」

「さて、どうしたものであるかな」

集団でもって俺の事を十分にいたぶり満足したのか、或いは単に飽きたか、彼らはここで話を終え、漸く話を前に進める。かに見えた。


「そう言えば、織田信正よ、貴君は当代随一の文才を誇ると聞き及んでおる」

「どなたが仰せになっているのかは存じませぬが過分なお言葉にございます。某如きの文才など、取るに足らぬものにて」


唐突に、当代随一などとおだてられ、俺は嬉しがるよりも先に気味が悪くなった。謙遜ではなく、公家や僧の中に俺よりも余程立派な文章を書く人間はいくらでもいる。


「いやいや、帯刀仮名なる文字を纏め、更に漢字二千字の編纂、いずれも十代の初めに行なっておる。菅原道真公もかくやというべきかな」

「恐れ多き事にて」

「なればこそ頼みがある」


平伏する俺に対して声がかけられる。俺の言葉など聞こえていないかのような一方的な話の進め方だ。


「片仮名にも異体字が多くあり、些か難儀しておる。どうであろう? 今その才を見せ、女手を纏めたが如く五十音なる表に纏めては貰えぬか?」


そんな事出来ないであろうという嘲りが多分に込められた質問だった。平仮名とて、纏めるのに半年以上も時間をかけたのだ、それをこの坊主共が知っているとは思えないが、それにしても、寺ごとに大小隔たりのある文字を全て纏め、その上で一音に付き一文字あてるなどということが一朝一夕に出来る筈もない。


「それは好都合にございますな」

だが、俺は声をあげて喜び、すぐに硯と筆を持って来て欲しいと頼んだ。


「実は某平仮名や漢字を纏めた際に片仮名についても五十音表に纏めておりました。ですが、漢文の書き下しに使われる由緒正しき寺文字を某如きが纏めるは不敬であると考え、自ら封じておったのでございます。然れども、このような機会を与えて頂けたとあれば発表するに些かの支障もございませぬ。すぐに書き出しますればしばしお待ちを」


喜色を交えて話すと、俺を囲む坊主達が明らかにつまらなそうな表情を作った。出来ませんと言わせ、恥をかかせることに失敗した。そう思っているのが手に取るようにわかる。


「ただ書くと言うのも些か味気ない。誰ぞ、何か面白い考えはないものか?」

粘りつくような声がした。皆よく肥えている中でひときわ肥えた男が言い、それに、そうですなぁ、と答えるわざとらしく演技がかった声が一つ。


「そういえば、帯刀仮名と言えばあのいろは唄はお見事でしたな。平仮名を使い、己の名のみを敢えて使わずに己の理を語った。是非ともあの妙技、この場にて見せて頂きたい。それが出来れば当寺は麓をお通ししよう」


室内に言葉の意味が浸透し、そして喝采が起こった。それはいい。流石は今子建殿。と。


「七呼吸あれば宜しいか?」

誰かが良い、また誰かが笑った。曹子建が詠んだ七歩の詩を模して言っているのだろう。



豆を煮る豆の豆がらを燃く

豆は釜中にあって泣く

本是同根より生ずるを

相煎るなんぞはなはだ急なる



魏王曹操の息子曹植即ち曹子建は、兄であり父の跡を継ぎ王となった曹丕からある日些細なことで難癖をつけられ、七歩歩くうちに詩を読めなければ死刑とすると言われた。その時に読んだ詩がこれだ。



豆を煮るために豆がらを燃やす、

豆は釜の中で泣いているような音を立てる。

もともと一つの根から生じたものなのに、

どうしてこんなに酷くいたぶるのですか。



兄弟を豆に例えたこの詩を聞き、曹丕は二度と曹植の命を狙わなくなったという。それと同じことを俺にしろという訳だ。いろは唄と漢詩は明らかに違う。言葉を組み合わせ、解き、また結ぶという作業が必要ないろは唄を作るのに七呼吸で出来る筈もない。誰もがそれを分かっている。


「いろは唄を作れと仰せですが、扱う片仮名の文字数が決まっておらねば作りようがありませぬ」

「ならば先に表を書くがよい」

それだとつまらないからいろは唄にしろと言った舌の根の乾かぬ内に言われ、俺は呆れた。呆れているうちに墨と硯が出された。


「七呼吸では、仮名を書き切ることも出来ませぬな」

「ならば、七呼吸分筆が止まったらとしよう」


出来るはずがない。文字ではなく恥をかけと言っている。恥をかかせた後、この者らはどう動くであろうか。俺を捕らえ、手込めにでもするのか。最近の僧は己が欲望を満たす為に見目の良い子供を小僧とすると聞くが。俺はともかくとして、竹中半兵衛はさぞかし人気であろう。そうなったら何人か道連れに死んでやろう。


「元のいろは唄にならい、『ん』は使わず、他を一文字ずつ使う事と致します。他に四文字は使わず、それで宜しいか?」

「我らが納得する出来であれば何でもよい」


ならば、何を出されても納得しないという事ではないか。と言いかけて止めた。このような輩と真正直に話をするだけ損だ。


アイウエオ カキクケコ

サシスセソ タチツテト

ナニヌネノ ハヒフヘホ

マミムメモ ヤユヨ

ラリルレロ ワヲ(ン)


「然らば」


筆を持ち、紙に向かいながら、俺はつくづく凄い連中とは世に溢れているものだと思った。俺が知る世界は精々濃尾と畿内周辺程度だがそれだけの場所で今までどれだけ圧倒されて来ただろうか。此度もそうだ。このような下衆な方法で人を辱めようとする者がいることが驚きであるし、そんなこともあるだろうと、予め俺にいろは唄を作って持って来いと言った男にも感嘆を禁じ得ない。


織田家ト稗米ハ

世ガ常ナル道行ヲ守リ

粟ラ欲ス僧

無路零益ニテ

セヌ可シ


オタケトヒエコメハ

ヨカツネナルミチユキヲモリ

アワラホスソウ

ムロレイヤクニテ

セヌヘシ

 

 織田家と、稗(比叡山)、米は、

 世が永遠に続く道行きを守り、

 粟(阿波=三好家)らを欲す(法主=顕如)僧侶は、

 道行もなく、御利益も零であるので、

 (そのようなことは)できないだろう。




書き上げ、読み上げてもらうと堂宇が水を打ったように静まり返った。





「くくく…………」



静寂に包まれた室内で、遠くの誰かが忍び笑う声が聞こえた。何かに隔てられているようで聞こえ辛い。だが、右からでもなく、左からでもない。正面から聞こえる。


「くはははははははははは」


御簾の向こうから、呵々大笑する声が響き渡った。何とも分かり易い大笑いだ。


「面白い。そなた稗や米は好きでも粟は嫌いと申すか?」

「本当の事を申せばどれも好物にて、貶めるのに少々心が痛みましてございまする」


応胤法親王(おういんほっしんのう)殿下直々の御下問に直答する。まず間違いなく不敬な行為なのであろうけれどそれを咎める者とていない。


「見事なり! そなたは難題に応え、比叡の僧を黙らせた。よって、天台座主の名をもって通行を許可せん!」

「ありがたき幸せ」

「殿下!?」

「何を仰せか!?」

「御考え直しを!」


周囲がざわめき、何人かが立ち上がった。殿下の側近らしき者らが控えよ! と声を荒らげ座らせる。鎮まったところで、再び殿下が口を開く。


「確か、先程『我らが納得すればよい』と言ったものがおったな。拙僧は納得した。他に誰か、納得せぬものがおるのならば前に出よ。より良き一作を作り、比叡山の智を示すがよい」



問いかけに応える者はおらず、この二日後、織田家は全軍が京都へと帰還する。


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