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信長の庶子  作者: 壬生一郎
織田信正編
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第三十九話・京洛いまだ遠く

「殿」

短く声をかけられ、俺は上体を起こし、軽く頭を振った。


「俺は何刻寝ていた?」

「二刻程」


殿《しんがり》が到着し、陣を整えた織田家殿軍であったが、最後尾を務めた木下・明智・滝川・池田隊の損耗は激しく、又彼らの疲労も著しかったことから手当も含めた休憩の時間が取られた。殿軍の大将となった柴田権六勝家殿は自らが率いる本隊を前面に押し出し朝倉軍を迎え撃つ構えを見せつつ、方々に斥候を出したとのこと。その間、疲労を抜くことが出来ずにいた俺も仮眠をとった。


「お加減は?」

「靄がかかったようであった頭が随分と軽くなった。腹も減った」


すぐに、俵型に握られた飯が二つばかり持ってこられた。味噌が塗られている。よく噛み、口の中で糊のような状態になってから飲み込む。握り飯一つにつき二口で食べたが、時間はたっぷりかけた。


「浅井はどう出るであろうな」

間もなく軍議になると言われ、それよりも先に考えを纏めておこうと口を開いた。


「難しいところですが」

「そうか、難しいか」

浅井家は難しいところ。確かに、今浅井家は難しい状況にあるだろう。


浅井家と朝倉家の関係は主従関係に近いと言われたことがある。若狭武田家のように、近江浅井は越前朝倉の与力であるのだと。だから、織田家当主の妹と浅井家当主の婚姻が『家格として妥当』であると朝倉家は認識していた。当然、その上に立つ朝倉家は織田家よりも上である。どれだけ上洛要請をしても黙殺され続けてきたのにはその辺りも関係しているとのことだ。


浅井は織田家との同盟を強化し、今日まで良好な関係を続けて来た。このまま織田家の勢いが続くのであれば恐らく浅井家は最後には朝倉を捨てて織田に付いた。正式に家臣という訳ではないのだ。攻め滅ぼした後に一族の助命嘆願でもしておけば天下に対しての言い訳は立つ。だが、石山本願寺が打倒織田家に立ち上がったとなると話は違う。三好と結び京都を挟撃する朝倉・石山・三好連合に浅井が加わって南近江を狙えば労せずして琵琶湖東岸全域を手中に収めることが出来る。前当主久政、あの老獪な老人は今もって朝倉派であろう。下手をすれば、長政殿を説得し反織田に纏まる可能性すらある。故に、浅井家は難しい。市姉さんがどれだけ長政殿を篭絡出来ているのか、期待したいところだ。


「徳川殿の裏切りというのは考え辛いな」

勿論、何が起こるか分からないのが世の常ではあるけれど。

「同意いたしまする」


同意して貰えて、少々自信が付いた。徳川殿は桶狭間の後今川家に捨てられた岡崎城に入城し、父や水野信元殿と手を組むことで独立を果たし、三河一向一揆を丁寧に討伐し、調略を繰り返して三河を接収し、武田家と手を組んで遠江に兵を出した。戦わざるを得ない状況か、戦えば必ず勝てる状況でしか戦っていない。尾張一国、短期に攻め落とせるものではないし、仮に攻め落とせたとしても美濃伊勢から攻められる。東に敵を抱えている今、そこまでの大博打はしない筈だ。


「武田は分からないな。東美濃の国人衆に調略くらいはしていそうだ」

「かの軍略家であれば、即座に北条・今川と和議を結び、取って返して美濃へ、とすることも不可能ではないと存じますが、未だ東海の戦決着能わず、一万二千の兵は甲斐駿河国境とのこと」


そのまま膠着を続けていて欲しいものだ。他の寺については、彼らは商売敵でもあるし不倶戴天の対立を続けている者らも多い。仮に織田家に対して兵を挙げたとしても、密に連絡を取り合った連携はないのではなかろうかという話になった。


「帯刀にござる。軍議に参った」

やはり、寝て飯を食い落ち着けばそれなりに冷静な判断力も戻って来るものだなと安心しつつ、俺は軍議が開かれる権六殿の陣幕へと入っていた。


「帯刀様」

「ご家老、陣を空けてしまい申し訳ござらぬ。しばし仮眠を取り英気を養って参った」


言って頭を下げると権六殿が何とも言い難い表情を作った。この御仁は敗走し、いつ落ち武者狩りに遭うか分からない状況にあっても普通に寝られそうだ。今も表情から体調の悪さは全く感じられない。


「帯刀様はあちらの席へ」

「いや、大将はご家老故上座は不敬と存ずる。あくまで一介の将として見て頂きたい。兵六百を率いる身なれば木下殿、滝川殿と同格で宜しゅうござる」

「されば、織田御一門衆としての席を用意いたします」


大将の権六殿と並ぶ席を用意されていたので辞すると、権六殿から代案を出された。信広義父上の婿養子という立場は正式なものであるから、それくらいならば妥当かもしれない。織田家筆頭家老の権六殿が最上位であるのは当然として、幕臣として十兵衛殿、摂津三守護として池田殿、それと此度の撤退戦で父を救った朽木元綱殿、この辺りには上位の席を用意する配慮が必要だろう。


軍議の席に俺が到着した際、埋まっていた席は半分程。先に挙げた四人は上座におり、すぐに平手久秀殿もやって来て俺よりも上位席に座った。これも殿軍大将として当然であろう。権六殿や平手殿の家臣もおり、十兵衛殿は明智光忠、斎藤利三といった重臣を連れていた。俺も長則と景連を連れて行った。暫く待って、最後の最後に、斉天大聖が駆け込むように入って来た。小一郎殿もおり、竹中半兵衛の姿もあった。


「一同大義である」


全員が揃うと、権六殿が低く唸るような声で言った。俺の前ではいつも腰が低いがこうしているとやはり織田家筆頭家老としての威厳がある。自然と場の空気が引き締まった。


権六殿はまず畿内での戦闘状況について説明をした。三月二日に一斉蜂起した石山本願寺勢力は蜂起と同時に京へと進軍。これに対し義父信広は軍を南下させ桂川北岸、大山崎ににて迎え撃つ構えを見せる。しかし義父上が用意出来た兵は四千余り、石山本願寺は二万に届こうという大軍に膨れ上がっていた。その為義父上はまず和議を申し入れた。決して石山本願寺を破却し、禁教とするつもりはないとの説明をせんとの事であったが石山本願寺はこれを黙殺、進軍を続けた。


三月四日、桂川北岸で対峙した両軍は戦闘を開始する。五倍の敵兵に対し、義父上は北側の山頂をいち早く奪取し、要地を確保した。そうしてから隘路で戦う事で数の不利が働かぬ戦いをし、二日間の防戦に努める。


だが三月五日の夕刻、石山勢が大量の小舟をもって川を遡上したのを見て、義父上は夜半に陣を引き払って撤退する。山頂の旗やかがり火もそのままに撤退した織田軍は兵を損なうことなく、僅かな供回りを連れて京へと帰還した父と合流。翌三月六日は石山勢の追撃がなかったため戦闘とならなかった。ただし三好勢が摂津に上陸し、織田の城を攻撃しつつ京へ向かっているという報せが入る。


三月七日、一万五千の陣容を整えた父の軍が南下を開始、石山勢は雑賀の鉄砲隊を殿にし撤退。同日、三好勢が石山本願寺から西へと約一里にある野田、福島の辺りに築陣を開始。明らかに石山から阿波三好家までの補給線を作ろうとする動きを見せた。


帰還する織田軍と畿内の同盟勢力などを纏めて三万とした父はこのまま三好・石山勢と雌雄を決しようとするがそこに後方から待ったがかかる。即ち、比叡山延暦寺の挙兵。叡山がいまもって戻り切らない織田家殿軍の退路を断ち、朝倉と挟み撃ちにした上で京へ向かわんとしている。加えて延暦寺の東、琵琶湖南西の湖岸に位置する堅田の堅田門徒もこれに呼応。堅田水軍が敵に回ることにより琵琶湖西岸の優位は失われた。父は殿軍、つまり俺達を救う為追撃せず撤兵。


「つまり我らは琵琶湖岸ではなく来た時同様山中を進み京へ帰るという事になりますな」

「朽木谷の通行はご随意になさいませ」


平手久秀殿が状況を纏めて言うと、朽木元綱殿が答えた。彼らとて、延暦寺や堅田を敵に回してしまったことで領地を挟み撃ちにされる格好になったのだ。朝倉が大軍を率いて南下して来た時に織田の盾となってくれるとは考えられない。ただ、まだ二十一と年若い朽木元綱殿は誠実そうな顔つきに見えた。


「朝倉の動きは如何であろうか、木下」

権六殿に言われ、斉天大聖が説明を始めた。朝倉義景率いる追撃の軍はおおよそ二万。琵琶湖北岸までは追われたがそれ以降は波が引くように撤退していったとのこと。


「取って返した朝倉軍は奪われた若狭を再奪還し、反抗的な国人衆を抑えつけにかかっておりまする」

補足するように竹中半兵衛が答え、それから幾つかの質問と、幾つかの答えが繰り返された。


「石山本願寺蜂起に伴い、やはり加賀一向宗も動き始めた様子。南下し、朝倉領を伺い恐らく小競り合い程度であれば既に起こっているでしょう。間もなく顕如からの手紙か、下間一族のいずれかが派遣されることで落ち着くでしょうが、それまでは北の憂いは無いものかと」

「『それまで』に残された時間が長いとは思えませんな」


誰に言うでもなく呟いていた。竹中半兵衛のいう事が間違っているとは思えないが、どうも口調が厳しく、そして無用な言葉を発してしまう。


「伊勢長島の一向宗は深刻です。一向宗は伊勢から尾張へと攻め上がる構え」


その言葉を聞いて、茶筅、勘八、信包叔父上の事が気にかかった。三名とも城にいるであろうからそう簡単にどうにかなるとは思わないが。

父に言われ美濃の兵を集めていた信治叔父上の軍は朝倉、同じく尾張の兵を集めていた信興叔父上の軍は長島に備えるであろうという説明がなされ。そこで話は一旦終了した。


「延暦寺をどうにかせねばならぬな」


権六殿が言った。その通りだ。朽木谷を通るにせよ、延暦寺の目と鼻の先を通るのだ。山に慣れた延暦寺の僧兵達から山中にて襲い掛かられたら対抗しようもない。下手をすれば今軍議に出ている首脳陣が全員討ち取られるという事にもなりかねない。味方にすることまでは出来ずとも、せめて敵に回られないようにしなければ。


「殿は、お味方すれば寺社領を返還する。さもなければ中立を保って欲しいと仰せであるようですが」

池田勝正殿の発言。それを受け入れてくれればよいのだが、いや、最悪断られてもまだいい。時間稼ぎをされるのが怖い。


「悠長に構えている暇はございませぬ」

その時、涼やかな風のような声が陣中を吹き抜けた。涼やかであるし、耳に心地よくもあるが俺は嫌いな声だ。


「先程帯刀様が仰せになられたように、いつ朝倉が追撃に現れるか、加賀門徒が琵琶湖北岸に押し寄せるか分かりませぬ。誰ぞが説得をし、通行の許可を得るべし」


今回の軍議、はじめから気が付いていた事なのだが殿(しんがり)を務めた者達の発言力が高い。負け戦であるからこそなのか、今回の戦であげた武功が発言権に直接影響しているかのようだ。特に、最後尾にて卓抜なる指揮を執り部隊を全滅に追い込まなかった竹中半兵衛重治の発言力は、新参にして下位の武将とは思えぬ高まりようだ。


「使者を出せと?」

「左様にございまする」


 権六殿の言葉に、竹中半兵衛が頭を下げながら答える。比叡山。その本山に使者を出すとなれば生半可な者では済むまい。何しろ相手は皇族だ。


 比叡山延暦寺の頂点に君臨する者とは即ち天台宗の最上位に座る者。その地位を天台座主と呼び、太政官が官符をもって任命する。一宗派内の役職というだけではなく、公的な役職として認められている地位である。現在その席に座るのは第百六十五世応胤法親王(おういんほっしんのう)である。伏見宮貞敦親王第五王子、王族が代々座るこの席。身分で言えば父ですら会って話をすることが恐れ多い身分の方だ。


 「誰に行かせる?」


 そう、使者を出すこと自体は間違っていない。だが、誰に行かせるのかが問題だ。現状で最も立場ある人物は権六殿。しかし大将が陣を留守には出来まい。摂津守護である池田勝正殿、幕臣である十兵衛殿、親王殿下とは比べ物にならないが、それでもこちらの誠意を見せつつ多少なり釣り合いが取れる相手となればそれくらいではないだろうか。


 「我らにとって僥倖なことに、現在この軍中に織田家の方がおられまする」

 頭の中で人選を考えていると、竹中半兵衛が当たり前のように言った。瞬間、その場に居る全員の視線が俺に集まる。


 「某は庶子故、殿の御子として認められてはおらぬ。単なる一武将に過ぎぬ者が行けば親王殿下からご不興を買うやもしれぬ」


 丁寧に辞退の理由を述べると権六殿が露骨にホッとしたのが分かった。そりゃあそうだろう。事実として実の子であって、あの父がどれだけ子らを可愛がっているのかよく知っているのだ。自分が大将をやっている軍で俺を使者に出し、万一捕らばえられて首を打たれでもしたら後に何が待っている事か。


 「恐れながら、単なる一武将とは帯刀様以外の誰一人として思うておりませぬ。加えて言上仕りますれば、先の帯刀仮名や漢字の編纂、竹簡の量産など、文化的偉業ただならぬ帯刀様の恩名は、不敬なれど勘九郎様以上かと」

 「不敬なれどと前置きすれば何を言うても良い訳ではない」


 久しぶりに、俺を勘九郎より上に置こうとする奴が現れた。それを肯じることは出来ない。


 「応胤法親王殿下は書や和歌を好むお方と聞き及んでおりまする。例え帯刀様が誠に殿の御子にあらずとて、殿下がご興味を持たれるお方はこの軍中において帯刀様を置いて他におりませぬ」

 「控えよ半兵衛!」


 竹中半兵衛の理屈に、反論出来るものはいなかった。それを止めたのは斉天大聖で、言ってから手で座れと命じ、竹中半兵衛もそれに従った。従った竹中半兵衛ではあったものの、それでも視線は俺を捕らえたままだった。


 「竹中殿」

 「はい」


 やがて俺が声を出すと、竹中半兵衛の目が笑った。俺はこの男の手の上で踊らされているだけなのだろうか。


 「貴殿の見立てによれば、どれほどの分で成功するであろうか?」

 「帯刀様であれば九分」

 「残りの一分は?」

「九厘は交渉決裂にて捕えられ、一厘はその場で斬られましょう」

「京を焼くような者達だ。織田家の庶子如きを畏れはするまいな」

「はい」


天文五年の事である。延暦寺西塔の僧侶、華王房と上総茂原妙光寺の信徒、松本新左衛門久吉とが宗教問答をし、松本久吉が華王房を論破しその場で袈裟をはぎ取るという事件が起こる。この世にいう『松本問答』の顛末は瞬く間に京洛中へと広がり延暦寺は面目を潰された。これに怒った延暦寺側が幕府に対し日蓮宗が『法華宗』を名乗るのを止めるよう裁定を求めたが、幕府は後醍醐天皇の勅許を証拠にした日蓮宗の勝訴とし、延暦寺はこの裁判でも敗れた。


二度の敗北により、延暦寺は大いにあざけりの対象となったらしいが、これで反省するであるとか、再度問答を仕掛けるであるというような生易しい考えは延暦寺にはなかった。延暦寺は直ちに京都法華衆の撃滅を決議、満場一致を得て僧兵集団が動き出した。京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山に対して延暦寺の末寺になり上納金を払えと迫り、これを断られると六万とも、十五万とも伝えられる兵で法華宗二万と対峙、二十一本山全てを焼き払った。法華宗の死者は三千から一万。京都は下京の全域、および上京の三分の一を焼失。応仁の乱を上回る被害をもたらした。


この暴挙により、朝廷や幕府が延暦寺に対してどのような罰を与えたのかと言えば何も与えていない。それどころか日蓮宗を京都において禁教とし、法華衆徒は洛外に追放された。この追放令は以後六年に渡って続く。


「それでも、竹中殿は勝算があり、意味があると言うのだな」

「仰せの通り、繰り返しまするが勝算は九分にござる」


意外と、心境は落ち着いていた。逃げている最中の落ち着かなさとは大違いだ。


「良かろう。参る。竹中殿、供をしてもらおうか」

「始めよりそのつもりにて」


整った表情が、楽しげに笑っていた。


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