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信長の庶子  作者: 壬生一郎
織田信正編
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第三十八話・撤退戦の恐怖


『仏敵信長を討て』



本願寺顕如が書いた檄文は実に分かり易いものだった。この檄文は石山本願寺のみならず、石山本願寺周辺にある寺内町、摂津国、河内国、和泉国の寺内町にも頒布され、瞬く間に日ノ本全土に散っていった。これら石山本願寺を支える寺内町の連合、所謂『大阪並体制』を形成する者達が結集した結果、一万五千もの大軍が短期間にて集結した。



『仏法の灯火を守るため、一向宗に敵する者と戦え。従わぬものは破門する』



更に顕如はこのようにも述べ、石山本願寺内では字の読めない者らに対しても盛んに辻説法が行われ、織田家の非道が取りざたされているという。とりわけ、父が石山本願寺から退去せよと命令したという話は誇張に誇張を重ねた形で伝えられた。あたかも父が浄土真宗を日ノ本から駆逐すると豪語しているかのように聞こえる内容は、浄土真宗本願寺派の門徒達の宗教心に見事な炎を灯した。


「三左、森家の兵を纏めて俺と共に京へ行くぞ。塙家の兵もだ。内蔵助、犬千代、貴様らも身内の兵を纏めよ。直ちに取って返して兄を助ける。大納言殿、飛鳥井殿の兵はその次に、摂津、河内、大和兵はその後に続け」


素早く下知を飛ばすと、父は誰よりも先に馬に乗り京へと向かった。


「さてさて、我らも逃げ支度ですなあ」

「朝倉勢がまごついてくれることを祈るしかありませんが、さて、何に祈れば良いものか」

「少なくとも御仏は我らに味方してくれないでしょうな」


素早く撤退が始められ、誰もが慌てる中木下隊の小一郎殿、蜂須賀小六、前野長康らは呑気に談笑などしていた。斉天大聖は馬に乗って駆け去ろうとする父の横に走って追いすがり、殿をお任せくださいと自ら願った。父は馬を止めぬまま許す。京で褒美を遣わす、と言い、駆け去った。


「ともあれかがり火を、織田兵の数が多いと思わせるのです。それと虚報も流します。加賀一向宗が京へ進軍中と。本願寺蜂起は遅かれ早かれ朝倉に伝わります。朝倉にとって浄土真宗の門徒達が一斉に蜂起することは必ずしも喜ばしいことに非ず。加賀への備えをすべきか織田を追撃すべきかで意見が別れましょう。その際、織田の殿が思ったよりも多いとなれば敵も追撃に浮足立つはずにございます」


談笑どころか、寧ろ喜色さえ浮かべながら指示を出していたのは竹中半兵衛だった。竹中半兵衛のやることに、斉天大聖は何一つ文句を言わず、存念次第じゃと全て任せていた。逃げ支度に木下隊の手が回らぬとなると、未だ金ケ崎城に残っていた俺の部隊や、十兵衛殿、彦右衛門殿に掛け合い、頭を下げて人を貸してくれと頼んでいた。


「貴殿らは……」

「何ですかな?」


人を貸すのは構わないから使ってくれと言った後、俺は一つ質問をしかけて、止めた。


「いや、公家衆も行った。畿内勢力も幕臣の方々も陣を引き払った。このままあと一日追撃が無ければ殿も金ケ崎城を退去できる」


公家衆は僅かな兵しか連れて来ていなかったが、石山本願寺蜂起を聞いてからの慌てぶりはいっそ滑稽なほどだった。織田家の兵も勿論動揺はしていた。木下隊のように談笑し、生き生きとしているような連中の方が珍しい。だが、それにしても兵の前で慌てふためきもう終わりじゃ、逃げなければ、早う逃げなければと周囲に言って回る様子は酷く癇に障った。貴様らは陣を混乱させに来たのかと、張り倒してやりたかったが堪え、兵の確認などをしていた。二百の直属兵と、金で雇った連中。皆尾張の住人だ。逃げるのなら全員纏まって逃げ帰る方が生き残る確率が高いことは伝えてある。


やがて、松永・三好・伊丹らの同盟者も撤退を終え、後軍と呼べる者らのみが金ケ崎城に残った。


殿(しんがり)は木下勢、明智勢、滝川勢、それと摂津三守護が一人池田勝正殿」

名を呼んだのは家老の平手久秀殿、殿軍の大将としてこの場に残ったが、仕事は殿を決め、それを父に報告する事だ。


「池田殿にはかたじけのうござる。木下、明智、滝川の働きは間違いなく殿にお伝えする」

「公方様にも、四将の忠義、重ねて言上しておきまする」

平手久秀殿と、幕臣の和田惟政殿が続けざまに言った。


「このままでは柴田様に手柄を全て持っていかれるところでしたからなあ」

「朝倉の優柔不断は某が最も詳しいところにござる」


斉天大聖と十兵衛殿が言い、隣で聞いていた彦右衛門殿が大声で笑った。

「では、帯刀様、参りましょうぞ」


平手久秀殿に言われ、促される。俺は殿軍には残ったが本当の殿(しんがり)にはならなかった。和田惟政殿よりも、平手久秀殿よりも前に逃げよと父からの沙汰が寄越されたらしく、考えようによっては前も後ろも囲まれた安全な位置で帰らせて貰うとも言える。その状況において、俺は、情けなくも安心していた。


父が誰よりも早く京都へ戻るのは、石山本願寺の勢力に京を抑えられるわけにはいかないからだ。恐らく信広義父上は京よりも南、淀川・桂川・宇治川のいずれかを挟むか、或いはそれらの川と山に挟まれた大山崎辺りで待ち受け、大軍に対抗するだろう。その助けを行う為、父は今も南下を続けている。


それに続けて公家衆と同盟者を進ませたのも、朝廷や畿内勢力に反感を持たれるわけにはいかないからだ。そして、殿を受け持つ者達。彼らは負け戦でこそ手柄を立て、立身出世を果たしたいと思っている者達。父の天下取りと自分の出世が不可分であるが故、自身の命をかけることにいといがない。


織田軍の誰もが、自分が逃げる順番に正しく理路を持っていた。そんな中、俺は、俺一人は死ぬのが恐ろしく、殿(しんがり)で共に戦うと言えなかった。かといって、生き延びるために他を押しのけて誰よりも先に逃げるような思い切りもなかった。


「き、木下殿」


促され、馬に乗る前に、斉天大聖と話がしたかった。うん? と言いながら近づいて来る斉天大聖はやはり俺が知るいつもの猿顔で、見慣れた表情だった。



怖くないのか?



俺はそれが聞きたかった。命をかける理由は分かる。それに見合う価値があることも分かる。だが、死が怖くないのか、自分の首に群がって来る敵兵が怖くないのか、それをどう克服しているのかを聞きたかった。


「木下殿、そなたは」

「ああそうそう、一つお頼み申上げたいことがあったこと、失念しておりました」


俺の言葉を遮り、斉天大聖が近づいてきた。この如才のない男が人の話を遮るなどと珍しい。そんな風に思っているとちょいちょいと手招きされて、耳を貸すように言われたので屈みこんで耳を近づける。



「ねねと、かか様をお願い致します」



両肩を掴まれ、抱き込むような体勢で言われた。ハッとして、斉天大聖の顔を見る。間近に見たその顔は、はっきりと青白かった。


「斉天大聖」

「名刀様のお墨付きがござれば、某安心して死ぬることが出来まする」


俺の肩を掴む手は震えていた。小さな体は、不安を体現しているようだった。その時初めて、俺はこの場に残るかを悩んだ。この男を死なせたくないと思った。


「うひゃひゃひゃ、木下様、浮気相手への手紙を燃やすようにでも頼まれたのですかな?」

共に戦おう。そう言いかけた時、体当たりするかのような勢いで、古左が俺にぶつかって来た。


「おうおう、その通りよ、女子にモテたことの無い古左には分らんであろうがのう」

有無を言わせず俺を馬上へと持ち上げる古左と斉天大聖が軽口をたたき合う。馬の口取りはすでに景連が控えていた。長則は兵を纏め、出発の準備を万端整えていた。


「ひゃひゃひゃひゃ、でしたら京へ戻ったらば木下様から女子にモテる秘訣とやらをご教示頂きたいですな」

「良いぞ良いぞ、但し高いがな。帯刀様の家臣であるを良いことに集めている茶器の幾つかを頂戴しようか」

「なんと業突く張りなお方か」


二人は揃って笑い、そして別れ際抱きしめ合うようにしながら何かをささやき合った。その時だけ、古左が真剣な表情を作り頷いた。


「速さが命ぞ! 皆一塊となってひた駆けよ!」


長則の号令に従い、古渡勢が駆け出す。俺達が遅れればその後ろも遅れる。馬上の俺は振り返らずただ同じ速度で進むことを心がけた。馬では厳しい急峻な坂道を通る時にはさっと馬を降りて引き上げ、半刻毎に脱落者がいないか確認した。手筒山城を攻めた時の怪我人と戦死者は既に尾張へと送り返しており、全員が健常な状態であった為、行軍速度は落ちずに済んだ。


「前軍の脱落者がおりますな」

やがて、古渡勢六百に追いつかれる味方が少しずつ増えて来た。単に道に迷った者はともかく、怪我人や腹を下したものなどは、このままおいてゆけば死ぬかもしれない。


「味方を放っておくに忍びない。鎧や太刀などは全て脱がし、肩を貸してやれ」

「宜しいのですか?」

景連が聞いてきた。それをして行軍速度が落ちればこちらの命も危うくなると言っている。


「脱落した連中を襲うのに味を占めた賊が今度は殿(しんがり)を襲うかもしれんぞ。そうして殿(しんがり)が崩れれば次襲われるのは我らだ」

そんな事は微塵も考えていなかったがスラスラと言葉が出て来た。口から出まかせを言うのが得意な両親から生まれたことを少々自慢に思った。


「旗があったであろう。木の枝と蔓を使って担架を作る。それで運ぶ方が兵の疲労も少ない」

俺の言葉を、完全に納得して聞いていたわけではないであろう景連はしかし、暫く思案した後、側を走っている兵達にそう言った。反対されると思っていたのだが、良い策を思いついてくれた。


「良いのか?」

「宜しいのですかとは、某が聞いた言葉にござる」


聞き返すと今度は厳しい言葉が返って来た。ぶっきらぼうな言い方と、それと好対照な手早い動きが何だかおかしかった。


「母が言うておったのだが、お主のような者の事を、ツンデレと言うそうだ」

「またけったいな響きの言葉にござるな。言うておきますが、どうしようもなく救い難き者がおった場合、その場で止めを刺しますぞ」

「一任する。せめて大日方の刀で苦しまず切ってやってくれ」


言いながら、俺達は人を運ぶ道具を作った。部隊の先頭に出た者が蔦などを拾い担架を作り、最後尾に至ったら前に従って走り出す。再び先頭に出たら道具作りを再開する。そのようにしながら緩やかな速度で進軍を続けた。


「後ろは? 味方は続いているか?」

「平手久秀様が隊、滞りなく。それより後ろは分かりませぬ」


怖かった。もし平手隊が崩れるようなことがあったなら、今度は俺達が襲われるのではと、何度も何度も、しつこく後ろは大丈夫か後ろは大丈夫かと聞いた。


「落ち武者狩りはないのか?」

「まとまって移動している間に襲われることは無きものと存じます。我が隊六百、前軍の脱落者も加え寧ろ数を増やしておりますれば」

「そういうものか」

「落ち武者狩りとは山犬や狼と変わらぬものとお考え下さい」

「それは至言だ」


問題はなく、襲われることもなく俺達は再び琵琶湖北岸へと到着した。ここから向かって右へ向かえば琵琶湖西岸、高島七頭が治める地だ。


「我らが撤退していることは高島七頭とて知っていよう。挟み撃ちにされる可能性はないか?」

「弾正少弼様が高島七頭の一人朽木元綱様を説得しお味方に引き入れました。殿は朽木谷を通って京へとご帰還遊ばされたとのこと」

「そうか、弾正少弼様が」


頷いた。流石は歴戦の古強者、勝ち戦でも負け戦でも頼りになるお方だ。幕臣に賄賂を贈り一仕事終えたつもりになっていた小僧とは違うな。


「殿?」

「ああ、いや大丈夫だ。急ごう。琵琶湖の西を進むことが出来れば、京は目の前」


時間が経つごとに疲労が溜まり、疲労と共に気持ちが落ちてゆくのが分かった。無力感が募り、恐怖が身体に纏わりついて離れてくれない。

高島七頭が治める琵琶湖西岸に到着した俺は、近江今津と呼ばれる山と琵琶湖に挟まれた地に布陣し、休息をとった。殿軍の本隊である平手隊を待ち、先に行った部隊からの報告を受ける。


「加賀門徒、越前一向宗、長島一向宗、石山本願寺の命令を受け蜂起」

「四国より再び三好勢が上陸、石山本願寺の兵と合流」

「六角義賢・義治親子伊賀国にて挙兵。南近江へ進軍し、観音寺城奪還の動きを見せている模様」

「雑賀衆、本願寺に協力し兵三千を派遣、京へ攻め登りつつあり」


次々と入って来る情報は聞きたくもないものばかりであったが、それでも聞かずにはいられなかった。


「徳川家康様裏切り。遠江を撤退し尾張へと兵を向けつつあり」

「武田信玄様同じく。甲斐より撤退し美濃を強襲せんとのこと」

「浅井長政様同じく。近江を南下し、六角義賢勢と共に観音寺を挟撃」

「紀伊より熊野三山蜂起の報せ。大和・伊勢に向けて北上する兵力二万」

「同じく比叡山延暦寺蜂起。叡山に立てこもり我ら後軍を足止めせんとの構え」


後から冷静に考えれば、これらの報せは俺達を混乱させ戦わないうちに瓦解させようとする虚報であったと分かる。だが、この時の俺はこれらの情報全てを信じた。そんなはずはないと思っていても、どうしてそんなはずがないと言い切れるのかと自身に問うた時、はっきりとした答えを出すことが出来なかったのだ。石山本願寺がこれほど強硬に織田家との対決姿勢を見せるだなどと、俺は現実を突きつけられるまで想像もしなかった。徳川が、武田が、浅井が、熊野三山が、延暦寺が、俺達を襲わないと誰が言い切れよう。事実、これらの虚報のうち一つはすぐに嘘から出た誠となる。


「こうなっては、高島七頭とていつ寝返るか分かったものではないな」

「……は」


疲れた体と、上手く回らない頭で考えた。否定することが出来なかった景連が小さく、確かに頷いた。

「ならば是非もなし」


情けない話だが、全ての虚報を信じた俺はその頃になってようやく肚が据わった。全て本当であるのならば、最早どうしようもない。ならばここで敵を待ち受け、もし浅井朝倉が連合を組んで襲って来るようであれば、味方を糾合して迎え撃つ。南下して延暦寺の僧兵に迎え撃たれるのであれば、突破して活路を開く。高島七頭に襲われるのであれば、最後の意地に切り結んで果てる。


「我らのみで南下して比叡山を通るは危険だ。殿軍を待つ。延暦寺には使いを出せ。通してくれるのであれば攻撃はしない。味方をしてくれるのであれば礼をすると」


夕刻になり、殿軍の本体が到着した。日が落ち切る直前に、三千まで減った権六殿がやって来た。敵に討たれたのではなく、雇われ兵ゆえ負け戦で逃げ出したとのことだ。


「帯刀様に平手殿もおられるとは地獄に仏でござるな」


権六殿は髭面をくしゃりと歪めそう言ったが、地獄に仏を見たのはむしろ俺の方だった。比叡山に使いを出したことを伝え、殿(しんがり)を待つとともに、一日様子を見たいと伝えると頷いてくれた。戦になった場合の指揮権は譲った。歴戦の強者だ、俺が何かするよりも余程兵を活かしてくれよう。


深夜、山間に明かりが灯っているのを見て将も兵も肝を冷やした。明らかに多すぎる。あれは敵か味方かと、聞くことすら恐ろしく感じられた。朝になれば、朝倉軍が三万もの兵を率いて怒涛のように攻めて来るのではないかと思えた。


疲労は限界をとうに超えていたが、緊張と不安のせいで眠ることなく朝を迎えた。


「伝令! 山崎山、東山より兵あり!」

「旗印は!?」

「横木瓜! 次いで丸に堅木瓜!」


周囲にどよめきが走った。地面に膝を付く者、大きく溜息を吐く者、様々だ。


「それだけか!?」

「されば、紫に桔梗!」


どよめきが歓声に代わる、横木瓜は池田勝正殿の紋、丸に堅木瓜は彦右衛門殿の紋だ。紫に桔梗で明智十兵衛光秀と分からない者はいない。


「まだあろう!?」

「殿の馬印に、金なりの逆さ瓢箪、『千成瓢箪』これあり!」


腕を振り上げ、立ち上がっていた。この状況であのような派手なものを背負って戻って来るとは、本当に筋斗雲にでも乗って逃げて来たのかもしれない。


「斉天大聖……!!」


死地、未だ脱せず、しかし、この撤退戦において織田家は全軍が軍としての体裁を整えたまま越前を脱出し、近江を突破しようとしていた。


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