第三十七話・急報
「予定通りに手筒山城を落とすことが出来ました。手筒山城攻めの武功第一は一番乗りを果たし、同城を占領した我が木下隊。与力の皆様方の御手柄も追って殿にお伝え致す所存。皆様の武働き、この半兵衛深く感謝いたします」
竹中半兵衛が満足げな表情で言う。織田軍先方木下隊、戦力二千四百余り。味方の死者は殆どなく、士気も高い。斉天大聖の意向で最上位の席に座らされている俺はその言葉をどこか遠くの出来事のように聞いていた。
可隆君が死んだ。勝ち戦で、味方の被害も殆どない戦闘で、その殆どなかった被害の一人が森家の嫡男森可隆だった。
遺体には首筋に矢が突き立った跡が一つ。外傷はそれだけで、それが致命傷だった。太い血の管が切られ出血し、可隆君は自らの死を悟って、手筒山城を占領することを指示し、そして自らの血で出来た血だまりに倒れ伏したらしい。
最初に見た時は血だらけで、次に見た時には綺麗に洗われていた。冬場の戦故冷やすことには不自由せず、雪を満載した棺に入れられ、京へと運ばれていった。腐る前に尾張へと戻され母御と対面出来るだろう。
「明日には金ケ崎城の総攻めが始まりまする。朝倉の援軍は未だ来ず、金ケ崎城は孤立無援にございます。力で押し、開城を条件に助命とすれば勝利は容易いものと殿には具申して参りました」
「助命を許す理由は何じゃ? 城主の首は手柄に必須なのでは?」
野太い声と共に、蜂須賀小六が質問した。気は良く、力持ちの男だ。子分共によく慕われ、女子供にはよく泣かれている。
「金ケ崎城の朝倉景恒を殺せば朝倉家が反織田で纏まります。孤立無援の景恒を『勇猛の士殺すには忍び難し』と解放すれば景恒始めとした敦賀の将兵は織田に恩を感じ、援護を出さなかった本家に不信を抱くでしょう。此度は若狭を切り取り、次の戦の際には近江国人衆と若狭武田家の将兵を前面に出して朝倉を押し、朝倉家に内紛を起こさせた上で自潰させます」
「そうじゃな。敵も味方も、出来れば人死には少ないがええ」
斉天大聖が明るく言い、そうですなと多くの者が賛同する。
「次の戦も、武威を示し城兵の抗戦する気持ちを折ることが肝要にございます。されば派手に鉄砲を撃ち放ち、鬨の声をあげ、旗を多く掲げるに如かず。手筒山城のように匹夫の勇にて死ぬことの無きよう」
「匹夫の勇とは誰の事だ?」
噛みつくような声で誰かが言った。視線を上げる。全員が俺を見ていた。言ったのは俺だった。
「答えろ。手筒山城で匹夫の勇にて死んだ者とは誰の事だ?」
チャ、と、刀の鯉口を切る音が鳴った。それも、俺がしていた。
「無理せずとも勝てる戦で無駄に死んだ全ての兵を指して、匹夫の勇にて死んだ者と評しておりまする」
立ち上がった。床几が倒れ、転がる。
「ならば森可隆殿の死も、無意味な死であると、そう言うのであるな?」
はい、と言ったら即座にこの男の首と胴を切り離してやる。そう考えながら聞いた。
「は「誠、惜しい方を亡くしましたなあ」い」
手首を押さえられ、そのまま手を握られるようにして押し留められた。困ったように笑う斉天大聖がいつの間にか俺の懐にいた。
「されど、可隆殿の御働き、御父上も殿もお褒めでございましたれば、決して無駄ではないことと存じまする。我らも又、可隆殿の武勇に続き、勇敢に金ケ崎城を戦いましょうぞ」
明るい声で、俺を含めた場の全員に伝えるように言う。力など入っていないようであるし、口調に緊張感など微塵もない。それなのに何故か、抑えられた手が全く動かせず、いつの間にか刀から手を離していた。
「ご無礼仕った。某少々気分が悪い故失礼させて頂く。我が隊は木下殿の決定に従い動く故御心配の無きよう。長則! 末席にて話を聞いておけ」
「畏まりました」
言って、俺は軍議の場を後にした。それから適当に人の少ない場所を見計らって、汚れていない雪を見つけ、顔に擦りつけた。首筋、脇、腹に背中と同様のことを行い、文字通り頭を冷やす。
「小僧か俺は」
自己嫌悪でどうにかなりそうだった。戦なのだ、必ず人は死ぬ。死者の中に大切な人がいないとどうして言い切れる。覚悟はしていたはずだ。自分とて、明日生きているかは分からないのだ。
父と可成殿は立派だった。父が多くの将兵が見ている中で可隆君が勇敢であったことを褒め称え、その勇者を亡くしたことを痛恨の極みであると悼んだ。可成殿は殿のお力になれて息子も本望でござると答え、二人で笑いあっていた。お陰で軍中に暗い雰囲気はない。
可成殿の笑い方を見て、本心がどうであるのかを見極められる程親しくはない。だが父の本心は分かった。父の笑いはあのように爽やかなものではない。ケッケッケと怪鳥が鳴くかのような笑い声が父の笑い声だ。
無駄死にだった、間違いなく。一隊を率いる大将が、ましてこれから家を背負おうという嫡子が先陣を切って打って出るべき戦ではなかった。乾坤一擲の、敗北即ち滅亡の戦ではなかったのだ。安全な場所で指揮を執り、部下が挙げた武功を我が事として誇ればいい。それが、武勇に優れた森可隆には出来なかった。
「差し出がましくも厳しいことを言わせて頂ければ、それでは良き大将になれませぬぞ」
「景連」
鎌倉武士を彷彿とさせる我が家臣、大宮景連がそこにいた。周囲を警戒しつつ、同情とも叱責とも取れない表情を向けて来る。
「軍議で、大将が味方の知恵者を切り捨てて士気が上がりましょうや?」
「地に落ちよう」
そうなれば父とて俺を許すまい。良くて謹慎悪ければ領地召し上げだ。似たようなことをして織田家を出奔した又左殿の例もある。
「済まない。俺はまだまだ童だ。友の死を受け入れることが出来ない」
「友の死は友の死として戦が終ってよりお悼み下され。軍議の最中は冷静に。誰よりも冷静にあらねば」
「分かっているつもりであったのだ」
「この戦は勝てまする」
短いが、しかし厳しい叱責を受け、唇を噛んでいると何とも唐突に話が変わった。景連を見る。相変わらず表情では感情が読み辛い。
「金ケ崎城攻撃においても我らは先陣を賜りました。ここでも武功をあげ、古渡勢の武名を高めまする。殿は未だ感情を御し切れず、良将たるに至らず。されど己が行動を反省し、改めんとする分別これ有。名将となる日も、遠くはございませぬ。その日までに、我らも又精兵となり殿に相応しき武士となって御覧にいれる」
「そうか、ならば俺も頑張らねばな」
礼を言うと、景連が膝を突いた。まだまだ気持ちが落ち着いたわけでも整理できたわけでもないが、次の戦へ挑む気構えが出来た。と、そこに常に似合わず難しい表情をした古左が現れ近づいてきた。
「た、帯刀様、僭越ながら少々、お小言を申し上げなん」
「それは既に拙者が申しあげた。無用である」
ファッ、と、古左が奇声を発する。景連が古左の肩に手を置き、珍しく申し訳なさそうな表情を作っている。
「折角慣れぬ覚悟を決めてやってきたというのに、良いところを景連殿が持って行ってしまったと仰せか」
「いや、相すまぬ。貴殿の覚悟のほどは先程の表情でよくわかったが、まさか貴殿がそのような殊勝なことをする御仁とはゆめ思わず」
はぁ、と、古左がため息を吐き、尻が汚れるのも構わず地面に腰を付けた。その様子を見て俺は笑う。
「いつかお前達を万石取りにしてやりたいな」
「是非に」
「万石と言わず、一国でも構いませぬぞ」
景連が頷き、古左がまたひょうけたことを言ったので俺はその肩を蹴飛ばした。
元亀元年三月三日、金ケ崎城開城。城主朝倉景恒以下三千の城兵は降伏し、城を明け渡した。朝倉勢本隊は木の芽峠に布陣していることが分かったがその軍勢は一万余り、それも当主朝倉義景は不在と、明らかに腰が引けていた。
「権六に八千の兵を預ける。このまま西へ進み、美浜・若狭・小浜を攻め若狭一国を切り取れ。朝倉には若狭守護武田元明を織田に引き渡すよう求める故、上手くやれ」
ははあ、と権六殿が頭を下げた。若狭武田家当主元明殿が人質に取られてより、若狭の勢力は朝倉に屈服するか徹底抗戦するかで割れている。朝倉が敗北し、その上当主が返ってくるとなれば諸手をあげて織田家を迎え入れようとする者達も増えるだろう。
「朝倉義景には南条・丹生・敦賀三郡を召し上げの上、本人自らが京へ出頭することを命じる。これが出来ずば再び戦である。更に、朝倉義景に子が出来たならばその子が成人するまでは京で養育する」
南部および沿海部三郡の召し上げ。人質の強要。滅ぼしはしないものの、完全に屈服させる意思がある。一乗谷を奪わないのはせめてもの慈悲か、或いはこれくらいが落としどころだと考えたのか。
「朝倉が要求に従わぬ場合は如何なさいますか?」
十兵衛殿が聞いた。知れたこと、と父は笑う。
「このまま攻め下り一乗谷へ向かう。城下町を全て焼き払われれば義景も多少は時勢というものが分かろう」
「柴田殿が八千を率いて若狭へ向かうのであれば、彼我の戦力差は無く、一乗谷へと攻めくだるのであれば敵戦力は更に増えることと存じまする。必ずしも、勝利定かならずと考えまするが」
摂津三守護の一人、池田勝正殿が口を開いた。お言葉御尤もだ。だが、父は態度を小動もさせず答えた。
「援軍を呼ぶ。庶兄三郎五郎には畿内、弟九郎には美濃、同じく彦七郎には尾張、伊勢の兵を集めさせている。一万でもって後詰をさせ、高島七頭にも兵を出させる。権六が若狭を攻め取ったならば若狭の国人衆も連れて取って返させる。若狭国人衆は船を持っていよう。沿岸からも攻撃を加えさせ、本隊は一気に越前一乗谷を目指す」
おお。と一座がざわめいた。今回の戦いは名目上若狭国武藤氏成敗であり、俺を含めた殆どの将兵もそこまでが目的だと思っていた。だが、父の迷いのない口調を聞くと、もしかすると初めからここまでを狙っていたのではないかとすら思う。
「浅井家は如何致します? 武藤攻めは認めても、一乗谷までを攻めるとあっては納得せぬものも多いかと」
今度問うたのは俺だった。緊張はしたが、おかしな質問ではない筈だ。父もうむと頷いている。
「これほど繰り返し慈悲を与えたのだ。この期に及んで従わぬと言うのであれば最早是非もなし。浅井家に対しての理由にもなる。義弟とは既に連絡を取っておる。若狭が落ち、援軍が北上し、それでも尚返答がない場合であれば浅井家も朝倉攻めに加わると返事があったわ」
今度は歓声にも似た声が上がった。浅井の兵は近江において最強と言って過言ではない。援軍として来るのであれば味方の士気は否が応にも上がるだろう。
対陣はそれから三日続いた。
対陣して三日、織田軍の中で唯一最大の働きを見せたのは当然のことながら権六殿。権六殿は逸見氏・栗屋氏・熊谷氏といった若狭武田家から独立した国人衆を味方につけ、織田に臣従を誓わせながら武田家臣の城を包囲。武田元明復帰後の所領安堵などを条件とし、早々に若狭を手中に収めつつあった。その間、朝倉義景に宛てた手紙の返答はなし。父は舐めよってと憤慨しつつも、どこか満足気であった。
「公方め、俺がいないうちにやりよる」
対陣する軍中での動きはそれくらいであったが、京では大きな動きがあった。公方様が東海の戦に介入したのだ。
公方様はまず関東管領を自称する北条氏の正当性を認めた。『北条氏綱が古河公方足利晴氏の命を受けて小弓公方足利義明を討ったことにより、北条氏は古河公方から関東管領に任命された』という、北条氏康の主張を認めるものであった。
更に公方様は今川氏が代々駿河の守護に任じられているという先例から、今川氏真を改めて駿河守護であると認めた。その上で関東管領北条氏に従うようにと伝えた。元々北条氏は初代伊勢新九郎盛時が今川義元の父氏親の叔父という立場から身を起こした家である。伊勢新九郎は生涯において今川氏親の家臣としての立場を崩さなかったが二代目の氏綱が北条を名乗りやがて独立。三代目の氏康が世に名高い川越夜戦などの勝利を重ね、両上杉と呼ばれた関東管領家を圧倒するに至る。四代目の氏政となり、更に勢力を拡大させ、遂に今川氏と北条氏の主客は逆転することとなった。
「遠江に関しては?」
「何も言うておらんな」
公方様は徳川殿に対して停戦を呼びかけ、朝比奈泰朝ら掛川城の将兵に掛川城の退去を命じた。武田軍が今もって甲斐国境にいる関係から、恐らく北条家もこれを飲み、今川氏真の書状が掛川城に届けられるのではないかと見られている。徳川殿に対して撤兵を呼びかけたのでないのだから徳川殿は朝比奈泰朝が退去した後掛川城に入るだろう。だが、今川家は遠江守護も兼任していた家である。何も言わぬという事は北条家が体制を整えた後、いつでも攻め寄せることが出来るという訳だ。逆に、徳川殿が駿河を攻める大義名分はどこにもない。
「申し訳ありませぬ。某の行いましたること、父上のお役に立たなかったようです」
頭を下げ、謝した。今俺は父の陣中に招かれ内々に話をされている。周囲には近習しかいない為父の事を殿と呼ぶこともない。
「貴様の動きは公方が俺に対して持つ不満を無くすためのものだ。東海の戦において公方が介入するを読めなかったは我が不覚。貴様には何の落ち度もない」
無力感に打ちひしがれてると、珍しく、そして似合いもしない慰めの言葉を賜った。肩をバシバシと叩かれ、笑われた。
「某は、京都での働きにより暫くの間公方様の動きを封じ込めることが出来たと思うておりました」
「それは慢心というものだ。兄弟を殺され、自らが幽閉されても尚将軍職に拘り、一万の三好兵に囲まれても逃げずに戦うような男だ。家臣の説得があったからと言ってむざむざと自分を売り出す機会を逃すものか」
その通りだ。何一つ武功など持っていないくせに自分を過信していた。
「失礼いたします」
その時、外から覚えのある声が聞こえた。
「殿、三郎五郎様よりお手紙が届きましてございます」
「うむ」
手紙を持って入って来たのは森可成殿だった。遠慮のない所作で父に手紙を渡し、父も気軽な様子でそれを受け取る。嫡男を失ったばかりだというのに心乱れた様子はまるでなく、森家の軍勢の統率はそよりとも揺るがない。
「三左、猿と十兵衛、それに彦右衛門を呼べ。それと権六に伝令だ。戦闘を中止し、直ちに京へと撤退せよと」
やがて父は京の夕食を所望するかのような気軽さでそう述べた。何が起こったのですかと聞くよりも先に森可成殿は父の下知を繰り返し、出て行った。
「読め」
父から手紙を渡された。差出人は森可成殿が言っていた通り信広義父上。
「父上、これは」
「来るべき時が来たという事だ。俺は直ちに京へと戻る。破戒僧共から京を守らねばならん」
石山本願寺法主顕如、門徒全員に対し織田家打倒の檄を飛ばす。石山本願寺より門徒勢一万五千、京都へ攻め登りつつあり。




