第三十三話・元亀に世は動き
改元は年明けの一月一日と決まった。改元準備にひと月も時間をかけず、その上何かと忙しい年末年明けに改元を執り行うとは前代未聞の事なのではなかろうか。公家衆も幕臣も、改元を望んでいた公方様すらも戸惑ったようだが父の言い分は単純明快だった。元号が途中で入れ替わるような年は分かり辛い。永禄は十一年まで、元亀はその次とした方が天下万民も後の世の者も分かり易い。俺としては、尤もだと思う。
改元の費用を得る為に、父は寺や会合衆などから更に金を搾り上げた。金を求める理由が改元費用で、実際にあとひと月足らずで改元するのだ。断れるものではあるまい。そうして脅し取った金を使い俺が金を出すのだから文句を言うなと公家衆や幕臣達を黙らせた。実際改元そのものは公家衆にとって良い収入源にもなる。そして公方様は基本的には早く改元がしたいのだから文句は言わない。父は朝廷から弾正忠、従五位下を叙任し、改元後には従四位下へと昇進することも決定した。
一連の手続きを終えた後、父は俺に尾張国愛知郡古渡城下三万二千石余りを与え、俺はこれを謹んで拝領した。戦となれば五百か六百は率いることが出来る。振り絞れば一千少々というところだろうか。元服はとうに済ませた。妻も娶り、織田信広系織田家の次期当主として、俺も正式に父上の家臣だ。
勘九郎は当然父上の領土を、織田家を全て継ぐこととなる。茶筅と勘八は伊勢に領土を持つ予定である。茶筅が北畠家を継げば伊勢の半分、勘八が神戸家を継げば更にその半分程。伊勢の地理や石高について詳しく知っている訳ではないが、大国伊勢は五十万石を超すと聞いたことがある。とすれば、茶筅が二十五万石、勘八が十二万五千石、順当な所だろう。北畠家は伊勢国司であるからして、後々には茶筅が伊勢志摩を治め、勘八は別の国を一国持つことになるかもしれない。伊勢志摩併せて、仮に六十万石とすれば茶筅の一声で二万人近い軍勢が動くことになるのか。うーむ。
父上の勢力が今いかばかりかと言えば、尾張美濃で百万石を越え、伊勢一国で五十万石、南近江に伊賀の北部、畿内で直轄領とした河内、摂津などを合わせて都合二百万石を越す。近江や伊賀は今もって六角の勢力が強く、美濃においても東の一部は織田・武田に両属している国人領主も多いので確実に織田家の地盤となっているのは百万石ほどだろうか。但し父上はそこに津島港を始めとする港から入る膨大な交易利益という付加がある。いざ戦となれば徳川家、浅井家、畿内三好家、松永家等も味方する。
同盟者たる徳川殿の地盤は当然三河一国で、二十万石を超すとのこと。無事遠江を切り取り、駿河まで手を伸ばすことが出来れば七十万石、或いは八十万石にも達するかもしれない。言うまでもなく、東海三国は全て海に面している。織田領と、関東の雄北条領を結ぶ海運を利用すれば実入りは更に良くなり、織田家にも匹敵する大勢力となり得る。いつか村井の親父殿が言った徳川家康脅威論も、まだ笑っていられる程度には現実味を帯びて来た。
よく分からないのが浅井家だ。戦は間違いなく強い。だが、国力という意味では恐らく十万石から多くて十五万石程度だと思う。浅井領は琵琶湖東岸の平地が半分、その東側にある伊吹山系が半分だ。関ヶ原を通して美濃へは通じる。琵琶湖の水運を利用して京へも通じる。北は朝倉家とも誼を通じている。交易の利益は十分に得ているであろう。脅威であるのか、或いは頼もしがるべきなのか、正解が見えない。父は信頼しているようであるが母は強い疑いを抱いている。
大和一国切り取り次第の許可を得た弾正少弼様は佐久間信盛殿、細川藤孝殿、和田惟政殿らの援軍を受け、大和の平定を推し進めた。結果南大和国人衆の盟主筒井順慶を破り、見事許しの通り大和一国を切り取った。だが、南大和は国人衆以上に高野山金剛峰寺の力が強く、寺社領の切り取りは行えていない。その為弾正少弼様が持つ領地の石高は多く見積もって二十万石程度だ。
ともあれ今は俺の話だ。三万二千石は何の為であるのかと言えば、やりたいことをやるための小遣いという事であるらしい。主としては当然公方様対策に使用することとなる。だがそれ以外にもすべきことは沢山ある。前田利久殿以下前田家の者達、先の戦で戦傷した兵、彼らの面倒を見る為に金が必要だ。利久殿からは家臣として扱って欲しいと言われているのでそうしている。碌は永楽銭で支払い、領地はない。不自由な暮らしはしていないだろう。いずれ利家殿が引き取ると言っていたので家臣を得たわけではなく、臨時に雇ったと言うべきだ。戦傷者達には兼ねてより決めていた仕事を順次振っている。臨月に入ったお勝殿と、妹相、実は彼女らには金がかかっていない。子に甘い父が化粧料だと言って五十貫を送って来たからだ。お勝殿はその五十貫をそのまま俺に渡し、宜しくお願い致しますと言って来たけれど寧ろご自身で使って欲しかった。後で父から『その金を無駄遣いしたら刀の錆だ』と手紙が来たからだ。
支出について計算を終えたら次は軍政だ。具体的に言うと、石高から兵力を計算すれば百石につき二人か三人程度になる。一万石で二百から三百だ。つまり俺の領地からだと六百四十から九百六十。振り絞れば千程度という計算になる。ただ、俺はこれを二百程度まで絞ろうと思っている。理由は父が銭で兵を雇うという事を始めたからだ。
金銭で兵を雇うという方法を、父は母から学んだそうだ。いくら母が狐だの天狗だのと呼ばれているからと言って所詮は女子、女子に軍事の話をし、そしてその考えを受け入れて実際に行なうなどと、普通であったらするまい。だが、父は一度決めたことを説得によって諦めるということは絶対にしないが、まだ迷っていることについては積極的に人に話を聞きにゆく。そしてその考えが自分の先を行っていると認めれば女だろうが狐だろうが敵だろうが関係なく受け入れる。座の廃止がそうだった。楽市楽座は父が始めたものではなく六角定頼が観音寺城の城下町に布いた楽市令が始まりである。
銭で兵を雇うというやり方も又、応仁の乱前後から少しずつ広まってきた方法だ。父が創始したわけではない。普段は土を耕し、いざ鎌倉となれば鍬を刀槍に持ち替えたのが鎌倉幕府の御家人達であろう。かの楠木正成公は鉱山経営を生業としており運輸業者でもあったといわれる。つまり平時においては商人に近かった。それが、応仁の乱前後から現在に至るまでの混乱期において、常時戦いに身を置き、戦闘力の提供を自らの存在価値とする者らが増えて来た。応仁の乱であれば骨皮道賢が著名であろう。現在であれば雑賀・根来などの鉄砲集団、伊賀・甲賀の忍びの者達といった特殊技能集団が雇われ兵の代表格だ。父はそれを積極的に雇うつもりである。
既に二番煎じ、三番煎じでしかない方策であるが、父がこれを行うのには大きな意味がある。何故なら、今天下で最も金を持っている人間が父であるからだ。暫定だが二百万石を超す石高に交易の利、そして先頃濃尾二国において銭の生産を直接自分で行うことを決定し、生産においても流通においても他勢力から頭一つ飛び抜けた感がある。
俺も母も、折角積み上げて来た技術を渡すのは惜しかったが、刀や壺、茶器などの生産は禁じられていない。母も色々とおかしなことを行っているのは相変わらずで、作るのは禁じられたが稼ぐのは禁じられていないのだ。それに、父にばれない程度、小遣い稼ぎ程度の生産は続けている。これくらいの隠し事が出来なくてどうする。というのが古渡城上層部の統一見解である。父には是非とも、息子の成長を喜んで頂きたい。
雇い兵でもって戦をする。これには勿論悪い要素もある。兵に忠誠を求めることが出来ないという点だ。負ければ自分の家が奪われると分かっている地元の農民であれば死に物狂いで戦うところであっても、金で雇われている兵なら逃げてしまうだろう。三河兵の強さはその忠誠心の強さにありと言われている。浅井家の兵が精強であるのも当主長政殿の武勇に多くの将兵が心服しているからだ。
この欠点を、父は銭で解決しようとしている。銭で大量の鉄砲を買い、遠くから撃たせる。一方的に攻撃を加えるのであれば忠誠心も勇猛さも必要ない。そして、これだけであれば武の心得がない者であっても簡単に出来るだろうとのことだ。他国では出来なくても、父なら出来る。
俺は、二百の兵を召し抱え、彼ら全員がそれぞれ十名程度の人間を率いることの出来る人物になってもらいたいと考えている。そうして二千の兵を編成し一軍と成す。兵からの忠義は見込めないがその分は雇い兵の処遇を厚くすることで賄いたい。塙家の兵に対して行ったように、戦で負傷した兵は古渡領で仕事を与え、家族の暮らしも保証する。これを徹底して行うことが出来れば少し不利になったからと言って直ちに逃げだすような弱兵にはならない筈だ。福利厚生の充実と母からは言われた。
大量の騎兵を用意して戦場を颯爽と駆け抜けること、大量の鉄砲を用意して一方的に敵を打ち破ること、これらは両方とも俺には出来ない。そこまで潤沢な資金はどうひっくり返っても用意出来ないのだ。ではどうすべきか、父は時代の最先端を走っている。俺は逆に、時代遅れのもので何か出来まいかと思案しているところだ。銃に対しては弓。槍に対しては刀。
弓は銃に対して殺傷能力でも、射程距離でも劣る。そして弓の上手一人を育てる手間や時間に比べて、鉄砲の打ち方を覚える時間は極めて短い。強いて言えば命中率は弓の方が良いのかもしれないが、射的の的を狙う訳ではないのだ。砦に向かって駆けあがって来る敵兵の集団に、鉄砲部隊が一斉射撃を加える。この時に多少の命中率の差など意味をなさない。外れた銃弾が隣の兵に当たればそれもまた命中なのだ。
槍に対しての刀も又、間合いの違いが最大の差となる。最早源平合戦のような『やあやあ我こそは』と名乗りをあげての一騎打ちなどあり得ないのだ。集団戦闘において槍衾を刀剣の集団が突破したという例を俺は知らない。
考えれば考えるほど鉄砲で撃ち、槍衾を組むという戦闘方法が理にかなっていると分かる。だが、何か隙はないものか。例えば弓は銃と違って曲線を描く。彼我の間に分厚い石壁がある状況であれば一方的に、いや、そんな状況がまずない。刀はどうか。刀は切断力において槍に勝る。取り回しもし易い。体がぶつかるほどに近づいてしまえば槍兵の集団に勝てるかもしれない。いやいや、それならば槍一本刀一本持っておく方が良い。
「中々上手い考えは……ん?」
「少し、頭を休めて下さいまし」
白く冷たい手が、俺の頬を包むように挟んだ。顔から熱が奪われてゆく。熱が奪われるのと同時に、気持ちも楽になるようだった。
「ありがとう。落ち着いた」
「はい」
古渡城に戻ってから、俺達は満月の夜以来の再会を果たした。彼女の第一声は『恭にございます』だった。
「今、軍の編成について考えていたんだ」
「はい」
恭は多くを語らない。俺の言葉に対して最も多い返事は『はい』だ。俺も母も父も、もっと言えば信広義父上も皆饒舌な人物である中で物静かな彼女の存在は物静かであるが故逆に目立っている。
「難しいことをお考えなのですね」
考えていたことを俺が言うと、恭は一言そう答えた。母上のようにこうしたらいいであるとか、それはこういう事であるなどと言った事は一度もない。だが、古渡城に帰ってから俺は悩みがあればすぐ恭に話すようになった。恭は自分の意見を言わず、答えを出すことも出来ないが、理解できない時素直にわかりませぬと言える美徳を持っていた。恭は読書家だ。同じ本を何度も読み、その本の作者が何を思いこの一文をしたためたのか、微に入り細を穿つようしっかりと精読味読する。その恭が理解できないということは話し方が悪いという事。恭がそうですか。と言うまで話すことで、俺は俺の考えを纏めることが出来る。
恭が唯一強く我を通すのは、俺が根を詰め過ぎている時だ。早く寝た方が良い。少し歩いた方が良い。そんなことを言われる。食事を抜くことは無いから食事を食べた方が良いと言われたことは無いが、食べなければきっと言われるだろう。もう少しだけとか、後でと言うと少しだけ待ってくれるがそれでも言う通りにしないと無表情にじっと見つめられる。その視線に抗い難く、俺は恭に言われるといつもその通りにしてしまう。
「今宵は月に雲がかかっておりまする」
「そうか、それもまた風流だな」
今日は頭を休めるようにと言われたので言われた通り何も考えず月を見ることにした。満月の夜に二人で語らって以来、俺達はどちらがともなく月の下で言葉を交わすという習慣を作った。
「浦島は幸せな時を見つけることが出来たかな?」
「はい。もう少しです」
「楽しみにしている」
恭は主張こそ弱いが感受性が強い。今まで、感受性が強い人物と言えば母か、さもなくば斉天大聖かのどちらかであったが二人と比べてすら比べ物にならないほど強い。ある日、俺が寝室に入ると泣きはらした目の恭を見つけた。問うと、下らない事ですと言うものだからお前が泣く理由に下らないものなどあるものかと言い、訳を言わせた。帰ってきた答えは、浦島太郎の物語を思い出し、悲しみに暮れていた。であった。
『ある日突然息子を失った浦島太郎の親が、後々どうなったのかを想像すると悲しいのです。虐められていた亀を憐れむことの出来る優しい青年です。きっと帯刀様のようにご両親からも愛されていたでしょう。そのご両親がいつまでも帰らぬ愛息子を待ち、それでも帰ってこない息子を恋しがりながらやがて老いてゆく、そんな老夫婦が余りにも可哀想で』
言いながらポロポロと涙を零す恭を見ながら、俺は心密かに、そこまで物語に没頭することの出来る恭に憧憬の念を抱いた。
『悲しみで終わるのであれば、その後に新たな喜びを加えればよいではないか。虫愛づる姫の如くに』
そうして、俺は提案した。開けてはならない玉手箱を開け、老人となった浦島が、どうすればその後幸せになれるのか、親の悲しみを消すことが出来るのか、それを考え、そして物語とすればよい。
『玉手箱には煙が入っていたそうだが、だが、その玉手箱の底まではまだ見ておるまい。何しろ人一人を包んでしまう程の煙で満たされていたのだから』
そう、指標を与えると恭は猛然と物語を作り出した。既に何十度も読んでいる浦島太郎を再び読み返し、万葉集巻九の悲しい結末以外に、日本書紀、風土記、などの古い作品、短編絵入りの御伽草子まで、幾つも入手した。余りに熱を入れるものでもう寝なさいと言うのだけれど、もう少しと言って動こうとしないものだから、そういう時は俺が抱え上げてそのまま寝所へと連れて行ってしまう。
変わった娘だと思う。浦島の物語など、世の殆ど人間が一読して通り過ぎるだろう。俺とて何と不条理な物語だと思いはしたものの、それだけだった。彼女だけは、そこに生きている人間が抱く悲哀を見出した。きっと恭が読んでいる文字には色が付き、映像があるのだろう。
「俺達は上手くやってゆけると思う」
時々そう言う。恭はいつも通りはいと答え、同じ布団に入り、抱きしめあって眠る。寒い冬も、こうしていられるのであれば温かい。
そうして新米領主である俺が夫としても少しずつ経験を積み永禄十一年が、永禄年間が終った。年が明けて一月、父は従四位下に昇進し、勝子殿が男子を産み、そして母が妊娠した。