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信長の庶子  作者: 壬生一郎
織田信正編
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第三十二話・信長の野望/信正の智謀

永禄十一年も残すところあとひと月となっていた。


東海の戦は、武田軍が今川氏真の退路を断ち駿府への道を塞いだ。今川氏真は辛くも包囲を突破。駿府城へと逃げ込む。遠江の掛川城は忠臣、朝比奈泰朝が守るも殆どの城は戦わずに落ち、掛川城を徳川家が包囲した。駿府へ雪崩れ込み、駿河を飲み込む勢いであった武田だが、北条家がこれを留めた。当主北条氏政が自ら四万五千の兵を率いて西進。俺の予想が外れ、親父殿の考えが当たった。武田軍は今川に大勝した薩埵峠に取って返し、ここで迎撃態勢を整え睨み合っている状況だ。今川家を間に挟んでの三つ巴、誰がどれだけのものを手にするのかはまだ分からない。


「どいつもこいつも厄介だな」

汁を啜りながら、父が言う。箸でグサリと大根を貫き、口へ運んだ。


「敵もですが、味方にも厄介な者がおります」

言ったのは父ではなく俺でもなく森可成殿、可隆君の父親だ。魚の練り物を割って冷ましている。


「三左衛門、持って回った言い方をするな。まるでこやつら狐親子ではないか」

父の言葉に俺と可成殿が笑った。練り物を口に入れ、ほふほふとやっている可成殿の代わりに応える。


「義昭公の事ではありませんか?」

「んぐ」


猫舌であるのか、練り物を食べるのに苦労している可成殿が妙な声を出し、頷いた。冷たい茶で喉を潤してからご明察にございますると一言。


「公方か、暗愚でも腑抜けでもなかったな」

父が眉に皺を寄せ、その皺を自分で掻く。そう、十四代足利将軍義昭公は、決して暗愚でも腰抜けでもなく、その上筆まめな人物である。


雪が道に積もる十二月、父は家臣であり、親友でもある可成殿と共に古渡城にやって来た。俺が留守にしている頃から時折来ていたらしい。母が作った田楽を食いながら、三人で話をしている。母とも色々話をしているそうだが、珍しく今日はそそくさと部屋に戻ってしまった。


「寺にいた頃から度々命を狙われていたのです。和田惟正殿らと共に諸国を転々とした上での御上洛、充分に苦労をしたのでしょう」

「その上、本圀寺での大立ち回りです」


可成殿の言葉に追従した。本圀寺の変において、公方様は決して逃げ出せぬ状況にはなかった。味方が本圀寺を死守している間に美濃へ逃れることも不可能ではなかったはずだ。だが、都合二日で終わった戦いのうち、一日目は三百、二日目は二千で三好勢と渡り合っている。公方様は戦の指揮などしたことは無く、剣豪将軍と呼ばれた兄君程の腕前もない。それでも大将が逃げずに戦ったからこそ保てた二日間であったのだ。


「あれで、公方は家臣の心を掴んだな」


元々織田家と将軍家両属の家臣である十兵衛殿などは公方様に対しての評価が高い。それに加えて、かつて敵であった三好義嗣殿や弾正少弼様とも距離を縮めた。轡を並べ不倶戴天の敵と戦ったことが良い方に作用したのだろう。


「詰まらんな」

父の言葉に、俺も可成殿も深く頷いていたのだけれど、突然父が俺達二人に対して吐き捨てるように言った。


「貴様らは、俺の言葉の意味をすぐに掴んでしまうから詰まらん。三左、お前の家の倅共は良かったぞ。俺が何か言えばすぐに『なぜでございます?』『どういう意味でございましょう?』だ。茶筅も可愛いものであった。分かるかと問えば必ず『わかりませぬ!』と言い返してきた。勘八はうんうん唸って考え、勘九郎は拙い答えを自分なりに考えてはじき出した。その点お前は最悪だ、この鈍刀(なまくらがたな)


言葉も出ない程、理不尽な言いがかりをつけられた。


「俺よりもでかくなり、俺よりも深く先の物事を考えるようになりよって。少しはサルを見習え。奴であればな、今の話などはこうだ『公方様が家臣の御心を掴むは、良きことなのではございませんか?』そこで俺はサルに言うのだ。『全くこの禿げネズミめが。貴様は何も分かっておらぬな』とな」

「そうして、『公方様が見据える天下と、俺が目指す天下は相容れぬ』と、教えて差し上げるのですか?」


話を進めてあげようと思い、父が言わんとしていることを先に言って差し上げた。けっして、なまくら扱いされたことを怒っての事ではない。


「……そうだ」

睨み付けられながら言われたが、俺は気にせず茹で卵を口に含んだ。出汁の味がよく染みていて美味しい。汁を啜り、身体を芯から温める。冬はやはりこれだ。田楽は母(から指示を受けて動いた女中達)の味。


「良き機会でありますから聞かせて頂きたいのですが、父上が目指す天下とはどのようなものでしょうか?」


公方様が目指す天下は、足利将軍家が秩序と均衡を保つ天下だ。諸大名達が相争う中で、争いに参画するのではなく、審判者として統括する。父がそれらの大名の頂点として君臨し、一旦事が起これば公方様の権威を利用する。という形であれば、或いは二人の天下は一つに合致する。


 「全てが俺の思い通りになる世だ」

 合致しない。全く合致しなかった。


 「そもそも本朝六十六州などという狭い土地を天下などと呼ぶことがしみったれている。唐国から見れば日ノ本など一州程度の土地でしか無かろう。俺はこの日ノ本を織田の旗で統一し、朝鮮へと渡り明を攻め滅ぼす。それから天竺へ、更に西方にあるという大秦国ローマも服属させ、それらの土地を全て我が国とする。帝も皇帝も、各地の王も俺の家臣だ。そうなれば帯刀、お前には日ノ本をやろう。関白・太政大臣・征夷大将軍、全て兼任するが良い。南朝の鎮守府大将軍となっても良いし、道鏡が成った法王の位も面白い。いっそ天皇を名乗った方が手っ取り早いかもしれぬな」


 言われてから暫く、ポカンとしてしまった。この気持ちを何と表現すればいいのだろうか。怒りも度を越すと却って冷静になるように、畏れも、行き過ぎるとむしろ爽快さすら感じられるようになる。日ノ本の人間であれば決して口に出せない大言壮語が群れをなしている。


 「三左衛門殿はこの話を?」

 「もう随分前から聞いていますな。柿の実をもいで食って、旅人に小便を引っかけていた頃に決めたこと故」


 全く驚いていない可成殿は、冷めた豆腐を匙で掬い、美味しそうに食べていた。


 「故に、公方には早く立場を分からせ、俺の掌の上に座ってもらわねばならぬ……どうした?」


 身体が震えていた。旅の間に、多くの人と会い、多くの経験を得た。賢い者とも語り、強い者とも接した。だが、最も身近な人間が、実の父親が、誰よりも巨大な器を持っている。それが怖く、誇らしく、俺の体を震わせる。


 「父上は凄い」

 素直に褒めると、父がふふんと笑った。であろう、と一言。


 「自慢の長男に尊敬して貰えて良かったですな。これだけで今日ここに来たかいがあったというもの」

 「うるさいぞ三左」


 からかわれた父が可成殿の頭をぺシンと叩く。そうして笑いあう二人を見て、俺はかねてより考えていた策を述べることにした。


 「公方様を屈服させるは、時期尚早にございます」

 「ほう」


 窺うような、値踏みするような『ほう』だった。話を続けろと視線に言われ、ゆっくりと息を吸う。


 「今織田家は朝倉と阿波三好家を敵に回しております。更に、父上のお考えになる天下に絶対に邪魔となる者どももおります」

 「寺社だな」

 「はい。彼らが父上に従うのならば、今後すべての寺は織田家から禄を食み生活するようになるでしょう。それならば良いのです。しかし必ずそれを良しとしない者が現れます。日ノ本のうちに、寺が一つもない国など存在致しませぬ。彼らを敵に回すという事は、領民と戦わねばならぬという事」

 「だが、従わぬというのであれば戦いは避けられぬ」

 「となれば、織田家は朝倉、三好、或いは若狭武田や甲斐武田と戦いながら僧兵達とも戦うことになります。そこに公方様まで加わって、織田家は戦線を維持出来ましょうか?」


 父が腕を組んだ。考えている。必ずしも負けるとは思っていないようだが、簡単に勝てると楽観視するほど父は気楽な性格をしていない。

 今の質問は母にもした。母は勝てるとしても十年以上かかると答えた。一つ間違えば負けるとも言った。


 「公方様は今も諸大名に多く手紙を書いております。余りにも御内書を書きすぎ、家臣にまで送るせいで御内書の価値が下がってしまう程です」

 「余り濫発しないよう言ってはおるのだがな」

 「公方様は止めません。それが公方様の存在理由ですから。天下の調停者たるを目指す公方様から手紙を奪うなど、鳥から羽をもぐようなもの」

 「であるならばどうする。今の話だとどの道俺と公方がぶつかるのは目に見えているではないか」

 「ぶつかるなとは言いませぬ。その日を、一日でも遅らせます。公方様が味方であるうちに朝倉や三好を討伐し、寺社を屈服させ、武田を攻めるのです。父上と公方様の目指す場所が違うのだと公方様がお気付きになる日には、最早すべてが手遅れという状況にしてしまうのです」

 「言わんとすることは分かるが、具体的には何をする? 俺は公方に名は譲っても実を譲るつもりはないぞ」

 「名を譲っていいのでしたら、改元をさせて差し上げれば宜しい」


 俺が言うと、父が嫌そうな顔をした。公方様は、征夷大将軍職に就く前から永禄の元号を元亀に改めたいと言っていた。父は反対している。それをされると将軍の権威が高まり過ぎてしまう。それを警戒しているのだ。


 「反対したところであの公方様は朝廷に働きかけますぞ、織田家が四方の敵と戦い京を空けている間に永禄が終っていた。などという結果になるよりは後押しして信用を得ていたほうが得策」

 返事はなかった。先の、茶筅を人質に出すという話の時と同じだ。そうかもしれないと思いながらも、気が乗らない時の表情。


 「殿中御掟も同時に突きつけましょう」


 畳みかけるように続けた。殿中御掟とは、その名の通り、殿中、即ち公方様に守って頂く掟だ。将軍の権力を削ぎたい父が村井の親父殿などに作らせている。内容は、『訴訟は織田家の家臣の手を経ずに幕府・朝廷に挙げてはならない』であるとか、『門跡や僧侶、比叡山延暦寺の僧兵、医師、陰陽師を殿中に入れるな』であるとか、何かと父に都合がよく公方様にとっては煙たい内容となっている。だが、御内書の濫発などで、却って自らの権威を下げつつある公方様だ。道理にかなった掟があった方が将軍としての権威は増すという言い訳は立つ。改元を後押しするという話と共に伝えるのであれば織田家に不信感を抱かせずに公方様の動きを抑えることも出来よう。公方様が掟を無視したとしても、御掟により殿中に織田家肝いりの人間が多く入るだけでかなり違う。


 「……もし、貴様が言う方法が上手くいった場合」

 「はい」

 「その後公方はどうなる?」

 「変わらず征夷大将軍です。織田家という絶対上位者の存在の庇護下でありますが、日ノ本において起こる争いの調停者として扱えば宜しいのです」


 征夷大将軍という地位は変わらず、その地位が持つ権限や勢力を大幅に削る。征夷大将軍よりも、斉天大聖の家臣である小一郎殿の方が力を持っている。そんな状況にしてしまいたい。


 「俺はな、義昭という人間は嫌いではないが、あれは人の風下には立てん人間だ。どこかで叩くしかないと思っている。改元を認めるなどもってのほか、殿中御掟も、一度認めさせたならば二度三度と更に厳しいやり方で締め付けるつもりである」


 断定的な口調だった。そうですか、と答え、ふうと溜息を吐く。多くの知恵者から話を聞き、自分なりに考えた方策であったが、父には容れられなかった。無念だが、仕方がない。失礼いたしましたと、平伏した。


 「が、貴様がそれをどのように成し遂げるかに興味がある」

 平伏した肩を上から掴まれた。そのまま顔だけを上げる。楽しげに笑う父の顔があった。


「これより、対公方の責任者は貴様だ。上手くいかなければ古渡城取り上げくらいの覚悟はしておけ」

 「父上の足を引っ張る結果になりましたなら、この手で腹掻っ捌いてお詫びいたします」


 父の言葉に、俺が返すと、生意気を言いおって、と頭を叩かれた。叩いた父はそれからケッケッケッケ、と怪鳥の如き高笑いを響かせてから、直子、と叫んだ。



後年振り返ると、俺が一端に武将としての覚悟を身に纏ったのはこの時であったと思う。

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― 新着の感想 ―
[一言] お手紙公方は本っっっっ当にめんどくさい‼️
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