第三話・嗤う女狐
「力を削ぐのに、良い機会だと考えたのでしょうね」
「力を削ぐ? 味方である林殿の力をどうして?」
それから一月程後の事、古渡城に戻った俺は私室にて母と話をしていた。
「確かに林様は織田家の筆頭家老でお味方です。けれど、林様が持つ領地やそこに住む人々、税などは殿ではなく、林様のお力です。そういった家臣が持つ力を、殿は削ぎたかったのです」
清洲城において織田、松平の同盟が結ばれた後、父は正式に美濃攻めに着手し、それを家臣一同に知らしめるのと同時に、筆頭家老林秀貞に対し強制的な隠居と、領地の没収を命じた。表向きの理由は父が家督を継いだ際に敵対したこと。これによって林家は織田家筆頭家老の座を失い、力を失った。没収した領地は父が弟達、俺からすれば叔父達に分けた。言わば織田家の直轄領が増えたという事らしい。
「殿はご自分に逆らわない忠実な手駒を欲しているのですよ。例えば我が塙家のように」
母が笑いながら言い、俺が頷く。
母が塙家の出身で、その当主塙直政が父の馬廻であることは既に述べた。ではその塙家が代々織田家においてどのような家柄、格式であるのかというと、胸を張って言えるような家柄も格式も全くないというのが答えである。
父信長の女となった母直子は俺を身ごもった際、腕っ節の強い我が家の男どもを雇ってくれと父に押し付けた。同時に、塙家の男達に対しては織田信長の立場が危うい今のうちに味方しておけば家が栄えると言って説得し、実兄直政を父に出仕させた。腕っ節は強いが勉強はからっきしであった叔父直政に対しては付きっきりで文字と計算を教え、足軽から一足飛びに馬廻まで出世させ、塙一族を織田信長にとって使い勝手の良い手駒とすることに成功した。つまり、塙一族が織田信長のもとに送り込んだ手札が直子なのではなく、塙一族を出世させた立役者こそが直子なのである。故に、代々の筆頭家老であった林家のように、強い発言権もなければ独立心も強くない。織田家生え抜きではなく、織田信長生え抜きの、一蓮托生ともいえる家臣団。その一角を担う塙家に現在進行形でなりつつあるのだ。但し、織田信長生え抜きという事は即ち母直子にとって『実家という後ろ盾がない』という事に他ならない。そしてそれこそが、俺が庶子であり後継にはなれない理由だ。
織田信長の正室帰蝶様は濃姫様と呼ばれることもある。これは美濃のお姫様という意味であり、事実として彼女は美濃斎藤家の先代、斎藤道三の娘である。彼女が織田信長の妻であるという事実は、そのまま織田信長が美濃を支配する大義名分ともなる。既に斎藤道三という人物はこの世に存在していないが、亡き道三の存在と美濃における大義名分こそが帰蝶様にとって巨大な後ろ盾であり、これがある以上正室の座は動かない。
次いで、織田信長の事実上の正室吉乃様について。彼女の生家は生駒家と言い、名門の商家だ。尾張は勿論のこと、東の三河や北の美濃、更にその北に進み飛騨までを股に掛ける武器商人で、その情報網は父にとって極めて重要であるらしい。経済面でも織田家になくてはならず、決して疎かに出来る相手ではない。
帰蝶様には残念ながら子がないが、しかし吉乃様が産んだ奇妙丸を養子にすることで名目上の正室と実質上の正室が争うことなく家中の秩序を保っている。
翻って我が母直子の実家はどうなのかと言えば、後ろ盾どころか妹とその子に縋って出世を目論んでいるという状況だ。帰蝶様を立てなければ美濃制圧の大義名分が無くなり、吉乃様を立てなければ美濃方面において重要な情報源、そして収入源が無くなる。だが直子を立てずとも織田家は何ら困らず、むしろ困るのは塙家の方。力関係ははっきりしている。だからこそ父としては使いやすい手駒となり得る。
「たかが平仮名の扱い一つで大事になってしまったと思ったけれど、結果だけ見れば大団円でしたね」
「結果だけ見ないで下さい。こちらは寿命が縮む思いだったのですから」
気軽な口調で言う母に、俺が咎めるようなことを言うと、母は却って面白がり、ホホホと声を出して笑った。
「ちゃんと過程も楽しみましたよ。普段は女手と言って小馬鹿にしている平仮名がどう定められようと林家には何ら関係なかったというのに、うっかり手を出してしまったせいで大火傷し、筆頭家老の席から転がり落ちてゆく様子は面白い見世物でした」
良く頑張りましたねと、頭を撫でられた。よしよしとされるその手を跳ね除けると余計によしよしされてしまうのを分かっているので特に抵抗はしない。
「それよりも、良かったのですか?」
「何がです?」
楽し気に笑っている母に声をかけると、小首を傾げて聞き返された。
「帯刀仮名の事です。正しくは直子仮名でありましょう。あれは」
俺が言うと、母はああと頷き、それからこともなげに良いのですよと答えた。
変体仮名というものに俺以上に憤りを覚えていたのは母だった。何しろ俺と違ってほぼ独学で文字を覚えたのだから。そもそも変体仮名というものを俺に教えてくれたのも母であるし、五十音表も母が考えた。最初に平仮名の数を減らしたいと言ったのは俺だけれど、それからどうやって減らせば最も効率が良いかについては母の助言を大いに借りた。母はまるで答えを知っているかのように、俺の質問に対して当意即妙な答えをくれたし、恐らく俺がいなくとも帯刀仮名は完成していただろう。
「この時代において、女がどれだけ声をあげようが天下には届きません。帯刀仮名として五十音表が日ノ本に広まった。それだけで、この国にとっては滅茶苦茶ラッキーだったでしょう」
「滅茶苦茶ラッキー?」
「失礼、大変な僥倖だったでしょう」
父をして、不可思議で掴み所のない、狐のような女と評される人物なだけあって、塙直子という女性は我が母ながら何を考えているのかよく分からない。幼少期から狂ったように本を読み、かと思えば行動的に外へ繰り出し、織田家の嫡男とねんごろな関係になり、家族を売り込み、自らが産んだ子供にそれらの話を語って聞かせ、かと言って俺に織田家の家督を奪い取れなどと言ったことは無いし、そんなことを考えている風にも見えない。帰蝶様や吉乃様とも、普通であれば反目しあって当然であるのに何故だか妙に仲が良く、定期的に文のやり取りをしている。時折現れるよく分からない連中と仲良くしては小遣いをあげたりもしている。長男なのに家を継げない俺が今までそれを深く気にせずに過ごしてこられたのも、この母がいたからこそな気がする。
「織田の直轄領が増えました。可愛い我が子の名声が高まりました。筆頭家老家が落ちぶれて、塙家は家中での立場を一つ上げました。此度の事はそのような出来事ですよ」
「ですから、そんな風に結果だけで言い切らないで下さい」
「良いではないですか。次は何をするのです?」
「母上、面白がっていませんか?」
「勿論面白がっておりますよ。私の可愛い息子は、いつだって私を面白がらせてくれます」
はあ、とため息を吐いて首を横に振った。母はその様子も楽しかったのかまた笑い、両腕で俺の頭をギュッと抱きしめた。暫くして満足したのか俺の頭を放し、俺の横顔をジッと覗き込む。
「別に、特段したいことはありません。一年以上かけてようやく平仮名が纏まりましたのでね、今度は漢字でも纏めようかと思います。漢字は余りにも数が多すぎますので、出来れば五百から千程度に纏めて一覧表でも作成します」
「片仮名は良いのですか?」
「坊主共は怖いのでなるべく関りになりたくないのですよ」
「あら、私の息子にも怖いものがあったのですね」
「当たり前でしょう。私を何だと思っているのですか?」
「さて、何だと思われているのかはこれからわかることですが、殿を前にしてどうでもよい、などと言ったそうではないですか」
「それは、少々頭に血が昇って」
「筆頭家老、次席家老、重臣の方々を前にして一歩も引かず、土下座を強要させたのでしょう?」
「それも、最早引くに引けなかっただけで」
思い出して狼狽える俺の様子を見て、母は更に楽しげに笑った。
このようにして、清洲同盟と呼ばれる同盟が結ばれた永禄五年正月が終り、父織田信長は宣言通り居城を清洲城から小牧山へと北上させる準備に取り掛かった。そして翌永禄六年には予定通り小牧山に新しい居城を築城し、引っ越しを終え、美濃制圧に向けて本格的に動き出すこととなる。そして、永禄六年もいよいよ終わりが近づいてきた九月に時間は流れる。