第二十九話・失われなかった場所(地図有)
「すっかりと馳走になってしまい誠に忝い」
それから十日ほど、俺達は十分に観光を楽しんでから大坂城寺内町を後にした。
「いえいえ、こちらもおもろいお話聞かせて貰いました。またどこぞでお会いしましょう」
了悟殿が俺達に頭を下げ、俺達も了悟殿に頭を下げる。宗巴殿と茶々麿様は手習いがあるとのことでいなかった。ここ十日間、この三人はそれぞれがそれぞれに忙しく毎日のように食事を共にとは出来なかった。だが暫く城内を見聞したいと伝えたところ、了悟殿が離れの寝床であればいつでも使ってくれ。朝食は出す。夕食も言ってくれれば用意しよう。などと破格の申し出をしてくれた。
十日間も過ごすうち、俺達三人は石山本願寺とは何であるのかについて、一応の知見を得ることが出来た。大坂城寺内町は本殿たる石山御坊を中心に形成されており、なだらかな台地の上に乗っかるような形で存在している。この坂を指して小坂と呼び、それが大坂と呼ばれるようになったそうだ。浄土真宗本願寺派の本山であるというのに、創建は天文二年と、まだ四十年の歴史にもなっていない。それ以前には山科本願寺という本山があったそうだ。こちらに移転してきた理由を聞いて、俺はなぜここが大坂城や本願寺城などと呼ばれるのかに得心がいった。
石山本願寺の前身たる坊舎即ち大坂御堂建設が着工されたのはこの地が本山となる更に四十年程前、明応五年九月のこと。これを中心に建設された寺内町が大坂の源流となったそうだ。坊舎の建設を手掛けたのは本願寺中興の祖とも呼ばれ、坊舎作りの上手としても知られる、浄土真宗本願寺派第八世法主、蓮如上人。建築費用は当時の堺町衆、摂津、河内、和泉、北陸の門徒衆からの寄付金によって賄われた。翌年の十一月には四方を川に囲まれた小高い台地の上に石垣の扉御門が出来、要害の寺院が完成した。ただ、この時点ではまだ淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点であること、また住吉・堺・和泉・紀伊と京都や山陽方面をつなぐ陸上交通の要地であることが最重要視されていた。商業地、言ってみれば門前町に近い性格の町であったらしい。
石山御坊のみならず、本願寺にとって転機となったのは明応の政変以降の畿内での争いである。当時、幕府管領細川政元から強く参戦を求められていた蓮如の後継者実如上人は永正三年に摂津、河内の門徒衆の反対を押し切り、本願寺として初めて幕府内の争いに参戦した。それまでの本願寺は僧兵を多数抱え強訴し、徳政を求め、政に介入するという行為には加担しない、穏健派の宗派であったそうだ。戒律の緩さや教えの柔軟さから鑑みて、確かに本来浄土真宗とは強硬派足り得る教えではないように思える。
だが、長引く畿内の混乱のさ中に門徒を増やしていった浄土真宗はその勢力を恐れられることとなる。そして、時の管領細川晴元と、晴元からの要請に応じた法華一揆衆や近江守護六角定頼によって、天文元年八月二十三日に四万の兵で包囲された山科本願寺は、寺内町共々焼き討ちに遭って焼失してしまう。
本山を焼かれた本願寺は翌天文二年、前本願寺法主である証如上人が寺基を移し、山科本願寺から祖像を鎮座させるに至り、本願寺の本山は山科から石山へと移り変わった。そして新本山たる石山本願寺は成立と共に細川晴元との戦いを余儀なくされる。さらにそこには後の天下人三好長慶も加わり、石山本願寺の歴史は足掛け四年にもわたる戦争から始まることとなった。
本山の焼き討ち、管領、天下人との戦い、これらの成立理由が石山を単なる寺としておくことを許さなかった。抗争の中で石山本願寺は寺領を拡大し、城郭の技術者を集め、周囲に堀や土塁を築き、塀、柵をめぐらし寺内町として防備を固めていった。そうして、はじめより最後の砦たることを強いられながら広がり、強くなっていった石山本願寺を、いつしか人々は大坂城と呼ぶことになる。
「良き町でありました」
本心からそう言った。戦いが無ければこの町は物も豊かで人の往来も多い平和な町でしかない。尾張も美濃も、大いに学ぶべきところこれあり、だ。
「御三方の旅に、御仏の加護があらんことをお祈りしておりますよ」
最後にそう言われ、俺達は東へと向かった。次に向かう大和国東大寺金堂はほぼ真っすぐ東に八里(約32キロ)程で、途中生駒山を突っ切る必要がある。それを避けて北へ出るか南へ出るか考え、なるべくなら大和国を多く見て回ろうと結論付け、南回りの、二上山と信貴山の山間を通る道を選んだ。
「どうであった?」
街道を歩き始めてすぐ、慶さんから聞かれた。紀伊を船で移動した際宜しく、お前の知見を聞かせろという事だろう。
「下間頼廉、聞こえてくる世評に違わない人格者だと思えた。戦が上手いかどうかは分からないけれど、人を集めることは出来る御仁だ」
了悟殿、本名下間頼廉、十一代本願寺法主顕如に仕える腹心の一人だ。確か、下間氏そのものが元々源氏を名乗っていた筈。その中でも名高く、僧位も法橋上人位を賜っていることをこの十日間で知った。子の宗巴殿の名は下間頼亮。
「茶々麿様も賢く元気が良かった。多少気が強い様子があったけれど、信者としてはあれくらい弁が立ち、明るい人柄の方がありがたみも増すだろうと思う」
茶々麿は幼名で、まだ得度には至っていないようだが、恐らく如の字を賜るのだろう。十一代法主顕如上人は現在の本願寺の繁栄を築いた御仁だ。京の都が荒廃し、管領細川家が三好家に取って代わられるという荒々しい時勢の中、本山を焼かれることなく信者を守り続けてもいる。
「下間頼廉殿は俺達の正体に薄々気が付いていたような気がするし、その上で我々と事を構えるのは得策ではないぞと暗に示していたような気がするよ」
金も払わずに泊めて頂いている客人であるのだからあれを食いたいこれを食いたいなどと我儘は言わなかったが、折に触れて何か食べたいものはありますかと聞かれた。この辺りでは小麦粉を使った料理は出されないのですかと聞いたらその日のうちにうどんが出され、甘味として饅頭が出て来た。菅原孝標の女の話が出て来たので浜松中納言物語は、などと話をしていたらいつの間にか本が用意されていた。一事が万事そのような有様で、この地にいる限り手に入らないものはないのだと言われているようだった。
「金は置いて来てくれたよね」
「勿論、一貫文、紐ごと門前にぶら下げておいた」
そんな下間頼廉殿に借りを作っておくことが些か恐ろしく思えたので、俺は帰り際慶さんに頼んで十日分の宿賃を支払っておいてくれと言っておいた。一貫文であれば十分過ぎるだろう。尾張で焼いた永楽銭が畿内で通用してくれれば俺も嬉しい。
「織田家が勝てると思うか? 三河殿は勝ったようだが」
慶さんの質問に、俺は首を傾げる。そう簡単に負けるとは思わないけれど、しかし。
「徳川家が戦った三河一向一揆よりも、畿内の浄土真宗は統率が取れているから、徳川が勝ったからと言って織田が勝てるとは限らないよ。野戦で一気に殲滅するのなら、決戦にて終わらせることが出来るかもしれないけれど、石山本願寺が大坂に籠らず降伏することなどあり得ない」
今のところこの旅では各地で宗教勢力の強さを知らしめられている。
「母御は、直子殿はなぜ、石山本願寺を見てこいと言ったのだと思う?」
助さんの質問、何となくわかる気がするし、ちっともわからないような気もする。
「大坂本願寺は浄土真宗、奈良東大寺は華厳宗、京都本能寺は法華宗、統一性があるようで実はない。どこかが敵で、どこかが味方となる、それを見極めてくるように言われているのだと、今は思う。今はね」
また後で違う感想を抱くかもしれない。結局分からなくなるかもしれない。
「ともあれ、今の大坂城寺内町は畿内でも有数の町であるから、単に観光地としても見どころは多かった。楽しむことが出来たのだからそれだけでもよかったと思うよ」
「成程、では、これから行く東大寺金堂の見どころは一体何かな?」
「そりゃあ何と言っても東大寺金堂そのもの、即ち大仏殿と、その本尊盧舎那仏坐像だよ。何はともあれでっかいんだそうだ」
でっかいからと言って何? などとたわけたことを母は言うが、全く女というものは何も分かっていない。でっかいことはそれだけで魅力の塊であるというのに。それでいて、食べ物を見て可愛い。などと言いだすのだ。可愛いからと言って何? と俺が言うと母は男は何も分かっていない、などと言ってくる。永遠に分かり合える日は来るまい。ただ、そんな母が東大寺金堂について気になることを言っていた。
「失われなかった地を見ておくことは悪いことではない。見て、どのようなものであったかを教えて欲しい、と言われているんだ」
まるで本当ならば失われる筈であったものについて語るような口調で母は言っていた。
早朝に大坂を出た俺達三人は、急ぐこともなくのんびりと歩きながら東へと進んだ。途中土産として買っておいた握り飯と干し魚を食い、竹の水筒で水を飲み、信貴山の南を回り、北上した辺りの村で一泊した。翌朝は北東へ進路を取り、かの有名な斑鳩寺などを通りつつ正午過ぎにはもう東大寺まで一里と少々、右手に宝来山古墳、更にその奥には唐招提寺が見える辺りにまで到達した。そこで突然、道の端にて跪く一人の男を見つけた。
「知り合いか?」
慶さんの言葉に首を横に振った。その男は明らかに俺達を、むしろ俺を見ながら跪いている。それでいて視線は俺の方を向いていて大きな目玉がこちらを見ている。青白く、失礼な言い方になるが少々気味が悪い、というか縁起が悪そうな顔をしている男だった。
「織田上総介様がご長男帯刀様にあらせられますな」
その男は、戦う意思はないと示すかのように刀を前に置き、手を地面に付けてひれ伏し、しかしながらやはり顔だけはあげてそう言った。
「いかにも。そこもとは松永弾正少弼様の家臣か?」
「本多弥八郎正信と申しまする」
俺の言葉に頷いてから、名前だけを述べたその男は、主の命令で、俺が来る時にはなるべく早く身柄を確保し、そしてなるべく早く連れて来るようにと言われていると説明をした。
「何故、拙者が大和へ来ると御存じであったのか? 母上か?」
「左様にございまする」
「ではなぜこの道を通るとわかった。そこまで母の報せに書いてあったのか?」
「いえ、某が愚考致すに、この道を通る可能性が最も高かろうとこうしてお待ちしておった次第です」
「拙者がこの道を通る公算高しと見た論拠は?」
「尾張より大和へ来る道は陸路近江より京へ出で南へと下るか、海路より紀伊半島を回り、大坂から東に向かうか、いずれかにございまする」
「津へ出てそのまま西へとはあり得ぬのか?」
「あり得ませぬ。伊賀は険しい山道であるだけでなく、六角の力が今もって強く、織田家にとっては敵地も同然」
頷いた。説明を続けよと促す。
「前回の御上洛の折、帯刀様は父君と共に京に在駐し、京洛でしばらく過ごしていたと聞き及んでおりまする。此度、京か大坂どちらかにて宿をとったというのであれば、京には既に見る物少なく一泊か二泊で大和へと移動なされたはずにございます。それが今日まで姿が見られなかったという事は、見るべき名所が多く、日を費やす大坂にて滞在なされたということ」
「成程、見事な知見だ」
父も多くの優秀な人材を抱えているし、本願寺にも名うての坊官が多くいる。松永殿も又、中々の知恵者を抱えているようだ。
「今、馬を走らせまする。主弾正少弼は上総介様とも良き知遇を得、母直子様にも借りがあると仰せでございました。故に東大寺の案内はご自身で行うとの事にございまする」
「借りがある?」
母に対して、松永殿が? 一体何を? というより、母があんな大物に何を貸せるというのか。
俺が疑問に思って問うと、お話は弾正少弼よりと言った本多正信がスックと立ち上がり、そのまま俺達を先導した。歩き始めてすぐにわかったのだけれど、足を痛めているのか歩き方が少々おかしい。
「その足は、矢傷かな?」
「左様にございます。桶狭間の戦いの際に丸根砦を攻める三河守様に従い、その合戦において右足に矢を受けました。以来このように足を引きずっておりまする」
「桶狭間と言ったか? 元は三河の出であるのか?」
驚いて聞き返すと、左様にございますと繰り返された。
「某浄土真宗の門徒にて、三河一向一揆に将として参加致しました」
「負けて、逃げたという事か」
「左様にございます。以来、三河を出奔し諸国を回り、ここで弾正少弼様に拾って頂き今に至りまする」
「そうか、それは口惜しいであろうな」
「いえ、感謝しております。三河守様は門徒を撫で斬りにすることも出来ましたが、我らを追放するのみで許して下さいました。寺も、当初は残す約束であったそうです。結局、反抗的な門徒がいなくならず焼き打たれてしまいましたが」
そうやって話す時にだけ、本多正信の言葉に少し熱が入った。感謝しているという言葉は本当なのだろう。
「成程、拾った命を有効に使っておるのだな。三河守殿は人徳のある御仁と聞き及んでおる。もしいつか三河守殿にお会いできた時にはお主のことをお伝えしておこう」
先導していた本多正信が立ち止まり、不意にこちらを見た。
「それは、誠に忝い事にて、御礼申し上げまする」
礼を言われているはずであるのにむしろ怒られていると錯覚してしまうような本多正信の言いぶりだった。自覚はないのだろうがやはりどこか不気味で、縁起が悪い風貌だ。少々困惑しつつうむと答える。
そこで会話が途切れ、本多正信が俺達を淡々と先導するだけの時間が続いた。三人で歩いていた時には会話をしていたのに、なぜか本多正信が増えてからは会話も途切れてしまった。
「あれに見えるが、東大寺か?」
「いえ、あれは南都六宗の一つ、法相宗の大本山興福寺にございます」
やがて見えてきた寺を指し聞くと、そう答えが返って来た。西から東へと向かう俺達から見ると、左前方に見えてくるのが東大寺なのだそうだ。興福寺はこのまま真っすぐに進めば右手に見ながら前を通ることとなる。
「ん?」
「来られました」
その興福寺前を通過しようとした時、正面から馬が十頭ほど現れた。道の端に避け、膝を突こうとしたところ、それより先に本多正信が馬に乗った集団に向かって頭を下げた。
「織田、帯刀様にございまする」
先頭の馬に乗っている老人に対して頭を下げた本多正信がそれだけを言った。老人は、老人らしからぬ身のこなしで馬を降り、そして俺を見て、見て、見た。上から下まで、舐め回すように、吟味するように。
「比ぶるに、覇気は父、されど容姿は息子」
老人、松永弾正少弼殿は一言目にそのような言葉を呟き、そして頷いた。髪も髯も白く、立派な口ひげはその口元を完全に隠している。
「織田家家臣、帯刀信正にございまする」
村井家から織田信広の婿養子になった身としては、俺が長男ですと言うのも憚られたのでそのように自己紹介した。
「……察するに、家中の混乱を避けるための配慮」
俺の挨拶に、そう答えた弾正少弼殿が頷き、そうしてから口ひげを大きく歪ませた。笑っているのだと分かるまでに少々時間を要した。




