第二十五話・名も聞かず 月と言祝ぐ 座談会
静かな夜だった。
日が沈む前に、お師匠様や助右ヱ門殿は事の次第を利久様にお伝えすると言って古渡城を出て行った。最近の尾張は治安が良いが、それにしても日暮れ前に出かけるのは危険ではないかと普通ならば思わないではない。しかしながら、昨日は良い月が出ていた。加えて、この二人を襲う野盗がいれば運が悪いのは二人ではなく野盗の方だ、と思い直して二人を送り出した。行動が早い二人であるので、既に利久殿に話が伝わっているかもしれない。元々母が動いていたようであるし、近日中に利久殿を慕う前田家の者達が古渡城にやって来るだろう。
俺は、万が一にも又左殿との仲がこじれてしまう事のないよう手紙をしたためた。そして、手紙をしたためて後、興が乗ってしまい『ゲン爺』の続きを書くことにした。これ以上叔母上方に怒られるのも業腹なのだ。
「……来たか」
丁度区切りよく小話を一つ書き終えた頃に、外から人の気配が近づいてきた。
「失礼いたします」
「入ってくれ」
言うと、襖を開けて女性が一人入って来た。犬姉さんから送られてきた女中だ。
「お呼びでございますか?」
「うん、これへ」
俺が促すと、彼女は音もなく近づいてきて、板敷きの上に座った。
「そこでは足が痛い。こちらへ」
その横に、俺が作らせた座布団が置かれている。以前話に出たトキの羽を使い羽毛布団としたものは意外と座布団には向いていなかった。柔らか過ぎて沈んでしまうのだ。麻やそば殻など、中身を創意工夫した結果座るのに最も良かろうという固さを生み出すことが出来た自慢の一品となっている。
「失礼致します」
感情が表に出ない表情のまま、彼女が座布団の上に座る。背はやや高く、やせ型。無機質にも感じられる程に怜悧な色の白さをしている。七難隠すと言われる白い肌であるが、三食を食べ、外で遊び、夜は全てを忘れてぐっすり眠ることを推奨されている我が古渡城織田家の人間からすると、健康であるかどうかが少々疑わしく思えてしまう。
「書かれていた本を、全て読ませて頂いた」
言うと、彼女の大きな黒目が束の間揺れた。動揺しているのか、緊張しているのか、恐らく両方だろう。居住まいを正し、ただでさえ伸びていた背を更にピンと伸ばした。
「どれについてから語るべきかな」
文机から、渡された書物を全て取り出して並べる。まず最初に、見事な染物が施された藤色の書物を三冊。内容は全て詩だ。
「連歌に和歌、短歌、これらは、犬姉さんだけの手ではないね。皆で書いたのかな?」
「はい。犬姫様や直子様からご教示頂き、皆で思い思いの作品を纏め、良きかなと思われたものはそのように」
三冊の書は全て恋愛について詠まれていた。一冊は確かな技法が施された、言わば秀作、もう一冊はまだまだ技術は拙いが、懸命に想いが詰め込まれた力作、最後の一冊は失敗作に恐らくそれらの作品を添削した者の添え書きが書かれている、指南書とも呼べるもの。
「俺は、女性や公家衆のように、心の機微をたおやかに捉えるような繊細さは持ち合わせていないけれど、この三冊は興味深く読ませてもらった。特に指南書は良い。不格好な作品を、駄作だと切り捨てるのではなく拾いあげている。このような面白い試みをするのは母上であろうけれど、添削者、指導者達は皆、勅撰非勅撰に関わらず多くの歌を読んできたのだろう。一条の帝を気取るつもりはないし、勿論嫌味で言う訳ではないが、『誠に才あるべし』と思わずにはいられない」
「お言葉、犬姫様も直子様も喜ばれることと存じまする」
僅かに頭を下げ、目を伏せる女性。たおやかな所作であったが、どことなく俺から何かを隠しているかのような印象を受けた。
「もう一人いる筈だ」
伏せた顔が上がるのを待って伝えた。これらの作品の添削に携わっているのは三名。一人はここが良い。この心情が美しいと、ともあれ作品を楽しんでいる風が伺える。間違いなく母だろう。もう一人は、ここにおいてなぜこの一語を使ったのか、今何を言いたいのかをよく考えよと、厳しく突き放すような、それでいて分かり易い解説を加えている。性格的に犬姉さんだ。最後の一人に、このような技法がある、このような表現方法がある、新古今和歌集においてはこういった手法で、と、技術特化で指導をしている者がいる。
「その者は誰かな?」
「わ、私でございます」
初めて、彼女の声が揺れた。
「母上と犬姉さんと、二人の指導が極端なものになり過ぎないよう、周りの様子を伺いながら筆を執っていたのだろう。息子として、甥として忝く思う」
「過褒なるお言葉にございます」
揺れた声は、すぐに何事もなかったかのように戻ってしまった。取り澄ましたような真顔、能面のような、というとまるで何かを隠しているかのようであるが、そうではなくまるで初めから何も感じていないかのような取り澄まし方だ。
「こちらも面白い。上の句のみの作品が並べられている。僅か十七字、これで一体何が表現出来るというのかと思わないでもなかったが、読んでみると成程短いからこその表現というものも散見されている」
別の一冊を取り出し、パラパラと捲った。筆跡の違う歌が一頁につき一首、その横に細々と、作者が何を考えて詠んだのかが解説されている。
「直子様が、慣れぬものにとって三十一字は多すぎる。思い切って下の句を排し、詩を広く一般の庶民に身近なものとしたいと。俳句、と仰っておりました」
「成程、下の句を排した句、俳句か、実に母上らしい」
くつくつと、一人で笑った。本当はへらへら笑いたいけれど、この人がいる前であるし少し格好付けた。
「横の解説は蛇足のような気もするけれど」
「まずは慣れ親しまれることが大事、ゆえに噛んで含めるように理解を求めることが肝要と」
「母上が?」
「はい」
頷いた。ふと、外を見た。今宵は満月、明日は十六夜だ。普段ならば寝ている時間だけれど、これだけ外が明るいと外が静かな分、昼間より読書や著書が捗ってしまう。
「あとは、これは、犬姉さんが書かれた随筆かな? 枕草子を読めば清少納言がたいそう物事をはっきりという活発な、気の強い女性であったことは瞭然であるけれど、犬姉さんも負けず劣らずの女傑であるからなあ」
昔母に随筆とは何でしょうと聞いたことがあった。その時母は『ブログみたいな』と言いかけて、日々の徒然に想いたることを書きつくるものなり。と言いなおした。
「清少納言が説教をするのなら坊主はイケメンでないと聞く気にならないと言ったのには笑ったけれど、犬姉さんも大概だな」
焚火よりも放火が得意だから、頭も都も焼野原だと書かれている。同感だけれど、熱田神社で出版して良いものではあるまい。
「イケメンとは何でしょう? 犬姫様も時折使われる言葉なのですが」
「ああ、母上が時折使う謎の言葉だ。意味は教わったことがないが、見目麗しい男の事を言うのだと俺は思っている」
最近では母の使う謎言葉の意味を考えるのが密かな趣味だ。観音寺城を取り囲んだ時の様子を説明した際には『フェスかよ』という言葉を何度か賜った。『勝ち戦において浮足立った将兵達が面白おかしく歌い騒ぐ様子』を、フェスというものなりけり、と、いつか書き残すことにしよう。
「それと、幾つか日記文が寄稿されているけれど、これらは余り宜しくない印象を受けた」
「どうしてです?」
「余りに人の目を意識し過ぎた文章に過ぎる。日記文というのは当時の人々がどのように生活を送り、何を考えているのかがわかるのが魅力であるのに、これでは取り澄まし過ぎていて生活の実感がない」
和泉式部日記然り、更級日記然り。当時の貴族日記というのは式典や季節の変わり目について何を執り行うものであるのか一族の子孫に伝える為書いているという側面もある。故に人の目を意識することが必ずしもおかしなことという訳ではないが、それでも彼女らとてあるいは身内が読むかもしれないもの、と思って書いているのであって初めから天下万民にあまねく読ませるべきものとは思っていなかったはずだ。それらの日記が今俺達の手元にあるという事は金に困った子らが書き写して売ったという事だろうか、だとしたらその者、ありがとう。
「かといって、本当に正直に書かれてしまうと場合によっては織田家の軍事機密が漏洩してしまいかねない。『最近東から船が多くやってくる』と書いた一言が原因で戦に影響などがあればいかに父とは言え許せるものではあるまいよ」
「では、日記文は御自重とお伝えしておきまする」
「宜しく頼んだ」
ドサドサと、読んだ書物を文机に乗せ、一冊一冊を取り上げる。そうして最後に残った、残しておいた一冊を俺が手に取った時、彼女の目が大きく見開かれた。
「これは、非常に興味深い一冊だ」
それは虫愛づる姫の後編を書いた作品であった。虫愛づる姫はお歯黒もせず眉も剃らない変わり者の姫君と、そんな姫君に興味を持った男の話だ。特筆すべきは、社会の常識にとらわれず毛虫などに執心であった姫君が右馬の佐なる男に対して恥じらいを見せ始めるところだ。こうして二人の恋愛の行く末はとなったところで物語は終了し、結末は描かれていない。
この書に書かれた後編は姫君が周囲、即ち当時の貴族社会を少しずつ受け入れてゆき、そして右馬の佐を始めとした周囲の者達からも受け入れられてゆく様子を丁寧に描いている。それまでは我が道を行く人であった姫君が恋心を知ったことによりしおらしくなる様子。しかし、そんな変わり者の姫君を愛した右馬の佐が、そのままでそなたは美しいと慰める様子が実に情緒豊かな恋愛譚だ。
「この物語は、自分を表現することが苦手でありながら、自分を理解してもらいたい。変わらなければと強く思いながら、そのままの自分の事も受け入れてもらいたい。そのような矛盾を孕んだままに進んでいる。恐らく筆者の心情もこれに近いのだろう」
彼女の唇が、キュッと引き結ばれるのが分かった。表情に感情を乗せない。そんなことがある意味癖になってしまっているのだろうが今この時においては感情を隠しきれず、緊張と期待とが胸の内を駆け巡っているのがよく分かる。
「良作と評するべきか、或いは秀作、ないしは力作とすべきか悩んだところだが、どれも正しくはあるが十分ではないと思っていたところに答えを見つけた。これは、名作だ」
前編となる原作の短さに対して後編が長くなり過ぎない為、文章は最低限に抑えられており無駄がない。何度も何度も推敲し、姫君と右馬の佐の心情に分け入り、この二人がどうあるべきかを考えたのだろう。
「優れている優れていないではなく、人の質として、俺や母や犬姉さんにはこれは書けまい。自分にない物を持っている相手には尊敬を禁じ得ないな」
言いながら、ふと気になってしまい、質問した。
「あのような美しい名文を書ける方に聞いておきたかったのだが、俺が書く『ゲン爺』なる駄文は、どのように感じられるのだろうか?」
「駄文だなどと」
そんなことを言わないで、と、咎めるような視線を向けながら、彼女は語る。
「あの物語は、美しくなく、滑稽で、優れておらず、それでいて伸びやかな、人の愛おしさを描かれた作品です。私は、あの文章を読みこのお方は人を、人間全てを愛しているのだろうと思いました。私は、そのような帯刀様だからこそ」
そこで、言葉が止まった。どうしたことかと思い覗き込むように顔を見ると。月明りの下、薄明かりの中でも分かるほどに、彼女の頬が赤らんでいた。
「そなたが、何故犬姉さんの女中として俺に会い、名を名乗らないまま俺に近づき、こうして側にいるのか、想像は付くが問い詰めはしない。俺は、妻となる人間の心や体を無理やりこじ開けるような真似はしたくないのだ」
知らずにいた方が良いことも世にはごまんとある。どうしてもわかった気になりたければ乙女心、などという便利な言葉で納得しておけば良い。
「私は、夫となる相手の重荷となるような妻ではいたくないと思い、名もなき一人の女として、そのお心に触れたいと考えました」
やがて、顔を上げた彼女が言った。まだ頬は赤い。しかし、どこか腹を決めた表情である。
「そうか、どうであった?」
「私の予想を全て超えておられました」
「ほう、どのように?」
「言葉では表しきれませぬ」
笑った。格好つけることなく、カカカカと、大声で。
「俺の母上はああいう人間でな。いや、人かどうかも疑わしい半人半妖の玉藻の前であるが、どう思う?」
「楽しいお方です。側にいれば、もっと楽しませて頂けるような」
「それについては保証する」
「当主の兄にて、かつて謀反を起こした人物が義父とあっては苦労も多いと存じます」
「そのような義父を、俺は尊敬しているよ」
言うと、彼女が笑った。花開くような、思わず視線を奪われずにはいられないような、美しい笑みだった。
「間もなく俺は古渡城を出る」
「はい」
「母は賢いが抜けているところもある。努力家だが我慢はきかない。誰かが止めねばならぬこともあるだろう」
「承りました」
「遅くとも年内にはと言われているが、場合によっては前後するかもしれぬ。雪で帰れずに春になるという事も考え得る。遅くなろうとも慌てることのないように」
「されど、早く、無事なお帰りを心待ちにしております」
頷いて、それから暫く見詰めあった。
「次会う時に、そなたの名を聞かせて貰いたい。その時まで、達者であることを命ず」
はいとは言われず、ふふふと笑われた。このまま押し倒してやろうかと思うくらいに妖艶だった。
「月が、美しいな」
「はい」




