第二十三話・狂犬夫婦と狐夫婦
「結婚おめでとうさん。これでお前も一家の主か。一門衆の、分家筆頭ってところか?」
「そんなことはないさ。まだまだ舅殿が元気であるし、俺が正式に跡を継いだとして、その頃には分家筆頭は三十郎叔父上になっている筈だ」
永禄十一年六月のはじめ、俺は佐治氏が支配する知多半島西岸の港に来ていた。
「それより信方の方が目出度い。犬姉さんが御懐妊だそうじゃないか」
「まだ分からん。これからが最も流れやすい時期だ」
俺が言うと、信方は右の頬を歪ませる独特の笑い方でニヤリとした。嬉しくないわけではなさそうだが、この男が素直に嬉しいとかありがとうとかごめんなさいとか言ったところを俺は見たことがない。
お犬姉さんが嫁いだ佐治氏は代々知多半島の大半を領した豪族で、伊勢湾の海上交通を掌握する佐治水軍を率いている。その正体は殆ど海賊に等しい。佐治水軍を敵に回すという事は即ち伊勢湾全体での海上交通を敵に回すという事だ。お犬姉さんの夫佐治信方という人物はその佐治氏の若手筆頭だ。まだ若く、俺の一つ年上である。海賊まがいの連中を率いるだけあって気性は荒々しく、喧嘩っ早い。父上から信の一字を賜ったことを誇らしく思っているようで最近ではこれ見よがしに織田信方と名乗るようになった。
「戦傷者について便宜を図ってもらえたことは忝い」
「俺達もしょっちゅう怪我人出すからな。そいつらの面倒も一緒に見てるんだ。こっちも助かったさ」
話をしながら、信方は積み荷の荷下ろしや、これからどこに持って行くやらの指示を出している。言われて、へいと答えて駆け出す連中の中には手首から先がない者、片腕が上がらないものが相当数いるのが見て分かる。織田家の決定から打診に至り、信方は父に何ら反抗することなく従った。ただ一つ、三河に荷を送ることについては人を使うよりもそのまま船で三河湾に持ってゆくほうが良いという意見は出し、受け入れられた。代わりに、という事ではないが内陸美濃からは信濃、甲斐に荷が送られることとなった。送る物の中で最も量が多いのが塩。海を持たない武田家では現在、今川・北条二家が連合して塩止めをしている。これに乗じて塩を売り、そして質の高い甲州金を輸入する。武田家が今川を飲み込み駿河を得れば最早塩を輸入する意味もなくなってしまう。大急ぎで儲けてしまえと父からのお達しだ。
「北畠の荷止めはどうなった?」
「思っていた以上に順調で張り合いがないな。木造具政が内通している。良いところで裏切らせようと殿はお考えであったようだがそれも必要なさそうだ。今頃大河内城内で実兄の説得に当たっているだろう」
木造具政は北畠家当主具教の実弟であり分家の木造家の名跡を継いだ人物だ。従四位下左近衛中将の位階も得ている。流石は南朝の名家、家を出た弟ですら俺達から見れば雲の上の人だ。
権六殿の南伊勢攻めは順調で、最早北畠家は本城の大河内城を残すのみだ。彦右衛門殿も、無理に伊賀へ進入はしていないが無難に圧力をかけ続け相手を防戦一方に押し込んでいる。大河内城の人間としては、最も近くにいる味方が援軍に来られないと分かり、士気を落とさずにはいられないだろう。大和の松永久秀殿も示威の為に出兵して下さった。東西北と、既に取り囲まれているのだ。
「茶筅は今どうしてる?」
信方から聞かれた。
「暫くは吉乃様から厳しく指導を受けているよ。徳も、嫁入り前に花嫁修業だそうだ。大変だな。実質的な正妻の御子というのも」
「お前も、童の頃から随分厳しく指導を受けていたじゃないか」
「母は面白がって俺に書を読ませていただけで、手習いという感じではなかったよ」
「当時出奔してた利家殿に槍を習ったんだろう?」
「それこそ子供の手習いという感じだったな。又左殿も、お師匠も、最近じゃあ長則や可隆殿に相手をして貰うことが多いが」
「皆槍や刀の達人だ。十分厳しい」
「船上の喧嘩は信方大師匠からだ」
「そりゃ天下一だ。大いに誇れ」
けらけらと二人で笑っているうちに、又一隻、荷を満載にした船が戻って来た。北畠家に送ろうとしていた荷を襲って奪ってきたようだ。
「ところで帯刀」
「うん?」
不意に信方の声音が変わった。不審に思いその眼を見ると、明らかにニヤニヤと笑っている。
「お前もう、女は知っているのか?」
「……一応な」
粘つくような視線を鬱陶しく感じながら答えた。意外だったのか、信方がほほう、と声をあげた。どこで、誰とだ、と余計鬱陶しくなってしまった。
「京に登った時に、ちちうえがな」
「お前にちちうえは三人いるが、どのちちうえだ?」
「全員」
弾けるように、信方が笑った。実父も養父も義父も、三人が三人とも誰にも言うなよと言って女をあてがって来た。名前も知らぬ女だったがどれも見目麗しく、肉置きも見事だった。本当かどうか知らないが、金に困った貴族の子女が大金で娘の春を売り渡すと聞いたことがある。思えばあの時には三人とも俺が間もなく嫁を取ると知っていたのだろう。床入りの時に恥をかいてはならん。生娘を安心させてやれる程でなくては、と言っていた。
「お狐様は知っておられるのか?」
「わからん。話はしていないが隠してもいない。誰かから聞いているかもしれない」
「ほう、床入り前に済ませておけ、とは言われぬのだな」
「言われるさ。可隆殿はどうだとか、森家は下の子らも皆可愛らしいとか、織田一門には美少年揃いだとかな」
またも、弾けるように信方が笑った。そりゃあさぞかし楽しいだろうさ。俺も他人事ならば大いに笑う。
「いいではないか。衆道は武家の倣いぞ」
「倣いであったとしても、初めてが男というのは嫌だ」
尤もだなと、信方がまた笑った。ふと、こいつはどうなのだろうかと疑問に思った。だが、考えるだけ無駄な気もした。敵の荷を襲うだけでなく、人を攫って売るような真似も佐治水軍ではよくあることだ。攫った女で、たまたま気に入った娘がいたらそのまま襲ってしまうだろう。
「おや、そこにおわすは当代一の天才文学者様ではございませぬか」
と、そこに女性が一人近づいてきた。いや、一人ではない。十名余りの女性を引き連れた姫君だ。
「お久しぶりです犬姫様」
「最近、執筆の方は進んでいるのかしら?」
「……犬姫様におかれましては、御懐妊なされたとのことで祝着至極に存じ奉りまする」
「忙しい時期も終わり、冬も越したというに何故新しい話を書かぬのか、わらわには理解が出来ませぬ」
「お体に障りがあってはいけませぬので、余り立ち話も宜しくないのではと愚行致す次第で」
「聞きなさい!」
ぐにっと、頬を摘ままれた。だって話す内容が市姉さんと同じなんだもの。痛い。
「誰ぞ床几をもて」
元気に甥を虐める犬姉さんを見て、信方が近くにいた女中に命じた。女中達はすぐに折りたたまれた床几を開き、背もたれや足置きを用意し毛皮を敷いた。ゆっくりと床几に腰かける犬姉さん。その犬姉さんに対し頭を下げ、俺は港の様子を見に行くため回れ右をした。
「……………………………………」
「……………………………………」
女中の一人が回り込み、手を広げていた。女性にしては背が高く、大きな黒目でジッとこちらを見詰めている。どこか無機質な、感情が見られない風貌をした女性だ。
「どうしました? 早くこちらにお座りなさい」
振り返ると、そこには床几がもう一つこしらえられていた。無表情な女中が広げていた両手を前に出し、座るようにと促す。
「私は家中の者より『帯刀様には、作品を早く書き上げて頂きたい』との言葉を預かってもいるのです」
「佐治家でもですか、最近では古佐殿や又助殿からも同じことを言われているのですが」
「人気者は辛いな」
信方が笑い、俺が首をすくめると、犬姉さんがちょっと唇を尖らせて睨んできた。
「全く、直子さんは着々と話を進めているというのに、帯刀ときたら」
「母が何かしたのですか?」
「連載していた作品をこのほど書き終え、続けて新しく南北朝時代を舞台とした物語を書き始めたのですよ。その名も、『南朝悲恋』」
南朝。後醍醐の帝が主人公だろうか。あの時代は、南北朝時代と呼ばれるが実際には北朝が二つの勢力に分かれたことで鼎立時代でもある。そんな激動の時代の悲恋、さぞかし盛り上がる事だろう。
「主人公は北畠顕家公です」
「それは又、随分適時なることですね」
北畠顕家公からしてみれば、俺達織田家の者など押しなべて憎たらしい者どもであろうけれども。
「悲運の名将北畠顕家公が、同じく強く、そして悲運であられた楠木正成公と恋に落ち」
「ちょっと待って下さい」
話を止めた。北畠顕家公と楠木正成公が何て?
「戦いのさ中、友情以上の感情を持ち、しかしお互いに立場あるが故にその内心を打ち明けることが能わなかった二人。今はその出会いの場面まで発表したところですわ。帯刀、どうお思い?」
「鎮守府大将軍様に申し訳ございませんとしか」
まさか自らの死後二百年以上経ってこんな目に遭うとお思いではなかっただろう。
「楠木正成公とはそもそも二十幾つか年が御離れであったと記憶していますが」
「それが良いのではないですか。若く見目麗しい顕家公が百戦錬磨の正成公に」
「実家もご自身も攻められてしまうのですか、織田家に」
ますます申し訳ない。いつか墓参りが出来る日が来たならば霊前で三拝九拝しよう。
「それだけではありません。毎年夏に、諸国より自作の文書を持ち寄って売り買いする会を開こうと計画しているのですよ」
「母上がですか?」
初耳な話に、訝しみつつ聞き返した。勿論ですと言い返されてしまう。自作の文書?
「物語に限らず日記でも、注釈書でも、随筆でも、兵法書でも、唄でも絵でも、持ち寄った物を見せ合い、身分に拘らずやってきた者達に売ります。私達は参加料として一人に付き永楽銭を十枚頂戴するのです」
「それは何とも……場所はどこで行うのです?」
「直子さんは熱田神社が良いと言っておりましたよ。これこそ本当の聖地巡礼であると」
「そんな珍妙な試みに、人が集まりますか?」
「集める為に、帯刀の新作が必要であるのです。私も微力ながら今必死に何か書こうと頭を絞っております。帯刀もうかうかしてはいられませぬよ」
ぱしんと背中を叩かれた。帯刀仮名というひらがなが広まるにつれ、帯刀という名もまた広まった。名ばかりが独り歩きしていると言っても良いけれど、それでも、俺が『ゲン爺』の続きを書き、熱田神社で売るとなれば美濃尾張からは人が集まるかもしれない。父が完全に伊勢志摩の領国支配を完成させることが出来れば、伊勢志摩からも人が呼べる。三河は同盟国で、遠江も恐らくじきに徳川殿が制する。これらの国々は船で移動が出来るので、運賃を安くすることで多くの人間が気軽に集まることは出来るだろう。近江や大和、ましてや京のある山城からどれだけの人が集められるかは定かでないが。
「帯刀は、息子であるというのにお話を伺っていませんの?」
「そうですね、ちょっと、ここ五日程話をしておりませんでした」
「まあ、母子喧嘩? 宜しくなくてよ」
「それ程大袈裟な話ではないですが」
此度の、戦傷者及び戦死者の家族について母には改めてお考えを伺った。そこで、母が税を予め一部保管しておき、その保管したものを老人や戦傷者に再分配するという方策を教えて下さった。
住民はそれぞれに戸籍を作り、老人などにはかつての勘合貿易宜しく、符号を作って手渡す。数々の竹工作のお陰で我が家の女達は皆竹の扱いが上手だ。これを削って文字を彫り、半分に断ち割れば符号が完成するという寸法である。毎年刈り入れが終った頃に、その符号を持ってこさせ、それらの者には一定の米や、生活必需品を配る。年金制度の走りであると母は言っていた。
そこまでの話はとても良かった。流石は母だと改めて尊敬したものであるし、早速行おうと嘉兵衛にも伝えた。村井の親父殿にも手紙を出して相談すると、初めて聞くことであるがやってみる価値はあると言われた。問題はその後だ。
母は、結局のところ、戦とは食料が無いことでおこるものだと言った。母が読む古い日記などを照らし合わせると、今と百年前では明らかに今の方が寒く、雪の量が増えている。寒くなると多くの作物は実りが悪くなり、実りが悪くなれば食える物が減り、食えなくなった人間は食い物を求めて争う。大義や正義は数あれど、即ち食料自給を安定させることが出来れば多くの悲劇は回避出来るのだ。というのが母の言い分であった。
少々極論が過ぎるように思わなくもなかったが、しかし一定の理はあると認めた俺はそれから何か食べられるものはないかと考えた。母は食べてはいけないと言われている五畜を食べることで人が食える物を増やした。五畜の他、何か食べられるものはないかと考えているうちに、母が育てさせている蜂に気が付いた。
『母上、蜂やイナゴやバッタや蜘蛛などを常食する為の料理や調理法などを知りませんでしょうか?』と俺は聞いた。母なら知っていそうであったし、唐国では漢方薬として使われることがあると書物に書いてあったことを覚えていたからだ。しかし、それらの言葉を言うとなぜか母上から大層怒鳴られた。曰く、あんな気持ち悪いものが食えるか馬鹿! とのことだ。普通に考えろ! とも言われた。母の口から普通に考えろと言われる日が来るとは思っていなかった。
「五畜の中でも牛、馬、鶏は良くて犬と猿は嫌がりますし、虫の中でも蜂の蜜は良くて蜂の子はあり得ないそうです。猪は積極的に食いますが、トキにはどこか遠慮している風があります。全く、母が何を食って何を食わないのか、息子ながら全く分かりません。分からないのは食性だけではありませんが」
それで怒られてしまった結果、暫く話をしていない。別にいがみ合っている訳ではない。逃げられてしまった直後に俺に用事が立て込んでしまっただけだ。
「直子さんは自分が何か隠しているという事が誰にも露見していないと思っておりますからね」
「実際はあの人が普通ではないことになど、気が付いていない者がいないくらいなのですがね。父上も、いつか知りたいとは仰っておりました」
「あら、あの短気な兄上が珍しい。無理やり聞き出しはしないのかしら?」
「藪をつついて蛇を出すような真似はしないと。蛇ならともかく、龍であるかもしれませんし八岐大蛇であるかもしれませんので」
「そういうところでの引き際は、お上手ですわね、兄上は」
そうですねと答えたところで会話が途切れた。途切れたので、話を戻すことにした。
「何も考えていないわけではないのです。ただ生来気分屋なもので」
「それでは困りますよ」
「はい、犬姉さんも、市姉さんも退屈しないよう、又少々物書きを致します」
また言質を取られてしまったなと思いつつそう伝えると、犬姉さんはにっこりと笑い床几から立ち上がった。
「この者に、私が書いた物語を渡しました。後で古渡城へ送りますので、直子さんに添削して頂くようお願いしておいて下さい」
「この者ですか?」
見ると、先程俺を止めた女中の一人が深々と頭を下げた。布の袋を背負い、そこに冊子が何冊か入っているのが見える。
「畏まりました。母に伝えておきます」
「よろしくお願いします。頼みましたよ」
犬姉さんに肩を叩かれ、女中が頷く。俺は彼女が背負っている布の袋を取り、自分の背に負った。
「先に渡しておいて、感想を述べよう。俺も読んで宜しいのですよね」
「「はい」」
女中と犬姉さんが頷いた。ならば良い。
「街道は整備してあるが女の脚では何があるか分かりません。警備の者を付けて下さい」
言うと、信方が分かっていると答え、一行は去っていった。その背を見送ってから馬小屋へ向かい、古渡城へと戻る。日暮れにはまだ時間があった。
 




