第二十二話・織田一門衆再編成
大方の戦後処理が終了した頃、既に時は永禄十年の年の瀬となっていた。甲斐の国では廃嫡された武田義信が殺されたらしく、駿河では今川家を切り盛りしている女戦国大名寿桂尼の具合が悪いとの噂が流れた。今年は動乱であったが、来年はもっとかもしれない。
京都より帰還した父は徳川家康殿には遠江平定の為に協力は惜しまぬと言い、浅井長政殿には朝倉家との仲立ちを頼んだ。徳川家康殿は武田家と結び今川家を挟撃せんと図っている為、織田家はこれを期に、武田家とも正式な同盟関係を結ぶこととなった。父は武田氏とも姻戚関係を結び東の安定を図りたいようだ。
俺は徳川家の領国三河、浅井家の領国近江まで、尾張湊からの文物を運ぶ輸送経路を作り、その仕事を塙家に限らず戦傷した織田兵に担わせたいと目論んだ。その考えは信広伯父上から父に伝えられ、父は直ちに徳川・浅井にその旨を伝えた。円滑な物流の確立は喜びを持って迎えられ、話は金や道の細かな条件決めがあっただけで問題なく決まった。今回塙家で負傷した三十人については何とかなる。京都に足を踏み入れた織田家は今後三好家と争い、場合によっては朝倉や武田とも戦うことになるかもしれない。そうならない為の浅井家であり徳川家だが、先のことなど分からないのだ。そしてそうなれば戦傷者はさらに増えてゆくだろう。けれど、当面この冬は何とか越してゆくことが出来る。
そうして年が暮れてゆき、山吹色の稲が刈り取られた大地は純白の雪に覆われた。明けて永禄十一年一月、雪解けもせぬ頃に、早くも戦が起こった。相手は又も三好三人衆。父が美濃に戻った隙を突き、淡路から畿内へ上陸、こともあろうに公方様がおわす本圀寺を囲んだ。折しも美濃は大雪が降り、母が炬燵で丸くなり炬燵弁慶と化していた時の事だった。
電撃的に畿内を征し、さしもの父も油断があったのかと少々慌てたが、しかし織田家は負けなかった。本圀寺に詰めていた僅か三百余りの兵が、三好三人衆の率いる一万もの大軍を相手に丸一日籠城し、耐えきったのだ。その中には明智十兵衛光秀もおり、流浪時代を支えた忠義者達と共に奮戦した。
恐らく本圀寺にいた兵達は義輝公の二の舞かとの覚悟もしただろう。しかし、この一日を耐えきったことにより、幕臣細川藤孝や三好家の当主義継、摂津国衆の伊丹親興、池田勝正、荒木村重らの後詰合計二千余りの到着が間に合う。彼らの後詰を得た義昭公が更に一日本圀寺にて戦うことが出来たことにより、早馬を飛ばした父が間に合った。豪雪の中馬を飛ばし、僅か二日で京都山科にある六条本圀寺に駆け付けたのだ。父が六条に到着した際の供回りは又左殿ら僅か十騎程度であったという。だが、天下布武の旗指物を見た三好勢は戦い利あらずと見て僅か二日で京から撤退し再び四国へと戻って行った。この戦いを経て、むしろ幕臣や畿内の親足利幕府勢力は結束を強める結果となった。
こうして難を乗り切った公方様であったが、一人満足しない者がいた。父だ。父は到着後公方様に対しこのように防備の薄い寺に住まわせ御身を危険にさらし奉りたること、この信長の不覚にござると謝罪し、公方様に相応しいお住まいを作ると宣言した。
繰り返すが、時はまだ一月、雪の降る真冬の真っただ中において、父は美濃へ帰らず直ちに公方様が起居すべき新御所建設に動いた。普請の総奉行を御自らが務め、御殿などの建築を統括する大工奉行には我が養父村井貞勝と、島田秀満殿が任じられた。本圀寺は取り壊され、そこにあった屏風や襖絵、或いは柱などの悉くは改めて新御所造営に使われた。場所は変われど、可能な限り公方様がお変わりなく過ごせるようにとの心遣いであったそうだ。
真冬の大工事は驚くなかれ僅か七十日ほどで完成を見た。細川家の分家から名石藤戸石が運び込まれたことなどから分かるように畿内の有力者たちもこの忠義に対し先を争って貢献せんとした。
敷地は二重の堀で囲まれ、充分な防御力を供えた。防衛の為の山城から、統治の為の平城が主流となっている昨今において、城そのものは高く作られる傾向にある。父はそれについてもひと工夫し、中央に三層に渡る物見櫓が如き塔を立て、それを「天守」と呼ばせた。天下布武。この言葉が示す天下とは、日ノ本という意味ではなく大和・山城・河内・和泉・摂津の五畿を露わす。足利将軍家が畿内に平和をもたらすことを意思表示したこの旗に相応しく、天守は名の通り天下を見守る場所という意味であるそうだ。
四月中には全ての仕事を終え再び岐阜城に戻った父は直ちに家臣や一門衆を集めた。最初に奇妙丸が元服し、武田晴信の六女松姫との婚姻することが発表された。今後奇妙丸は勘九郎信重を名乗ることとなる。
続いて、俺が信広伯父上の娘恭を妻とし、婿養子として信広流の織田一門に入ることが伝えられた。俺が恭姫を迎えるのではなく、譜代家臣である村井貞勝の養子である信正を、男子のいない信広伯父上が引き取り家名を残すという形だ。敢えてこれが二番目の大事として発表されたのは織田信広、村井信正という特殊な立場にある人物が織田家の家臣筋でしかないと知らしめるためだ。俺にも、伯父上改め信広義父上にも不満はない。むしろ俺達を担いで余計なことを言い出す輩をけん制してくれたことに感謝している。併せて、徳が徳川家に嫁ぐことも発表された。
慶事を三つ続けたところで、伊勢方面について話が向かった。伊勢の南五郡を有する北畠家が織田家に対し未だ対決姿勢を見せている。これに対して権六殿、柴田勝家を大将とする軍を派遣するというもの。既に父の命を受けた佐治水軍が荷止めを行っており、志摩の九鬼水軍も織田家に同調した。堺からの荷も止められている北畠家はジリ貧である。可能な限り痛めつけて、最後には公方様が御寛恕あそばされその権威を高めるという筋書きがすでに出来上がっているそうだ。
少々話がずれてしまうが、今回の上洛戦において、権六殿は流石筆頭家老であるという活躍を随所に見せたことで家中の立場を上げた。更に、権六殿はかつて父と争い死亡した叔父、織田信行の遺児信澄殿を養育している。彼は織田家に憚り津田信澄と名乗っているが父に対して忠実で信頼も厚い。俺や奇妙丸改め勘九郎とも同年代で仲が良い。今回の南伊勢攻めについても一門衆の筆頭として出陣することが決まった。その後見としての権六殿の立場は更に高まるだろう。加えて、妻を亡くしている権六殿に対し、父が後妻をあてがった。あてがわれたのは村井の親父殿が娘。村井家と織田家の間に俺という存在がいることは間違いがないので、間接的にせよ、権六殿と織田家の関係が強まったと言える。
京都方面にはこれまで通り信広義父上が在駐することが通達された。一門衆からは叔父上方の中でも比較的年長の信治叔父上と信興叔父上が付いてゆくこととなり、親父殿や十兵衛殿、島田秀満といった人物が京都での実務を担当する。
北伊勢の仕置きは予定通りに進行した。父に従順であった神戸具盛殿には予定通り勘八を養子として送り込むことが決められ、勘八の手助けという意味も含めて長野工藤氏には信包叔父上がねじ込まれたことも又予定通りだ。南伊勢の北畠氏の養子に茶筅を送ることについては今後の展開を待つこととなるが、織田家の中ではすでに既定路線だ。茶筅を助ける為に、一門衆として秀成叔父上と長利叔父上が付けられることとなった。二人は茶筅が継ぐ北畠家の重臣となることが決まっている為か、揃って津田姓を名乗るようになった。
東の同盟が固まり、西は京都から三好勢を睨み、伊勢攻めも終わりが見えてきたとなり、続いては伊勢の西、近江の南に位置する伊賀攻めが発表された。抜擢されたのは滝川一益こと彦右衛門殿だ。ここは六角氏の勢力圏で、逃げ出した六角義賢・義治父子は今回の戦いでも三好勢に協力して後方かく乱を行っていた。浅井に負け、織田に負け、往時の力など最早見る影もないが、伊賀の複雑な地形を利用した戦い方などをされれば苦戦は免れない。伊賀の地理に詳しいという彦右衛門殿に白羽の矢が立ったゆえんである。残る父の弟である信照叔父上や長益叔父上が付けられるかどうかは今のところ未定であるらしい。俺がという話も出ているようだ。
父が率いる本隊には佐久間家を筆頭に丹羽家や森家、平手家といった譜代の者達を中心に編成される。その末席よりは少々中心に近い位置に塙家の名もあった。直政伯父上も少しずつだが出世しているようで何より。全ての家臣を猛追し、追い抜かんとする孫悟空がいる織田家ではうかうかもしていられまいが。
最後に、これまでの働きや忠義を認められ、又左殿が前田家の家督を与えられた。表向きの理由は実兄前田利久殿が病弱で家を纏められないからだとされた。又左殿には直接おめでとうございますと言いに行ったが、本人は嬉しくないではないが、複雑だと言っていた。出世したくないわけではないにせよ、兄から家督を奪いたかったという訳でもなかったそうだ。せめて兄やその家族は厚く遇すると言っていた。
そうして、四月が過ぎ間もなく五月半ばという頃合いに、俺の元に一通の手紙が送られてきた。そこに、茶筅が織田家から勘当されるとの内容の文がしたためられていた。
「あの……馬鹿が!」
手紙を読み、俺は直ちに馬を飛ばし岐阜城へと向かった。手紙には茶筅が勘当されるに至った経緯も書かれていた。何でも茶筅は戯れに高所へと登っては家臣に対し小便を引っかけるなどという悪戯を行っていたとのことだ。それが吉乃様の耳へと入り、事情を聞いたところ被害に遭った家臣は一人や二人ではなく、斉天大聖なども被害者の一人だと分かった。吉乃様は父にこの悪行を訴え厳しい叱責を求めたのだという。それを聞き入れた父が、俺の事を呼び寄せたという次第だ。俺も含めて今後の茶筅の処遇について話をするらしい。
「帯刀にござる。殿に御目通り願いたい!」
「帯刀様! こちらへ」
門前にて名を名乗り、馬を降りようとするとそれよりも早く駆け付けて来た可隆君が馬の口を取ってくれた。降りる必要はないと、城門を馬上のまま潜り、奥へと通される。
「すでに皆様お揃いです。話が紛糾し先に進みませぬ」
忝いと可隆君に伝え、そのまま進んだ。帯刀様にございます。と小姓の一人が言いふすまが開けられる。そこに、三人の男女が座っていた。父と茶筅、そして吉乃様だ。
父は胡坐をかき腕を組み、眉を顰めて厳めしい表情を作っている。吉乃様は泣きはらしたのか赤い目をしている。茶筅はどう怒られたのかは知らないが、相当憔悴しているようで小さくなっている。
「帯刀殿」
「お久しゅうございます。父上も、茶筅も」
吉乃様に挨拶をし、父にも頭を下げる。茶筅が小さく頭を下げ、父はうむ、と唸るような返事をした。
「事情は聞き及んでおりまする。吉乃様におかれましてはご存念もありますでしょうが、父と兄と、男同士で話をし、しかと反省を促そうと思いまする。一旦席をお外し頂けませぬか?」
この子がこの子がと、茶筅を指差して言う吉乃様に対し、俺が優しく諭すように言う。でも、とかしかし、とか言う吉乃様に辛抱強く同じお願いをすると、ふうーと長い息を吐き、分かりましたと頷いてくれた。
「女子では言って聞かせるにも限界がございますものね、帯刀殿であれば間違いはございますまい。宜しく、お頼み申し上げます」
「はい。決して悪いようには致しませぬ」
立ち上がり、出てゆく吉乃様に頭を下げ、完全にその姿がなくなるまで待つ。そうして、吉乃様がいなくなってよりたっぷり十回の呼吸を行った後、俺は茶筅に向かってズカズカと近寄り、その頭を叩いて言った。
「ばれないようにやれ、馬鹿!」
「それはもう言った」
振り返ると、胡坐を止めてゴロリと寝転がった父がうんざりした表情を作っていた。信広義父上も、勘九郎も同じことを言ったそうだ。
「全く、勘八はやってないのか?」
「……あいつは上手く逃げた」
「そうやって上手く逃げることが何故出来ない? 露見せなんだれば良いことなど世に溢れかえっておいるというに」
今回の騒動。大騒ぎしているのは吉乃様であって父ではない。俺が腰巻きを送ってより毎日の歩行を趣味とし、三食に必ず一切れ以上の肉を食うようになった吉乃様は体力を回復させ、最近ではめっきりと子供らの教育に力を入れる母親になった。そこへきて、家臣に対して小便を引っかけるという暴挙だ。吉乃様が『自分に小便をひっかけてくるような主の為に戦ってくれる家臣がどこにいますか! そのようなことをする者は織田家の男子には不要です!』と言い、勘当したことも分からない事ではない。しかし。
「お前のせいだぞ」
「何故です?」
涅槃の格好で俺をねめつける父に言われた。誰から言われようとも父からだけは言われたくなかったが、一応理由を聞くことにする。
「何故も何も、お前が公衆の面前で筆頭家老を論破し追放してしまうから、弟が家臣に対して何をしても良いと勘違いしてしまうのだ」
「これはこれは、父上もお年を召して記憶力が曖昧になっているご様子ですね」
カチンときた。存分に言い返してやろうではないか。
「帯刀仮名の折りに何かをされたのは私の方です。やられたからその分を言い返しただけであり、論破などしてはおりません。その後に林家を追放処分としたのは父上ではありませんでしたか?」
「お前があそこまでやるとは誰も思うておらんかったのだ」
「大体、素行が悪いのは父上のせいではないですか」
「そんなことはありえぬ。俺は公方様を担ぎ京に安寧をもたらし二条御所を築いたのだ。天下にこれほど良素行の人間はおるまい」
「御爺様の葬儀の際に、灰を投げつけたそうですね。親を敬さぬその素行お見事です」
父がぐむ、と唇を噛んだ。誓って言えるが俺はそんなことはしない。精々筆頭家老非難の声明を家中にばら撒くことくらいしか出来ない内気な男だ。
「お主は親どころが御仏すら敬わぬではないか。牛や馬や鶏を食わんと育てておるのは皆知っておるのだぞ!」
「あれは母上です! 私は出来上がった物をたまに食べるだけです!」
「変わらぬではないか! 貴様らだけあんなに旨い物を食いよって!」
「父上は自分が食べたいだけではないですか!」
「ははうえに……」
父と言い合っていると、蚊の鳴くような小さな声で茶筅が口を開いた。いいぞ、何か言え、そしてこのわからず屋の父を黙らせるのだ。お前の不行状はこの際もうどうでもいいから。
「二人はあんなに滅茶苦茶してるのにって、聞いたら『お二人は天下の為に深く考えて行っているのです』って」
「「……………………………………………」」
黙らされた。天下どころか、明日の事も考えずに喧嘩した記憶しかない。どうせ父だってそうなのだ。
「母上は腰巻きを頂戴して以来兄上の事を大層敬っておいでですからね」
と、そこで襖が開かれ、勘九郎が入ってきた。
「お久しゅうござる、兄上」
「お久しぶりです。勘九郎様」
深く頭を下げると、勘九郎が俺の隣に座った。そのまま体格を比べられる。ほとんど変わらない。ついでに言えば父とももう大した差はない。
「茶筅、徳から伝言だ。『茶筅兄上はもう少し、みつからないようにやらなきゃだめだよ』だそうだ」
元服した為か、何だかいきなり大人びて見える勘九郎が言ったのを聞いて、思わず笑った。父も笑っていた。全員考えることは同じだな。
「徳が嫁入り前なので、母上は暫く徳に付きっきりです。今のうちに茶筅をどうするか、考えましょう」
勘九郎の言葉にうんうんと頷く俺と父。三人で膝を突き合わせ、今後どうするかを協議することとした。
「勘当と聞きましたが、実際どうするのです?」
「吉乃は、あのようなことをする子を殿の御子とは認められませぬ。と言うておったな。もう一度自分の手で性根を叩きなおしてから再度織田家に送り返すつもりらしい」
「となると、北畠家に養子に出す話は?」
俺の質問に父が答え、勘九郎がさらに質問を加えた。父が首を横に振る。
「家臣にそのような無体を働く子を、伊勢国司北畠家に送るというのですか? と言われてしまった。そう言われてしまうと何とも言い返せん」
「父上でも言い返せぬ相手がいるのですね。ああいや、嫌味で言うておるわけではありませぬ」
素直な気持ちで感想を言うと、こういう時に男は女に言い返さぬ方が良いのだと教えを受けた。覚えておこう。
「しかし、そうなるとどうでしょうか。北畠家に押し込む養子として茶筅以上の者はおりませぬ」
「兄上か勘八では如何ですか?」
「その場合、帯刀は恭との婚約を無しとし、村井家からも出す必要がある。無理に押し通すことが出来ぬでもないが、上手くはないな。勘八の神戸家入りは既に本決まりだ。ここで無理に話をひっくり返して神戸家が敵に回っては北伊勢が再び敵に回りかねん」
やはり、中々に難しいようだ。その後勘九郎がどこぞの名族子弟を父の養子とし、その養子を送り込むというのはどうかと言った。出来なくもなさそうだが、多分父は自分の血を名族に送り込みたいのだろう。仕方がないか、という表情はしても、良い考えだ、とはならなかった。
「いっそ人質として送りますか?」
暫く話をした後、そう提案してみた。
「茶筅は人質として、勘八も養子ではなく猶子くらいにして送ることで、伊勢国司北畠家に対しても、伊勢四十八家に対しても気を使っていると義昭公に言いましょう」
「何故勝った俺が連中に気を使い、人質など送らねばならんのだ」
「形だけですよ。今は名族の面子を立ててやって、これから伊賀や志摩を落とします。更に紀伊も制圧し、三好三人衆を討伐すれば父上の力は濃尾から機内を越えて四国にも到達します。それに五年かかるか十年かかるかは分かりませんが、そうなった後に、改めて茶筅と勘八を養子にねじ込めば宜しい。その頃であれば断れないでしょうし、断るのであれば攻め滅ぼすという事も簡単であるはずです」
父上が黙った。無くはなさそうだ。
「どの道、今は茶筅も勘八も家のかじ取りなど出来はしないのです。勘八ならともかく、今の茶筅が養子となって北畠家の家臣達の心を掴み、ゆくゆくは立派な当主に、となれるとお思いですか?」
言うと、父が茶筅を見た。空気を読んで、一応大人しくしているようだ。父の顔が少し緩み、茶筅の頭を撫でた。
「思わん」
「そうでしょう」
「人質として送り、義昭公には『織田家は足利幕府の家臣家を乗っ取ろうとする気持ちはない』とお伝えし、茶筅には厳しい状況の中で当主とは何たるかを学ばせる。これが良いであろうな。勘八も然り」
それで話は決まった。俺と勘九郎が頭を下げ、父が立ち上がる。その際、俺の頭をべしゃりと潰すように撫でた。
「話はこの通りとなった。吉乃の説得は任せたぞ」
「え?」
返事は聞かず、そのまま足早に去ってゆく父。隣を見ると、勘九郎がにっこりと笑っていた。
「母上を説得できるのは兄上以外におりません。信澄達が来ておりますので、説得が終ったら相撲でもとりましょう」
そうして、勘九郎もまた、茶筅の手を引いて去ってしまった。
吉乃様の説得には三日かかったので、俺は勘九郎達と相撲を取ることは出来なかった。




