第二十一話・男脳と女脳
「……母上がなぜこちらに?」
俺の縁談が宴会の場で決まったその翌日、粥を飲もうと起き出し向かった台所で母上に会った。
「そろそろそなたが古渡城に戻るころであるけれど、その帰りの途上で十兵衛殿の話が面白くて一旦岐阜城によるのではないかと思ったのです。そして、宴会の席で恭姫様との縁談を持ち掛けられ、多少ごねた挙句結局断ること能わずそれもまあいいか、と思ってから眠り、腹が減ったので粥でも所望するのではないか、と予想しまして、たった今ここに来たのですよ」
黙ってしれっとした目で見てやった。そんな具体的な予想が出来てたまるか。いや、出来るのか? この母なら。
「冗談です。三郎五郎様からそなたの婚約について一足先に聞いておったのですよ。此度、明智十兵衛様がそなたを連れて来るとお手紙に書いてありましたので、ならばお濃様にも御顔をお見せして戦勝を賀し奉ろうと、三日程前からお邪魔しております」
三郎五郎とは即ち信広伯父上の方だ。
「昨日の黄昏時にはもうおられたのですね」
俺の視線を受けて楽しげに笑って答える母に言うと、ええと頷かれた。
「昨日のトキ鍋は美味しかったでしょう?」
今度は俺がええと頷く。道理で食べ慣れた落ち着く味であった筈だ。
「いたのでしたら、一緒に鍋を囲めば宜しかったのに。丁度俺も母上に相談したいこともありましたし」
「三郎五郎様がお話したいと仰せでしたから遠慮いたしました。それに一々母親にしゃしゃり出てこられても面倒くさいでしょう。私も、濃姫様やそのお付きの方々、十兵衛様と沢山お喋りしておりましたしね」
そうですか。と答えたところで腹の虫が大きく鳴った。あらあらあらと、母が椀に粥を注ぐ。ぬるくてスルスルと食べられる大盛りの粥だ。昨日のトキ鍋の味がする。
「古渡城に戻ったら久しぶりに、そなたと二人でトキ鍋をつつきましょうか」
「久しぶり? あのような鍋を食べたことがありましたか?」
スルスルと、食べるというより飲むといった感じに粥を口内へと流し込む。
「ありましたよ。古渡城に来るよりも前です。まだ、いつも二人で過ごしていた頃、夜によくお肉を食べたでしょう?」
そう言われて、ああ、と声が漏れた。小さい子供には滋養が必要だと、時々鳥肉を食べていた記憶がある。てっきり鶏かと思っていた。
「城と違って明かりなどありませんからね。あの時の鍋は昨日の鍋よりもどろりと赤かったのですよ」
「昨日のは、赤白かったような気がします」
記憶をたどりながら答えると、そうですと言われた。正解であったらしい。
「トキの肉は赤く、その身は油が多く含まれます。ですので串焼きにすると油が少し落ちてあっさりとしつつも深い味わいになります。鍋にすると赤い油が溶け出して血のような色の鍋になります。昨日のトキ鍋には牛の乳を混ぜました。ほんのりとした桜色になって、食欲をそそる色だったでしょう?」
正直に言うとそこまではっきりとは覚えていなかったが、そうですねと答えておいた。しかし、記憶に残らないという事は記憶に残るようなまがまがしい色ではなかったという事だ。子供の頃にそんな色の鍋だと知っていたら怖くて食べられなかったかもしれない。
「しかし、子供の頃に何度も食べているのなら変ですね。あんなに旨い鍋を食べた記憶がない」
「それはもう、あの時とは違って素材が良いですから。トキは血抜きをして臭みも抜いておりますし、ハマグリで出汁を取って醤油を入れています」
味噌の上澄みから取れた汁を濾したものを、母は醤油と呼ぶ。刺身などに付けたり、汁物に入れたりすると旨い。
「昔はその日の食べ物を食べるのにも精いっぱいだったのですよ。今はこんなにも美味しいものが沢山食べられます。感謝をしなければなりませんよ、帯刀」
感慨深げに母が言う。良いことを言っている、言っているのだけれど、
「食べるのに精いっぱいだった割には、蔵書の数は日に日に増えていたような」
「そう言えば、私に何か相談事があると言っておりましたね」
「話聞いて下さい」
「勿論聞きますよ、私は貴方の母ですので、何でも聞きますよ。さあ早く。とくとくお早く」
駄目だ。自分に都合の悪い話は全力で無視するつもりだ。諦めて、スルスルとおかゆを飲み干した。
「母上には相談というか頼みです。出来れば知恵者の十兵衛殿にも話を聞いて頂きたいのですが、お二人はまだおりますか?」
「ええ、お二人とも、殿と入れ違いに京へ向かう予定ですので。今は織田家の今後の話などしながら囲碁を打っておられますよ」
「それでは邪魔をしてしまいますね」
「大丈夫です。三郎五郎様は二日酔いですし、十兵衛殿の隣にはずっと濃姫様がおられます」
それならば、と俺は母の案内で御三方がおられる客間へと向かった。
「おはようございまする」
三人は客間の中央ではなく、襖を開いて日の光を浴びながら囲碁盤を見ていた。十兵衛殿はきっちりと盤の前で正座しているけれど信広伯父上は足を投げ出し、膝から下が外へ出ている。濃姫様は十兵衛殿の隣に寄り添うような感じだ。
「おう息子。良く寝たか。直子も、久しぶりの帯刀はどうだ?」
「また背が伸びておりました」
信広伯父上が手を上げて俺達を迎える。この人ももう俺の義父か、などと思っている間に母が答えた。自分では気が付かなかったが、そうか、また背が伸びたか。
「ちょうど今戦後処理について話をしていたところなのです」
「それは間が良かった。聞いて頂きたいことがありまして」
言いながら近づくと、三人が俺の顔を見た。十兵衛殿が盤上に石を置く。直後、信広伯父上がゲッ、という声を漏らした。先手の黒石は信広伯父上持ち、けれど戦局は後手白石の十兵衛殿優勢だ。
「戦死者、戦傷者についてなのですが」
盤より少し離れた場所に座りながら、俺は話を始めた。観音寺城の戦いにおいて、上洛軍は六万の兵のうち、千名余りの死者を出した。その千名の大半が、初日の力攻めで出た死者だ。母の実家塙家は観音寺城の戦い初日に力攻めで箕作城を攻撃。つまり最も危険な激戦を戦った。
塙家は斉天大聖と違って分かり易くはかばかしい手柄を立てることは出来なかった。だがこの初日の力攻めがあったからこそ斉天大聖の夜襲が活きたのは間違いがないことであるので、父からは勇猛さを褒められこそすれど叱責はない。むしろ忠実な犬がごとくに命を投げ出す伯父塙直政は間違いなく評価を上げた。織田家が栄える限り塙家の将来も明るい。ただ、短い期間で考えれば若い力を一晩にして多く失ったのであり、彼らを戦地から回収し、元の生活へと戻さねばならない面倒もある。結局、行きしなに使用しなかった永楽銭は彼らを回収し、治療するための費用として消えていった。
「彼らの生活を保障してやりたいのです」
「戦傷者、とは具体的にどのような?」
俺が言うと、信広伯父上から待ったをかけられた十兵衛殿が質問してきた。
「最早戦えない、尋常な農作業、百姓仕事が行えない者達。腕や脚が無いと見て頂ければ」
俺が知る限り、そういった者が塙家だけで三十人程いる。頭はしっかりしているし殆どの者は妻子がいる。傷が癒えるまでは戦功として生活費を出すと言った。実際年が明けるくらいまでの間面倒を見るのは可能だ。だがこの先数十年に渡って体に不具合を持つ男とその家族の面倒を見てやることは出来ない。
「成程、仕事が必要という事ですね」
「そうです。戦傷者に出来る仕事を我らが作らなければ」
彼らに俺が出来ることは、彼らにでも出来る仕事を優先的に与えることだ。だが、腕や脚が無くて出来る仕事というものが思い浮かばない。
「それで、私に頼みたいと?」
母が口を挟んだ。そう、母は自分の趣味で色々と人を使うことが多い。
「牛や猪や鶏の面倒を見る人間を今後増やすのならばそう言った人間から先に雇ってやって欲しいのです。今後、母上が何か新しい試みをする時にも」
それだけで戦傷者やその家族全てを賄うことはとても出来ないだろうが、助けにはなる。母は今後も間違いなくおかしな試みを繰り返すだろうし、一定の需要は常に生み続けるという確信が俺にはある。母は分かりました、とすぐに俺の頼みを聞いてくれた。
「今後戦が増える可能性は高い。負けることもあるだろうと考えれば、塙家に限らず考えておいた方が良いかもしれんな」
言いながら、信広伯父上がさっと碁盤を片付けてこちらを向いた。そうでしょうと俺は答えつつ、この人負け碁を無かったことにしたと思った。十兵衛殿がちょっと傷ついた顔をしている。
「その三十人の中に両腕を無くした者はいるか?」
「いいえ」
「ならば荷運びだ。殿が京を抑えたことで尾張の港から入って来るものが増えると予想出来る。足や体が丈夫な者には荷運びをさせよう。片腕でも背負え、下ろせる背負子を作り、津島港から熱田神社・古渡城・那古屋城・清洲城・小牧山城。或いは美濃や三河、場合によっては信濃や飛騨や近江にまで物を背負って運ばせる」
「成程、それはいい」
「しかし、まず殿や徳川様、浅井様、或いは信方殿に話を通さねばなりませんね。信方殿についてはお犬様がおられるので何とかなるとは思いますが」
信広伯父上が提案し、俺が頷き、十兵衛殿が話を掘り下げる。今日中に手紙を書くと信広伯父上。
「片腕で背負える背負子だが、後ろの母狐がそういうのは得意だろう? 急いで作れ」
「まあ、わらわは口出しするのが得意なだけで、手先は器用ではありませんのよ三郎五郎様」
信広伯父上の言葉に母が返して、その場の全員が笑った。
「問題は足が動かない者達なのです。今のところ思いつくのは竹簡作りですね」
信広伯父上が考えるほど広範囲なものに出来るとは思っていなかったが、俺も、腕が動かない者に対しては似たような仕事をして貰おうと考えていた。
「字が書けるものはこれに帯刀仮名や漢字の一覧を書き込み、商品とする。それを、腕を無くした者達が売る。売り上げの半分を彼らの生活費とする。などと出来れば」
「おお、素晴らしいではないですか」
俺の頭の中にあった案を提出すると、十兵衛殿が頷いた。
「しかし、まだ竹簡はそこまでの需要がありませぬ。そもそも、字が書ける者など世に一握り。大した金になるものかどうか」
「暫くは……草鞋でも編んで糊口を凌いでもらうか」
「そうですね、他に、何か手作業の達者を呼び寄せて物つくりの技術を教わることになりますか。時はかかりますが」
「トキの羽は如何です?」
俺、信広伯父上、十兵衛殿の順に、決定打に欠ける案を出し合っていると、控えめに、けれど少し楽し気に濃姫様が口を開いた。
「トキの羽ですか?」
それが何になるのか分からず、聞き返してしまった。他の二人も同じだったらしく、皆にジッと見られた濃姫様は恥ずかし気に十兵衛殿の肩に隠れる。
「な、直子が言っていたのですよ。鳥の羽を布袋に入れるととても軽くて柔らかくて暖かい布団になると。お布団であればどのような身分の者でも使うでしょう? 軽ければ、持ち運びもしやすいのではなくて?」
信広伯父上と十兵衛殿が、ははあ、と、何とも言えない表情を作った。俺にしてもそうだろう。良いとか悪いではなく、考えたことのない発想だった。
「母上、それも南蛮書物の知識ですか?」
聞くと、母が少々慌てた様子でうんうんそうそうと頷いた。ちょっと怪しい。
「その書物は既になく、どの本で読んだかも覚えておられない。でしたよね?」
「そ、そうざます、帯刀殿よくお分かりですね」
何だか母の口調が怪しいので多分どこかしら嘘を吐いているのだろうと思うけれど、濃姫様のお考え自体に間違いがあるようには思えない。出来上がったらまずは父を始めとした身分の高いお方にお渡しし、賃金を支払う。後に奇妙丸や信広伯父上などにもお渡しし、評判が良ければやがて俺も使用し、購入する。それがやがて他国にも広まれば一つの産業にもなるかもしれない。
「良いのではないですか? 何より相手がトキというのが良い。坊主達に怒られることがないし刈り入れ前に積極的に狩れば農民達も安心しましょう」
「そうだな、尾張美濃から滅んだところで誰も文句は言うまいしな」
「いや、トキが滅んだら結構なことであるような気も……」
母が何がごにょごにょと言っているがとりあえずおいておく。早速、昨日食べたトキの羽をむしって羽毛布団なるものを作るようにと信広伯父上が命じた。
「あとは、竹簡なのですがあれに染料を付けられませぬか?」
「「「染料?」」」
濃姫様の言葉に男三人の声が重なった。濃姫様は楽し気にはいと答える。
「前々から思っておりましたの。帯刀規格の竹簡は読みやすく分かり易いですが、すべて同じ色で可愛らしくありませぬ」
「「「可愛らしくない?」」」
再び三人の声が重なった。可愛らしくないという発言に疑問を持ったわけではない。それ以前の話として、そもそも竹簡と可愛らしさという要素が頭の中で結びついたことが一度として無い。
「あれを桜色や山吹色に染め、何か彫りものでもしたら良いと思いませんか?」
「そ、それですと、文字が読みづらくなりはしませんでしょうか?」
恐る恐る尋ねると、虚け者、と母から側頭部を叩かれた。
「誰も読む側に色を付けるとは申しておりません、背の方に色を付けるのです」
「読む側ではない方に色を付けるのですか?」
だったらなぜ色を付ける意味があるのか? 読んでいる時には関係ないではないか。
「濃姫様、お考え素晴らしいと思いますわ。他にも何かお考えはございません事?」
「本当? 直子に褒めてもらえるだなんて嬉しいわ。でしたら、前々から思っていたのですけれど……」
そうして、濃姫様と母は姦しく、それでいて楽し気に話し始めた。その様子を見ながら顔を見合わせる男が三人。
「任せて、良いかもしれんな」
信広伯父上の言葉に俺と十兵衛殿が頷く。考えてみれば、脚を失った者でも出来る仕事というのは女でも出来る仕事にかなり近い。であるのならば女に考えて貰う方が効率も良いのかもしれない。
「これで、戦傷者が行える仕事が足りるのでしたら遺族たちの生活も安定します」
相談して良かったと表情を緩めると、家族まで援助してやるつもりかと問われた。
「ただ無条件に全員を救うべしと考えている訳ではありません。ですが、我が織田家の為に息子を出し、その息子を失った為に働き手を無くした老人がおるのです。そういった者達を、役に立たぬからと最初から切り捨てる真似はしたくありません」
彼らに罪はない。息子が生きていればその手伝いをし、僅かな飯を食って細々と生きてゆく。それくらいのことは出来たはずなのだ。けれど、突然倅が戦死したせいで明日の飯をも食うや食わずとなってしまった。
「このような時代において、役に立たない老人達までどうにかしようという考えが甘いとは理解しているのですが」
どこかで口減らしをしなければならない日が来る。斉天大聖も口減らしの為に寺へ出された。老いた親を山に捨てに行くことも、仕方のないことではある。俺はただただ、本当に仕方がないことになる日まで全力を尽くして彼らを救いたいという事を言っているのだ。
「甘いこととは思えませぬ。むしろ、統治者としては厳しき道を行く覚悟すら感じられます。素晴らしい考えではないですか」
とは言え虚け者扱いされることは当然であろう思っていた俺に、十兵衛殿が素晴らしいと言って下さった。
「存外、後々生きて来る政策であるようにも思えます。考えてもみて下さい。戦って自分が死んだら家族がどうなるか分からないと思っている兵。戦って死ねば家族は織田家が守ってくれると思っている兵。どちらの兵が、いざという際最後まで戦ってくれます?」
そんな風に考えたことは一度としてなかったが、確かにと思った。信広伯父上が、まあ、後者であろうなと答えた。
「古来より、最強の兵は死兵と申します。死を恐れぬ兵こそ強いのです。一向宗然り」
「やれるだけのことはやってみるか」
一笑に付されると思っていた考えを認めてもらい喜んでいると、信広伯父上が大きく頷きながら言った。
「殿が以前、移動の途中休んだり遊んだりできる場所があると良いので、街道に茶屋を作りたいと仰っていた。旅人の為の温泉宿などを作り、それらを織田家で管理し、現場の管理人として戦傷者やその親などを配置しても良いだろう。足弱ではあっても味噌汁くらいなら作れるという老婆もおろう」
やれるだけのことはやってみるぞ、と今度は先程よりも強い言葉尻で信広伯父上が言い切り、そうして、激動の永禄十年が終ろうとしていた。




