第二十話・基本的には喜ばしき事
夕焼けが西の雲にかかり、間もなく山肌に日が落ちる頃合いに、俺達は岐阜城門前に辿りついた。
城門前には見張りの兵がおり、間もなくやって来る夜に備えかがり火の準備などしていた。彼らは俺の姿を見ると直ちに門を開き、通してくれた。
開いた門の奥に立っていたのは二人の人物。その内の一人が、蝶が舞うかのように緩やかにこちらへと近づいて来た。辺りが薄暗くなり、そこにいる彼は誰そ? と問わねばならなくなる、つまり黄昏時においてすら高貴で穢れのない空気を保つ妙齢の女性だ。
「お久しぶりですね。十兵衛殿。やっぱり貴方はちっとも変わらなくて、羨ましいこと」
言いながら彼女、濃姫様が十兵衛殿の胸元にそっと手を添えた。
「帰蝶様は御変わりになられました。私が知る頃よりも美しくなっておられます」
まあ、と言いながら手を頬に戻し、両手で顔を隠すようにしながら照れる濃姫様と、それを見て薄く微笑む十兵衛殿。岐阜城の門前にて出迎えられた俺達は、その門を潜ってよりすぐさまお二人と違う世界の住人になってしまったかのようだった。十兵衛殿がそっと、濃姫様を抱きしめる。従兄妹どうしの再会を祝しているのだとは分かっているけれど、それにしては艶めかし過ぎる。光秀殿も、濃姫様も。二人とも、狙ってやっている訳ではないのだろうけれど。
「お濃。久しぶりに初恋の君と再会して嬉しいのは分かるが、腹を減らした若い連中が後ろで待ってる。そこを退いてやれ」
そこに、渋みがかった男の声が割って入り、抱擁の後十兵衛殿を見据えていた濃姫様がハッと顔を上げた。
「は、初恋の君などと誰が申しましたか!?」
「さあなあ、風の噂で聞いた」
「そのお喋りな風は誰です!?」
現れた男の肩を、濃姫様がぽすんと叩く。着流しの服で、まるで旅の僧侶のような風体の彼はしかし、そのような格好でありながら男の渋みと色気に溢れており、風格すら感じられる。
「帰ったか、無事で何よりだ。帯刀」
「はい。伯父上もご健勝で何より」
「おう、これから都に行くんだ。健勝でなきゃ話にならんよ」
「都に?」
俺が問うと、信広伯父上が口元だけでフッと笑い、手でひょいと俺達を招いた。
「飯だ。お前らトキを食ったんだってな。こっちも今は刈り入れ時でな。田んぼを荒らすトキを弓で毎日射殺してるんだ。肉を食う男衆が欲しかったところだ。後ろの馬鹿面共も皆入ってこい」
言って、スタスタと奥へ向かってしまった信広伯父上の腰元には、成程確かに、赤白い羽を持ったトキが二羽ほどぶら下げられていた。
「酒は飲めるようになったか?」
「今のところあのようなニガ水に興味はありません」
「殿と同じか。つまらんなあ。そんな事じゃあ立派な庶長子になれんぞ」
「伯父上に言われたくはありません」
俺が言い返すと、信広伯父上はひひひひ、と楽しげに笑い、後ろの連中にも声をかけた。
「濃と十兵衛は再会を祝してやんごとない連中だけで宴をする。俺達下賤はその辺で酒盛りだ。トキ鍋を作った。平安の昔から食われてる由緒正しい庶民鍋だ。酒もある」
言うと、塙家の男達がうおおお! と声を荒げた。全く、酒ごときで釣られるな。情けない。
「飯のお代わりはし放題だ」
「うおおお!」
沢山食べるぞ!
「六万もの軍勢が山の裾野を埋め尽くしましてね。それが皆父上の号令一下観音寺城に襲い掛かるのです。とはいえあまりにも数が多すぎた為統率は取れておりませんでしたが。皆が皆、割り振られた場所で闇雲に前進し、織田家の家臣達が纏めた一千や二千の兵が動き出すのを見てから、寄り合い衆が動き出すという様でした」
鍋の中で煮えたネギを摘まみあげながら俺は観音寺城の戦いについて説明をしていた。
「夜になると、どこから持ってきたのか、誰が聞きつけたのか太鼓や笛を鳴らし、火を焚いて踊りなどを始める者すら現れました。それを止める者もおらず、今思えば父上はそれも斉天大聖が行う奇襲を警戒させないための良い目くらましだと思っていたのかもしれません。結局、皆が歌い踊り、疲れたら三三五五に散ってゆくという風でして」
「何か楽しそうだな」
俺の話を聞いている信広伯父上が笑いながら言う。伯父上は食事もそこそこにして既に酒を飲んでいる。白く濁ったどぶろくだ。
「斉天大聖の奇襲が成功し、翌日からは次々と観音寺城の曲輪が降伏開城しました。父上を始めとする上洛軍の将兵が次々と観音寺城に入り、宿を借りると前日までの様子が嘘であったかのように平野が静かになりまして、しかしながら六万以上の大軍勢が数日間過ごしていた裾野はそれなりに汚れも目立ちましたので、義昭公がお出ましになる前に皆で片付けなどもしました」
「ひっひっひ、お行儀の良いこったな」
俺の説明に笑う伯父上はグッと盃を空にするとその辺においてある壺へ枡を突っ込み、周囲の若い衆に注いだ。びちゃびちゃと零れ床が汚れるが誰も気にしない。何なら零れたのを好機とみて床から酒を啜る奴すらいる。俺はその様子を見つつ、一旦話を止め、ほんのりと赤い肉を齧る。
「明智十兵衛と話した感想はどうだよ?」
薄く切った肉で、白髪ねぎを巻いて口に放り込む。すかさず茶碗に盛った米を口に放り込む。鍋の汁は味付けが濃くしてあるので実に飯が進む。
「どう? と言われても答えようがない程懐の深い御仁だと思いました。今までにしてきた苦労の桁が違うのだろうと」
「それが分かるなら十分だ。もっと食え。それが出来ないなら飲め」
そう言って、叔父上は俺の椀に牛蒡や里芋や豆腐やトキの肉をひょいひょいと放り込む。既に二回お代わりをしているのだけれどまだまだご馳走様はさせてくれないようだ。
この織田信広という人物は織田家の中で最も俺に立場が近い人物だ。というのも、彼は父信長の兄、庶兄に当たる。父と信広伯父上の関係は、そのまま奇妙丸と俺の関係になる。信広伯父上も例にもれずかつて父に対し兵を起こしたことがあるが、降伏後は忠実な一門衆として織田家の躍進に力を尽くしている。
「和泉に摂津だったか」
里芋を匙で掬い、口に放り込んだ。まだ汁が冷たいうちから煮込まれていた里芋はとろけるようで、それでいて火傷しそうなくらいに熱い。はふはふと熱気を口から逃がしつつ、じんわりと広がって来る出汁の旨味を味わう。
「そうですね、伊勢方面も問題なく治められそうで何よりです」
「伊勢についてはどの程度知ってる?」
「大抵の事は。観音寺城に神戸具盛殿が来られておりましたから。斎藤竜興殿がどうなったのかは分かっておりませぬ」
観音寺城攻めに先立って、父は北伊勢に兵を向けていた。父に敗れ領地を失った斎藤竜興が早くも美濃奪還の動きを見せた為、これを追撃するという意味合いもあったようだ。伊勢には名族と呼ばれる者はいるがそこまで強大な大名はいなかったはずだ。神戸具盛殿は伊勢中部を領し、元々六角家との縁があったはずだ。それが、観音寺城落城の際には守将蒲生賢秀殿の説得役に自ら名乗り出ていた。降伏したか、それに近い形で父と結んだのだろう。
「北伊勢の関氏は殿の大軍の前に雲散霧消した。中伊勢の神戸は和睦、斎藤竜興はどこかに雲隠れした。長野工藤氏と南伊勢の北畠は伊賀に逃げた六角承禎と結んで抵抗するつもりらしい。最早北伊勢八郡は殿の手に落ちた。残るは南の五郡のみ」
「北伊勢には長島がありますが」
「寺社領は全て安堵。我が織田家が熱田を厚く遇していることを例に挙げ、神仏を蔑ろにはせぬと繰り返し伝えた。内心でどう思っているかは分からんが、献金と保護を約束したら頷いてはいたな。長島城で抑えとし、尾張との国境は引き続き古木江城の信興に見張らせる」
「見事なお手並み、感服しました」
頭を下げる。硬軟織り交ぜた柔軟な采配だ。かつて父と信広伯父上がどんな戦いを繰り広げたのか、俺は話に聞く事しか出来ないが、俺が古渡城で暮らすようになってからであれば、殆どの場合信広伯父上は父の名代や戦場大将の大役を務めてきた。
「北伊勢に南近江、それと和泉摂津。半年前まで美濃攻略にへいこらしてたのが嘘のようだな。おい神童。これで織田家の石高は倍や三倍になるのか?」
「検地もしておらず、その土地を見てすらいないのでは何とも言えませんが、石高、つまり米の生産量では数倍という事にはならないのではないでしょうか? いや、はっきりしたことは言えませんが」
伊勢はその名の通り伊勢湾に面している。南近江は琵琶湖、和泉と摂津も瀬戸内から、西国の物流を司る都市だ。俺が知らないだけかもしれないけれど、米の生産がどれだけされているかは分からない。
「そうなのか」
「ですが」
つまらなそうな表情を作った信広伯父上に対して話を続ける。話はここからだ。
「此度の戦で父上が手に入れた土地は皆畿内において重要な物流の交差点。とりわけ、伊勢を手に入れたことで伊勢湾の海運は織田家が完全に掌握しました。南伊勢や志摩で抵抗する者がいたところで荷止めをしてしまえばそれだけで相手は干上がるでしょう。西は堺の港に対しての影響も持てる筈。交易の利を十分に生かせば、織田家の国力は三倍や五倍となるかもしれません」
嘘じゃない。勿論交易は危険も多いが、上がる利は莫大だ。古くは足利義満公が唐国に臣下の礼をとってまで行った勘合貿易が華麗なる北山文化を創出した。時代が下って、西国大内氏が隆盛し、今は毛利氏が中国地方を征しようとしている。それも又貿易の力である。
「ほほう、となれば佐治水軍の力が問われるな」
「問われるも何も、最早独壇場でしょう」
楽しそうな信広伯父上。盃を投げ捨て、近くにあった壺をむんずと掴み、ゴクゴクと喉を鳴らして酒を流し込む。酒ってそんな、冷水みたいに飲むものではないと思うけれど。
「楽しくなってきたな。次の相手は朝倉か?」
「それはないと思います。朝倉は浅井氏と懇意でありますし、義昭公は名門朝倉を敵としたくはないでしょう。今言ったように南伊勢、志摩、伊賀の三国を支配するところからです。そうして次に四国に落ちた三好を討伐する。それ以降は義昭公の御判断にもよるのではないでしょうか?」
どんどんと酒の量が増えてゆく信広伯父上にやられて、一人また一人と塙家の蛮族が討ち死にしてゆく。皆幸せそうだから構わないけれど、死ぬかもとか、考えたりはしないのだろうか。
「大体わかったぜ」
「何がです?」
ふうー、と、長い息を吐きながら信広伯父上が言った。
「俺が京都ですべきことがな」
「そう言えば先程そのようなことを仰っていましたね」
「ああ、殿は一度美濃尾張に戻って戦後処理をしなければならんからな。京都での代理は俺だ」
此度の上洛、名目上の総大将であった義昭公から父は戦功第一とされ、御父などと言われ名を全国に轟かせた。だが、実質上の総大将たる父は褒美を受けつつ同時に自らも論功行賞を行う必要があった。
まずは観音寺城までの先導を務め、三千の援軍と共に当主自らが参戦した浅井長政殿を手厚く労い、次いで三河からの援軍大将にして箕作城一番乗りの功を立てた松平信一殿に感状を渡し、銭などでそれらの功に報いた。貴重な同盟者達に気を使ったという訳だ。次いで、箕作城夜襲を立案し実行した斉天大聖や観音寺城本城を攻撃指揮した権六殿らにも褒美を渡した。我が母の実家塙家ははかばかしい手柄こそたてられなかったものの被害の多い最前線で戦ったことが評価され、褒美が出ることになっている。
これら一連の論功行賞、そして新領地の国分けなど、父にはしなければならない仕事が沢山ある。
「父の代わりは大変でしょう」
「まあな。だが村井貞勝がいる。弟達も、三十郎以外は連れて行っていいと言われているから何とかなる。お前が戦力になっているのだから、弟共も馬車馬のように働かせなければならん」
「持つべきものは兄弟ですね」
我が祖父織田信秀は合計で十二人もの男子をもうけ、その内九名が存命である。一番上が信広伯父上、その次に父がいる。三十郎と呼ばれたのは信包叔父上で、父とは両親が同じであるという事から特に可愛がられている。以下、年齢順に信治・信興・秀成・信照・長益・長利と続く。信広伯父上と父上は腹違いで信広伯父上が四つ年上、信包叔父上は父より九つも年下で、俺の十一歳年上になる。一番年の近い長利叔父上など俺と三つしか違わない。
「そこでだ、帯刀」
つるりと、信広伯父上が自分の顔を撫でた。塙家の男達、その最後の一人を丁度潰し、これで広い宴会場に残ったのは俺と信広伯父上二人だけ。勿論女中やら下人やらは外にいるのだけれど。
「大きくなった織田家の、一門衆を固めなければならぬ。奇妙丸様が嫡男。それ以外にいる殿の御子達が織田本家を支えるという具合にな」
真剣な表情を作る信広伯父上に、俺も椀と箸をおいて居住まいを正す。
「茶筅と勘八ですね?」
確認すると頷かれた。二人とも数えで十歳だ。急すぎる話ではない。
「否やは勿論ありませんが、どちらに?」
「決まっているのは勘八だけだ。神戸家に送る」
神戸家、先程の話にも出て来た伊勢の有力国人だ。美濃尾張の織田本家を西から支える位置に置いておくのは理にかなっている。
「何故勘八なのです?」
「勘八の方が母親の身分が低い。神戸家は元々北畠家の家臣だ。奇妙丸様と同腹の実弟である茶筅は本家の北畠に送る」
「成程」
こちらも先程の話に出てきた南伊勢の有力国人だ。まだ降伏していないようだが、彼我の戦力差は分かっているだろう。
「義昭公は北畠顕家以来の名家北畠家を滅ぼしたくないらしい。和議の仲裁を申し出て来た。和議の条件に、茶筅を嫡子として養子に迎えろと要求する」
「まとまりますか?」
「俺は成功すると思っている。明日よりは佐治水軍に南伊勢の船を襲わせる」
「効果的かと」
うまくゆけば、北畠・神戸の両家は毛利家にとっての吉川・小早川になるかもしれない。あの家も、毛利元就が無理やり息子二人をねじ込んだ結果毛利両川と呼ばれるようになったのだ。父の狙いは正にそこにあるのだろう。
「となると、伊勢で不安視すべきは長野工藤氏のみですね」
「そこには三十郎を押し込む。無理やりにでもな。文句は言わせぬ。三十郎なら何とでもするだろう」
盤石だなと、俺は父の行動の速さに改めて感服した。伊勢を固めれば志摩などほぼ手中だ。伊賀に逃げた六角も、まさかこれほど早くに挟み撃ちを食らうとは思わないだろう。
「徳も嫁に出す。三河殿の嫡男の正室だ」
「それは」
一瞬言葉に詰まった。早くはない。むしろ遅まっている。本当は今年の内に終わらせる筈だったのだ。観音寺城の戦いにおいて父がそれを匂わせるようなことを言っていたのも聞いている。だからこれは単純に、可愛い妹が出て行ってしまうのが悲しいというだけでの逡巡だった。
「……頼りになる同盟者と強い繋がりを結んでおくことは上策であります」
自分の感情を消すのにほんの少し苦労をしてから、俺は首肯した。俺が反対したところで何も変わりはしないが、しかし賛成したという事実はあった方が良い。
「残るはあと一人」
「あと一人?」
祖父信秀と比べて、父信長の子は多くない。先程の男子十二人に、女子も多くいた祖父に対し、父は男女合わせて六人しか子を成していない。
「相も嫁に出すのですか?」
六人目の子、相姫は徳の二つ年下の女子だ。母親が吉乃様でなく、岐阜城に住んでいないのであまり会う機会がないが。
「いや、相に関しては良い男がいたらそいつにくれてやると言っていた。それらしい男も見つけたらしく手紙では上機嫌であったな」
「では誰が?」
「お前だ」
「俺ですか?」
俺は既に村井の家に養子に出ている。主家が分家の娘を一旦養女に貰い、そこから改めて嫁に出すということは聞くが。
「養子に出すのではない。嫁を取らせるのだ」
「嫁取りですか」
そういえば俺もそういう年になった。勿論いやではないし覚悟もあるが、
「何処の娘です?」
「俺の娘だ」
「お断りいたします今日はこれにてごめん下さい」
立ち上がり、部屋を出ようと足を延ばしたところでその足を掬うように薙がれた。
「危ない! 何をするのです伯父上!」
「伯父上ではない! 父上と呼べ!」
「嫌ですよ面倒くさい! 俺はもう面倒くさい父親が二人もいるのです! 三人目はいりません!」
母親も入れたら面倒くさい親の数は更に一人増える。
「何故だ!? うちの恭のどこが不満だ!?」
「恭に不満はありません! その親父に不満を持っております!」
信広伯父上がぐわっと両腕を伸ばし、俺につかみかかって来た。だが、既に酒で千鳥足になっている中年男だ。格好良く着崩している袂と首元を掴んでブンと投げ飛ばした。てしん、と、良い音を鳴らして倒れる信広伯父上。
「ぐうっ、貴様、体もでかくなった上に随分力も強くなったな」
「成長期ですからね」
仰向けに転がり、さかさまになった信広伯父上が腹を抑えながら言う。流石に、酔っぱらったところを投げ飛ばされれば気持ち悪くもなるらしい。
「俺を投げ飛ばすとは、見事」
「ありがとうございます」
悔しそうに、苦しそうにしていた信広伯父上が、ふっ、と慈しむように微笑む。
「それだけのことが出来れば文句はない。娘をやろう。持っていけ」
「いやだからいらねんだってば」
勿論織田家の決定に逆らえるはずもなく、暫くごねた後、俺の結婚が決まった。




