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信長の庶子  作者: 壬生一郎
帯刀編
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第二話・意地の張り合いと裏工作

 「俺がご家老様に伺いたいことは二つ。一つは帯刀仮名を認めぬ理由について。もう一つは俺と母、母の実家についての悪口雑言について」


 怒り心頭であった俺だけれど、ケッケッケ、と怪鳥のように笑う父の姿を見ていたら多少は落ち着いたので、取り敢えず喧嘩腰は止めることにした。父、水野信元殿、松平元康殿は俺達のやり取りを外側から眺めることとなり、林を先頭に、その後ろに佐久間・平手他の家臣が俺の前に居並び、俺の後ろには母の実家から顔が怖い連中を連れて来て並べることで対抗させた。彼らには何も話さず連中を睨み付けていてくれと頼んでいる。

 「……されば、忌憚なく私見を述べさせて頂く」


 戦場へと駆り出された事で肚が据わったのか、林の爺さんの目が据わった。それを見て俺も、ここからが勝負だろうと小さく長く、絞り出すように息を吐いた。


 「そもそも、文字というものは同じ読み、同じ音であったとしても、それぞれの仮名はそれぞれに僅かながら異なる意味合いを含んでおりまする。それらをその折々に応じて使い分けることこそが字を操るという事であり、効率がいいから。などという理由でそれらの味わいを捨ててしまった文章は無味乾燥な情報の羅列に過ぎなくなってしまいまする。然るに、一音に付き一文字を割り当てるような文章を法として定めてしまえば、尾張の人間が書く文章は画一的で味気なく、つまらないものとあざ笑われるようになることは必定。殿におかれましては、何卒御考え直し下さるよう、伏してお願い申し上げます」


 ちゃんと考えてきやがったな、と、俺は内心で舌打ちをした。今までは伝統がどうとか、これまでの習慣がどうとか、分かったような分からんようなことを言っていた筈だ。父信長が、そんな意見を嫌うと分かっていてなのだろう。父も一理あるな、というような表情をしている。しかし気に入らない。何が気に入らないって、この期に及んで上座に座る父に対して頭を下げ、俺の方を最初から最後まで見もしなかったことだ。


 「ならば猶更好都合」

 こちらとしても、無策でここにやってきたわけではない。帯刀仮名反対派がどのような論旨で対抗して来るのか予想し、事前に討論練習なども重ねて来たのだ。今林の爺さんが述べた論はその予想の範疇を超えてはいない。


「文章とは情報を相手に伝えることが第一の目的であり効率を求めて発明されたものである。であるのにも関わらず文章が効率的であることを否定するとはどういう事であるのか。今話をしているのはあくまで尾張において使用する正式な仮名文字をどうするかという話である。公式文書に書かれる内容はその多くが誤読や勘違いを許されないものである。仮に一刻を争う火急の際に迂遠かつ読み辛い、味わいのある文章の手紙を送ったらどうなるか。肝心の情報が伝わらず戦に敗れ家が滅ぶ。家が滅ぶ際において文字の味わいなどどうでもいいことである」


この馬鹿は何を言っているんだ。そんなことも分からないのか。と言外に主張しているつもりで話をした。これは言葉の喧嘩だ。一切の弱みを見せず、最初から最後まで俺が正しいに決まっているのだと思わせなければならない。


「文字の味わい、などというものは連歌や和歌の会ででも存分に楽しめば宜しい。日記や短歌の中まで逐一確認し否定するつもりはない。であるのに、まるで帯刀仮名が全ての伝統や文化を奪う諸悪の根源であると言い募るは浅慮にして傲慢と」

 「左様には言うておりませぬ!」


 言葉を遮られた。老人とは思えない力強く迫力のある声だ。その気合、その気迫、初めて織田家筆頭家老の眼力を正面から受けた。軽いものではない。だがしかし、

 「左様にしか聞こえぬから言うておるのだ!」


 黙らされては負けだ。だから俺は同じように言い返した。佐久間や平手までもを睨み付ける余裕はない。父や水野信元殿、松平元康殿がどのような表情をしているのかも、勿論わからない。

 さあ改めてかかってこい。そう思って俺が口を開こうとした瞬間、林の爺さんがふっと表情を緩め、笑った。


 「見事なお点前にござる。帯刀仮名についてはさておき、某、帯刀様には謝罪せねばなりますまい」

 一瞬にして場の空気を変える、柔らかな語り口だった。本当にさっきまでの爺さんかと思ってしまうくらいに。

 「左様にしか聞こえぬと、帯刀様が仰るのも道理。何しろ某も、帯刀様が本当に殿の御子かと疑う出所不確かな話に踊らされ疑っておりました故。しかし、その気迫と眼光を見れば最早帯刀様が殿の御子であることを疑う者おりますまい。これまでのご無礼、撤回した上でお詫び致します」

 「こっ……」


 このジジイ。と言いかけた言葉を何とか飲み込んだ。帯刀仮名が正しいか間違っているかの話をうやむやのうちにすり替え、その上俺が父の子供かどうかわかったものではないという噂を、出所不確かと言った。つまり自分が言った訳ではないと主張した。俺は知っている、それを言い出したのはお前だ。

 撤回した上で詫びる。という言葉には多くの意味が込められている。筆頭家老が認めたということは、今後の俺の立場が確かなものになるという意味。今後はむしろ林秀貞が俺の後ろ盾になるという意味。そして、だからこの辺りで終わりにしろ、という意味。


 「これまでの俺達に対する悪口雑言の数々を、撤回し謝罪すると言うのだな」

 「誤解があるようには思いまする。某は悪口雑言の限りなど尽くした覚えはございませぬ。しかし、そう誤解されてしまって当然のことを致したと承知してございます。それらの無礼をお詫びしたいと」

 「そうか……」


 林の爺さんを見る。表情は薄い笑顔で、目を見ても何を思っているのか分かるものではない。恐らく俺はまだこの老人が被る皮を剥ぎ取るに至っていないのだ。向こうからしてみれば藪をつついたら蛇が出て来た。くらいには思っているだろうが、結局何とでもなったと考えているのだろう。確かに、この場において俺は見事に言葉でやり込められた。


 「であるのならば、早く詫びよ」

 「…………は?」


 だが、言葉でやり込められたなら、力技で押し通す。原動力は怒りだ。

 「ご家老は無礼を詫びると言ったのであろう?」

 「左様でございます。ですからこの通りに」

 「頭が高かろう。詫びる者がなぜ詫びられる者よりも高い位置に頭を置いておるのだ」

 俺がそう言った瞬間、思わずといったようすで『クケッ』と笑いが漏れた。父だ。どうやらこの期に及んで俺が引かなかったことが面白いらしい。


 「俺はこの通り童故、頭の位置も低い。ご家老が俺に詫びるというのであれば、しっかりとここに頭を付けて貰わねば詫びとしては承服しかねる」

 ここ、と言って指さしたのは板の間、つまりここに頭を付けろということ。土下座の要求だ。事ここに及んで初めて、林の爺さんの顔に怒りの表情が浮かんだ。

 「更に、先程俺は俺達に対しての詫びと言った。つまり、母上や塙一族一人ひとりに対しても同様に頭を下げてもらう。謝罪とはそういう事である。宜しいな」


 『図に乗るなよ、糞餓鬼』


 その時、林の爺さんの目がそう言っている様子がはっきりと見え、聞こえた。筆頭家老という席は重たい。気に食わなければ主を裏切って自分が取って代わるということも隣国では平気で起きていたし、実際この林の爺さんは父ではなくその弟を担いで父と争ったこともある人物だ。その後ろに次席家老、重臣と居並んでいる以上、最終的に力対力の争いになれば、踏みつぶされるのは俺だ。


 『やるならやってやるぞ、ジジイ』


 しかし俺は、目でそう言い返した。踏みつぶされる瞬間まで、俺は睨み返してやるつもりだ。

 「お許し下さいませ、帯刀様」

 「我ら帯刀様とご生母直子様、並びに塙家の方々に対し事実無根の誹謗中傷を行ったことを認め、これを撤回、謝罪いたします」


 俺は引かず、そして林の爺さんも引かない睨み合いは、意外にも林の後方に座る次席家老佐久間信盛と、平手久秀の二人によって終止符が打たれた。


 「後ほど、直子様、塙家の皆様にもお詫びに参ります」

 「帯刀様におかれましてはどうかお怒りを解いて下さりますよう」

 その言葉に俺は混乱し、そして林も混乱していた。意地の張り合いになれば筆頭家老、次席家老、重臣、更に織田家譜代が多くいる帯刀仮名反対派が勝つに決まっているのだ。それなのにどうして、俺に頭を下げるのか。


 「はっはっは、剛毅でございますな。林殿は」

 「誠に」

 何が起こっているのか分からずに思考停止していると、客人である水野信元殿と松平元康殿が笑った。振り返ると、二人はまるで大した話はしていないというような素振りで、それでいて場の全員に聞こえる明瞭な声で語っていた。


 「この期に及んでも帯刀殿に決して頭を下げることは無いというのはさすがの胆力でござる」

 「自信があるのでござろう。自分の考えは間違っておらず、間違っているのは帯刀殿であるという自信が」

 「某は今後、帯刀仮名を使おうと考えてござるが、松平殿は如何なさる?」

 「某も同様にござる。無骨者故、文字ごとの微妙な意味の差など分かりませぬからな。尤も、簡単であるからなどと言って女手の文字を多用していては家臣に侮られてしまうかもしれませぬが」

 「奥に出す手紙であれば丁度宜しかろう」

 わざとらしい会話を聞いて、はっと気が付き正面を見直すと、林の爺さん以外の、帯刀仮名反対派とされていた連中が皆頭を下げていた。林の爺さんが、さっと顔を青ざめさせ、そして、


 「先程のご両人の論を聞き、我ら一同も帯刀仮名の有益さに気が付き申した。以降は我らも帯刀仮名を除く有象無象の変体仮名は禁ずることといたしまする」


 佐久間信盛がそう言った瞬間、俺も、林の爺さんも悟った。俺は納得したが、林の爺さんは絶望しただろう。それは人一人が見捨てられる瞬間だった。裏でどういう話し合いがあり、どう取り決められたのかは知らない。だが、上座に座る父は俺に対してよくやったという表情を見せており、重臣達は一人として林の事を見ない。


 「秀貞よ、貴様の考えはよく分かった。追って沙汰をする、下がれ」

 薄ら笑いを浮かべながら、結論としてそう述べた父の一言が、何とも恐ろしかった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] すっごい…二話目ですでにめちゃくちゃ面白い。
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