第十七話・戦国から安土へ
「こ、こんなことが……」
目の前の光景に、俺は茫然としていた。
浅井氏の居城小谷城が近江有数の堅固な要塞であることは実際に見た俺もよく分かっている。だが、天下の誰に聞いてみたところで、小谷城を近江一の城とは言わない。近江で二番目の城はどこか、という話であれば多くの人間が議論を行い、その中に小谷城の名も出てくるだろう。しかし、一番は誰がどう考えても、俺が今目にしている観音寺城、即ち六角氏の居城であることに議論の余地はないのだ。
小谷城は清水谷に家臣達の居館を設けていた。それだけでも規模としては大きいが、観音寺城もまた、南北に長い繖山を天然の要害として利用した山城で、その山麓全体に居住地を設けている。それらの居住地、大小の曲輪は合計で千を超えると言われ、全ての曲輪に石垣が供えられている。戦国の世に登場した新兵器鉄砲に対し、既に対策を講じているのだ。それらの曲輪は幾つかの塊を形成し、それぞれ独立した城のように名が与えられている。俺が把握しているだけでも平井丸・池田丸・淡路丸・伊藤丸・沢田丸・馬渕丸・三井丸・馬場丸・大見付丸・三国丸・伊庭丸・進藤丸・後藤丸・観音寺と数多い。これらの名は家臣の名前から取られており、それぞれの曲輪にはそれぞれの一族が住んでいる。これは即ちそれぞれの曲輪が支城一つ分の実力を有しているという事である。
この城を攻めようとするのならば攻め口は二つ。一つは南側で、こちらの前線は先に述べた曲輪のうち平井丸と池田丸が構えている。更に、観音寺城の南には箕作城、長光寺城がありうかつに攻めれば挟撃、包囲殲滅される危険性がある。北側には安土山が聳え尾根沿いに切岸と巨大な土塁をもって防衛線が形成されている。
この壮大な構えと、京大坂に近いという地理があったればこそ、父は自ら出向き、居を低くして協力を求めたのだ。六角氏とはそれ程の勢力であり、観音寺城とはそれ程の城である。その城が、
「これほどまでに容易く観音寺城が落ちるか」
「これも、義兄上のお力が成した業。おめでとうございまする」
「誠、織田様の御威光と言うべきにございましょう」
「この勢いをかって、次は京へ、いよいよ三好攻めですな、殿」
唖然としている俺をよそに、父と、その同盟者達が話をしていた。今回、俺は父の太刀持ちだ。何も言わず、ただ自分の傍で戦見学をしていろと父から言われた。父と話をしている三人は浅井長政・松平信一・水野信元。清洲同盟を結んだ松平元康殿も、その仲介役を担った水野信元殿も、兵を出すことを約束した。松平家からは一門衆の松平信一殿が参戦し、父の美濃平定と前後して同盟者から外様の家臣という位置づけになりつつある水野信元殿は自ら出兵した。
「焦るな信元、まずは義秋様に勝利を報せるのだ。京までの道行の安全が確保されたところで我らは京へ進み、義秋様にお出まし頂く」
父も、下手に独立性を保つよりも完全に家臣化してしまった方が良いという水野殿の判断をよく理解しているので、分かり易く家臣として扱うようになっている。
「日野城に一千の兵が籠っているそうですが、如何します?」
「今下総守が降伏開城の説得に向かっている。降伏するにせよ、せぬにせよ、しばし休憩だ。徳川勢も十分に英気を養うがいい」
逆に独立独歩の道を歩んだのが松平殿だ。松平元康殿は清洲同盟の後元康を家康と改め亡き今川義元殿の元の字を切り捨てることで今川家との縁をも切り、朝廷から従五位下三河守の叙任を受けるとそれに合わせて姓を徳川と改めた。今の彼は従五位下徳川三河守家康だ。家康殿は父とは友好的であるが家臣化はしていない。三河守の叙任を求めたのも、西三河だけでなく、三河全てを手中に収める大義名分を欲した為だろう。
「三好三人衆は未だ三好義継殿、松永久秀殿と交戦中である。奴らに先んじて京へ大軍をもって押し寄せれば義秋様の十四代将軍就任が確実となろう。京の都にも観音寺城が落ち、間もなく織田上総介が義秋様を奉じて上洛すると報せる」
父の言葉に三人が頷く。桶狭間に限らず、兵は神速を貴ぶとは父が体現している事であるが、それにもまして今は急ぐ必要がある。今、京を掌中に納め、十四代足利将軍を擁立せんとする勢力は父だけではないからだ。もう一つの勢力が三好氏、担ごうとする人物は足利義親公。歴とした足利の一族で、十三代将軍足利義輝公亡き後将軍補佐の任に就いていた人物だ。還俗し義秋と名乗るようになった一条院覚慶様と比べるに、血筋の上では覚慶様の方が有利だが現状京都を支配している三好家が擁立しているという点については不利である。もし三好家が盤石であるのならば父とて付け入る隙はなかっただろう。だが、今ならば隙がある。
三好長慶という、畿内最大最高の大人物がいた。日ノ本において、京を支配下に置いた者が天下人という事実は揺るがない。即ち戦国の世において天下人足り得た最初の人物だ。観音寺城という天下の堅城を持つ六角家が、名将宗滴公を擁した朝倉家が、天下に覇を唱えられなかった理由は偏に三好長慶がいたからだと言って良い。だが、その三好長慶が死んだ。それも後継者問題を解決することが出来ないままに死んだ。三好家の跡を継いだのが、三好義継殿、三好長慶の甥にあたる人物だ。
三好家の大黒柱がいなくなったことを好機と見た人物は多くいた。恐らく父とてそのうちの一人だろう。その中で最も大きく動いたのが先の将軍足利義輝公だ。義輝公は三好家の傀儡として何一つ決めることが出来ないお飾りの将軍であることを良しとせず、三好家を京都から駆逐しようとした。そしてそれを危険と見た三好義継、三好三人衆、松永久通らの手によって二条御所にて殺害される。
その時、三好一族がどのように考えていたのかは知りようもないが結果からするとこれは悪手であり、父にとっては降って湧いた好機だった。義輝公亡き後、空位である十四代将軍に誰かが就任しなければならないことは道理。筆頭に、その弟君であらせられる義秋様が挙がるが、実の兄を殺された義秋様が三好一族を頼る筈もない。三年の流浪を経て、朝倉家、そして織田家を頼り上洛を果たさんとしている。一方で三好家では三好三人衆が実権を奪い、それに反発した義継殿が、松永久通とその父久秀と結び争うようになった。戦いは終始三好三人衆優位のまま推移しているものの、歴戦の古強者松永久秀は頑強に戦い続け、若くして尾張美濃二国を制した大物織田信長に協力を要請、父信長はこれをうけいれた。もしここに六角氏も加われば三好三人衆に対しての包囲網が形成されることになったが、三好三人衆は父に先んじて六角義賢を味方につけた。
事ここに至って、義秋様を奉じる織田信長とそれに協力する三好義継・松永久秀の連合と、義親様を奉じる三好三人衆とそれに協力する六角家という対立構造が出来上がった。美濃より西上する織田軍を近江で六角家が足止めし、大和で抵抗する松永久秀らを三好三人衆が南下して攻撃する。松永久秀らが敗れる前に京に到着すれば父の勝ちだ。京都の掌握は、正に早い者勝ち。
「しかし、戦いも調略も、全て義兄上の手で行われてしまいました。願わくば、三好三人衆との戦いの際には我らにも手柄を残しておいて頂きたいですな」
浅井長政殿が言うと、松平殿、水野殿が相次いで頷いた。父が機嫌よくカカカカと笑う。
「思った以上に寄り合い連中が多かったものでな。家臣共に兵を預けたら皆張り切りよったわ」
織田勢が一万五千、浅井勢が三千、徳川、水野勢がそれぞれ千で合計二万。それだけでも十分大軍と言えるが、現在観音寺城内外に進駐している兵力は合計で六万を超えている。降って湧いた四万強の軍勢は、父が美濃を発してから傘下に降った国人衆や地元の有力者、その他有象無象の者達である。単に行軍中の食料を求めて集まってきた者もおり、手柄を立て家を興そうとしている者もいる。正に有象無象、烏合の衆と呼ぶのにふさわしい陣容であったけれど、父はそれらの兵を家臣達に振り分け、競うように攻めさせた。西美濃三人衆筆頭稲葉良通が率いる第一隊は和田山城へ、筆頭家老の権六殿と可隆君の父親森可成殿が率いる第二隊は観音寺城へ、父信長が指揮し、滝川一益殿、丹羽長秀殿、そして斉天大聖木下秀吉殿らの本隊が箕作城へ。
圧倒的な大軍を擁する織田軍は終始攻勢を強め、城を囲んだ永禄十年九月十二日早朝から日没まで戦闘は続いた。俺は父に従って箕作城攻めを見ていたが、息つく暇もない攻勢であるのと同時に、纏まりがなく、ただそれぞれの兵がそれぞれの思う通りに攻撃しているちぐはぐな攻撃にも見えた。城方の反撃も頑強で、この日だけで千を超す被害が出たことは後に聞いた。母の実家塙家にも多くの死者が出ている。
突如戦況が動き、そして大勢が決したのは翌、九月十三日未明。初めての戦場の空気に呑まれ情けなくも憔悴してしまった俺は深く眠っていた。そして、突然の歓声に飛び起き、父の元へと向かい、箕作城を見ると、箕作城が赤く燃え上がっていた。
『猿が夜襲を仕掛けた。上手く行ったな』
既に起き上がり、握り飯を食っていた父は俺にも一つ塩握りを渡すと、随分と丈夫な猿だと笑った。同感だった。斉天大聖は前日の箕作城攻めにおいてずっと陣頭指揮を執っていたのだ。この上夜襲の指揮まで取るというのは尋常な体力ではない。
結局、夜明けを待たずして箕作城は落城し、箕作城が落城したことを知った和田山城は逃亡兵が相次ぎ間もなく稲葉良通が接収、僅か二日かからずに南の出城二つが陥落した。そして、こともあろうに観音寺城の主である六角義賢その人が夜陰に乗じて伊賀方面へと逃亡。主を失った観音寺城の各曲輪の主達も続々と降伏し、こうして開戦から五日と経たずして、近江一の城観音寺城は落城した。
「松平信一、箕作城一番乗りの大功、この信長大いに感じ入った。追って徳川殿にも報せよう」
父が徳川家援軍松平信一殿に言うと、信一殿は膝を付き、有難き幸せと答える。
「上洛戦の為に延びていた織田・徳川の婚儀も近々執り行うことが出来よう。年内には京掌握を終わらせ、雪解け頃には輿入れとしたい」
「そのお言葉主三河守も喜びましょう」
取り敢えずとばかりに父が永楽銭の詰まった箱を持ってこさせた。チラリと覗き見る。俺の作らせた永楽銭もそこそこ混じっている筈だ。最近は生産量も質も良くなって来ている。鐚銭扱いはされない筈だ。
「寄り合いの連中が観音寺城城下で狼藉をしないように見張れ。もし乱暴狼藉の輩あれば上総介に報せることをせずともよいのでその場で切り捨てよ。京に入るよりも先に綱紀粛正をしかと行わねばならぬ。木曽義仲の二の舞はならぬぞ」
父が三人に伝えると、三人が揃ってははっ、と返事をした。
その翌日、神戸具盛の説得に応じた蒲生賢秀は息子氏郷を人質に出し降伏。父は本隊の一万を纏め未だ大和の国北方で三好義継・松永久秀と交戦中の三好三人衆の後背を突こうと進軍した。戦況利あらずと見た三好三人衆は戦うことなく撤退。撤退先は北の京都ではなく、西の和泉、河内、そして四国の阿波であった。父はこれを追撃し大いに打ち破り、畿内から三好三人衆の勢力は駆逐され、最早織田軍の京都上洛を止められる勢力はいなくなった。そして義秋様は九月に十八日に入京、清水寺にお入りとなった。
協力体制にあった三好義継と松永久秀は三好三人衆との戦闘を終えた後改めて降伏。兄の仇である二人を許すことは出来ないと義秋様が仰せになったが、三好家の正式な当主とその重臣に利用価値があることを認めた父が仲介し、最終的に二人は父に降伏ではなく、義秋様に対し降伏し、幕臣として仕えることで罪を許された。三好義継は北河内半国を安堵、松永久秀は影響力の強い大和を切り取り次第とされた。切り取り次第、即ち奪い取ればお前のものだ。という意味である。
三好・松永勢を加え、更に集まって来た兵は最終的に七万五千を超し、洛中洛外に犇めいたが、京洛の治安が乱れることは無かった。かつて専横を極めた平氏を京都から駆逐した木曾義仲公の兵が京にて乱暴狼藉を働き、却って治安を悪くした結果公家衆からの支持を失ったという故事がある。自身がそうなることを恐れた父が、一銭でも金を盗んだ兵はその場で首を切ると触れを出し、実際に入京した初日に兵二人の首を自ら刎ねた。この出来事により織田軍の兵は異様なまでの統率をもって京に進駐することとなった。
義秋公は義秋という名を不吉だとし、京都で取り急ぎ元服の儀を行い義昭と名を改めた。義昭公は正親町の帝に拝謁し、十月十八日遂に、朝廷から将軍宣下を受けて第十四代将軍に就任した。同時に従四位下・参議・左近衛権中将にも昇叙・任官された。足利幕府は再興され、父は中興の功臣として名を馳せることとなった。幕臣となった父は足利家の桐紋と斯波家並の礼遇を賜り、駆逐した三好三人衆の領地であった堺と摂津を直轄地とすることを願い出、これを認められた。ここまでにかかった日数が、俺が美濃を出てから数えて二ヶ月弱、観音寺城攻めから数えればひと月半。ふたを開けてみれば、何もかも母の予言通りの結果となった。




