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信長の庶子  作者: 壬生一郎
織田信正編
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第十六部・戦争前夜

「初めて御意を得ましたること恐悦の極みにございまする! 某赤母衣衆筆頭前田又左衛門利家と申す者! 浅井宮内少輔久政様におかれましてはご機嫌もよろしく重畳至極!」

突如として、その場の話の流れを全て一刀両断するかのような猛々しい声が室内に響いた。そして、その声に対し更にもう一人分の声が続く。


「同じく、織田家重臣森可成が嫡男、森可隆にござる。今後とも昵懇(じっこん)の関係をと、主君、父からも言われておりまする」

織田家当主信長の名代と、浅井家の先代当主の話の間に、突然割って入り挨拶をするなどという事が無礼千万な行為であることをこの二人が知っていない筈はない。しかし、不穏な空気、そして俺が何らかの罠に嵌められつつあることを感じ取り、その無礼な行為を押し通してくれた。


二人はそのままずずいと前に出て、俺の左右に並ぶような位置にまでやってきた。赤母衣衆筆頭と重臣森家の嫡男、そして村井家の跡を継げるか継げないかもよく分かっていない養子の俺となると、将来的に誰が最も織田家において重要な人物となるのかは判断が分かれるところだろう。けれど、濃尾二国で一番偉いのが織田信長という事実は揺るがないので、その庶子にして長子である俺が名代であり相手からすれば主賓である。つまりその俺に並びかけるような真似も又、許される筈のない行為である。


「これはこれは」


俺が一呼吸入れたのとほぼ同じ間で、喜右衛門が薄く笑い、口を開いた。

「某としたことが、名乗るを忘れており申した。織田家の方々は礼儀正しゅうございますな。申し遅れましたが、某遠藤直経と申す者でございます。前田又左衛門利家殿、並びに森可隆殿、今後ともご昵懇に願います」


無駄のない所作で、遠藤直経が頭を下げた。この男が遠藤直経か。


「貴殿が遠藤直経殿であったか。知勇兼備の名将と聞いておる」

「はて、それは某の事ではないのではございませぬかな?」

俺が言うと、遠藤直経が首を傾げた。母からは敵に回せば恐ろしく、味方とすればこれ以上なく頼もしい重臣であり忠臣であるとの評価を下されている。つまり、油断できない相手という事だ。


「備前守様の博役をしていた程の者を間違えは致さぬ」


俺の言葉に、久政がほう、と声をあげた。備前守というのは現当主長政のことだ。その博役をしていたのだからさぞかし信頼も厚いだろう。それらの情報を俺が知っているという事に、久政は多少の驚きを見せた。しかし、

「人違いではないようですが、やはり知勇兼備の名将は過分でございますな」


遠藤直経は特に反応も示さずに謙遜を続けた。ようやく落ち着いてその表情を見る。彫りが深く、姿勢が良い。こちらを圧して来るような気迫を見せてはこないが逆に何をしても受け流されてしまいそうな、深みのある人相をしている。顔が似ている訳ではないけれど、どこか彦右衛門殿、滝川一益を彷彿とさせた。


「某としては、せっかくの機会であるので野良田の戦いについて聞きたいところだ。こちらには槍の又左がいる。桶狭間の話でもして進ぜよう」

「それはそれは面白きこと。なれど」

にっこりと笑いながら答えた遠藤直経はしかし、すっと視線をずらし久政を見た。


「先程宮内少輔様が何か言いかけておりました。我らの話はその後にても宜しゅうございますか?」

「勿論構わない」

鷹揚に俺が頷くと、久政がそう言えば何か言おうとしていたな、と首を傾げ、暫く何か考える様子を見せた後、ふと思いついたかのように聞いてきた。


「貴殿、尾張を欲しいと思ったことは誠一度たりともないのか?」

危険な、それは極めて危険な質問だった。


はい。と答えればそれはそのまま奇妙丸に対しての謀反に繋がる言葉となる。いいえと答えれば、何故いいえであるのかの理由を問われるだろう。そこでしどろもどろになってしまえば恐らく『貴殿には尾張を治めるだけの器量がある』などと言われる。どちらにせよ、浅井家は織田家に対して内紛の種を撒くことが出来る。俺が何も言わなかったとしても、浅井家が俺を立てようとすれば否応なく織田家に帯刀派が出てきてしまう。戦国の世において、家が滅びる理由の第一位は家中の内紛だ。それだけは避けなければならない。


きっと、先程浅井久政と遠藤直経にやり込められていた時であったら、俺はこの問いについても上手く回答することが出来ず、父の立場を悪くしてしまった事だろう。

「尾張一国など、そのようなものに興味はありませんな」

けれど、この時の俺は冷静に、そして臆することなく言い返すことが出来た。二人が時を稼いでくれたおかげで。二人が隣に並んでくれているおかげで。


「ほう、尾張一国をそのようなものと」

「左様。尾張一国などちっぽけにござる。某が欲しているのは天下故」


言われていたのだ。織田の敵となりうるは長政ではなく先代久政だと。久政とその一派を引き込むことが出来た時、それが浅井家を真に織田の盟友と出来た時だと。故に大言壮語した。


「剛毅剛毅、帯刀殿は年齢に似合わぬ落ち着いた御仁であるが、なかなかどうして、若者らしい大望も持っているようじゃ。しかし」

「しかし?」

「天下を欲すればこそ、尾張一国を手にし天下に覇を唱える足掛かりとすべきではないのかな?」

「左様にござる。そして今織田家は京に兵を向けておりまする。後には嫡子奇妙丸様が天下取りの覇業を受け継ぎましょう。某はその覇業の手助けを行いまする。天下統一が織田の手によってなされるのであれば、某が尾張一国に拘ることなど愚かな事。又、天下が織田家によって統一されれば、某が一国や二国を賜ることも夢物語ではござらぬ」

「帯刀殿は天下の宰相たらんと欲するか」

「願わくば」

「二代に仕え、主に天下を献上せんとす。(いにしえ)に、そのような軍師がおりましたな」

「諸葛孔明の話ですか?」


聞くと、よくご存じでと頷かれた。


「貴殿が諸葛孔明を目指すとなると、残念なことに織田家は天下を得られぬな」

偉い人間は故事になぞらえるのが大好きだと聞いたことがある。今孔明や今子建という名を持ち出すのもそうであるし、ちょっと勤王の志強い武将が現れればすぐ楠木公の如し、北畠大将軍の再来、などと言われる。そして、諸葛孔明の故事になぞらえれば、結果として蜀は天下を取れていないし、三国の内で最初に滅びてもいる。


「美濃には既に今孔明殿がおられます。それに某は諸葛孔明を目指したことなどございませぬ。もっと強く気高い、見本となる方がおられます故に」

言いながら、久政の目を正面から見据える。林の爺さんに始まり、こうしてひとかどの人物の視線を正面から受け止めるのは何度目であろうか。一つの家、勢力を束ね率いてきた男の視線は矢張り重く、鋭い。


「その方の名を、お聞かせ願えるかな?」


朝倉宗滴(あさくらそうてき)


その名を出すと、久政の目がグッと細められた。朝倉宗滴、浅井家を囲む三つの勢力のうちの一つ朝倉家において伝説となっている人物だ。朝倉家四代に仕え、朝倉家を北陸の最大勢力へと押し上げた。そして、それにもまして重要であるのが、目の前の久政が親朝倉家筆頭の人物であるという事実だ。


「某は、朝倉宗滴公を手本とし、尾張や織田家を欲することなく、ただ戦場の一大将として名を天下に知らしめる所存」

この大言壮語が、実際に達成出来る事かどうかは分からないし、出来なくても構わない。ただ、この名前を出した時点で、久政の立場からして俺の言葉を否定は出来ない筈だ。


「……その言、誠天晴れであると存ずる」

「お褒めに預かり光栄至極」


暫く黙っていた久政は、またも最初にしていたような忌々し気な口調、表情に戻り、俺を褒めた。

その後、二言三言会話を交わした後、久政が立ち上がった。自分はもう寝る。貴殿らはこの屋敷でゆるりと過ごすと良い。とのことだった。


「相すまぬが、新九郎は貴殿に会うことが出来ぬ」


去り際に、久政が何でもない事のように言った。当主の義兄が寄越した名代に、その当主が会わないとはこれいかに、と首を傾げると、久政は首を横に振った。


「六角討伐の為、兵を出さねばならぬのでな。当家は三千の兵を出す。観音寺城までの案内と、移動中の糧食についても当家が何とかする故、その準備があるのだ」


兵三千、その準備の為、それは十分すぎる言葉だった。

「御助力、かたじけのうござる」

「……当家はこれより織田家と(くつわ)を並べ天下を目指すのだ。これくらいは当然のことである」

 平伏する俺の事を最早見もせず、浅井久政は去って行った。




 「見事な口上でしたな」

 夕餉を取った後、用意された部屋の中で又左殿が言った。


 「いや、二人が助けてくれなかったらしどろもどろになって良いように言質を取られてしまったと思う。ありがとう」

 「いやいや、帯刀様よりもむしろ可隆が不安でしてな。いつあの皺首に切りかかるかと」

 返された一言にギョッとして可隆君を見た。可隆君は悪びれもせず、不敵に口元を歪ませている。

「無礼な質問を繰り返したのはあちら故」


織田家に対しての忠誠心と負けん気の塊みたいな男である可隆君らしい言葉だ。ならばと重ねて又左殿に礼を言い、可隆君にも(かたじけな)いと言った。そして、こんなに頼りになる二人を付けてくれた父にも感謝しなければ。俺は決して疎んじられてなどいない。


「ま、そんな事よりも先程の口上について伺いたいですな。浅井家にあって朝倉宗滴公の恩名を出すとは誠妙手。あれはいつ頃から考えておられたので?」

「考えていない。母から台本を貰った」


噓を吐いても仕方がないので本当のことを言った。浅井家が織田家を敵に回すとするならばその旗頭は浅井久政。その浅井久政が大人しくしているのならばよし。そうでなく織田家の内紛を誘う為に舌戦を仕掛けてくるのであれば、今の俺ではとても敵わないので、この名を使ってその場は逃げろ。そういう事であったらしい。


「直子様の掌の上でしたか」

「俺の行動など逐一母親の(たなごころ)さ」

説明をすると又左殿がかっかっかと笑った。最早、どうしてそこまでの事を読めるのか、知っているのか、などという質問はしてこない。可隆君も、複雑そうな表情をしているけれど母がすることであればと納得したようだ。


「しかし、兵三千の確約も取れました。我らは明日の早朝にも小谷を出、大急ぎで戻りましょう。関ヶ原辺りまで戻れば殿もじきにお出ましのはずです。そこで、報告を致せば」

「うん、これで、最早戦が始まるのを待つのみ」


そして始まってしまえば織田家が弾き返されるか、織田家が京に旗を立てるまでこの戦は終わらない。それには一体――



「始まった戦は、一体如何程で終わるのかしら?」



そう、それが一体いつ終わるのか……??


「お久しぶりですね、帯刀殿」


聞きなれた女性の声が聞こえ、部屋の障子が開かれた。現れたのは我が叔母市姫。たおやかに微笑み、左右に女中を引き連れながらの登場だった。

「二人とも、顔を上げなさい」


市姉さんの登場に、どうしてここにとも、何かご用でとも言わずただ床に這いつくばった又左殿と可隆君。相変わらず、その場に居るだけで相手をひれ伏させる空気を纏ったお方だ。

「こちらから伺うべきところを、御足労頂きまして誠に申し訳ございません。此度この帯刀、主君織田上総介より名代として」

「此度の戦、一体いつ終わるのです?」


挨拶をしている途中で遮られ、先程と同じ質問を繰り返された。いつ頃、と言われても分からないし、大きなことは言えないので父は京に織田の旗を立てるまで終えるつもりがないこと、三年以内には成し遂げるつもりであることを伝えた。


「三年?」


市姉さんにキッと睨まれた。長すぎる、と思っているのだろう。

「ご心配なさらずとも、お市様が危険にさらされるようなことはございませぬ」

「そのような心配は初めからしておりませぬ。この小谷城は近江でも屈指の堅城。加えて、今の浅井家は織田、朝倉両家との強い繋がりもあって日の出の勢いです。戦もなく何事もなく、(つつが)なく暮らせておるのですよ」

「……そは重畳至極」


機嫌悪いなあ。と、頭を下げながら思った。戦もなくはともかくとして何事もなく、というのは『退屈だ』と言っているのに等しい。

「帯刀殿は、どう考えております?」

「某如きに分かるものではございません」

そして、貴女に言質を取られるのが怖くてなりません。


「構いませぬ。参考とするまでです」

嘘だ。俺の予想が外れたら手紙を出してきてどういうことだと詰問して来るに決まっている。

「某は、長くとも今年を含めて二年と考えております」

「長く見て来年中……」


少し、考えるような様子になった。それならばまだマシと思っているのだろう。実際にどうなるかは誰にもわからない。あっという間に押し返されるかもしれないのだ。

「ここは京も近く太い街道もございます。尾張の田舎とは違い、話題には事欠かないのではないでしょうか?」


のんびり待っていて欲しいという希望を込め、話を変えてみた。清水谷の城下には北陸と東海地方を結ぶ北国脇往還があり、そこから南には、東山道に通じる小谷道が分かれている。西の琵琶湖の水運が畿内の経済のかなめであることなど言うまでもない。市姉さんが求めているような書物やら音楽やら、面白いものはありそうなものだ。


「ええ、それはもう尾張とは違いまする。もうじき戦なれば、家中に集まるは武器弾薬兵糧の類。家中の者達も一騎当千の豪傑揃いで今川家のような奢侈文弱な輩は一人もおりませぬ」

「た、頼もしきことにござりまするな」


駄目だった。戦時中に娯楽物を集めることは出来ず、浅井家の連中は物語の楽しみを理解する者がおらず、とそう言い返された。ニコニコと笑っている表情が怖い。意識的に、筋肉を使って無理やり笑っている感じがありありと分かる。間違いなく、兄弟姉妹の中で最も父に気性が似ている人物なのだ。何かしろと言われたら大概のことは出来るが、何もするなと言われて我慢できるようなご気性ではない。


「そういえば、帯刀殿にも少々文弱の気がございましたが、その後如何ですか?」

新作は書いているのか、と聞かれた。まずいな。


「ご安心召されませ。お市様が浅井家にいらしてより某も忙しい身にございまして、織田家の為内治に鍛錬にと励んでおりますれば、創作物になど現を抜かす暇はございませぬ」

(ごめんなさい、書いてないです)


「されば安心致しました。それ程忙しい身であるのならば、時折鍛錬を休み、徒然に物語を書きつくることも良き気晴らしとなりましょう」

(鍛錬などどうでもいいから書きなさい)


「お言葉、痛み入りまする」

(考えておきます)


「宜しいですね?」

(書くと言いなさい)


「…………はい」

(…………はい)


「で、あるか」

(さっさとそう言え)


最後にちょっとだけ市姉さんの素が漏れはしたものの、俺達がこうやって暗号のような会話をしているのには勿論理由がある。元々俺達のような生まれがそこそこ高い身分の連中は人前で本音など話せない。先程味方をするという確約を得たものの、浅井家中が二つに割れていることは見た通りだ。どこで誰が話を聞いていて、その話が誰に到達するか分かったものではない。故に、このような話し方になる。


「そなたの母は」

「母?」


僅かな沈黙の後、市姉さんが言った。母直子に、何か言伝でもあるのだろうか。


「そなたの母はどれほど時がかかると言っておりますか?」

「いや、それは」


その質問に、俺は無様に狼狽えた。父は何年かかっても必ず京都に旗を立てるという不退転の覚悟を持っている。俺は、それ程長くはかからないのではないかと思っている。しかし母は。


「言いなさい。所詮は女子のいう事です」

織田家に母の言葉を所詮は女子の言葉と侮る奴はいない。当主である父からしてそうなのだから。

「母は、もし当月中に織田、六角の間で戦端が開かれることがあれば、二ヶ月かからずして織田家の旗が京都に翻るであろうと」

その言葉に、市姉さんは返事をしなかった。だが、細めていた目を丸く見開き、口角をグググッと持ち上げた。酷く獰猛な笑い方だった。


「よく分かりました。夫、長政様もよしなにと言っておりました。又面白き物語を書いてくれとも。明日は早いのでしょう? そろそろ私はお暇致します。犬も、可隆も、息災でありなさい」

聞きたかった情報が得られたという満足からか、市姉さんはさっさと立ち上がり、お供の者達を引き連れて部屋を出て行ってしまった。


「どうなるものかな」


俺は、強い疲労感に襲われつつ、来たるべき戦の想像をする事しか出来なかった。


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