第十四話・近江路男旅
「帯刀様、小谷城が見えましたぞ」
可隆君が嬉しそうな声を出した。岐阜城から直線距離にして恐らく十二、三里(約50±2キロ)道のりにして二十里(約80キロ)はあったであろう旅路の後とは思えない元気さだ。
「あれは、南の出丸かな?」
俺と可隆君と母とが来たる上洛について話をしていた日の丁度その時、織田と六角は戦争状態となった。期せずして、一体どれだけの期間で六角氏を降せるかという問答の答えが分かるようになったわけだ。俺は父の命に従って急ぎ岐阜城へと向かった。手紙を携えてやってきた使者が取り急ぎ御身だけでも岐阜へと言うものだから、使者と可隆君、そして僅かな供回りだけを連れて古渡城を出た。兵を集めて岐阜城に送ることは、事務的な作業は嘉兵衛が、陣頭指揮は長則が行ってくれる。
岐阜城に到着すると、俺は密かに父から寝所へと呼び出されその場で小谷城行きを命じられた。
『それはまた急ですね』
否やはない。言っても無駄であるし。しかし理由くらいは聞きたかったので質問はした。
『貴様に会いたいと言う者がおるのだ』
『それは、市姉さんではないですか?』
だとしたら、妹の要求をそんなにホイホイと飲まないでくれと言いたい。父はちょっと気まずそうな表情を作った後、それだけではないと言い訳染みたことを語り出した。
『京に近い近江には多くの文化人がおる。皆、若くして仮名や漢字を編纂した貴様に興味があるのだ』
『そうですか』
何だか後付けのようだなと思った。父の腹が読めている訳ではない。父が言う言葉の背景を知っている訳でもない。単なる息子としての勘だ。
『それ以外にも理由はある。貴様は庶子だが俺の長子でもある。その貴様が小谷へ直接出向くという事は織田家が浅井家を重要視していることの証拠となる。此度の相手は足利の名門六角家、その後背には三好を始めとする強敵が控えておる。北近江の浅井家との協力は必要不可欠。万が一にも信頼を疑われる訳にはいかんのだ』
俺はそうですかと言い、ならば納得ですと表現したつもりだったのだが、父は更に俺が小谷城に出向く理由を説明した。俺が父の表情から察したように、父も俺の表情から俺が納得していないことを察したのだろう。言い訳が多い男は怪しいって母ちゃんゆってたよ。と思う俺だった。
『二重三重の意味がある一手という事ですね。それであれば、取り急ぎ向かいましょう。織田の兵が近江に入ってから私が小谷に着いたのでは遅すぎます。美濃から軍勢が出るよりも前に到着しなければ』
多分、市姉さんからのお願いが一番大きな理由だろうなと思いつつも、俺は父の言葉に納得してみせた。父はうむと満足そうに頷いた。
『直子を送ろうかとも考えたのだがな』
満足そうな表情のまま父が言った。その言葉に俺は笑う。
『籠を使って移動出来れば行くかもしれませんね』
『行動力が有り余っている癖に出不精な女であるからな』
久しぶりに父と子とで笑った。母はいつの日か京都へ行くと豪語しているが自分で歩くのは嫌いなので籠に乗って移動出来るようになるまでは古渡城でいいとも言っている。戦時中に女性をのんびり籠で移動させることなど出来るはずもないので、母が京へと上る日は織田家が尾張から山城までを完全に支配してからという事になる。因みに、堺などの港町には伊勢から紀伊半島を回って船で行くそうだ。つまり畿内全てを織田家が制してから行くという事だ。それが一体何年後の事だと母は思っているのだろうか。
『犬を連れて行け、多くの兵は付けられん』
犬と呼ばれ、控えていた大柄な武者、父の手紙を携えて古渡城まで来た前田利家殿が頭を下げた。
宜しいので? と聞くのは愚問と思い頭を下げた。前田利家殿と言えば父直属の精鋭部隊である赤母衣衆の筆頭だ。俺が知る限りで最も背が高く、俺が知る限り二番目に槍が強い。右目の下には矢傷があり、精悍な面構えと合わせて一目見ただけで強そうだと分かる人物である。
畏まりましたと頷き、そうして翌早朝、俺は前田利家殿と、彼が率いる荒子衆、そしてぜひ連れて行って下さいと言って頭を下げて来た可隆君、合わせて十名余りと共に岐阜城を後にした。
「左様ですな、あれは南の出丸。小谷城は小谷山の尾根を利用した南北に長い城と聞いております。左手奥に見えるが山崎丸、右手奥に見えるが金吾丸、恐らく金吾丸の奥が本丸ではないでしょうか?」
馬の背に揺られている様子が実によく似合う前田利家殿が俺の質問に答えてくれた。彼も又、ここまでの旅路に疲れた様子を見せない。俺だって魚を獲ったり柿をもいだりと動き回ることは多いのだけれど、矢張り本当のいくさ人には敵わないな。
岐阜城を出た俺はまず船に乗り、長良川の流れを下って西へ。川の流れが南へと変わり、斉天大聖が城を建てた墨俣辺りで船を降りる。そこで馬を借り西へと進む。揖斐川を越え、更に西、大垣城で一泊した。
翌日は更に真っすぐに西へ進み美濃の国不破郡を越える。不破郡は斎藤氏時代に不破光治殿が治めていた地だ。不破光治殿は没落する斎藤氏を最後まで支え、斎藤竜興殿の助命嘆願も行った人物で斎藤家滅亡後には織田家の家臣となっている。その忠義と潔さを父も認め、市姉さんの輿入れの際にはその供奉を務めた。両家の婚姻の取り纏めにも大いに働いたらしい。
この辺りまでは楽な旅路だった。半分は船、半分は馬。織田領内であるし危険もない。しかし大垣城から西へ三里半(約14キロ)進んだ辺りで道行は険しくなる。
北に伊吹山系、南には東から順に朝倉山・南宮山・松尾山・天満山に囲まれる盆地関ヶ原。この地はかつて源平の古戦場ともなった場所で、古戦場となることも納得が出来る立地を有している。東西の大勢力が争うことになった際、この盆地を除き野戦において決戦をおこなえる場所が皆無であるのだ。更に、ここは東に濃尾平野、西には琵琶湖岸と、いずれも重要な地を睨んでいる。関ヶ原を制した者が天下を、とまでは言わないまでも、周辺地域を制す。くらいは言っても過言でないと俺には思えた。さて、この関ヶ原から西へと進めば近江であり、日ノ本で最大の湖、淡水の海とも表現される琵琶湖が存在する。そこまで出てしまえば道行も楽であるのだが、その琵琶湖南岸一帯を制しているのが此度の敵六角家だ。貴方方を挟み撃ちにする為浅井家の居城へと向かいます。通して下さいと言って通してくれるのであれば世に戦争など起こりはしない。したがって北の伊吹山系を突っ切って北西へと進路を取る。人が通る道はあり、地元の人間に案内を頼みもしたので迷うことは無いが山道故馬を降りることも多く、場合によっては野盗の類に襲われることもある。当然、山中に都合良く宿などはない。
道のりで言えば関ヶ原から六里程、全体の道のりの三分の一以下であると聞いたが、山中を進むのに三日時をかけた。山の中に或る小村にて二度泊まり、三日目の昼前に小谷山の南雲雀山へと到着した。それがつまり今だ。
「温泉があると聞いた。まず体を綺麗にして、身なりも整えよう。金もある。皆旨いものを食べ、それから備前守様にお会いしようじゃないか」
浅井新九郎長政。通称備前守。市姉さんの夫だ。市姉さんの手紙からはイケメン至極と書かれていた。母が使う謎言葉が俺や犬姉さんにしか伝わらないからと言ってそんな言葉は使わないで下さいと返答をしたらゴメリンコと返ってきた。こりゃ駄目だと溜息を吐きつつ、元気そうで何よりと安心する俺もいるのが少々悔しい。
雲雀山を下り、予め聞いておいた温泉が出る村を目指す。村長らしき人物に永楽銭を支払い、何か食える物もと頼んだ。
「しかし、上背が伸びましたな、帯刀様も可隆も」
昨日一昨日と、満足に汗を流すことが出来ずにいた一行は温泉という贅沢を許され随分と気が緩んだ。お付きの者達は外で見張りをしながら食事をし、後で俺達が食事をしている間に温泉に浸かる。浅井家に対して無礼が無いようにという名目があるので遠慮する必要もない。
「又左殿に言われても、背が伸びたという気がしてきませんよ」
白く濁った湯に浸かっていると言われたので、そう返すと隣の可隆君がうんうんと頷いた。
父や嘉兵衛など、既に平均的な大人の身長を越え尚成長中である可隆君よりも更に一回り大きな男前田利家。今まで俺が見た限りでは最も背が高い人物だ。六尺(約180センチ)を超すらしい。面長で年齢は嘉兵衛とほぼ同じの三十前後。可隆君と似た体格をしているが筋骨の付き方が一回り分厚く、威圧感がある。温泉故に今は着ていないが、身に纏う衣装の多くは高級というより独特で、原色のような濃い赤が入っていたり唐国や更に西方の国で流行っているという文様を入れてみたりと、中々の洒落者っぷりだ。
「前田家の方々は皆背が高うございますな」
「それは森家とて同じであろう。殿や、直子様の塙家はそうでもござらんな」
可隆君が言い、又左殿が答える。俺は五尺半を越え、もう少しで可隆君に追いつくかというところだ。今の可隆君よりは大きくなりたい。
「私は母から背を伸ばす方法を聞いております。それを実行しているからでしょう」
親が大きくないのになぜ背が高いのか、という疑問の視線に対し、答えた。返す刀で『どのような方法でございましょうか!?』と質問された。特に可隆君は興味津々だ。
「簡単なことですよ。適度に運動し、夜寝ること。寝る時間は少なくとも三刻半(約7時間)。若い頃であれば四刻から五刻寝ても良いそうです。それと、米や麦に偏らず日々肉を食うことを勧められております。猪や馬の肉が良いらしく、次いで鶏肉と言われております」
猪や馬は処理が大変だし簡単に潰してよいものではないからそう簡単に食べられないけれど、鶏はよく食べる。鶏卵も背を伸ばすには良いらしく毎日卵料理を食べている。母は卵料理を豊富に知っており、飽きることなく食べさせてくれるのだ。言うまでもないことだが、食べさせてくれると言うのは母が直接料理をするという意味ではなく、母が紙に書いて指示をした料理を女中が作り、一緒に食べるという意味だ。
「直子様のご指導でしたか、それなら納得ですな。食うものが違うだけで背の伸び方が違うというのは少々不思議ですが」
「食うものによって体の中で起こる働きが異なるのだそうですよ又左殿」
前田利家という人物にも呼び名が沢山ある。父は幼名の犬千代から取って犬と呼んでいるし、母はお犬と呼んで可愛がっている。俺は最初前田様と呼んでいたが権六殿の時と同じく恐縮されてしまい、又左衞門の呼び名から取って又左殿と呼ばせてもらうようになった。
「同じ量食うのであれば大根より米の方が腹持ちも良く力も出るというのは誰もが実感するところでしょう」
「左様ですな」
「五穀などの穀物は腹に入った後すぐに身体を動かす為の力となるのです。熱量と母は言っておりましたが、吸収も良くすぐに動けるようになる。農民が昼頃に塩を振った握り飯を食うのは実に理にかなっているそうです」
「身体を動かすためには穀物を食えという事ですな」
又左殿は頭も良い。その通りですと言ってから話を続けた。
「一方で、肉や魚や卵は腹に入った後に我々の身体を作ります。骨や肉を強く太く大きくし、子供に対してはその成長を促します。朝起きた時や運動の直後には体を作る為の栄養が不足しているのでここで多くの肉類を食えば体が大きくなるそうです。人の身体が最も成長するのが寝ている時故に、寝る前も効果があるとのことでした」
ほほう、と二人が俺の話を受けて納得し、可隆君が卵か、と呟いた。きっと帰ったら食べようと思っているのだろう。生は気を付けて。
「拙者のような年の者でも効果はありますかな?」
「背を伸ばすのは年齢によって限界があると聞いております。ですが、背を伸ばすための食事はそのまま筋力をつけるための食事となります故、今述べたような食事をし、普段通りの鍛錬を行えば腕も足も太く強くなることでしょう」
「ほほう、それは良いことを聞きました」
先程も述べた通り又左殿は決して細身でも貧弱でもない。右目の下に矢傷があるのを始めとして歴戦の強者を思わせる傷も多い。しかしここにいる可隆君の父可成殿や権六殿など、更に分厚い体格をした男が身近に多くいる為か自分の体格に納得してはいないらしい。これ以上大きくなってどうするつもりかと、俺は思っている。
「いつもいつも思うのですが、直子様はそのような知識をどこで得るのでしょうな?」
「さあ、母は書物で読んだ。唐や天竺や南蛮の舶来ものだ。の一辺倒ですが、母から言ってきかされた知識でどの書物を読んでも書かれていない内容など数えてキリがないほどあります。私は、母は狐の化身故にどこぞの神にでも聞いたのではないか、と考えていますが」
「それにしては、神を畏れぬ行動をなさいますが」
思わず、と言った口調で可隆君が言い、それからハッと気が付いて口を閉じた。しかし俺と又左殿は無礼と咎めることなく、寧ろその通りだと大笑いした。
牛・馬・犬・猿・鶏の五種の生き物は五畜と呼ばれ仏教において食することを禁じられている。牛は田畑を耕す、馬は人を乗せて働く、犬は家や畑の番をする、猿は人間に似ている、鶏は鳴いて時を知らせる。猿を除けば人間の役に立つからという事で一致している。そのうちの三つ、牛、馬、鶏について母は積極的に食いに行くのだ。古くは天武天皇の御代に出されたという肉食禁止文化は広く庶民にまで浸透している。最早それは教えではなく常識だ。肉を食うことは不浄であり、死んだ生物を体内に取り込むという事は穢れを自ら取り込んでいるという事。そんな考えを母はまるで気にせず、美味しいものは美味しい、美味しくない物は美味しくない、という考えで自ら判断している。
「一応、母なりに気は使っているようですよ。牛の代わりに猪、馬の代わりに鹿、鶏の代わりに雉をなるべく食うことにしています。最近では羊をようやく手に入れ、これより増やしていこうと考えているようでもあります」
とはいえそれらは神を畏れているのではなく、周りからやいのやいのと言われるのが嫌だから言っているのに過ぎないことは息子である俺が一番分かっている。犬と猿を食べないのは、『仲良しの犬と猿が身近にいるので』とか最近は言うようになったが昔『犬は可愛いし猿はキモイから食べない』と言っているのを聞いたことがある。そっちが本音だろう。いずれにせよ、神への畏れという考えは母の頭に存在しない。
「この前田又左衛門利家めは妻ともども、直子様の行いを全て支持致しまするとお伝え下さい」
「ありがとうございます。赤母衣衆筆頭、槍の又左殿の後ろ盾があれば母も大いに心強く思いましょう」
「この程度で受けた御恩が少しでも返せたとは思いませぬが、助けになれれば光栄にござる」
笑顔の又左殿が深々と頭を下げた。今は威風も堂々としており身なりも悪くない又左殿だけれど、かつて一度織田家中で諍いを起こし、相手を斬り殺して織田家を出奔したことがあり、父からは長らく帰参が許されずにいた。その頃既に結婚していた又左殿は随分と金に困ったらしい。そんな時に、妻のまつ殿の世話をしたのが母で、夫の又左殿を助けたのは斉天大聖だったそうだ。それ以来、又左殿は母を直子様と呼んで敬い、斉天大聖とは無二の親友となった。妻のまつ殿と母は、斉天大聖の妻おね殿も加えた三人で仲良くしている。桶狭間や斎藤家との戦いで武功を重ねた又左殿は後に帰参が許される。更に、前田家の当主であった父親の利昌殿が亡くなり、後を継いだ利久殿は病弱かつ跡取り息子がいないとあって、今では又左殿が前田家の旗頭だ。
「神様仏様の思し召しでないとするのならば、或いは生まれた時に既に知っていたか、前世の因縁が今世に影響を及ぼしたか、その程度しか考えられないな」
言いながら湯殿から立ち上がった。十分に汗も流したし、疲れも取れた。食い過ぎないように軽食を取り、正装に着替えて小谷城に行くとしよう。




