第十二話・織田家の姫君×2
永禄九年秋、織田家家臣木下藤吉郎秀吉が墨俣に城を築城したことにより、稲葉山城を本拠地とする斎藤竜興は喉元に刃を突きつけられたも同然となる。木下藤吉郎秀吉はそのまま墨俣城主として任命された。それを受け、西美濃三人衆である安藤守就(北方城主)、稲葉良通(曽根城主)、氏家直元(大垣城主)が織田家に臣従、戦局は一気に織田家優勢へと傾く。
開けて永禄十年の三月、雪解けを待った織田軍は一気に北上し、美濃に襲い掛かる。最早斎藤竜興に味方しようという国人衆はおらず、尾張兵は直接稲葉山城へ向かい、これを取り囲んだ。抵抗する力もなくなった斎藤竜興は死を免れる代わりに稲葉山城を出、美濃の国を追放となった。これにより、織田信長は尾張美濃二カ国の太守となる。義父村井貞勝をはじめとする文官達は直ちに美濃へ向かい同地の検地を開始。武官達も又、美濃と他国の国境沿いまで兵を進めた。
美濃が国境を接する国は北から時計回りに飛騨・信濃・三河・尾張・伊勢・近江・越前の七国。その内で南側に接する三河・尾張・伊勢の三国は織田の勢力が及ぶ領域で心配はない。最も恐ろしい敵は東の信濃を治める武田家だが、武田家は前年に次期当主を廃嫡し家中がごたついており、北信濃・越後に大敵を抱えている為攻めてくるとは考え辛い。父が辞を低くし挨拶の手紙を送ることで美濃は織田、信濃は武田と境界が確定した。北の飛騨はこれが大将と言える人物がおらず、一向宗の勢力が強い。元々飛騨という国の国力が美濃の一割程度しかないという事もあり魅力的な土地ではなく、さりとて攻めるには危険という何とも痛しかゆしな土地なのだ。父は吉乃様の御実家である生駒家を通し織田家が飛騨の一向宗を攻撃することは無いと伝えそれなりの文物を贈ることで関係良化に務めた。同時に、織田家の数百倍は一向宗に苦しめられてきた経験を持つ朝倉家には共に宗教勢力の増長を防ぎ国内の統治にまい進しようと伝えている。
これら一連の動きは美濃尾張二国の統治を名実ともに織田家とした上で石高を明らかとし、どれだけの兵、どれだけの国力が織田家にあるのかを知るためのものであった。各方面と不戦或いは同盟関係を結んだ後、残るは西への道、即ち京都への道だ。明らかに、父は次の戦を見据えていた。そして検地も終わりきらない同年四月、稲葉山城を岐阜城と改め、同城を新たな本拠地と定めた。
その、岐阜城の一角にて。
「ご家老様」
体格が良く、また恰幅も良く、強そうな顎髯を生やした彼に声をかけると、織田家筆頭家老たる柴田勝家はゆっくりと振り返り、そして俺の姿を認めるやすぐに跪いた。
「これは、御長子様ご無沙汰しておりまする。御長子様がおられるとは露知らず、お声かけ賜りましたことは恐悦至極」
「ああいや、筆頭家老様がそのように畏まらず」
「とんでもございませぬ。拙者など偶々古くから織田家に仕えているだけ。先見の明なく、殿に弓引いたる大馬鹿者にて。御長子様におかれましては、どうぞ権六か、さもなくばアゴヒゲとでもお呼び下さいませ」
「いやいやいやいや」
卑屈なくらいに俺に恐縮している柴田勝家を見て俺は首を横に振った。
「父上に弓引いたはもう昔の話です。私も村井家の養子となり、いずれ父や奇妙丸様の家臣となる身。言わばそこもとと拙者は同輩にございます。帯刀とお呼び下さい。権六殿」
「畏まりました。帯刀様」
深々と頭を下げる権六殿。彼は昔、父がうつけと呼ばれて侮られていた時代に、父の弟信行を担いで父に逆らったらしい。けれど一度戦ってみて父が単なる馬鹿ではないと知り降伏。父の父、つまり俺から見ての祖父時代から仕えていたこともあり、有力な家臣として召し抱えられていた。それでもやはり、かつて敵対したというところが負い目となって桶狭間や美濃攻めでは主力としての武働きをさせてはもらえなかったという話だ。因みにこれらの話はほぼ丸ごと母上から聞いた話だ。
「して、この権六めに何かご用でございましょうか? 何かご無礼がございましたれば」
「いやいや、そんなものはありませぬ。ただご挨拶をして回っておるのです。濃尾二国の太守となった父上が家臣方々を集めたのでありますから」
難攻不落の稲葉山城を陥落させ斎藤家を滅ぼした父上はその戦勝を賀し、同城において祝いの宴を開いた。権六殿はここで改めて筆頭家老であることを明言され、今後は前線にて戦うようにと伝えられている。俺は稲葉山城攻めに先立つ去年暮れに元服を済ませ、信正の名を正式に頂戴した。古渡城主としての地位もこの時認められた。斉天大聖も築城した墨俣とその周囲の土地を与えられ重臣としての席にしっかりとその身を座らせた。
「そういえば木下藤吉郎殿と話せていないのですが、権六殿、彼はどこにいるか分かりますか?」
「サル、いや、木下殿ですな。すぐに連れて参ります故、御免下され」
言うが早いか、権六殿はサッと立ち上がり足早に去って行った。
「何だかへりくだられているというよりも怯えられているみたいだ」
「そりゃあそうでしょう。実際に怯えられているのだから」
「下手に話をして論破されるだけならまだしも、失脚、下手をすれば追放なんだもの」
俺の呟きに、鈴のように透き通った、それでいて鋭く突き刺さるような声が二つ返される。
「これは、叔母上方」
女性にしてはすらりと背が高く釣り目の美人姉妹。年の頃は確か姉の方が数えで二十歳。妹の方が十九。同じ両親から生まれた、双子のような二人だ。名はお市とお犬。父信長の年の離れた妹達。
「帯刀。私もお犬もオバと呼ばれるような年齢ではないわと何度言わせれば分かるの?」
「ですから、私も年寄りとして叔母と使っているわけではなく、事実として父上の妹であるお二人の事を叔母上と」
「お黙りなさい」
「帯刀がどう思っていようが私と市姉はオバと呼ばれたくはないの」
二人がかりで怒られ、すみませんと頭を下げる。家中一、二を争う美女二人が現れ、周囲の家臣達は場が華やいだと思っているだろうが、俺としては棘の生えた薔薇に絡みつかれたような気分だ。
「ところで帯刀、アゴヒゲと何を話していたの?」
「はあ、斉天大聖殿がいると聞いたので囲碁でも打とうかと思いま」
「ダメよ。そんなものは下らないわ」
市姉さんの質問に答えようとすると、答え終わらないうちから犬姉さんに否定された。その通りだと市姉さんが頷き、扇子をパチンと鳴らす。同時に、犬姉さんがお付きの女中達に視線で何らかの指示を送った。相変わらず人を使い慣れている。
「喜びなさい帯刀。私達優しい姉が、可愛い甥っ子の為に竹簡を用意して差し上げたわ」
「見なさい帯刀。あれなるは四百字詰め竹簡三千束。合計で百二十万字分よ」
おお、というどよめきが周囲から湧いた。俺は小さく、マジかよこいつらと呟く。庭にうずたかく竹簡の山が築かれている。丁寧に重ねられているので崩れ落ちはしなさそうだが、凄い迫力だ。
「竹簡三千、いつの間にこんな物を?」
美濃一国を攻め取った。勝ち戦であるから物や食べ物が不足したり治安が悪化したということは無かったが、人は不足した。勝ち戦であるが故に戦いは他国で行われ、獲得した領土を直ちに治める必要があったからだ。そして竹簡作りは手間がかかる。程よく育った竹を伐り倒し、肘の内側から手首程度の長さに切断する。更にそれを縦に八等分してから小刀などで削って竹の丸みを無くす。竹の内側は白いので、筆を走らせれば紙の代わりとして使用することが出来る。しかしまだそれだけでは一行分の原稿用紙にしかならないので、等分し、削って平べったくした竹に紐を通す。そうすることで巻物のように普段は丸めて納め、読む際には広げて読む一冊の書となる。それが竹簡だ。こうやって説明しただけでも、簡単に作れるものではないと分かるだろう。
「安心なさい。女子供だけで行ったわ。私も紐を結ったし、犬も竹を削ったわ」
「森家の子供達が特に頑張っていたわね。長可にまだ無理じゃないかしらと聞くと意地になって竹割りや竹運びをしてくれて、可愛らしいものね」
「重臣の子供達に何をさせているんですか」
森家当主森可成殿は父からの信任の厚い武将で、権六殿のような猛将系の人物だ。長男の可隆君は俺よりも二歳年上だけれど、それ以外は皆年下で、妹が三人、弟が四人くらいいた。御内儀殿は今も妊娠中だった筈。もう生まれただろうか。
「皆も、帯刀や直子さんへの贈り物だと言ったら喜んで手伝ってくれたわ」
「慕われているわね、嫉妬してしまうわ、帯刀」
「違う、皆自分が続きを読みたいだけだ」
俺が言うと、その場に居た女達が皆口を押えホホホと笑いだした。言わずもがなの事を言ってしまったようだ。
「分かっているのなら早く続きを書きなさい。最早これで原稿の心配はないでしょう?」
「竹簡のお代わりが欲しいなら私達が何とかします。早く速く、続きをお書きなさい」
竹簡三千束、計百二十万文字分、こんな膨大な贈り物を頂戴する理由が俺にあるのかと問われれば不本意ながらある。
帯刀仮名に続き、常用漢字二千字を纏めたことは先に述べた。それらの文字を眺め、母が提案したのだ、『この文字を広めるために、簡単な読み物を書いて下さいませんか』と。読み物、伝記でも戦記でも日記文学でもなく、『竹取物語』や『源氏物語』のような完全創作の物語を作ろうという事だ。
俺は物語を書く能力などないので最初は母にお任せした。母は女子が好きそうな恋愛譚を書き、自ら挿絵なども描くことで家中の女子を中心に信奉者を多く獲得した。しかしながら、母の描く恋愛一辺倒の物語は女子受けこそしたものの男子からの評価が振るわなかった。男子とはいつの時代も血沸き肉躍る物語が大好きだ。周囲はいつしか、それら男好みのする物語を俺に書いて欲しいと願うようになった。理由は、直子様の息子の帯刀様なら書けるでしょう? というものだった。はた迷惑なことだ。
小説を読むことは好きだが、書こうと思ったことのない俺は困った。物語に伏線を練り込み、窮地に陥った主人公がさっそうと敵を討伐する。そんな話は書けそうにない。と、そこまで考えた時、俺は発想を転換した。別に高い文章力や構成力が必要なわけではない。男受けする話が書ければいいのだ。いつの時代も男は馬鹿だ。だから馬鹿な物語を書こう。そういう考えに至った俺は、平安時代に生きた没落貴族、禿げ頭のゲン爺、通称『頭光るゲン爺』を主人公とした、源氏物語の滑稽譚を書くことにした。内容は馬鹿の一言だ。女からやたらと嫌われる貧乏貴族家の御隠居通称ゲン爺が若い娘の風呂を覗こうとしたり食事代をちょろまかそうとしたりして、結局ひどい目に遭う、という話。彦右衛門殿や斉天大聖らの家臣が昔してしまった失敗譚を元にしたり、母から草案を貰ったりしながら書いているので自分で話の内容を考えることは殆どない。
狙い通り、俺の書いた馬鹿話は男共にウケた。物語とは堅苦しいものではなく、こんなに面白いものであったのかとこれまで書物を忌避していた者も読むようになってくれたらしい。紙にしたためた完成原稿を父に送ると、馬鹿馬鹿しくて大変良い。今度はこんなのはどうだ? などという手紙も帰って来た。ただ、狙い通りでなかったことは、意外と女子ウケもしてしまったことだ。父から本を借り受けた市姉さんと犬姉さんもそうで、頻りにもっと書けもっと書けとせっついて来る。
「二人とも嫁入り直後と直前の女性がするべき会話をして下さい。特に市姉さんはすぐにでも」
「そう、すぐにでも嫁に行くことになるからこそ、直ちに新作を受け取り稲刈りの時期には書写をして近江へ持って行く必要があるのよ。京が近いのだもの。面白い本の一冊も持っておけば公家の方々からもっと面白い本を貸してもらえるかもしれないでしょう?」
「あんな助平爺が主人公の本を公家の方々がお読みになるとはとても」
「そんなこと分からないじゃない。手札は一枚でも多い方が良いわ。私は淡海乃海(琵琶湖)のお魚を食べながら毎日面白い本を読みたいの」
「全力で近江を満喫しようとする気満々ではないですか」
「何よ、市姉も私も、女は自分では何も決められないのだからそれくらいの事はさせて貰ったっていいでしょう?」
「お二人が自分では何も出来ない可哀想な存在とはちっとも思えないのですよ」
「実際のところどうなの?」
二対一のやり取りは分が悪いなと思いつつ小競り合いを続けていると、不意に市姉さんが真剣な声を出した。
「源氏物語が漢字含めて百万字にはならないというのは直子さんから聞いたわ。だから百二十万字分の原稿を用意した。全て四百字詰めの帯刀規格で作成したから書き辛くはない筈よ。近江で私が竹簡の本を読んでいるとなれば浅井家家中の者達に対して良い宣伝になるでしょう。もしかすれば宮中や越前朝倉家も帯刀規格の竹簡に注目するかもしれないわね。商品として名が広まれば、それなりの値で売れるようにもなるでしょう」
「んー」
唸る俺。美濃攻略を当面の第一目標としていた父は、尾張南部知多半島西部を領する実力者佐治信方に犬姉さんを嫁入りさせ足元を安定させた。そして今年、織田家の攻略目標は美濃から天下へと変わった。その為には京へ兵を進めなければならない。そこで今度は、京都までの道中に勢力を持つ人物と姻戚関係を結ぶ運びとなった。白羽の矢が立った人物が近江の浅井長政殿だ。
狭間の戦いが起こったのと同年の永禄三年、浅井長政殿も野良田の戦いと呼ばれる戦いにおいて味方に倍する六角家の軍勢を打ち破った。この時の長政殿はまだ若干十五歳。自分の父を強制的に隠居させ、初陣にも拘らず一万を超す大軍を指揮しての勝利だった。
その後、快進撃を続ける織田家と浅井家は友好的な関係を築き、今回婚姻を結ぶことで父と長政殿は義兄弟の関係となる。犬姉さんもそうだけれど、市姉さんも黙っていれば大層美人なので相手は随分と喜んでいたらしい。
「時代は流れゆくのよ帯刀。今のような好機が再び巡って来るのがいつとなるかは誰にもわからないわ」
市姉さんが畳みかけてくる。言っていることは確かに正しい。
「まあ、どれだけ書きあがるかはわからないけれど、父上は俺に古渡城を守るよう言っていますからね。暫くは忙しくどこかへ飛び回る事もないでしょう。何とか時間を作って、まとまった量を書き上げますよ」
俺が色よい返事をすると、市姉さんがにっこりと、花が咲くように笑った。横で様子をうかがっていた犬姉さんも合わせて二人から同時に抱きしめられる。
「楽しみにしているわ」
「私も」
「でもどうせ、自分好みの話じゃなかったら書き直せとか言うんでしょう?」
「そりゃあそうよ。つまらない物語なんて読みたくないもの」
と、そこまで話をし終えたところで、ようやく権六殿が斉天大聖を連れて来てくれたのだけれど、市姉さんと犬姉さんが並んで一瞥すると二人ともさっと身を伏せ、何も言えなくなってしまった。
「アゴヒゲ、禿げネズミ、帯刀を借りますよ」
「兄上には帯刀は暫く戻ってこないと伝えておいて」
この世は私達のものである。と言わんばかりの傍若無人さを見せる二人に連れられて、俺は奥の部屋へと連れ去られてしまうのだった。
結局この日の俺は寝るまでに『ゲン爺』の話について考えている草案や今後の話の流れを全て言わされ、市姉さんと犬姉さんが考えた話についての雑な粗筋を書き取りさせられ、秋までにそれらを全て書き上げることを約束させられ、細かい締切日を確定させられた。
翌日から十日程は、奇妙丸達や家臣達と遊んですごした。弟妹や森家、塙家、斉天大聖などに文字を教え、まだ数の少ない竹簡の漢字表をあげると皆喜んでくれた。馬鹿の茶筅は嫌がっていた。かけっこや木登りでは今回も彦右衛門殿こと滝川一益に完封され、小魚捕りや柿の実穫りでは斉天大聖の右に出るものはいなかった。母から教わった南蛮の踊りを弟達に教えた。ネズミ車という踊りで、縦一列に並び前の人間から順にゆっくりと体を回す。回転するという意味ではなく、正面を向いたまま、頭で丸を描くように回るのだ。四人でそれをすると、正面から見れば四人の顔がグルグルと回って見える。男兄弟四人でこれをやり、徳姫を笑わせることが出来たのは大変良かった。帰る日には別れを惜しみ、皆で徳姫を担ぎ上げたりした。勘八は俺に手紙をくれた。いつもありがとうと書かれていた。何ていじらしいんだ。茶筅は俺が教えた踊りをいたく気に入り、一人で何回も踊り狂って目を回してゲロを吐いていた。なんて馬鹿なんだ。とても可愛いぞ。今度はもっと馬鹿馬鹿しい踊りを教わってこよう。俺も練習しなくては。