第百十一話・愛のことば
「月が、美しいな」
「殿と二人、共に満月を見たあの日のことが思い出されますね」
「そうだな。名前も言わずに近づいてきて、見事な文章力と豊かな感受性でもって、俺を感嘆させた日の事だな」
「それは大袈裟です。殿の方が文章力も感受性も優れておりますよ」
「そうか……子の名が決まったぞ。幼名は勝若丸。通称は三郎四郎だ。義父上を超えられる立派な将になってもらいたいと、通称であった三郎五郎よりも一つ上の三郎四郎と致した」
「良いお名前ですね。きっとお父様も喜んでおられます。殿、ありがとうございます」
「うん、そう言って貰えると俺も嬉しい……起きるか? 少し待て、背中を支える」
「子の、勝若丸の顔を見たいのです」
「分かった。起こさないようにせねばな……ほら、恭」
「可愛い……」
「お前が産んだのだ、可愛いに決まっていよう……? どうした? 俺の顔を見ても楽しくないだろう」
「殿に似ていて、とっても可愛いと思いました。鼻筋が通っていて、目元が涼やかで。こんなに綺麗な面立ちですと、きっと妻になる方からも嫉妬されてしまうのだろうと思います」
「それで、俺と見比べているのか。楽しいか?」
「とても楽しいです。ずっとこうしていたいくらい」
「ならば、暫くこうしていよう。体を冷やさぬようにな」
「殿、殿に抱きしめられるのは嬉しいですけれど、後ろからですと殿の綺麗なお顔が見えません」
「俺からはよく見える。お前の横顔と、眠る我が子とが。成程確かに、こうして愛しい者どもを見比べることが出来るこの瞬間を、人は幸せと呼ぶのかもしれぬな」
「ふふ、そうですね」
「お帰りなさいませ、随分と眠たそうですけれど、お疲れですか?」
「いや、執務や政務は全くしていないから疲れている訳ではない。寝不足なのはお前と勝若丸のせいだ」
「それは、殿の御自得というものです。毎日飽きもせず勝若丸が泣くまで顔を見ているのですもの。赤子を見るのならばともかく、こんなやせ細って骨と皮だけになった妻の顔を長々と見続けているなんて、悪趣味でございます」
「そんなことはない。俺の女を見る目は天下一だ。それだけは誰にも劣っていないと自負している」
「あ……もう、最近の殿はすぐにそうやって抱きしめてごまかすのですから」
「いいではないか。耳一つ失って折角手に入れた長い休暇だ。したいこと以外にはしたくないな」
「聞く耳持たず、ですか」
「カッカカ! 上手い事を言うな。そうだな。元々きかん坊であったが、片耳を失って更に聞く耳が半分になってしまった。最近は京都や西国の話も、北陸や関東の話もよく聞こえぬ」
「そのようなことで宜しいのですか?」
「宜しいさ。どうせ現場に戻ったらやるしかないのだ。その時まで現実から逃げて何が悪い。お前という甘い罠に引っかかっていたいのだ。何をしていたのか知らないが、放り出して俺に構ってくれ」
「もう……私の長男は勝若丸かと思っておりましたが、もしかすると殿の方だったのかもしれません」
「良いなあ。お前の腹から産まれることが出来たら、さぞかし幸せなことであろう」
「直子様は如何なさいます?」
「それならば俺は母上と夫婦になれば良い。母が恭。妻が母上。入れ替わるだけで大した差は無い。面白おかしい生活であろう?」
「私は、息子の奥方が直子様であったらちゃんと姑としての務めを果たせるかどうか心配でなりません」
「母上とて姑の務めなど果たしておるまいよ。不思議な食い物を作り、胸元の下着を作り、時々気まぐれにどこかに出かけたり新しい遊びを見つけたりする。それが姑の務めであるのならば、逆に天下で姑の務めを果たしているのは母上ただ一人となる……どうした?」
「恐ろしいことに気が付いてしまいました」
「恐ろしい事?」
「稲荷様の化身と呼ばれる直子様と、麒麟児と称えられる殿の御子が産まれたとしたら」
「カッカ、天狗が産まれるか、それとも鵺でも出て来るか、面白いことになりそうだな」
「私はそんな孫に何をしてあげればいいのか想像も出来ませぬ」
「放っておけば育つだろう。俺も幼少の頃には随分と父親からは放っておかれたぞ。何しろ自分が父親であると名乗ってももらえていなかったのだからな」
「またそのようなことを……そう言えば、父親の殿がここにおられるといいますのに、勝若丸はどこにいるのですか?」
「今、爺やと婆やが面倒を見ている。飽きることはあるまいから暫くこちらには来ることもなかろう」
「爺や? 婆や?」
「母上は最早祖母なのだから婆やで間違っておらん。勝若丸に祖父と呼べる者は天下に一人しかおらぬ。孫会いたさに仕事を抜け出して安土からわざわざやって来たらしい」
「まあ! 大殿、いえ、内府様がお見えになられたのですか!?」
「うむ。何だか又位階が上がったとかなんとか言っていたがな。あまり聞いていなかったからよく覚えていない。一番手がかかる頃の赤子を見てくれているのだ。我々はのんびりしようではないか」
「そんなことは出来ませぬ。すぐご挨拶に行かなければ」
「無用と父上が仰せであった。後で直接俺から恭の言葉を伝えに行く。産後間もないのだ、誰も不敬とは思うまい。安心せよ」
「けれど、直接内府様に勝若丸の将来についてお願いしておきたいのです」
「それも伝えてある。決してこの子に織田家の家督を継がせるようなことはなきようにと」
「殿だけの御子であれば宜しいですけれど、心も体も弱い私の子でもあります。きっと天下などという大きな責任は背負いきれませんわ。殿のように五畿内の統括などということもきっと出来ませぬ。一国、いいえ、一万石でも二万石でも宜しいですから、優しい方々に囲まれて平和に暮らさせてあげられませぬか?」
「恭は面白いな。普通は我が子に少しでも広い領地を、少しでも高い官位をと言うのが親であるのに、そなたは全く逆の事を言う」
「偉いからと言って、強いからと言って、幸せになれるとは思えません。私は殿が古渡城主であっても幸せです。傍に殿がいて下さるのですから。殿が天下人であっても、沢山の側室や愛妾の方々に心奪われ、一人で過ごさねばならないとあれば不幸です。私はただただ、我が子に幸せな一生をと願っておりまする」
「うん。恭らしい良い言葉だ。確かにその通り。その言葉を忘れないようにしよう……ん?」
「……ふふっ」
「もう泣き始めたか、思ったよりももたなかったな。母上もおるというのに、情けないことだ」
「大好きなお父様がいないと、すぐに泣いてしまいますね」
「いや、母親が恋しいのだろう。待っていてくれ。すぐに連れて来る。おまけにジジババが付いてくるかもしれないが我慢してくれ」
「まあ、こんな格好ではお迎え出来ません」
「気にする必要はないさ。どうせ俺や恭の事など見ておらんのだからな」
「ん…………殿……?」
「ああ、起きたか、今粥が出来た。梅干を潰して入れたからな、サッパリとしていて食べやすい筈だ。もう少し待て」
「いま……何時です?」
「夕方になる。見ろ、今日は夕焼けが美しいぞ。勝若丸も、頬に日の光を浴びて気持ちよさそうにしていたのだ。御坊丸と藤が面倒を見てくれてなあ。抱き上げ方が下手なもので、勝若丸が暫く泣き止まず苦労した」
「それは……見ていたかったです」
「いつでも見られる。具合が悪い時くらいは無理をするな。さあ、一緒に食べよう」
「……ありがとう……ございます」
「食べさせてやるから、寝たままで良いぞ。腰は痛くないか? 少し上体を起こす。体に力は入るか? そうだ。うん。大丈夫だな?」
「何だか、全てやって頂いて鳥のヒナにでもなったような気持ちです」
「鳥のヒナか。皆、赤子の頃は鳥のヒナ同然だ。懸命に子を産んだ今、少々ヒナに戻っても罰は当たるまいよ。ほら。口を開けよ」
「美味しいです。とっても……本日は何かありましたか?」
「そうだな。別段珍しいことは無かったが……ああ、本願寺教如が来た」
「本願寺教如様? 長島に入られたというあの?」
「そうだ。次の法主様だな」
「次の法主様が、殿に何を?」
「謝られたのだ。本能寺の事を」
「本能寺の事?」
「色々とあってな。『良い死に方が出来ない』というような事を言われてしまったのだ。俺は気にしていなかったのだが、言った教如は随分と気にしていたようで、心無い言葉をぶつけてしまったと、頭を下げられた……おかしいか? おかしいな。俺も笑った」
「ええ、面白いですね。私も何度かお会いしてお話させて頂きましたけれど、とてもまっすぐで、素直過ぎるお方だということがわかりました」
「ああ、教祖様には不向きなのではないかというくらい、胸襟を開けっ広げにする素直な男だ。だが、奴が長島に来てくれたから織田家の関西支配は格段に早まった。北陸の本願寺勢力も、多くの者が長島へ移住をしてくれたお陰で戦い少なく支配することが出来た」
「朗らかで暗いところが無くて、それでいて殿よりも素直な方を私は初めて見ました。きっと誰からも好かれるのでしょうね。今、長島にいる浄土真宗門徒の方々は幸せだと思います。あら? どうなさったのですか?」
「いや、どうもしないが、そなたが教如の事をあまり褒めるものだからな。少々妬けた」
「あら。嬉しいです。このような立つこともままならぬ妻を相手に、妬いて下さるのですね?」
「からかうな」
「からかってなどいませんよ。タテ様」
「タテ様?」
「私も、嫉妬していましたよ。ハルとタテ様という呼び合いがとっても馴染んでいて、二人が一緒にいる時は何だか私が除け者で邪魔者のようで、寂しかった。私もタテ様とお呼びしたかったけれど、ハルさんが言うタテ様が、余りにもしっくりと来ていたものですから、私が言ってもおかしなことにしかならなさそうで」
「そのような憂い顔を作らないでくれ。そなたの前で、必要以上にハルと話をしていたことはないと思っていたのだがな」
「こっそり見たり聞いたり、人から教えて貰ったりして、勝手に嫉妬心を燃やすのが女子というものですよ。面倒臭いでしょう?」
「難しいものだな。とは思う」
「でも今は嫉妬しておりませんよ。こうしてタテ様を独り占めしていられますもの」
「そうか……」
「そういえば、教如様も殿の事を『たいとう』と呼ばれますね。確か、紀州を船で回った時に」
「そうだ。石山本願寺に身分を隠して入ってな。たいとうと名乗った。それ以来呼び名はたいとうのままだ。あの男とは、家族ではなく、家臣でもなく、ただただ友達であるように思う」
「そういう人は貴重です。是非大切にした方が良いです」
「そうだな……たてわき、と呼び捨てにしてみてくれないか?」
「殿の事をですか? そのような」
「俺も、恭から特別な呼ばれ方をしてみたいと思っていたのだ。今、ほんのひと時だけでも良い。呼んでみてくれ」
「……そんなにじっと見つめられてしまったら、言い辛いです」
「ああ、すまない。外を見ていよう」
「た、たてわき」
「何だ? 恭」
「たてわき……たてわき、さま? たてわき……好きです。たてわきの事が」
「俺も、恭が好きだぞ」
「愛しています。たてわき。心から。貴方を愛することが出来たということが、私の人生にとっての意味全てであっても良いと思えるくらいに」
「嬉しいよ。恭」
「ごめんなさい、たてわき。こんな妻で。もっと、貴方に相応しい妻でいたいと、ずっと思っていたのだけれど」
「構わない。俺にとって恭以上に相応しい妻などいない」
「うん……ありがとう」
「そろそろ眠るか……もう、食べられないか?」
「頑張ったのだけれど、二口が限界でした。でも、とっても美味しかった」
「それは良かった」
「た…て、わき……?」
「ここにおる。ここにおるぞ。手を握っている。分かるか?」
「うん……わかる……わかるわ」
「何か、欲しいものがあるか? 何かしたいことがあるか? 何でも言ってくれ。すぐに」
「月が……見たいのだけれど……今日の……お月様は……」
「今日の、今日の月か。今日の月はな。目も眩むほど明るく美しい満月だ。そなたと二人で語り合った日の夜のような。美しい、見事な月だぞ」
「素敵……」
「今は寝ていると良い。月など又いつでも見られる。勝若丸と三人で見ても良い。他に子が出来たら、その子も一緒に、母上や父上、勘九郎に三介に三七郎、皆の家族も連れて来て。皆で月を眺め、団子でも食おう」
「ハルさんも一緒ね……?」
「勿論だ。みんな一緒の方が楽しいし、旨いからな。しかし、あまり派手にし過ぎない方が良いかもしれないな。子供も多いであろうから」
「優しい……たてわきは、いつだって優しいわね」
「そなたほどではないさ」
「ねえ……もし、私がもう少し……」
「俺は今の恭が一番好きだ。もしとか何とか、この場にあるもの以外は分からない」
「ふふ……また、子供のようなことを言うのね」
「何とでも言え、笑いたければ笑え」
「あのね……私は、沢山本を書いていたでしょう?」
「ああ……恥ずかしいからと俺には読ませてくれなかったな」
「御坊丸、殿に、お渡し、したの」
「最近仲が良かったようだが、あいつで大丈夫か? 無口であるし、何を考えているのかが分かり辛いだろう」
「そうね……でも、あの子は直子様によく似ているから」
「それだと余計に心配な気がするがな」
「ふふ……眠くなってしまったわ。ごめんなさい、先に……眠っても良い?」
「ああ……よく頑張ってくれたな。俺も、俺もすぐに行く」
「駄目よ。ゆっくり来て。待つのには慣れているから。平気、よ」
「しかし寂しいだろう?」
「うん……でも、お父様もいるもの……沢山お話……」
「恭?」
「月が……美しいわ……たてわき」
「そうだな……月が美しいな」
天正二年三月の新月の夜、我が最愛の妻が息を引き取った。空には満天の星空が忌々しいくらいに輝く澄み渡った夜だった。
月を見て、あれほど美しいと思える日々は、もう二度と帰らない。




