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信長の庶子  作者: 壬生一郎
帯刀編
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第十話・貫高制〉〉〉〉〉〉〉〉〉〉〉石高制

「そなたが見事にしてやられるとは、ああ可笑しいこと」

滝川一益に追いかけっこで完封された五日後、俺は帰宅した古渡城にて母から笑われていた。


「あれを忍びの者と呼ぶのでしょう。木登りが上手い下手ではなく、木登りという一つの技能を身に着けた者の動きでした」

「彼の者ならばそうでありましょうとも」


母が一体滝川一益について何を知っているのかは分からなかったが、最近、大人相手に連戦連勝をして調子に乗っていた息子の敗北を楽しんでいることはよく分かった。いや、そもそも林の爺さんに勝てたことすら父や他の家臣達にお膳立てしてもらったようなものだ。そもそも俺はひとかどの人物に勝てたことなどない。


「殿の御子達は如何でしたか? そなたの目から見て、成長しておりましたか?」

暫く笑い転げたのち、母がようやく話を変えてくれた。憮然としつつ、答える。

「そうですね、相変わらず茶筅丸は馬鹿で勘八は根暗でしたが、まあまあ成長していましたよ」

そう言うと、母はホホホホと笑い声を挙げた。


「若様、そのようなことを仰られてはまた要らぬ疑いをかけられてしまいます」

「構わん嘉兵衛。そのようなことがあったならば再び釈明し、又家老の一人や二人を叩き潰してしまえばいいのだ」

俺の言葉を嘉兵衛が窘めようとするが、更にそれを長則が窘めた。


「またそのようなことを、村井様がおられるというのに」

「構わないよ嘉兵衛。本人達に直接言った事です。馬鹿であるところが茶筅丸の可愛いところで、根暗であるからこそ勘八は賢い。それも伝えてある。本人に伝えてある言葉が別の場所から伝えられたところで誰も気にしない」

「流石は信正様。嘉兵衛も文字や数字とばかり睨み合っておらず、このような豪胆さを持て」

「豪胆さは長則で足りている。嘉兵衛にまで豪胆になられては困るなあ」


俺が言うと、長則がパチンと頭を叩き、一本取られましたなと言って笑った。

「奇妙丸様は如何でしたか?」

母が話を振った。

「そうですね、ご立派になっておられました。嫡子としての自覚が出てこられたのでしょう。茶筅や勘八に指示を出す様も板についてこられたように思います」

 「それはようございました。織田家は優秀な跡継ぎを得、そなたも又優秀な義父を得ました。これほど目出度いことはありませぬ。ねえ?」

 「勿体なきお言葉にございます」


 母上が視線を向けると、それまで黙って茶を啜っていた村井貞勝がゆっくりとその禿げた頭を下げた。

 「義父上は、もう小牧山城へは戻らないので?」

 俺が質問すると、村井貞勝は感情が感じられない顔のままはいと頷いた。

 「三河一向一揆も無事に鎮圧されました。殿は二年で美濃を平らげ、京へと攻めあがるおつもりです。その間、尾張の内政を某に任せるとのこと」


 村井貞勝の言葉に、皆がうんうんと頷いた。この話で重要な点は二つ。一つ目は三河一向一揆。三河を収める大名松平元康は、清洲で父と同盟を結んだ後、今川家前当主義元から貰った元の字を捨て家康と改名。完全に今川から手を切った。しかしそんな折に、三河において一向一揆が蜂起した。要は宗教集団が立ち上がったという事だ。永禄六年から永禄七年までの足掛け二年に及ぶ内乱の間、松平家康は東へ勢力を伸ばせず、それどころか足下すら危ない状況にあった。しかしながら永禄八年の今年は一揆に組した寺も全て破却され、家康殿は西三河を中心とした勢力から三河全土の主へと勢力を伸ばすことに成功した。こうして再び東は安定し、今に至る。


 二つ目の重要点は内政を某に、というところ。現在、家臣の序列首座に座るは柴田勝家、次いで丹羽長秀、転落した佐久間信盛が三位に続く。しかし彼らはいずれも武将であって、内政は本業ではない。その内政の首座が、誰あろう村井貞勝であると目されている。


 「殿は、美濃を獲った後には某を美濃に、京に上れば某を京に送り、内政を任せようとしておられます。となれば、某が整えた領地を滞りなく治められる跡継ぎが必要となります。帯刀殿であれば任せるに不足なし。明日よりは治世の何たるかをみっちりとご教示致します」

 「えぇ……何か凄い面倒くさい感じがしますが」

 「(まつりごと)とは万事が細々と面倒くさいことでございます。懸命にこなせば誰でも出来まする。そして、誰かがやらなければなりませぬ。可愛い弟君妹君と相争うことになりたくなければ、お励み下さい」


 永禄八から永禄十年までの三年間は、織田家にとって正に飛躍の年となる。これ以降、織田信長率いる織田軍団は破竹の勢いで快進撃を続ける。しかし、俺にとってはずっと手習いをさせられているような、地味で面倒くさい毎日が始まるのだった。



そして、それから約一年が経過した後のこと。

 「石高制(こくだかせい)っていう方法がまずとてつもなく面倒くさいんですよ親父殿」

 古渡城の一室で、今年の米の収穫高や土地の広さなどを纏めた紙と睨めっこをしながら俺は義父、村井貞勝に向けて愚痴を言った。

 「さりとてどうする? 米に代わるものが一体どこにあるのだ。あるというのなら、それに変えることは吝かではない」

 この一年、俺が見ていた時間が長かったものは一位が紙や竹簡などに書かれた文字。二位が禿げ頭の義父である村井貞勝だ。


 「だから永楽銭があるじゃないですか。物を買うのに必要なのは銭なのだから」

 「ならばとっとと偽永楽銭を量産せい。尾張美濃二ヵ国の百姓が得た収穫を全て永楽銭にて支払えるようになれば石高制度など泡と消えて無くなるわ」

 「石高制度なのに消える時粟になんだね親父殿」

 冗談を言うと、我が義父村井貞勝がグフッ、と変な声を漏らし、まるで咳き込んでいるかのような不気味な声で笑った。一年間、気を遣う暇もないくらいに長い時間を共にし、仕事に追われてきた俺と義父の間に最早余計な壁はない。俺は実父織田信長を父上と呼び、義父村井貞勝を親父殿と呼ぶようになった。


 「上手い事を言うでないわ。またぞろ今子建などと呼ばれるぞ」

 「この程度の冗談で自分の名前が使われるようでは曹子建(そうしけん)殿も草葉の陰で苦笑いしきりですよ」

 言うと、そうだなと親父殿がまた笑った。


 「実際、貫高制(かんだかせい)で統治を行えるのならばそれに越したことは無いのだ。それが出来ぬから次善の策として石高制を取っておる」


 ひとしきり笑い終えた親父殿が、訥々と語るように言った。俺が村井家の養子になってから一年。お互いにあまり遠慮をしない性格であるせいか、俺達親子の間によそよそしさというものはもうない。

 「収穫物から茶器から馬から鉄砲から、何から何まで決まった値段で売り買いできれば尾張の統治なんか誰でも出来るようになるだろうに」


 ここ一年の内政修行において俺が学んだことは山のようにある。文字や数字を相手にしての書類仕事は親父殿から手ほどきを受け、直接農民や商人と話をする切った張ったのやり取りは長則を手本とした。それらの面倒な実務には全く興味を示さないが、これをこうしたら、などという差し出口は存分に行う母からは唐天竺南蛮の古今東西に存在する統治のあり方に付いて話を聞いた。それらを纏めた上で、今俺が最も欲しいと考えている概念がある。『定価』と呼ばれるものだ。


 定価とは読んで字のごとく定まった価格。定価を作る為に必要なものは統一された通貨。しかし現在の日ノ本には私鋳銭(しちゅうせん)鐚銭(びたせん)が出回っていることは既に述べた。だから永楽銭を大量に生産して尾張湊で使用される貨幣を統一し、全ての物について『これは永楽銭三枚、こちらは五枚』などという風に定めてしまいたい。無論、収穫前の米のように時期によって価値が変動する物もあるだろうが、それでも『織田家ではこれらの物を通常これだけの値で購入し、販売する』という事を定め、内外に知らしめることが出来れば物の売買における手間が省けるだけでなく、民衆の生活が安定し、国を富ませることが出来るだろう。


定価という言葉が持つ可能性と、その壮大さについて理解するまでに俺は一年の時を要した。親父殿は一度話を聞いただけで理解していたようだし、父は手紙一通で理解していたようだ。嘉兵衛は多少悩んでいたがそれでもいまではその有益さを疑っていない。長則は理解することを早々に諦めていた。言うまでもないが、定価という考えやその有益さについて書かれた書を持って来て俺達に知らせたのは我が母狐、直子だ。


今思えば、永楽銭鋳造を始めた頃には俺は期せずして定価という概念を作り上げようとしていたのだ。しかし、失敗した。尾張の、ひいては日ノ本の経済規模に比して、流通する銭の量が圧倒的に足りていない。


 「誠にそのようなことが出来れば殿は既に天下人であろうよ」

 我が身の限界に打ちひしがれていると、親父殿がいつも通りの口調でいつもより大仰なことを言った。またまた、大げさな。と言いかけて口を噤む。親父殿の顔は全く笑っていなかった。


 「全ての物が決まった値段で買えるようになればどうなるか。天下全ての物が尾張に集まるようになるであろう。尾張で買えない物は何もなく、尾張で売れない物も何もない。ならば人も尾張に集まる。尾張が商いを止めれば天下の商いが止まる。それはつまり尾張が天下となったということだ。何故故三好長慶が天下人と呼ばれるのか、京の都を支配しているからだ。今、日ノ本の中心は京である。京の都こそが天下で、そこを支配する者が天下人と呼ばれる。尾張が天下となれば、当然、尾張を支配する殿が天下人と呼ばれるようになる」


 不思議な説得力を感じた。確かに、天下の全てが集まるのなら、そこが天下であると言って良いように思える。


 「しかし、それを下支えする銭はない」

 「その通りだ。帯刀が幾ら銭を鋳造しても、殿が交易で銭を輸入しても、決して必要分には足りぬであろう。銭は地面から生えては来ぬのだ。故に、地面から生え、腐り難い米を銭の代用品として扱う」

 「仮に日ノ本全土に銭が行き渡り、誰もが気軽に物を売り買い出来るようになったら、世は変わりましょうや? 変わるとしたら、どう変わりましょうや?」


 その時(ふすま)がスッと開き、母が現れた。親父殿は表情を緩めて少し頭を下げ、そうしている間に母はしずしずと親父殿の隣に座った。

 「そうさな……決まった銭を手にし、決まった仕事をする。それは生活に安定をもたらす。そうして、人はもっと自由になることでございましょう」

 「自由に?」

 親父殿の予想に対し、母は意外そうな声で返した。母自身の予想とは異なっていたのだろうか。


 「まず、人が土地に縛られることが無くなります。技術や技を持っている者は、自らを売り込み銭を貰って働くようになりましょう。日ノ本のどこにいても決まった値で決まった物が買えるのであれば、誰にでもそれが可能になります」

 「ああ、それはそうですね」

 そうでしょうね、ではなくそうですね。と、確信をもって頷く母、ここについては親父殿と同意見であるらしい。


 「皆、自らの好きな事、得意な事で生活するようになる。武芸で身を立てる者も、算術で暮らすものも、或いは話術の上手さで稼ぐものもおるやもしれませぬ。儂では、いや、今の世では想像もつかぬことで大儲けする者もおりましょう」

 「好きなことで生きてゆく。ということですね」

 そうやって相槌(あいづち)を打った母は何故だかホホホと笑った。親父殿は母には甘いのでそれを窘めることもせず母の笑いが収まるまで待った。


 「信正、お主のように庶長子に生まれてしまったが為に、家も継げずさりとて他家に出仕することも許されないという縛られ方をする者もいなくなるであろうよ。選択肢はそれこそ無限だ」

 「確かに、そうやって聞くと自由な世界だ」


 どこまでも自由で、自分らしく生きて行ける。そんな世を作る為の仕事を今自分がしているのかと思うと、責任感とは無縁な俺ですらやりがいを感じてしまう。

 「無論、そこにはそこで多くの苦しみもあろうが」

 「……例えば?」


 「無限の選択肢とは、選ぶのにも無限の時がかかる。そして人の持つ時は有限だ。余りに多くの分かれ道を見つけてしまい、一歩も踏み出せなくなるものもいよう。又、自由であるという事、土地に縛られぬという事は根無し草であるという事に他ならぬ。どれほどの地位があろうと名声があろうと、死ぬ際には野垂れ死に。という事もあり得よう」

 「……成程」

 「流石村井貞勝様。見事な御賢察にございますね」


 俺が納得し、母が賞賛する。その賞賛に(いささ)か照れくさそうな表情を作った親父殿は誤魔化すようにンン、と咳払いをしてから話を続けた。俺達三人が一緒にいると祖父、母、孫息子にしか見えないが、親父殿もそう思っているのか何だか母に優しい。俺に優しくすればいいのに。

 「だがしかし、誰もが明日死ぬかもしれぬと怯えながら生きている今よりは、格段に良い世の中でありましょう」

 「それは……確かに」

 「そのように、今よりは大分マシな世を作らんが為、我ら親子はこうして石高制度を整えておるのだ。仕事をせい、仕事を」


 最後に、親父殿が俺の背をパシンと叩いた。貫高制に比べ、石高制は不安定だ。米は腐り難いとはいえ限度があるし、豊作や凶作、或いは収穫前後で価値が大きく変わる。それでも『この土地は米換算でこれくらいの収穫が見込める』という一定の数値を出すことが出来れば一つの指針にはなる。これだけの食い物がある。ならばこれだけの人間が暮らせる。そうなるとこれくらいの物が動き、兵隊をこれだけ集めることが出来る。という具合に。その台帳を作るのに今年いっぱいは苦労するだろうし、そのせいで色々と軋轢(あつれき)も生まれる事が既に分かっている。


 「俺がやっていることが、いつか天下に繋がるのですかねえ、親父殿」

 「帯刀仮名やお主が編纂した漢字は伊勢を経由して京まで登った。後の世に対し、全く何の影響も及ぼさないということは無かろう」

 そこまで話をしたところで嘉兵衛が顔を覗かせた。

 「直子様、こちらにおられましたか。早う殿をお連れせねば」

 「ごめんなさいね嘉兵衛殿。でも、貞勝様がとても興味深いお話を聞かせて下さっていたものですから」

 「何かあったのかな?」


 俺が嘉兵衛に声をかけると、嘉兵衛が頭を下げ、答えた。

 「木下殿が御目通りを願いたいと」

 「斉天大聖が? 又助殿や古佐殿ではなく?」

 「いえ、藤吉郎の方ではなく、弟の」

 「ああ小一郎殿か」


言いながら立ち上がり、今自分が座っていた席を指さす。俺が出来る内政事務で嘉兵衛に出来ないことは一つもない。続きは任せたぞと言うまでもなく、嘉兵衛がサッと俺が座っていた席に座り、仕事を始めた。


 「客が多いことは悪いことではない。精々労ってやれ」

 「最前線の様子を教えてくれる貴重な情報源ですからね。追い返したりはしません」

 親父殿の言葉に、俺は軽く返して部屋を出た。母は食事の支度をすると言って、俺とは違う方向へ廊下を進んでいった。


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