SECT.8 天使消失
はっとしてその方向を見ると、これまでの比でない炎が天高く渦巻いていた。
「フラウロスさん!」
二体の獣の姿が確認できない。
クローセルさんの加護を受けていても目を開けていられないくらいの凄まじい熱風がその中心から吹き付けていた。
フラウロスさんが操る地獄の業火と、カマエルさんが使う天界の輝炎は互いを消しあうように絡み合い、ぶつかり、そして消えていく。
周囲の地面も草木も、何もかもを蒸発させる紅蓮は留まるところを知らなかった。
竜巻のような炎の柱となった絡まりあう二色の炎は全てを燃やし尽くしながら暴れまわっている。
このままでは一般兵にまで被害が及んでしまう!
目の前にいたゲブラのことも忘れ、炎の中心に向かって駆け出した。
が、すぐに後ろから引きとめられる。
手を掴んだ主を振り返ると、それは敵国セフィロトの神官だった。
「悪魔の加護を幾つも持っていたとしても、無事ではすみません。やめなさい」
「……なんでおまえが止めるんだよ!!」
思わず叫んでいた。
左手を掴むセフィラを睨みつけ、振りほどこうと腕を引いたが、びくともしなかった。
「おまえは敵なんだろう! グリモワールに侵入してきたんだろう? おれを倒しに来たんじゃないのか?!」
いったいこのセフィラが何を考えているのか分からずに苛々していた。
ゲブラがたまに見せる哀愁を帯びた表情や自分に向ける心配そうな表情がさらにそれを加速させている。何がなんだか分からなかった。
戦いたくないのか戦わされているのか、誰の意思なのか。このヒトは何を考えているのか。
戦いたくないならどうして敵として自分の前に立ちはだかったりしたのか。
「天使の加護があるのに悪魔と契約なんて、できるはずないだろう! 一人で契約なんてできるはずないだろうが! 嘘つくなよ!」
明らかにおかしかった。じぃ様が管理する予備資料なしに悪魔と契約するなんて自殺行為だ。それは実際に契約した自分にだってよく分かっている。
厳しい口調で問い詰めたが、ゲブラはやはり困ったように微笑むだけだった。
どうしてそんなに困った顔をするんだ。その裏に哀愁を秘めながら。慈愛の心を向けながら……
「おまえは」
ネブカドネツァル王の意思でなく。総指揮官マルクトの意思でもなく。
このゲブラ本人の意思が聞きたかった。
手品師にも傷を隠す習性があるように思えたから――あの紫の瞳を持つ底抜けに優しいヒトが傷を負った心を奥底に隠しているように。
だからこそ聞きたかった。
「何を求めているんだ……?」
熱風の吹き荒れる空間で、その言葉はやけに響いた気がする。
顔も手も加護を突き抜けて焼けてきた。
じりじりと痛みが広がっていたが、ただゲブラの目だけを見つめていた。
「僕が望むのは世界の安定だけですよ」
「世界の安定って何だよ! アガレスさんもおまえも何言ってるのかわかんないよ! おれは馬鹿だからもっとわかりやすく言えよ!」
自分にとって世界の安定とはねえちゃんやアレイさん、それにじぃ様やクラウドさんたちと過ごす日常を指している。
この手品師の言う世界の安定が自分の考えるそれとは全く異なるものだという事しかわからなかった。
「おれの大切なものを傷つけるわけじゃないならおれだっておまえの願う事を叶えてやりたいよ! でも、おまえが何を望んでるのかわかんないんだよ……!」
叫びながら悲しくなってきた。
じわりと目の端ににじんだ涙は、ありえない熱でもって消し飛んだ。
息を吸い込んだ喉が、肺が焼けるように熱い。
「もっとわかりやすく言えよ!」
捕らえられた左腕が震えた。
痛いのか悲しいのか怒っているのか、もう自分にも分からなかった。
どうしてこんなに悔しいと感じるのかも分からなかった。
「貴方はとても優しい女性ですね。誰にでも分け隔てなくその施しを与えようとする。だからこんなに多くの悪魔を惹きつける」
ゲブラはふっと俯いた。
「コインの悪魔たちも、クロウリー伯爵も僕も……みな、その心に惹かれました。きっと、魔界の長でさえも」
「魔界の長? リュシフェルさんのこと?」
王様に二度と口にしてはいけないと言われていたのに、驚きに思わず口をついた。
「もう気づいているでしょう、貴方の中に眠る悪魔に。魔界を創造し、統べる主がいることに」
「おまえは知ってるのか? おれの中にいるヒトのこと」
「ええ、よく知っていますよ。僕の中にいる悪魔もまた忠誠を誓った一人です」
どきりとした。
「古の天文学者ゲーティア=グリフィスは魔界の王リュシフェルを召還し、力を借りました。それと引き換えに、とある約束をしたんです」
「約束?」
「ええ。いつか子孫を一人、リュシフェルに差し出すと」
「!」
思わず息を呑んだ。
自分の夢の中、贄として魔方陣の中央に引き出された自分の姿。召還された壮麗な悪魔。銀髪、彫刻のように整った顔立ち、そして――
フラッシュバックに襲われそうになったが、フラウロスさんとカマエルさんの放つ熱風がかろうじて意識を現実に繋ぎとめた。
しかし、ちりちりと焦げていく皮膚の感触はもう痛みすら伴わなくなってきていた。
「そして4年前、約束どおり『ルシファ』の名を持つ少女を魔界の王に差し出したのです」
「それが、おれ?」
ポツリと呟くと、ゲブラは唇の端で微かに笑んだ。
どうしてこのセフィラはこんな事を知っているのだろう。
過去なんて自分の夢の中にしか存在しないと思っていたのに。
「召還は成功し、古の約束通りリュシフェルは子孫の体を手に入れました。それが貴方の過去の真実です」
「……どうしてそんな事を教えてくれるんだ?」
不思議だった。
さっきまで敵だったのに。いや、構えを解いたのは自分の方が先だったけれど。
過去について聞いたわけではないのに。だって、まさかこのセフィラが知っていようとは思いもしなかったから。
「そんな気分だったんですよ」
そう言ったゲブラは自分と目を合わせないままにぱっと左手を離してくれた。
開放されたけれど、このヒトから逃げようとも思わなかった。
足が動かなかった。
「さあ、もう終わりです。さよならの時間ですよ、ミス・グリフィス」
「……え?」
素っ頓狂な声が出た。
その瞬間だった。
炎の柱が凄まじい勢いで暴発した。
これまでと比べ物にならない衝撃に、とっさに地面に身を伏せた。
左手の篭手から飛び出した光が自分を覆ったが、ほとんど効果がなかった。クローセルさんの羽根もとっくに焼きついてしまったかもしれない。
すべての衝撃が背の上を過ぎ去った後、おそるおそる顔を上げた。
目に入ったのは一面の焼け野原だった。
ゆっくり立ち上がると、灼熱の獣が一体視界に入ってきた。
「フラウロス、さん?」
疑問形になってしまったのは、目の前の獣の持つ雰囲気がさっきと全く別のものになっていたからだ。
声に反応してこちらに視線をやった獣は、ヒトが怯える地獄の業火でも天界の輝炎でもなく、冷たいほどに青白く昇華した灼熱を超えた温度の炎を纏っていたのだ。
フラウロスさんともカマエルさんとも違う炎を纏った妖炎の豹がいったいどちらなのか一瞬では判断できなかった。
そう、まるでミカエルさんを召還した銀髪のヒトがいったいどちらなのか見分けられないように。
「……カマエルさんは?」
灼熱を超えた炎を纏う獣に恐る恐る声をかけた。
妖炎の瞳がこちらに向けられた瞬間足がすくんだ。
「消滅」
地獄から響いてきたその声に、全身に冷水を浴びたような冷ややかさを感じて震え上がる。
これまでのように暴れだしそうなエネルギーをぶつけられた恐怖ではない。もっと奥底に凄まじい力を秘めた得体の知れぬものへの畏怖だ。
カマエルさんは、フラウロスさんのいうとおり戦いに敗れ消滅したのだろうか。
しかし、消滅というよりはフラウロスさんに吸収された、というのが正しそうだ。
二人分の力を得た獣がぐるる、と低く唸る。
「行こう、フラウロスさん。門を破壊しなくちゃ」
まだこの灼熱の獣が自分の言うことを聞いてくれる保証は無かった。
それでも青白いオーラを纏ったオレンジの豹は、素直に自分の下へと帰したのだった。