SECT.5 果てしない不安
トロメオ奪還作戦を決行する日がやってきた。
春を少し過ぎた季節、つまり自分の一番好きな時期だ。もうアレイさんと会って1年が経つという事だ。早かったようなとても長かったような……不思議な感じだった。
動きやすいようにとレメゲトンの正装をやめ、着なれた服に替えた。短衣とショートパンツ、それに篭手と首から提げたコイン。髪がだいぶ伸びていて邪魔だったからねえちゃんに頼んでポニーテールに括ってもらった。
数日の特訓でかなり使えるようになった2本のショートソードを両腰に下げた。
まだフラウロスさんを召還した状態で使った事はなかったが、この2本の剣は自分の手にしっくりと馴染んでいる。
王都からずっと連れ添ってきた馬、マルコに乗って軍の中央に陣取った。
トロメオまで飛んで行ってもいいのだが、目立つ行動は避けたいとねえちゃんがいったため兵にまぎれるようにして進軍していった。
東の都トロメオ=イスコキュートスを実際に見るのは初めてだった。
概観は王都ユダのそれに似ている。小高い場所にある大きなお屋敷を外壁が取り巻いていた。作戦会議の時に見せてもらったトロメオの地図によると、その外を巻く壁の内側には城下町が広がっているはずだ。さらに最外郭をぐるりと堀が取り囲んでいる。
遠くからでも、堅固な要塞都市であるのは一目瞭然だった。
あの中にセフィラがいて、たくさんの兵隊さんたちがいて……
それを奪いに行くんだ。
トロメオ内の地図は大体頭に入っていた。密偵からの情報だという兵の数やセフィラの潜伏位置も覚えていた。
でも、何だろう。
この果てしない不安感は。
「どうしたの、ラック」
ねえちゃんが優しい目を向ける。
金の瞳にどきりとした。
どうしてだろう。
体が震えそうなくらいに怖い。
「ううん、だいじょうぶだよ」
心配させたくない。そう思って笑ったけれど、たぶんねえちゃんには気づかれた。
きっと隣に並ぶ紫の瞳のヒトにも。
それでも今は先のことだけ考える。そうしなければ、あのシルクハットの手品師と対等に戦うことなど不可能だろうから。
半年以上の特訓でずいぶん強くなったのは実感している。
本当に稀にだけれど、漆黒星騎士団鷹部隊長のライガさんに勝てたこともある。もっとも、騎士団長のクラウドさんにはどうがんばっても一度だって勝てやしなかったけれど。
以前ゲブラと相対したときは、自分がフラウロスの加護をうけていて、かつ相手がノーマルの状態で何とか勝てた。
今回は昼間だからゲブラも峻厳の天使カマエルを召還してくるだろう。
フラウロスさんはなぜかカマエルさんを敵視しているから、もしかすると自分に加護を与える余裕などないかもしれない。
自分は加護を受けたゲブラ相手に生身で戦うことになる。
そんなこと、できるのか……?
嫌な想像を打ち払って、周囲を見た。
サブノックの武器を手にした騎士団員、『覚醒』のメンバーに護衛されるような形で馬を進めている。
隣にはねえちゃんがいる。アレイさんもいる。
これ以上何を望む?
この世界を守る、とそう決めたはずじゃないか。
強い気持ちで目の前に迫ったトロメオを見つめた。
「マルコ、ここで待ってるんだぞ」
馬を下りて横顔をなでてやると、マルコは嬉しそうに首を振った。
「その馬、マルコって言うのね」
「うん。マルコシアスさんみたいに強くて優しい子になれるようにと思って」
「いい名前ね」
ねえちゃんもマルコの鼻先に手を当てた。
少しだけ哀愁を含んだ声でふっと呟いた。
「ラックをよろしくね、マルコ」
マルコはそれを聞いて首を傾げ、ねえちゃんはもう一度微笑んだ。
何故かその姿が瞼の奥に焼きついてしまって、何度瞬きしても消えなかった。
ねえちゃんの背に漆黒の翼が広がる。同時にアレイさんもハルファスさんの加護を受けて耳に小さな羽根が生えた。
触ろうとしたら阻まれた。
非常に残念だ。
あの黒髪の隙間からのぞく羽根の手触りは極上なのに。
「さあ行きましょう、ラック」
堕天のアガレスさんは天使さんに前で召還できないから、ねえちゃんが使役するデカラビアさんの加護を受けた。
背にむず痒い感触があって、視界の隅を黒い羽根が横切る。
空を飛ぶのは楽しかった。最初にアガレスさんの加護を受けて空に飛び立った時には既にこの感覚を知っている気がしたのだ。
ポニーテールが翼に揺れる。
レメゲトンの正装である黒いマントを脱いで完全に戦闘スタイルになった。
唯一の『覚醒』女性騎士のアズがマントを受け取ってくれる。
「お預かりしておきます――ご武運を」
「ありがとう、アズもね」
にこりと笑うと、アズも笑い返してくれた。
大きな黒い翼を一振りして、空で待つアレイさんとねえちゃんの元へ向かった。
一年のうちで一番好きな季節。
大好きな暖かで柔らかな風が耳元を駆け抜けている。新緑を含んだ匂いが胸いっぱいに広がって、暖かな日差しが包み込んで、淡い青の空が周囲に広がっている。
いつも見上げていた空は、すぐ隣にいた。
城塞都市トロメオを見下ろすと、カシオで見せてもらった平面図と全く同じだった。
よく見ると城下町の建物のあちこちが焦げていたり破損しているのが分かる。
門自体もかなり破壊が進んでおり、急ごしらえで修復したのは一目瞭然だった。
「事前にたてた作戦通りよ。セフィラを一人ずつ軍から引き離してから戦うこと。マルクトが出てくるかもしれないから、トロメオ城内に入らない方がいいわ。できれば外で、集中するために地上戦に持ち込むのがベストよ」
「うん、わかった」
「とりあえず自分の相手を戦闘不能にしたら、トロメオの城門を破壊して軍に合流して。一気にトロメオを陥落するわ」
猫の眼に黄金のきらめきが灯る。
なんとかトロメオを奪還し、逃げ遅れて捕虜となった兵や備蓄されていた武器、食料などを早急に取り戻す必要があった。なにより、城砦であるトロメオを拠点にできるできないでは戦局にかなりの差がでる。
首に下げた二つのコインをぎゅっと握る。
アガレスさん、フラウロスさん、それに羽根をくれたマルコシアスさんとクローセルさん。それから……滅びの悪魔と呼ばれるラース。
ラースのコインは使わないつもりだった。
ミカエルさんを退けたあの時、よく自分の左腕だけですんだものだと思う。
殺戮の牙を閃かせる滅びの悪魔グラシャ・ラボラスの力はあの程度のものではない。彼から受ける威圧は、他の悪魔さんたちの比ではない。地獄の業火を操り恐れられたフラウロスさんでさえラースの前では手も足も出ないだろう。
きっと何もかもを破壊してしまうだろう。自分の大切なものも、誰かの大切なものも。
もしかすると、このトロメオをまるごと破壊する力だって持っているかもしれない。
「ラック」
ぼんやりと考えているとねえちゃんの声ではっとした。
ねえちゃんはまるでサンのように優しい笑顔で覗き込んでいた。
「大丈夫よ、あなたは強い子だわ。きっと大切なものを自分の手で守る力を持っている」
白くて細い指で頬を撫でて、ゆっくりと頭に手を置いた。
「でも、忘れないで。私はあなたをずっと近くで守る。辛いときは言いなさい。あなたが望む限りずっと助けるわ」
その笑顔は何故か胸の奥底を締め付けた。
「心配しないで。ここには私もアレイもいるのよ」
最後にもう一度ぽん、と頭に手を置いてねえちゃんはトロメオを指差した。
「行きましょう。グリモワール王国の、未来のために」
城塞都市トロメオからは整列したセフィロト軍が進軍してくるところだった。
セフィラから加護を引き剥がすには体のどこかにある印を消すしかない。炎で焼き付けて消すか、最悪その部分を体から切り離せ、といわれた。
もしアガレスさんの加護が使えたならば、千里眼ですぐに印を見つけ出せるだろう。
――ほんの一瞬でいい。それは自分にとって一瞬じゃない。
千里眼発動中は時間の流れがひどく遅くなる。他の人にとっては一瞬でも自分にとっては長い時間だった。
少しの間だけでいい、天使の加護を消す事が出来たなら。
「デカラビアはフラウロスと共存できないかもしれないわ。フラウロスを召還するときは気をつけて」
ねえちゃんが緊張を含んだ声で言った時だった。
トロメオから鬨の声が上がった。