SECT.27 繋がり
それでも、ただ泣き崩れた頬に触れる手があった――温かくて大きな手。
「アレイさん」
にじんだ視界に紫の瞳が映った。その瞳は真剣だった。
「ラック」
紫水晶から目が離せない。
大きな掌が頬に当てられて、流れた涙を拭っていった。
アレイさんは強い意思を瞳に灯して真直ぐにおれを見つめた。
「それなら……俺を『一つだけ』に選べ」
一瞬理解できなかった。
驚いて目を見開くと、アレイさんはおれを地面に座らせ、自分も目線を合わせるようにして膝をついた。
そして、両肩に手を置いて言い聞かせるようにはっきりと言葉を紡いだ。
「俺は死なない。お前の傍からいなくならない。そうやって悲しませる事なんて絶対にしない」
衝撃で麻痺していた頭に、深いバリトンが響き渡った。
悲しみの中に光が舞い降りた。
「俺はずっとお前だけ見ていた。どうやって何を学んできたか、苦しんでいた事だって悩んでいた事だって全部知っている」
いつだってこのヒトは迷い悩む自分を導いてきてくれた。
おれが望むように支えてくれた。
「そのすべてが、愛しいと思う。だから……」
優しく響く声が悲しみにくれた心を溶かしていった。
紫水晶に吸い込まれそうになる。
「すぐ決めなくていい。でも、覚えていてくれ。俺はお前を――愛している」
その言葉は、確実に自分の胸を貫いた。
不思議な事に全く不快ではなく、むしろ震えるほどに嬉しかった。
――愛している
言葉の意味は知っていた。ベアトリーチェさんが教えてくれたから。
それでも、こんなにも深く感情が理解したのは初めてだった。理屈ではなく涙が溢れてくる。
どうしてだろう、心は歓喜に躍っているのに。
「アレイさん」
答える代わりに両腕を伸ばしてぎゅっと首筋に抱きついた。
きっと伝わるはずだと思った。
「ラック……?」
大きな手のひらが髪に触れた。
もっと触れて欲しい。抱きしめて欲しい。優しく囁いて欲しい。
泣きそうな位に切ないのに、狂おしいくらいに満たされている。なんて……温かい感情なんだろう。
耳元でそっと呟いた。いつも彼がそうしてくれるように。
「もうどこにもいかないで。お願い。おれアレイさんが、いちばん、好きだから」
自分の一番はアレイさんだったのに。気づくのがこんなに遅かった。
新しい世界をくれたヒト。ずっとずっと傍で支えてくれたヒト。イジワルで優しくて――大好きなヒト……そんなことずっと前から知っている。
アレイさんは腕を緩めて目を覗き込んだ。
「本当に……?」
不思議そうな声に、こくりと頷く。
「ほんとだよ。ずっと一緒にいたいよ。アレイさんに傍にいて欲しいって言われたかったよ」
それに気づいたのは本当に最近だったけれど。
だって、自分の隣にはずっとねえちゃんがいたから。ねえちゃん以外に目を向ける事なんてなかったから。
一番大切なものを失って、それでも人は新しく世界を選ぶんだろう。
「ラック」
すごく近くにある紫の瞳は、さらに自分が映るくらい近づいた。紫水晶の中には自分だけが映っていた。
他に何も見えなくなった。
唇に柔らかいものが触れる。優しい気持ちと温かな心がそこから流れ込んできた。額と手の甲へのキスは尊敬、頬へのキスは愛情、そして唇へのキスは――
大好きな人が微笑う。
すぐ近くで。手の届く場所で。
それは何て幸せな事なんだろう。
大きな腕の中に全てをゆだねて目を閉じた。
心地よいバリトンが響いている。
「愛している。愛している……ラック」
戦場の真ん中で。
ぼろぼろになるまで傷ついた心に優しいバリトンが染み渡っていく。少しずつ、少しずつ癒されていく。心臓の鼓動が落ち着けていく。
空から落ちてくる雨が全身を打ち始めていたけれど、それを感じないくらいに満たされていた。
「傍にいて。今度こそ、もうどこにも行かないで」
ワガママを言うと、彼はますます抱きしめる腕に力を込めた。
「安心しろ。嫌がっても……放さない」
どうしよう。そんな言葉がすごく嬉しい。本当に自分はおかしくなってしまったようだ。
「いつまでも傍に……」
バリトンが、途切れた。
刹那、胸の辺りが焼けるように熱くなって、それからすぐに激痛が襲った。
一体何が起きたかわからなかった。
ただ、自分を包んでいる優しいヒトの体から力が抜けた。
支えきれず床に崩れた。
「ひははあぁ! 死ね! レメゲトン!」
視界の片隅に血に染まった剣を振り上げた男の姿があった――右腕から鮮血を撒き散らしたあの男は狂気に埋もれて刃を振りかざしていた。
ケテルによって二人同時に剣に貫かれたのはすぐに分かった。
「アレイさん……?」
声を出すと焼けるように痛かった。
返事がない。
痛みと共にジワリと生暖かいものが流れ出してくる感触があった。
――やばい
これまでの危機とは桁が違う、死の感覚が近付いているのがリアルにわかった。どうにも避けられないことだとなぜか理性が理解していた。
どうしてだろう。これまで何度も死にかけて、その度に何とか生き延びてきたっていうのに。心臓を貫かれた今、目の前に迫る「死」という現実を避けられる気がしなかった。
「返事して。アレイさん。おれ……おれアレイさん、がッ……! げほげほっ!」
喉の奥から血が湧き出てくる。
ラースが首筋を噛み切ったときみたいだ。
ああ、最悪だ。自分がケテルに止めを刺さなかったばかりにアレイさんまで……お願い、誰か、このヒトだけでも助けてください。
助けを呼ぶ力すら自分には残されていなかった。
それに自分は知っている。この世界は、助けを求めたって応えてくれる事などないということを。
それでも、最後の力を振り絞って微笑む。最後にでもいい、伝えたい。
口の中は全部血の味がした。
「愛してる……」
はるか古代のヒトはこの感情に名前をつけた。
自分はやっとその名を知ったというのに。
「アレイ、さん……」
ああ、瞼が重い。痛みが遠ざかっていく感覚は、まるでラースに左手を喰われた時みたいだ。
でも、今回ばかりはだめかもしれない。喉の奥から次々と血が湧き出してくる。
自分はこのまま死んでしまうのかな。
痛みが和らいで意識が沈んでいく。
心の中に暖かな気持ちを残して。
戦場にケテルのけたたましい笑い声が響き渡っていた。
グリモワール軍とセフィロト軍のぶつかり合う東の都トロメオの門前、レラージュの作った特設フィールドで。
おれは、すべての意識を手放した。
やっと分かったから。
ねえちゃんが好きだっていうのとは違う気持ち。
ねえちゃんの隣にいたいのに、アレイさんには隣にいて欲しい理由。
ワガママ全部を彼にだけ見せる訳。
――愛してる
ここにいる。
すぐ傍に、一ミリのすきだってない。
ほら、ここに感じている。
薄れ行く意識の中に恐怖はなかった。安堵と灯が導いてくれる。
沈んでいく感覚の中に、ただ銀の光が溢れていた。