SECT.26 ねえちゃん
幻想が羽根に帰した瞬間、自分の太股に刺さっていたナイフも消失した。
「!!」
ぱっと鮮血が散る。
がくりと膝をつき、手で傷口を押さえる。滑り落ちたショートソードが地面に転がった。
吹き出した血は止まらず、地面に見る見る赤い血溜まりを作っていく。目の前の真っ赤な羽根の山に似た色をした染みはじわじわと広がっていた。
すぐに服を裂いて足に巻きつけた。が、その布もすぐに真っ赤に染まっていく。どうやら大きな血管を傷つけてしまったようだった。
「くっ……」
痛みに耐え、息を整えながら転がっていたショートソードを鞘にしまう。
血の滲んだ腿に手を当てて右足に体重をかけて立ち上がった。
金属音に上空を見上げると、アレイさんとハルファスがラファエルを追い詰めていた。ラースは少し離れた場所で茶髪のケテルと対峙している。
アレイさんとハルファスが負けることは考えられない。そう判断して足を引きずってラースの元へ向かった。血の道がずるずると地面に伸びていく。
ようやく辿り付いた時、既に勝負はつきかけていた。
「終わったのカイ? ルーク」
大きく裂けた口元から熱い息を漏らし、嬉しそうに笑うラースは、炎妖玉の瞳をぎろりと煌かせた。すべての人間が恐れるであろう殺戮の悪魔の姿だ。
「コっちも もウ 終ワルよ」
にやりと笑ったラースの視線の先には――右腕を失い、肩の辺りから血を吹き出したケテルの姿があった。
まるで噴水のように鮮血が飛び散っている。
終焉の断末魔をあげたケテルが地面に突っ伏した。
「フフ 次ハ ドコを消シテホしい?」
絶叫の中でも静かなラースの声が響く。
ぞくりとした。
思わず殺戮の獣の首に抱きつくようにして止めた。
「やめろラース! もういいから!」
「なニ? 今更 止メルの?」
「もう、十分だ……!」
ケテルからは途切れない金切り声が響いている。胸を裂くその悲鳴は自分の心をもずたずたに引き裂いていた。
右腕を根元から失ったケテルは既に戦闘不能だ。これ以上痛めつける理由はない。
「キミは アイ変わらず 甘イネ」
ラースはそう言うと、しぶしぶ闘気をおさめた。
ほっとして首から手をはずす。
「アア 勿体ナイな 血が流レテル」
ラースは自分の腿に赤い舌を這わせた。
未だ血を流す傷口はずきりと痛む。
「今日は コレで 許してアゲル」
「そう」
ブエルさんといいフラウロスさんといいラースといい、おれの血はそんなにもおいしいんだろうか?
舐めてみようかと迷ったけれど、痛みと出血でそれどころではなかった。
ラースはしばらく自分の上に圧し掛かるようにして腿に舌を這わせていたが、しばらくすると満足したのかふと顔を上げた。
炎妖玉の瞳に貫かれた。殺戮の牙が近い。口からは大嫌いな血の匂いがした。
悪魔は不機嫌でも上機嫌でもない当たり前の口調でこう言った。
「ボク 帰る」
あまりにあっけない言葉に拍子抜けする。
「うん、ありがとう」
「また 呼んデ」
「分かってる」
前回と同じ台詞を残して、殺戮と滅びの悪魔グラシャ・ラボラスは魔界へと帰還した。
それを確認し、すでに地面に突っ伏して悲鳴を途絶え動かなくなったケテルを一瞥してからもう一度立ち上がった。
舐めとってくれたラースのお陰か、太腿の傷口から血が滴ることはなかったが、失った血と深い傷の痛みは自分の意識を薄らぐのに十分すぎるくらいだった。
その時、その場に突風が吹き荒れた。
天を仰ぐと、そこには凄まじいまでの風の渦が生じているのがわかった。
「!」
アレイさんの姿もハルファスも、もちろんラファエルの姿もその豪風にかき消されている。
地面にもその影響は大きい。
先ほどまでねえちゃんを形作っていた大量の赤い羽根が空に舞った。
「……あ」
思わず羽根に手を伸ばした次の瞬間には立っていられないほどの豪風が地上にも吹き荒れた。
咄嗟に身を低くして耐えた。
耳元を轟音が駆け抜けていく。頭部を庇い、地面にうつぶせになった状態でどれだけ耐えただろう。とても長い時間だった。
顔を上げたのは、頬につめたい雫が落ちてきたからだ。
ふと天を仰ぐと分厚い暗雲が立ち込めてそこから涙のような雨粒がぱらぱらと落ちてきていた。
戦場の真ん中、台地状に作られたフィールド内だけが沈黙に包まれていた。周囲は戦の喧騒が激しいが、ひどく遠い音だった。降り始めた雨は徐々に土の色を変えていく。
ケテルは倒れこんだままでホドの姿はなく、この地面に立つのは自分ひとりだ。
そんな台地にふわりと降り立ったヒトがいた。
背に漆黒の翼を湛え、短い黒髪からは角が二本飛び出している。黒衣に包まれた長身はまるで戦神のようにすらりと引き締まっていた。端正な、愁いを帯びた横顔はどこかあの褐色の肌の戦士を思い出させて、なぜかどきりとした。
左手に握られた長剣をきん、と鞘に収めると漆黒の翼と角が消え去った。
紫の瞳がこちらを向く。
「アレイ、さん」
全身から力が抜ける。
へなへなと崩れ落ちた自分に心配そうに駆け寄ってきた彼は自分を抱くようにして膝を折り、横抱きに寝かせるようにして体の下に手を回した。
その腕に体重を預け、全身の力を抜いた。
温かい腕の中で安堵する。
「大丈夫か? 傷は……」
「平気。やられたのは足だけだよ」
そう言うとアレイさんは真っ赤に染まった足に目をやって眉をひそめた。
どこが大丈夫だ、と怒られるかと思ったがひとつため息をついただけだった。
「ケテルはラースが倒したよ。ラファエルさんは?」
「……ハルファスが吸収した」
そうか。よかった。
これで全員だ。
自分は何とか大切なものを守りきる事が出来たみたいだ。
安堵すると力が抜けた。
が、目の前に何かがふってきた。
雨ではない。もっとゆっくりとした速度で舞い落ちるそれは――先ほどの豪風で舞い上げられたねえちゃんの血を吸った赤い羽根だった。
ひらり、と自分の胸元に落ちたそれを掌に包む。
「ねえちゃんが……」
肩を抱く大きな手がピクリと震えた。
見上げた紫水晶は悲痛な色を隠せないでいた。
「おれが壊したんだ。二つに切り裂いて、殺したんだ。偽物。一瞬だったよ……」
ああ、どうしてこんなことになったんだろう。
自分の手で大切なヒトを屠るのはこんなにも辛い。失ったときと同じくらい、辛くて苦しい。
上から覗き込むアレイさんの顔越しに、天から次々と雫が降ってきているのがわかった。それはひどく冷たくて、まるで幻想とはいえねえちゃんを殺してしまったおれを責めているかのようだった。
目の端が熱くなる。
「どうしてこんなことになったのかな? おれは……ねえちゃんとずっと一緒にいたかったのに……」
何を捨てても守りたいと思っていたのに、おれは何も出来なかった。ずっと育ててくれたねえちゃんにお返し一つ出来なかった。
もう二度と会えない。
現実が重く圧し掛かる。
「辛いね、アレイさん。大切なものがなくなるのは、すごくすごく悲しいね……!」
声が震えた。
紫色が滲んでいった。
「こんなにつらいんだったら……もう『一つだけ』なんていらないよ……!」
涙が止まらない。
守る事なんてしたくない。だって大切にしているものを失くしてしまったら、こんなにも苦しくてこんなにも辛くて、こんなにも……悲しい。
大切なものを選んで、それを失うのがこんなにも辛い事なのだとしたら――大切なものなんて最初からいらない。
既に自分はぼろぼろだった。
一番大切なねえちゃんを失って、仲間だと思っていたシアは裏切って、ラースの支配を逃れるために精神力を使い果たし、その上自分の手で大切なヒトの姿をした幻想にとどめを刺した。
何もしたくない。もう……ねえちゃんと同じ世界で眠りたかった。
涙は涸れる事を知らないように湧いてくる。遠くなっていく意識の中で、ただただ育て親の姿を瞼の裏に描いていた。