SECT.25 決着
心臓が震え上がるような衝撃が走る。
だめだ。揺らいではいけない。揺らいではいけない。
あれはねえちゃんじゃない。あれはただの偽物で……
「フフ ルーク 隙を見せタラ 乗っ取ルよ?」
ラースの声が頭の中で響く。
左手がかっと熱くなる。ショートソードを取り落としそうになって慌てて強く握り締める。
「ラック」
ねえちゃんの声がする。
違う、ねえちゃんの声じゃない。
「私のかわいいラック」
思わずぎゅっと目を閉じた。
その瞬間、左太股に鋭い痛みが走る。
体勢を崩して膝をつくと、太股にナイフが刺さっていた。ねえちゃんが、投げたナイフ――ねえちゃんがおれを傷つけた。
耳元で心臓の音がする。それにあわせてずきりずきりと左足に痛みが走る。
敵を眼前に目を閉じるなんて論外だ。
最悪の状況だった。
足をやられたということは、自分の最大の武器である機動力を半分封じられたようなもの。いかにラースの加護で膜翼があるとはいえ、足を庇いながら勝てる相手ではない事がすでに分かっていた。
どうする?
どうしたらいい?
この幻想を壊すのは難しくない。きっとラースに頼めば一瞬で破壊してくれるだろう。
でも、それじゃ意味がない。
おれがこの手で決着をつけなくちゃ、自分の手足で戦ってあの偽物を止めなくちゃ何の意味もないんだ。
でも、もしその意地がグリモワールを危機に陥れるとしたら?
いったいおれはどうしたらいい?
「ラック」
ねえちゃんの声が響く。
地に膝をつきうなだれた時、助けてくれるのは……いつだってバリトンの響きだった。
「その名を呼ぶな、幻想。心を持たないお前が軽々しく呼んでいい名ではない」
いつしか自分を庇うようにして立つ黒髪の男性がいた。
その肩にはハルファスと思しき羽の生えた幼児が乗っている。その姿はこの場に不似合いなくらいに微笑ましかった。
が、その場に突如熱風が吹き荒れる。
はっと見ると、ケテルと戦っていたフラウロスさんの蒼炎柱が天を刺してうねり狂っていた。
そして次の瞬間、その炎柱は凄まじい轟音を立てて爆発した。
爆発の煙が去って現れたのは、天使の姿だった。
ミカエルさんと同じように6枚の翼を湛え、濃い藍色の髪を揺らして佇んだラファエルと思われる影。黒いシャツをほとんどボタンも留めずに羽織り、細身の黒いパンツに編み上げのブーツ。さらにはキラキラ光る銀や金のネックレス、腕輪、チェーンにいたるまで様々な装飾を身につけていた。
その隣に立つのは淡い茶髪のセフィラ……王冠の天使メタトロンを使役するセフィラの長ケテル。
そしてその足元にフラウロスさんがよろよろとしながら立っていた。
うそ、だろう?
「フラウロスさん!」
フラウロスさんがあんなにダメージを受けるなんて!
はやく魔界に戻って回復して!
その気持ちが通じたのかフラウロスさんの姿が消えた。
ほっとした途端に痛みが襲ってくる。左太股に刺さったナイフは、抜いてしまうと出血してしまう。このままにしておくしかないだろう。
痛みに耐えて立ち上がる。
ずきりずきりと痛む足を引きずって、いつも自分を庇ってくれるヒトの隣に立った。
戦闘に参加しないホドを抜いても敵は3人――天使が一人、天使の加護を受けたセフィラが一人、そして破壊人形。それに対しこちらは負傷した自分とアレイさん、それに彼の肩に乗っているハルファス。
自分の手で決着をつけたいと思っていた。悪魔の力じゃなく、自分の手足で戦いたかった。人知を超えた悪魔の力でたとえヒトを傷つけるのが嫌だったから。
でも、そんな変な意地で大切なヒトたちを危険にさらしてもいい?本当にそんなふうにして、おれは納得できるのか?
相手も悪魔と並ぶ天使の力を召還しているというのに……?
「ラース、出てきて」
答えはすぐに出た。自分の意地なんかよりずっと大切なものがある。
ふわりと体が軽くなる感覚があり、黒い霧が自分の全身から飛び出していった。口元にあった犬歯の違和感が消失する。
「いいのカイ? 僕ハ 容赦しナイよ?」
膜翼を背に湛えた大きな黒い狼が幼い声で答える。
うん、だいじょうぶ。何より大切なものを見失いたくない。だって、おれの『一つだけ』は――
「いい。躊躇ったら今度はおれの大切なものが失われてしまう」
「ソウ」
ラースは嬉しそうに犬歯をむき出しにした。
「じゃ メタとろンは 僕が貰ウヨ」
ラースはそれだけ言い放って、ケテルに向かって駆け出した。
殺戮と滅びの悪魔グラシャ・ラボラスがメタトロン本体でなくただ加護を受けただけのケテルに負けるわけがない。
もう一度ショートソードを構えた。
「あれだけはおれが倒す」
ねえちゃんの偽物だけは。
痛みで息が荒くなる。それでもここだけは退けない。
「ひひ! じゃあやっぱりラファエルだな!」
アレイさんの肩に座った幼い悪魔が叫んだ。
だいじょうぶ。紫の瞳をしたイジワルで底抜けに優しい彼がいる限り、おれは負けない。
ねえちゃんの姿をしっかりと視界に捕らえる。
もう目を閉じたり背けたりしない。
「さよなら、だよ」
何度そう決めても揺らいでしまうのは仕方ないのかもしれない。
だってねえちゃんはおれにとって創造主なんだから。
「今度こそ偽物をやっつけるよ」
確認するように何度も繰り返し呟く。
まだラースのかごが残る体は、強く願うとふわりと宙に浮いた。これなら機動力はそれほど変わらない。
左手のショートソードを鞘に収め、一本の剣を両手で強く握る。
そうだよ、短剣を使って戦う方法を教えてくれたのはねえちゃんだったよね。
「ねえちゃん……」
世界を断ち切ろう。
だっておれはもう新しい世界を見つけた。
「さよなら」
その言葉を最後に、自分の感覚は人知を超えたものになる。
――千里眼
ご先祖様が使った力。何度も自分を助けてくれた力。
ひどくゆっくりと動き出した世界で、自分は、剣を強く握って偽物の懐に飛び込んだ。
この傀儡をとめるのはこんなに簡単だ。
ただ、自分がずっと躊躇ってできなかっただけだ。
今度こそねえちゃんに別れを告げるよ。
刃がねえちゃんの肩口に食い込む。
本物の人間とは違って簡単に裂けていく体はやはり生き物の感触を伝えない。
時間がゆっくりと流れる世界で、右肩から斜めに入った刃が胸の中央を通り、左わき腹へと抜けるのがはっきりと見えてしまった。
すぐに千里眼をといてぱっと離れる。
「ラ……ク」
偽物の口から最後の言葉が漏れた。
ねえちゃんと同じ、メゾソプラノ。
「……ごめんね」
やっぱり自分の口から出たのはこんな言葉だった。
切り裂いた口からぱぁ、と真っ赤な羽根が飛び散る。
今までねえちゃんの姿をしていたそれは、何千何万枚もの羽根に姿を変えた。
はらはらと舞う赤い羽根はまるで血の海のように地面に赤い円を作り、その場に沈黙が訪れた。