SECT.24 肩を並べて
優しいバリトンが響く。
「ラック、お前はそこにいろ」
そして、遠ざかる足音がした。
代わりに灼熱の獣が自分を守るように擦り寄ってきた……驚くほど熱くない。
初めて触れた時はひどい火傷を負ったのに。
その炎の向こうには大きな背中が見えた。
遠ざかるその背は決意に満ちている。
――ああ、まただ。またあのヒトは自分を盾にするつもりなんだ。
とても優しいヒトなんだ。相手を傷つけたら自分も傷ついてしまうくらいに。
やめて。もう誰も傷つくところなんて見たくないよ……!
おれが戦うから。
肩を並べて、自分の使える力全部使って戦うから。
だって誓ったじゃないか。
「待って、アレイさん」
声が震えたのは仕方がない。
でも、ここで膝をついている場合じゃない。
「あれは、おれが倒す」
真直ぐにねえちゃんの姿を見据える――ねえちゃんの姿をした偽物を。
「ねえちゃんの『偽物』なんて、おれが許さない!」
偽物を見せるなんて――ひどいと言ってしまえばそれまでだ。
絶望と迷いは吹っ切れて、心の中を怒りが支配した。
死んだ者の姿を幻想に見せるなんて。それもグリモワールを侵略する駒の一つとして利用するなんて……!
――ユルサナイ
絶対に、許さない!
「フラウロスさんはケテルをお願い。倒さなくていい、こっちに介入できないように足止めして」
サンダルフォンを足止めできたフラウロスさんなら、きっとケテルを封じる事が出来る。
ケテルは最後だ。
先に、あの許せない相手をやっつける!
偽物をぎりりと睨みつけた。
「あいつはおれがやる。アレイさんは、ホド本体をお願い」
許さない。許さない。
熱い感情が新たな力を呼び覚まそうとしていた。
ケテルに飛び掛っていったフラウロスさんが、諸共凄まじい蒼炎の柱に包まれて消える。
今のうちに、自分は……あの、『偽物』を消す!
左手に右手をかさね、深呼吸した。
「ラース!」
殺戮と滅びの悪魔、グラシャ・ラボラス。
ずっと、呼び出すのが怖かった。また絶望に支配され意識を乗っ取られるのが怖かった。
でも。
ラース、おれの言う事を聞いてくれ……力を貸して。あの幻想を打ち払うために。
滅びの力が外に飛び出さないよう内に収束させる。爆発しそうな力に抵抗し、支配に飲まれそうになる感情を抑えた。それでも、今にも暴走しそうな力が身内で狂っている。
何とかエネルギーを納めて、息をついた。
両腰のショートソードを抜き放ち、いつも自分を守って庇ってくれていた大きな背中に歩み寄る。
これでようやく隣に立てる。
「……無理だけはするなよ」
「ありがとう」
肩を並べて。
自分の持つ力全部を使って。
「行くぞ!」
「うん!」
同時に地を蹴り、ラースの加護を全身に満たして『偽物』に飛び掛った。
ねえちゃん、大好きだよ。おれがこの先どんなヒトに出会ったとしても、ねえちゃんが大切なのは絶対に変わらないよ。
おれはまだ18歳だからこのあとまだ何十年も生きていくと思うんだ。
でも、ねえちゃんと過ごした3年間が本当に幸せだったこと、ずっと忘れない。
カトランジェの街の片隅で、優しいヒトたちに囲まれて大事に大事に育ててくれたねえちゃん。
大怪我して行き倒れていたおれを拾って、「探索者」という職までくれた。いつでもやさしく撫でてくれて、眠れない夜には頬にキスをして落ち着けてくれた。
新しい世界でもずっと一緒にいるはずだったのにね。
グリモワール国の歴史を話してくれた。悪魔さんたちのことをたくさん教えてくれた。
おれは王都に行ってからたくさんのヒトに出会ったよ。たくさんの大切なものを見つけたよ。初めて自分の手で大切なものを守りたいと願うようになった。
だからおれは強くなるために稽古を重ねた。ねえちゃんから遠く離れたところで、一人でもがんばれるって信じてた。このまま強くなればいつかねえちゃんに追いつけるって……それなのに、これからだって時にねえちゃんは逝ってしまった。
いっぱい泣いたよ。それこそ、吐くほど泣いた。もう駄目かと思った。だってこの戦場から逃げられると聞いた時、すごくほっとしたんだから。あんなに望んで来た場所だったっていうのに。
それでも、またたくさんのヒトに支えられて戻ってくる事が出来た。
あの手品師すらおれを助けてくれたよ。ご先祖様にも会っちゃった。ほとんど話せなかったけど。
おれはこれからも生きていけるよ。ねえちゃんのいない世界で。でも、大切なものと大好きなものに溢れているこの世界で――
初めてジュデッカ城の牢獄でラースを召還した時はただ支配されるだけだった。助けを求めるだけだった。
でも、今は違う。
ラースに力を借りて、自分の手足で戦っているんだ。それはずっとずっと自分が稽古を繰り返し、戦闘経験を積んできたから出来る事だった。
悪魔に支配されるのは、心に隙がある時だけだ。特にラースは絶望を好む。ヒトの絶望を食って力にし、開いた隙間に入り込んでくるのだ。
しかし自分の中に吹き荒れている感情は怒り、だった。怒りの目盛りが振り切って、冷静になるくらいに怒っていた。
二本のショートソードを同時に振り下ろす。
スリットの入った真紅のドレスを纏う女性は、その攻撃をふわりと避けた。
その視線に胸が熱くなる。ねえちゃんと同じ目でこっちを見るな。ねえちゃんと同じ顔で、体で……!
背に膜翼が広がる。自分では見えないが、犬歯が伸びたのが唇の感触で分かった。
「うおおおお!」
唸りを上げて偽物を追尾する。
そいつは表情も変えずに太股に括ってあったナイフを両手いっぱいに持ち、追いかける自分に向かって投げつけてきた。目の前に大量の刃が迫る。
これまでなら目を閉じてしまっていたかもしれない。
でも、もう今までとは違う。
目を逸らさずに迫ったナイフに真っ向から向かう。集中して、すべてのナイフを叩き落した。
ふう、と息をついて一旦距離を置いた。
偽物はどうやら天使や悪魔の力を使うわけではないようだ。これなら、それほど苦戦せずに倒せるだろう。
「一気に行くぞ!」
気合を入れて剣を構えたときだった。
瞳に光がなくずっと無表情だった相手が、一言も発しなかった『偽物』に変化があった。
無表情だった顔が動く。口角が少し上がって目じりが下がる。
ばら色の唇がゆっくりと動いた。
メゾソプラノの声が漏れる。
「……ラック」
紛れもない、ねえちゃんの声だった。