SECT.23 幻想
周囲を見渡すと、周囲をぐるりと深い溝が取り巻いているのが分かった。ここはまるで台地状に隔離された闘技場だ。戦場の真ん中に突如現れた決戦の場所。
そしてこの土の台地に残されたのは二人のセフィラと自分たち二人だけしかいない。
一人目の宣戦布告をした淡い茶髪のセフィラは、背に大きくアーチを描く金冠を背負っている。それはサンダルフォンを召還したシアと同じだった。狡猾そうな笑みを湛え、細いフレームの眼鏡を押し上げる。
隣にいるのは自分より年下だろうと思われる大きな黒縁眼鏡の少年だ。小さな体を6枚の翼に埋もれされるようにしてぼんやりと佇んでいた。その手にはからだの大きさに不釣合いな大きい硝子球が乗っている。
あの赤い羽根の詰まった硝子球は見た事がある気がするけど、どこで見たんだっけ?
思い出せない。
ずっと羽織っていたマントを脱ぎ捨てた。
首にかけたコインをぎゅっと握り締め、静かに名を呼んだ。
「フラウロスさん」
黒々とした魔方陣が発動し、灼熱の獣が空中に飛び出してくる。凄まじい熱風に襲われた。
蒼い炎を従えたオレンジの豹は地面に降り立って一つ大きく咆哮を上げた。
だが、これはさすがに熱い。それに隣で戦うアレイさんたちにも被害がでかねない。
「もう少し温度下げられるかな? おれも熱いんだけど」
するとフラウロスさんは掠れた声で抑揚なく返事をした。
「難解 だが 努力する」
言葉と共に炎の勢いが弱まる。これで何とか火傷せずに済むだろう。何より、周囲に発散している分の炎を攻撃に回せればフラウロスさんはもっと強くなれるはずだと思った。
どうしてそう思ったかは分からない。
ただ分かるのは、銀髪のヒトに連れ去られた次の日や、一人でゲブラとネツァクに立ち向かった時と同じように頭が冴え渡っているという事だった。
アレイさんを見上げると、背後には幼い顔をした生意気そうな子供の姿が浮かんでいた。あれは戦の悪魔ハルファスだ。風を操る力も持つとアレイさんが言っていた。
それから、アレイさんの握る長剣からは禍々しい気配が漏れている。間違いなくあれはサブノックさんの持っていた剣と同等の能力を持っている。天使の攻撃を裂き、斬った傷を腐らせるという刃の狂剣だろう。
それに対し、敵は二人。
「ひひ! フラウロスも来たか! カマエル倒したみたいだな!」
甲高い声がアレイさんの背後のハルファスから漏れた。
フラウロスさんがしゃがれた声で答える。二人は知り合いなんだろうか?
「ハルファス 契約 珍しい」
「いいだろ! 俺こいつ好きだ!」
ストレートな悪魔の言葉に思わずどきりとした。
フラウロスさんは一言で切り捨てる。
「理解不能」
自分もこんな風に素直にアレイさんに好きだといえたらいいのに。
悪魔の率直さに思わず目を丸くしてしまった。
「すごいね、アレイさん。大人気じゃん」
するとアレイさんはきゅっと眉を寄せた。
「お前が言うか?」
「だってフォルスさんもフェルメイさんも、ルーパスだってライディーンだって、ゲブラも……みんなアレイさん大好きだよ?」
そう言うとアレイさんは深いため息をついた。
いつか、言えるだろうか。
とてもとても好きなんだと。ずっと傍にいて欲しいし、おれはずっと傍にいたいのだと。だから隣にいることを許して欲しい、と――
見つめていた端正な横顔が引き締まった。
「ケテルは俺が引き受ける。でないとハルファスが承知しないからな」
「ひゃは!」
ハルファスはどうやら幼い声のとおりに我侭らしい。もしかすると、仲良くなれるかもしれない。
「んじゃあおれは……あいつだ」
翼にくるまれた眼鏡の少年を見つめた。
あれがホド。栄光の天使ラファエルを使役し、物理攻撃の通用しない幻想という傀儡を操る死霊遣い。
眼鏡の少年が大きな黒いフレームの眼鏡の奥でにやりと笑った。
「バカだな……今回の破壊人形は前回の比じゃないぞ?」
するとアレイさんは緊張した声で返した。
「ほんの数日で何が変わる」
「変わるぞ。強力な幻想に力を裂いていたのが無くなるからな」
強力な幻想……何かがぴんときた。
冴え渡っている今だからなのか。
「もしかしてシアがグリモワールにいた間、マルクトの幻想で軍を誤魔化していたのか?」
シアは少なくとも二年間 漆黒星騎士団にいたはずだ。それではその間セフィロト国ではマルクトのいない現実をどう誤魔化していたのか。
その答えがきっと幻想だ。
幻想とは血を使ったヒトと同じ姿をした傀儡のこと。
「勘がいいな。レメゲトン」
眼鏡少年のホドはにやりと笑って赤い硝子球を掌から地面に落とす。
地面に触れた瞬間、大気を振るわせる音を弾いて硝子球が砕け散った。
「行け、僕の破壊人形」
中に詰まっていた赤い羽根がぱっと飛び散る。
それは徐々に収束してヒトの形を作っていった。
腰まで流れ落ちるストレートブロンドが現れる。
心臓がどくりと一つ脈打った。
まさか。
真紅のドレスに身を包み、ブロンドを風に靡かせて。
「……ねぇ、ちゃん」
思わず呆然と声が出た。
ホドが作ったという最高傑作、破壊人形。
金色の瞳がこちらに向けられた時、思わず叫んでいた。
「ねえちゃん!」
鼻の奥がツンとしてじわりと目の端に熱い雫が浮かんだ。
どうして。どうしてここにいるんだ。
「ねえちゃん、何で……?」
意識がとんだ。
目の前にいるのは幻想だと分かっていたのに、大切なヒトの姿に何もかもが吹き飛んでしまっていた。金の瞳から目が離せない。優しく微笑んでくれたはずの笑顔は無表情のままだったけれど。
後ろから何か声がした気がした。
同時に強い風が自分を包み込んだ。その風は強く優しく自分をふわりと浮かす。
ねえちゃんに向けて伸ばした手は届かない。
風に巻かれて遠ざかるねえちゃんに、必死で手を伸ばした。
「ねえちゃん!!」
行かないで。もうどこにも行かないで……!
心が叫びだす。
理性と関係なく感情が溢れ出る。
風が止んで地面に降りる事が出来た。
刹那駆け出そうとするが、腕が伸びてきて自分を抱くように押し留めた。
体中が震えだす。
落ち着いて、落ち着いて。あれはねえちゃんじゃない。ただの幻想だ。
もう行かないで。どこにも行かないで。おれの傍にいて。
違う、あれは偽物だ。
駆け寄りたい。抱きしめて欲しい。頭を撫でて、優しい言葉をかけて、そして笑って……
「落ち着け、ラック! あれは、ねえさんじゃない!」
頭の上から怒号が降ってきた。
思わず振り向くと、すぐそこに紫の瞳があった。頬に赤い筋が入っている。
バリトンの響きが木霊する。
ねえさんじゃない。ねえさんじゃない……ネエサンジャナイ
「そんなはずない。だってあれはねえちゃんだ!」
「違う! あれはホドの創った幻想だ!」
幻想だ。幻想だ……幻想ダ
すべては幻想。
ねえちゃんは、もう……!
絶望が想起する。
「嫌だよ……違うよ……ねえちゃんだよ。ねえちゃんは……」
固く閉じられた瞼と真っ赤に染まった体。
――あの時、ねえちゃんは
「お前だって分かってるはずだ」
真剣な声で、しかし悲痛な叫びで目の前の男性が告げる。
「ねえさんは死んだ!」
死んだ。
もう会えない。
追いかけることの出来ない世界に行ってしまった。
「あれは、敵だ。ホドの創り出したただの傀儡だ。ねえさんの血を持つだけの、ただの……破壊人形だ」
そんな事は分かっている。最初から、分かっている。
全身の力が抜けた。
そのまま地面に座り込んでしまった。