SECT.22 ただいま
雨の中、オレンジの髪の女性騎士が駆けてきた。
あまりに凄惨な現場を見て、眉をひそめたのがわかった。ミカエルさんとルシファがどんな戦いを繰り広げていたのか見る事はなかったが、周囲の破損具合から見て相当飛び回っただろうことは明白だ。石碑は完全に粉砕し、地面も抉れ、周囲の草木は根こそぎ吹き飛んでしまっている。
フラウロスさんの炎もかなりの範囲を焼いてしまったようだが、ここが街の中心部でなかったのは幸いだった。隣の民家との距離があったためほんの2・3棟焼いただけで済んだのは奇跡に近い。
「街の人間に被害は出ていない。ほとんどがすでに戦から逃れ北のほうへ移動した後だったようだ」
「そう」
笑おうとしたが、無理だった。笑顔がこわばってしまう。
ヴィッキーは落ちていた左手のショートソードを拾い、手渡してくれた。
「やはりお前は戦場へ戻るんだな」
「……」
答えることは出来なかったのに、ヴィッキーはどこか安心したような顔をしていた。
「初めて会った時、お前は言っただろう? おれは早く強くなって戦場に行かなくちゃいけないんだ、と」
剣を両方鞘に納めた。二人の悪魔さんの加護を受けていた篭手を失くした今、おれに残された武器はこの二本のショートソードだけだ。
「行け、ラック。ここは私とキャスト先輩で何とかしておく。もちろん、ゼデキヤ王にもクラウド団長にも言っておこう」
「ヴィッキー……」
「私もこの国が大好きなんだ。頼んだぞ、ラック――レメゲトン、ラック=グリフィス」
ぽんと肩に手を置いたヴィッキーを見て、唇をかみ締める。
首に下げた2つのコインをぎゅっと握った。
「分かった」
もう逃げない。
自分の持つ力全部ぶつけてやる。
左手にずっときつく巻いていた包帯をほどいた。赤黒く血管の浮いた、コインの左手甲があらわになる。
ほどいた包帯をヴィッキーに渡して、言った。
「マルコもお願い。あいつに乗って行きたいけど……それじゃ間に合わない」
「承知した」
ヴィッキーの返事を聞いたら満足した。
一つ、大きく深呼吸。
「じゃあ、行ってくるよ」
最初に契約した堕天の老紳士の名を呼ぶと、肩に金目の鷹が下りてきた。
「行こうか、アガレスさん」
ヴィッキーに手を振り、空に飛び上がる。
叩きつける雨が冷たい。
気がつけば隣にゲブラが浮いていた。同じ時間雨の下にいるはずなのに、その服もシルクハットも全く濡れていなかった。
天使の加護と悪魔の加護を持つ手品師。このヒトはいったいどんな人生を歩んできたんだろう?
「やっぱりおまえ、おれの味方だったんじゃないか」
「違いますよ。僕は誰の味方でもありません。貴方を助けたいのは僕ではなく僕の悪魔」
白い手袋の下に残された悪魔紋章を見せて手品師は笑う。
今も手品師を包む悪魔の加護は半端なものではない。それこそカマエルさんを吸収したフラウロスさんやラース並の力を持つはずだ。
「名前、教えて? 誰? どの悪魔さんなの?」
そう聞くと、手品師はにこりと笑った。
これまでの悲しそうな笑顔とは少し違う、晴れやかな笑顔だった。
「さあ、じゃあ僕の手品で姫さまをひとっ飛びに戦場へお送りしましょう」
自分の疑問を完全に無視したその言葉に、思わず唇を尖らせてしまった。
「ゲブラっ!」
「がんばってください。これからが、大変ですから。揺らがないでください。あなたが迷えば世界が揺らめきます」
「答えになってないよ!」
手品師がステッキを振る。
これは手品。種も仕掛けもある、不思議な――
「待てよ、おまえ! おれまだ何も……せめて悪魔の名前くらい」
ステッキの先が光る。
手品師はそのステッキをくるりと回し、おれに光の粉を振りかけた。
「僕の悪魔はかつてコインで召還しました」
手品師は一本だけ指を立てて唇の前に置いた。
秘密のサイン?いや、違う。これは……
「第1番目のコインの悪魔?」
目の前に光のヴェールが降りて、景色が薄れていく。
「……バアル」
思わずポツリと呟いた。
その名は、先ほど稀代の天文学者ゲーティア=グリフィスが探せ、と言った悪魔だ。きっとお前の力になってくれるから、と――
「ゲブラ……っ……バアル!」
手を伸ばしたけれど、届かなかった。
手品師の顔もその後ろに浮かぶ優しげな瞳の悪魔の姿も、霞むようにして消えていった。
次に視界が晴れると、目の前にはなんとセフィラの神官服を纏った二人がこちらを驚いたように見ていた。
あらら、どうもゲブラは気を利かせて戦場のど真ん中に飛ばしてくれたようだ。
「ん? どこだ? ここ」
思わず間抜けな声を出してしまうと、後ろから驚いたバリトンが響いた。
「……ラック」
ああ、自分が一番聞きたかった声だ。
今度こそ、もう隣を離れたりしない。
くるりと振り向くと、驚いた紫の瞳がこちらに向けられていた。
「ただいま、アレイさん」
にこりと笑うと、困惑した顔でじっと見つめられた。
それでもこのヒトにまた会えた事が嬉しい。思わず微笑んでしまった。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
「お前……なんでここに」
「言ったじゃん。おれはここで戦うためにずっとがんばってきたんだ」
二人と別れてから。
それだけを目標に厳しい稽古に耐えてきたんだ。
「アレイさん……おれはアレイさんの隣で戦うって言ったよ?」
これはある意味での告白だった。
でも、アレイさんが願っていてもいなくても……隣にいたかった。知らない場所で、危険な目に遭わないように。
「本当は――ねえちゃんも隣にいるはずだったけど」
もちろんねえちゃんのことを思い出すだけでまだ塞がっていない傷口はずきずきと傷んだ。
しかし、もう自分は戦える。
絶望に支配される事はない。ラースに飲まれることだってもうない。
ヒトは、大切なものを失ってもまた新しく大切なものを見つけて立ち上がるんだろう。悲しい事だけれど、そうしなかったらきっとねえちゃんはずっとおれのことを心配し続けなくてはいけない。
前に進みなさい。大切なものを見失っちゃ駄目よ?
きっとねえちゃんはそう言うだろう。
だからおれはここに戻ってきた。
もう一人の大切なヒトを失わないように。このイジワルで底抜けに優しいこのヒトに、傍にいてもいいか問うために――心の底から願うから。
紫の瞳を真直ぐに見つめた。その瞳はまだ驚いているようだった。しかし、背後にセフィラが控えている今、説明している時間はないだろう。
「詳しいことはまた言うよ。それより先にシアを……」
そういえばシアは?
と、思って見上げると、そこには金冠を背に湛えたシアとそれを追う紅髪の騎士が目に入った。
「ライディーン!」
思わず叫ぶと、ライディーンは一瞬振り返った。
強い意思を含んだ藍の瞳にどきりとする。
「ラック! シアは俺に任せろ! お前はシアに攻撃なんて出来ないだろう?!」
強い口調で言われてぐっと詰まった。
確かに、シアに攻撃をしろといわれたら躊躇ってしまうだろう。
だって、ずっと一緒に同じ部屋で生活していたのだ。ヴィッキーと共に。メリルと4人で――
今だってまだ信じられない。シアがマルクトだなんて。ルシファを狙って騎士団に入り込んでいたなんて。自分たちを裏切ってセフィロトに戻ってしまうなんて。
そんな心の葛藤を見抜いたかのように、ライディーンはにこりと笑った。
ほんの少しだけ悲しそうに。
「先輩、後は頼んだよ?」
アレイさんに向かってぴっと指を突きつけたライディーンは、シアの姿を追って飛び去っていった。