SECT.21 過去との決別
「邪魔をするな! ゲブラ!」
手品師に向かってそう叫びながら、銀髪のヒトが打ちかかってきた。
地面に転がっていたショートソードを拾い、そのままクロスしてブレイドを受け止める。
負けられない。
このヒトの憎しみを受け止めて、その上で天使の加護を引き剥がす。それこそがきっと自分に新しい世界を教えてくれたこのヒトへの礼儀だ。
銀髪のヒトからは、裏切った元セフィラに対する留まる事のない罵詈雑言が飛び出してくる。
ゲブラはそれを聞きながら少し悲しそうに微笑んだ。
「可哀想なティファレト。二人に別れたばかりか帰る故郷も失って」
手を出すつもりはないらしい。
しかし、シルクハットを深くかぶりなおした手品師は悲しげな声でポツリと呟いた。
「せめて、天使も悪魔も忘れて新しい生を受けて欲しいものです」
そうするにはきっと加護を引き剥がせばいい。どうしてそう思ったのかは分からないが、加護を失う事で全てがリセットできる気がした。
もう迷わない。
はじまりのきっかけになった銀髪のヒト、その加護を引き剥がしておれは次のステージに進んでみせる!
感覚を集中した。
もともと鋭いおれの感覚は、悪魔の加護を受けて人知を超えたものとなる。
――千里眼
突如周囲の時の流れががくんと緩やかになった。先ほどから降り続く雨粒が一粒一粒弾ける様子さえ見て取れる。感覚を支配する絶対時間。
雫を湛えた銀髪が一筋一筋まで緩やかに波打つのが見えた。銀のブレイドが迷いなくこちらに向けられている。
探すんだ、ほんの少しの違和感を。ねえちゃんと過ごした日々ずっとそうしていたように。
緩やかに動く銀のブレイドをすれすれでかわして懐に飛び込み、ショートソードの柄で殴打を加える。が、それは丈夫な手甲で防がれた。
その瞬間、何かが感覚に触れる。
距離を置きながら考える。
今、一瞬の違和感は何?
もう一度構えて今度は空から奇襲をかけた。
両手に体重をかけて思い切り振り下ろした。
金属のぶつかり合う音が頭に響く。慌てて聴力のレベルを下げながら一歩引いて、今度は左の突き、ガードの開いた左脇に回転蹴りを放つ。
ところが、受け止めてしまえるような軽い蹴りを銀髪のヒトは怖がるようにしてバックステップで避けた。
左側を、庇っている?
庇う理由は一つしかない。そこに、傷つけられたくないものがあるからだ。
きっと先ほどの違和感の正体も、無理に左側を庇っていた事による不自然な動きだったんだろう。庇う動作はどうしても、どんなに気をつけても分かってしまう。
左側、のどこ?
空から怒涛のような攻撃を仕掛ける。
足じゃない。手も違う。そうだったらこんなにも軽快で途切れる事のない攻撃は出来ない。
あとは、頭、顔――胸。
見つけた。
天使の刻印。
あれを切り離せば、ミカエルさんは天界へ帰ってしまうはず。そして、このヒトを――
全身に加護が滾る。
もう残り時間は少ない。迷っている場合ではない!
渾身の力を込めて左手のショートソードを投げた。
驚いた顔をした銀髪のヒトが飛来したショートソードを弾いている間に左側頭に上段蹴りがヒットする。
今だ!
両肩に手を置いて、地面に押し付けるようにして馬乗りになった。
同時に千里眼をとく。
急に目まぐるしく回転し始めた世界で、銀髪のヒトの体が凄まじい勢いで地面に叩きつけられた。右手に握っていたショートソードの柄が左肩に食い込み、ごき、と鈍い音がした。
土埃が辺りに舞った。
ずっと降り続く雨が、宙に舞った土埃を荒い去っていく。
「……最初の時と逆だな。やっぱりあの時殺しておけばよかった。君がこんなに強くなっちゃう前に」
冷静な声は、きっと半目の青いオーラのヒトの人格だ。
馬乗りになった状態で、銀髪のヒトの両肩を渾身の力で押さえつけた。
「はあ、はあ……」
息を整えながら右手に残ったショートソードを振り上げる。
そしてそのまま思い切り振り下ろした。
がぎり、と鈍い音がして、手に衝撃が伝わる。
銀髪がはらりと地面に落ちた。
「どうした?」
陶器のような頬に一筋、赤い線が走っていた。その筋は雨に触れ、みるみる滲んでいく。
顔の真横に刺さったショートソード――かすかに頬を傷つけたその刃は、地面に突き刺さっていた。
分かっている。天使の刻印を傷つけなければいけない事は。
しかし、心臓の上に刻印された天使の印を切り離す事はできない。もしこの印に刃を突き立てればそのまま命を絶ってしまうだろう。
殺せない。どうしても、命を絶つことだけはできない。
ねえちゃんを殺した敵国のセフィラだというのに。すでにこの手でどれだけ命を奪ってきたか知れず今さらと思うのに――
「殺せよ。貴様の勝ちだ」
あのときからずっと変わらない、深くてよく通る声が響いた。
深い群青の瞳。覗き込む事を許さない深淵の色。
「うあああああ!」
思わず大気を震わせて叫んだ。
感情が渦を巻いて外に飛び出していった。
「フラウロスさん!」
灼熱の炎を両手に纏って、思い切り胸に押し付ける。
「がああああ!」
その瞬間、銀髪のヒトの口から苦痛の声が響き渡った。
白い服が燃え上がり、じりりと肉のこげる音がした。
自分の下にある体からがくりと力が抜ける。
押し付けた両手からも煙が上がっていた。感じる痛みから、自分の手もダメージを受けたのはすぐに分かった。が、そこから手を離す事はできなかった。
かすかに両手に鼓動が伝わってきた。だいじょうぶ、死んでいない。ただ皮膚の刻印を焼いただけ。
それなのに視界がにじんだ。
この涙は、何?
「う……っ」
嗚咽が漏れた。
ぽたぽたと陶器の頬に雫が落ちる。雨か雫か。頬を温かいものが伝う。
「ごめん……なさい」
これは一体何に対する懺悔だろう。
今この手で天使の加護を奪ったこと?グリフィス一族が迫害したこと?それとも、命を奪えなかった自分の弱さ?
いずれにせよ、この言葉が自己満足だということくらい分かっていた。
「泣かないでください、クロウリー伯爵に叱られてしまいます」
手品師の声が聞こえた。
いつしかこの場に静寂が訪れている。
ふと顔を上げると、サンダルフォンとミカエルの姿は消え、ルシファとフラウロスさん、それとシルクハットの手品師だけが佇んでいた。
涙を拭いて立ち上がる。
一瞬目を話した間に、銀髪のヒトは折り重なるように二人に分かれていた。まるで互いを守るように両手を伸ばしたその姿に、また胸が痛くなる。
震えそうになる肩を抱いた。それでも、自分は前に進むと決めたんだ。
「行こう。戦場に戻ろう」
ルシファさんを、フラウロスさんを、そしてゲブラを見た。
「大切なヒトを助けるんだ。もう……迷わないよ」
始まりの朝に出会ったヒト。あの朝を経たから自分はレメゲトンになり、悪魔さんたちと歩むことになったんだ。
新しい世界に飛び込むきっかけになったヒト。
おれはその世界を守るためにこのヒトを傷つけた。自分が勝手に選んだものを守るために。
「……ごめん」
最後にポツリと呟いて銀髪のヒトたちに背を向けた。
凄惨な闘いの跡が残る中、静かに雨が降り続いていた。