SECT.15 逃亡
それでもここは戦場。
また敵との交戦がはじまるのだ。
何を失っても。どれだけ傷ついても。
一番大切だったヒトはいなくなってしまったというのに、後ろにはまだ守りたいものがたくさん残っている。気づかぬ間に広がった自分の世界は、大切なものに溢れていた。
それに自分は王様と約束した。
グリモワール王国を守るって。この国に住むヒトたちを傷つけないように、セフィロト国を撤退させると。
その王様から伝令が届いた。
最後のレメゲトンと漆黒星騎士団の半分が戦場にやってくるという知らせだった。
「……ライディーン」
ぽつりと呟いた。
半年間過ごした漆黒星で出会った、珍しい紅の髪に深い藍色の瞳、挫けぬ心を持つ少年騎士だった。力強い両手剣の型が想起する。
レラージュと契約してからすでに半年近くが過ぎようとしている。彼はまた強くなったんだろうか。
書簡を手にしたフェルメイが会議場で細かい指示を伝える。
「騎士団長のクラウド=フォーチュン卿は王都に残留し新設王族警護隊の隊長を兼任されます。従って騎士団の代表権は鷹部隊長ライガ=アンタレス氏、その元に鷹部隊と鷲部隊、それと鷺部隊の一部を派遣されるそうです」
クラウドさんは来ないけれど、ライガさんをはじめとする鷹部隊のヒト達や鷺のお姉さんたちがやってくる。
また、傷つき傷つけられるために――
喪失感がまた戻ってくる。キモチワルイ。
吐き気をこらえて俯いた。
これ以上何も失いたくない。戦争でヒトが傷つき、死んでいくのをもう見たくない。でも、戦場から逃げてしまえば自分の手で大切なものを守る事すら出来なくなってしまう。
握り締めた拳が震える。
逃げたい。逃げたい。
苦しい。
「……グリフィス女爵に王都への帰還命令が出ています。漆黒星騎士団 鷺部隊2名、鷹部隊1名が到着次第帰還せよ、との事です」
フェルメイの言葉が耳に飛び込んできた。
「王都帰還……?」
言葉の意味が一瞬理解できなかった。
王都帰還という事は戦場を離れるという事だ。トロメオを奪還したとはいえ、まだ予断を許さない戦況だというのに。ケテルもホドも、あの銀髪のヒトだってまだ出てきていないのに。
それでも心のどこかで戦場を離れる事にほっとした自分がいたのは否めない事実だった。
アレイさんの大きな手がぽん、と頭にのせられた。
「おれ……ここを離れるの? だって、セフィラはいっぱい残ってるよ……?」
紫の瞳を見上げて問うと、彼はゆっくりとたしなめるように言った。
「大丈夫だ。お前の代わりに新しいレメゲトンが来るのだろう? 俺は会った事などないが、ゼデキヤ王が任命されるくらいだ、きっと強いんだろう」
「うん、強いよ。ライディーンは強い」
それは分かっている。
短剣や格闘を交えない純粋な剣術ならば自分よりずっと強いだろう。破壊の悪魔と呼ばれたレラージュさんと契約しており、その強さは自分の身を持って体感している。そして何より強いのは挫けてももう一度立ち上がることの出来るその心。
きっとグリモワール軍に多大な貢献をする事だろう。
でも。それでも。
「でも……でも、おれがいなくなってもアレイさんはまた危険な目に遭うんでしょ……?」
それはとても嫌だった。
もう大切なヒトに傷ついて欲しくなかった。
「ねえちゃん、みたいに……」
その名を出すのはひどく勇気を必要とした。
きっとアレイさんも同じなんだろう、紫の瞳に灯る光が一瞬揺れた。
でもそれはほんの一瞬で、すぐに迷いのない光を灯した。いつも自分を導いてくれた、真直ぐな目だ。実直で正直で、素直で――とても優しい瞳。
「大丈夫、俺は強い。お前の前からいなくなったりはしない。絶対に、だ」
アレイさんの温かな微笑みを見てまた泣きそうになる。
でも深いバリトンが体の隅々まで響いて傷だらけの心の隙間に流れ込み、少しずつ痛みが引いていくような気がした。
2日後、漆黒星騎士団とライディーンが揃って到着した。ライディーンがレメゲトンになったことは既にみんな知っているのだろう、ライディーンの補佐をするように鷹部隊のファイさんが常に隣にいた。懐かしい金髪の青年の姿を見てほっとする。
しかしながら、ライディーンと話している時間の余裕はほとんどなかった。
騎士団長さんたちがいる前で簡単な引継ぎを行い、すぐその日のうちに荷物をまとめてトロメオを離れる事となった。
自分が戦場に赴いた頃 鷺部隊に配属されたヴィッキーとシア、それに鷹部隊のリーダー、壮年騎士のキャスト=ディアスさんの3人が自分の護衛としてそのまま王都にとんぼ返りするらしい。リーダーの中では最年長のキャストさんはクラウドさんよりも長く漆黒星騎士団に所属している。思慮深く、経験も豊富で有能な参謀だ。
荷物をまとめて愛馬のマルコに乗せ、3人と共に王都へ向かうことになる。
キャストさんは最後までライガさんと打ち合わせをしていた。
忙しいはずなのにフェルメイさんとフォルス騎士団長が時間を割いて見送りに着てくれた。それとベアトリーチェさんとアレイさん。少ない見送りだった。
王都への道は急いでも一週間はかかる。グライアル平原を越えカトランジェの街を通り、さらに街道をずっと西へ向かう旅だ。
戦場を離れると決まって、いくらか心が安堵していた。
思ったよりずっと気が張り詰めていたらしい。
隣で栗毛の馬に乗るヴィッキーのオレンジの髪を見て懐かしく思い、漆黒星騎士団にいたのがとてつもなく過去のことだったように感じた。
あの頃はねえちゃんとアレイさんの背中を追いかけるので必死だった。
紫の瞳がこちらを向く。
マルコに乗ったまま両手を伸ばすと、アレイさんは導かれるようにマルコのすぐ傍まで来てくれた。短くなった髪にまた胸が痛む。
このヒトはまた傷ついてしまうんだろう。
隣で戦いたい。でも……もう逃げ出してしまいたい。
――もう、大切なものを作るのは怖い
大切なものを守ろうと努力して、でも出来なかった時の喪失感は何物にも変えがたい。それこそ、全てを破壊しても構わないと思うほどに。
そんな葛藤もこのヒトにはすべてお見通しなんだろう。
だから何も言わずに自分を王都に送ってくれるんだ。
「死なないで。絶対。死なないで……」
そう言って、自分より少し低い位置にある首に腕を回して抱え込んだ。
ねえちゃんがいない世界で唯一自分を現実に繋ぎとめてくれたヒト。底抜けに優しく、自分を包み込んでくれたとてもとても強いヒト――誰よりなくしたくないヒト。
「行くぞ、ラック」
ヴィッキーの声でアレイさんを放し、マルコの手綱を取った。
泣きそうになるのをこらえて唇をひき結んだ。くるり、と見送りのヒトたちに背を向ける。
ねえちゃんをなくして世界を破壊しかけた自分は、戦場を後にした。