SECT.14 慟哭
手に温かい感触を覚えながら少しずつ覚醒した。
その手をぎゅっと握ると握り返してくれた。
ゆっくり顔を上げると、ずっと見たかった紫水晶が困惑しながらも自分の方を見ていた。
「……あぁ」
思わず安堵のため息が漏れる。
じわりと眼の端に涙がにじんだ。
そのまま紫の瞳を持つヒトの胸に飛び込んだ。勢いでベッドに倒れこんだがお構いなしに抱きついた。全身で無事を確かめたかった。
「よ……かったぁ……」
ぎゅっと胸に顔を埋めると、温かい体温と優しい鼓動が伝わってきた。
生きている。
震えるほど嬉しかった。とめどなく涙があふれてきた。
昨日ねえちゃんの前であんなにたくさん泣いたっていうのに、涙はまだ涸れていなかったみたいだ。次から次へと流れ出る雫は留まるところを知らなかった。
ねえちゃんだけじゃなく、アレイさんまでいなくなってしまったら。
自分は比喩でなく世界を滅ぼしてしまっていただろう。
世界は崩壊し、心を失って絶望に全てを明け渡し、止めるヒトもいない世界を完全に破壊しつくしていただろう。
アレイさんが命を賭して止めてくれなかったら……
温かくて大きな手が肩に回された。
背にも手が触れた。火傷したはずだったのに痛みは全部引いていた――ブエルさんがついでに治してくれたんだろうか。
ところがアレイさんは自分を抱いたまま上体を起こした。
必然的に彼の腰の辺りに跨る格好になる。
いつもより近い、でもほんの少し見上げる位置にある紫の瞳を覗き込んだ。
すると、アレイさんは目を逸らすようにしてぼそりと言った。
ついでに両肩に手を置いて自分を遠ざけようとしている。
「頼む。離れてくれ」
どうして目が合わないんだろう。
じっと見つめたけれど、アレイさんはこちらを向いてくれそうになかった。
悲しくなった。
「何で?」
どうしておれを遠ざけようとするんだろう。
「もしかしてまだどこか痛い? ブエルさんが全部治したと思うんだけど……」
「いや、平気だ。体は全く問題ない」
それじゃあもう自分と一緒にいたくはないと言うのだろうか。
ラースを散々暴走させてひどい怪我させて、怒っているんだろうか。もしかして嫌われてしまったんだろうか?
嫌われる……?
心臓が抉られるような不安が襲う。
また泣きそうになった時、コンコン、とノックの音がして部屋のドアが開いた。
「失礼します。ミス・グリフィス? ウォル先輩の具合は……」
『覚醒』の副隊長、フェルメイさんだった。
優しい笑顔のそのヒトは、なぜかこちらを見て頬を引きつらせた。
どうしてだろう?アレイさんが元気そうなんだから喜んでくれてもよさそうなのに。
喜ぶどころか軽く礼をして部屋を出て行ってしまった。
「待っ……フェルメ……イ……」
アレイさんが慌てて呼びとめようとするが、間に合わなかった。
紫の瞳の男性は大きなため息をついて頭を抱えた。
「アレイさん?」
首を傾げると、アレイさんはつい今しがたフェルメイさんが出て行ったドアを指差して叫んだ。
「俺はもう元気だ……着替えるから出て行け。それからお前も着替えて来い!」
あ、いつものアレイさんだ。
何だか妙にほっとした。
ようやく自分の中に張り詰めていたものが切れた気がした。ほんの少しだけ元気になれそうな気がする。
ひょい、と飛び上がって部屋の床に着地した。
「じゃあすぐ戻るよ! 待ってて! どこにも行っちゃダメだよ?」
大切なヒトがもうどこへも行かないように。
ずっと、ずっと傍を離れないようにしよう。
そう心に決めて部屋を後にした。
着替えを終えてアレイさんの部屋に戻ると、彼も着替え終わっていた。
「えーと……アレイさん?」
しかし、その姿を見て思わず首をかしげた。
紫水晶はそのままだったけれど、髪は短くなっておりいつものマントもない。その上、正装でも騎士服でもない比較的ラフな灰色のシャツを着ていた。それもサイズが合わず止まらなかったなかったのかボタンが上2個くらい外れている。
けれど短い髪は端正な顔立ちのアレイさんにとてもよく似合っていた。
「ちょっと若く見えるよ」
そう言うと、アレイさんは頬を引きつらせた。
「誰のせいだと思っている、このくそガキ」
それでもそのヒトがいつもと変わらない台詞を言ってくれた事が嬉しくて、思わず微笑んでしまった。
シェフィールドの屋敷に大きな棺が送られてきた。いったいどうやって準備したのだろう。立派な悪魔紋章が掘り込まれたそれは、まるでレメゲトンが殉職する事を見越して最初から用意されていたかのようだった。
その棺はシェフィールド公爵家の中庭に安置された。
もう一度のぞいて、ねえちゃんの姿を瞼の裏に焼き付ける。
おれの最初の記憶はねえちゃんの笑顔だ。ブロンドの髪がまるで太陽の光みたいだと思ったのをよく覚えている。
どこかで『グレイシャー=L=グリフィス』の記憶が叫んでいたって、リュシフェルさんが自分の中にいたって関係ない。そんなものは夢の中の世界だった。
おれの人生はねえちゃんに拾ってもらった時に始まったんだ。
最初の頃の思い出はとても曖昧だけれど、「探索者」に任命されてからの事ははっきりと覚えている。とても幸せな時間だった。
そのゆっくりとした時間の流れを抜け出したのは、ねえちゃんと一緒にいるためだ。
王都へ向かうねえちゃんを追って、王都に行った。
戦場に行ったねえちゃんを追って、戦場に来た。
でも、ねえちゃんはまた先に行ってしまった。もう追いかけられない世界に。
まだ期待が捨てられない。
今にもねえちゃんが目を覚ますんじゃないかって期待してる。期待すればまた辛いって分かっていても止められなかった。
信じられない心と、現実を認識し始めた理性が葛藤している。
昨日の晩に泣きすぎて涸れた涙がこれ以上流れる事はないが、まだ心だけは涙を流していた。涸れる事のない涙はおさまるところを知らないかのようだ。
ねえちゃんがいない世界。
自分は、生きていけるのか……?
突如吐き気に襲われた。
口元を押さえて、中庭で行われている葬送から抜け出した。
昨日いっぱい泣いて、もう大丈夫だと思ったのに。
屋敷の裏に回って、庭園の中に駆け込んだ。
その場に崩れ落ちる。胃が反り返るようだ。気持ち悪い……キモチワルイ。
フラッシュバックのときとは違う吐き気に、胃液をすべて吐き出した。ずいぶん長い間ものを食べていなかったから、それ以上出すものは残っていなかった。
喉の奥が酸っぱい。
それでもおさまりきらない吐き気が引く気配はなかった。
荒い息の中で何度も何度も吐いた。
もう二度と会えない。微笑んでくれる事もない。優しい言葉をかけてくれることもない。
それじゃあおれは一体この先どうやって生きて行ったらいい?
涸れたはずの涙がもう一度滲み出していた。
「うぅ……」
ねえちゃんはきっと怒るだろう。おれがこんなに弱い子になってしまって。
いや、もう起こってくれる事だってないんだ――!
喉の奥の酸っぱさに咳き込んだ。
苦しい。苦しい。寂しいよ。辛い。
自分の中が負の感情で満たされていく。左手が熱くなる――絶望に反応して。
「げっ……がはっ……ごほごほっ!」
苦しい。
苦しい。
助けて。
誰か、助けて。
願ったのに。助けてって祈ったのに。ねえちゃんを助けてって――でも、誰も助けてくれやしなかったよ。誰も応えてくれやしなかったよ。
膝をつき、額を地面に擦り付けるように泣いた。
ねえちゃん。ねえちゃん。おれは一人じゃ強くなんてなれないよ……
「無理だよ」
だっておれはこんなにも弱い。
「ねえちゃん……!」
搾り出された声は、昨日と同じ初夏の晴天に吸い込まれて消えていった。
料理にも使われていたであろうハーブ園はすっとする匂いに包まれていて、少しずつ落ち着きを取り戻した。
真っ青な空が変わらず自分を見下ろしているのが不思議だった。
だっておれの世界はこんなにも変わってしまったのに。
「……ラック」
名を呼んでくれたバリトンの声に、ふと目を向ける。
黒髪の男性が立っていた。短くなってしまった髪に慣れるまでもう少しかかるだろうか。
彼はきっと心配して急いで追ってきてくれたんだろう。少し息を乱していた。
救いを求める者に施しを与えるように差し出された手にすがり付いて、自分はまた大声で泣き始めた――壊れた玩具のように。主を失った僕のように。
優しい腕の中で、世界で一番安心できる場所で。
思い切り泣いて泣いて泣きまくった。