SECT.13 ブエル
涙が涸れてもまだずっとねえちゃんの横顔を見つめていた。
外は暗くなり、松明の明かりがいくつか灯っている。この部屋に明かりはなく冷やりとした空気が流れていたが、それでもここを動く気はなかった。
真夜中になってベアトリーチェさんが静かに部屋を訪れた。こんこん、という軽いノックに答えると、穏やかな声が響いた。
「少し、よろしいですか?」
「うん」
国家医師の資格を持ち、救護班の長を務めているベアトリーチェさんは負傷兵の手当てに追われていたはずだ。
その顔には疲労の色が隠しきれていなかった。手には医療用鞄を提げている。
ねえちゃんの顔を名残惜しく見てから、部屋を後にした。
廊下に出ると、ベアトリーチェさんはすまなそうに言った。
「お邪魔をしてすみません。ただ……クロウリー伯爵のご様子が芳しくありません」
「……っ!」
アレイさんが。
さっと血の気が引いた。心臓の音が耳元に響く。
ベアトリーチェさんはそんな自分をちらりと見て、困ったように笑った。
「あの、お召し物を替えないのですか?」
「ん?」
いわれて見下ろすと、ずっと着替えるのを忘れていた事に気づいた。
アレイさんの傷を止血するために服の裾を裂いたためにおヘソのあたりが丸見えだった。抱きかかえた時に付いたアレイさんの血もそのままだったし、背中もすぅすぅするからきっといくらか燃え落ちてしまっているに違いない。
でも、いまはそんな事どうでもよかった。
「後でいいよ。アレイさんが先だ」
これ以上大切なヒトを失いたくない。
傷ついたばかりの心はそう叫んでいた。
大きなベッドに寝かされたアレイさんの顔は蒼白で、息も荒い。巻かれた包帯には血がにじんでいた。
何より、部屋に入った瞬間――むせ返るような血の匂いがした。
「大きな血管を傷つけていないのが不幸中の幸いでした。もしそうなっていたら今頃は……」
ベアトリーチェさんの言葉に、心臓が止まりそうになる。
「ですが今も予断を許しません。鎖骨が砕けて、肋骨が3本、それに上腕骨が折れています。それだけでなく全身に深い切傷が多く見られます」
伸ばした手が震えた。
苦しそうな呼吸で傷の深刻さを知る。
触れた手は……ひどく冷たかった。
その手の先からざっと一瞬で全身が冷えた。がたがたと震える肩を抱き、泣きそうになるのをぐっとこらえる。
だいじょうぶ、まだ生きている。
助ける術がある。
ベアトリーチェさんはずっと持っていた医療鞄から小さな箱を取り出した。悪魔紋章が記されたその箱を開け、一つのコインを取り出した。
コインを手に乗せて大きく深呼吸したベアトリーチェさんは静かに悪魔の名を呼んだ。
「ブエル」
ふわり、と温かい空気が漏れた。
フラウロスさんやラースとは全く違うオーラにビックリした。
そして部屋に現れた悪魔の姿にも驚いた。
小さな、本当に小さな……手ですっぽりと包めてしまうような大きさの悪魔だった。一応人間型をしているが、足は指より細いし、顔なんて爪くらいしかない。車輪のようなもののに腰掛けているようにも見えるが、いかんせんパーツが小さすぎる。
「ちぃせぇなあー」
そのまま口にすると、その悪魔は小さな全身と乗り物の車輪のようなものをフルに使って自分の頭に突っ込んできた。
思った以上の衝撃が加わって頭がくらくらした。
思わず押さえて呻く。
「痛ぅ……」
その悪魔は何かキーキー言っているようだが、高い音過ぎて聞き取れなかった。
「ミス・グリフィス、気をつけて。ブエルは怒りっぽいんです」
「癒しの悪魔なのにか?」
また頭に衝撃。
「〜〜っ!!」
同じ場所にぶつかるな!思わず悶絶した。
「ブエル、お願いです。そちらの男性の怪我を治してくれませんか」
第10番目、癒しの悪魔ブエル――ベアトリーチェさんが持つコインの一つだった。
その小さな悪魔はベアトリーチェさんの願いを聞いて、すう、と床近くまで降りてきた。
そして、次の瞬間には目の前に自分より大きな――それこそアレイさんくらいある男のヒトが立っていた。
「?!」
びっくりして思わず後ずさる。
オールバックの蒼髪は肩にかかるくらいできちんと切りそろえている。鋭い眼の縁にペイントが施してあり、さらに目つきを悪くしていた。何かを塗りたくっているかと見まごうほど白い肌に、紫に近い血色の悪い唇が目立つ。
きっちりとした詰襟カーキの服を着て、下もそろえた丈夫そうなカーキのズボン。テカテカに磨かれたブーツが眩しかった。
先ほどまで乗っていたと思われる車輪のようなものをチョーカーのようにして首にはめていた。
「このたわけ者めが 命が惜しくはないのか」
喋ると口の中の大きな犬歯が見え隠れする。
でも、凄んで見せてもこのヒトのオーラは怖くない。ラースのように破壊する事もフラウロスさんのように内に炎を秘めたわけでもない。口は悪かったが柔らかい空気を纏っていた。
だからぜんぜん怖くなかった。
「お願い、ブエルさん。アレイさんを助けて!」
何の躊躇もなく詰め寄ると、その悪魔さんはぐっと詰まった。少しは怖がれよと言いたげなのがありありと見て取れる。
でも、おれはこのくらいの脅しじゃ怖がれない。なにしろあの滅びの現場を目撃してしまったのだから。
「お願い助けて。何でもするから!」
そう言うとオールバックの悪魔さんはにやりと笑った。
「お主 黄金獅子の末裔じゃな」
「そうだよ」
「ならば 我に血を与うという 条件はどうだ? さすれば その傷すべて癒してしんぜよう」
「……それでアレイさんを治してくれるんだね」
「うむ 嘘は言わぬ」
じっとその悪魔さんを見つめた。髪と同じ色のコバルトブルーの瞳は真直ぐにこちらを射抜いていた。
「いいよ。好きなだけ」
「ミス・グリフィス! あなたの体調も万全とは言いがたいのですよ?!」
確かにそうだった。
朝からフラウロスさんを召還してゲブラと戦闘し、ラースのコインで散々暴れまわった後も休まずトロメオの制圧に尽力した。
その後もねえちゃんの隣で夜中まで眠らずにいたのだ。
とても元気とはいえなかった。
でも。
「だいじょうぶだよ、ベアトリーチェさん。おれ、体だけは丈夫なんだ」
にこりと微笑みかけてもう一度ブエルさんに向き直った。大切なヒトをもう一度失うのは絶対に嫌だったから。苦しむ姿を見ていたくはなかったから。
オールバックの悪魔さんは紫色の唇に笑みを湛えた。
「遠慮なく 頂こうか」
口の中の犬歯が飛び出した。
「!」
もともと大きかったのに、さらに伸びた犬歯をむき出しにしてブエルさんの顔が近づいてくる。
何が起こるか分からなかったけれど、命を奪われることはないだろう。
そして。
つぷり、と皮が破ける感覚があった。痛みはない。まるでラースのように首筋に噛み付いたブエルさんはそのまま舌を使って血を舐めた。
首元にうずまった蒼い髪の向こうに、ベアトリーチェさんが顔を青くしているのが見えた。
「やはり 極上じゃな」
嬉しそうな声が聞こえる。
味見を終えた悪魔は、本格的に首筋に噛み付いて血をすすり始めたのだった。
さすがに貧血でふらふらしてきた頃、ようやく悪魔は牙をはずした。
「満足した グリフィスの血は 大変美味である」
その瞬間、立ちくらみで床に崩れ落ちる――ベアトリーチェさんが支えてくれなかったら床に頭を打っていたかもしれない。
満足した様子のブエルさんは爪の長い大きな手をアレイさんの上にかざした。
その掌から癒しの光が漏れる。
まるで夢の中で見たリュシフェルさんの銀の光のように温かいそれは、確実にアレイさんの傷口を塞いでいった。
みるみるうちにアレイさんの呼吸が安定していくのが分かる。
頬に赤みも差してきた。
床を這うようにベッドに辿りついてアレイさんを覗き込んでみると、安らかな寝息が感じ取れた。
「ああ、よかった……」
手をとってみる。
温かい。
よかった……
安堵と共に眠気が襲ってくる。
血が足りないせいと今日一日の疲れでそのままベッドの脇で眠り込んでしまった。
アレイさんの手を握り締めたまま。