SECT.12 別れの日
地上に激突する寸前、かろうじて悪魔の名を叫んだ。
「アガレスさん!」
ふわりと体が浮いて、全身に重圧がかかる。それでも、抱きしめるようにしてアレイさんを全身で支えた。
ゆっくりと体勢を整えて地面に降りると、そこには何もない地面が広がっていた。
いや、何もないわけではない。
ところどころ抉れた地面とかすかに残る爆発痕が凄惨な闘いの影響をのぞかせていた。
ヒトの気配がない。
地面にふわりと降り立って、覆いかぶさったアレイさんをぎゅっと抱きしめた。
だいじょうぶ。
だってまだ、温かい。心臓の音がする。
安堵のため息を漏らした。
「グリモワール軍がどこにいるか分かるかな? 戻らなくちゃ」
金目の鷹を上空に飛ばしてから覆いかぶさった体の下から這い出す。
膝の上にアレイさんの頭を乗せて、頬を撫でた。
腰まであった長い黒髪が肩の辺りでなくなっている。途中から消失したようにばっさりと切れていた。戦いの中で切れたんだろうか。
いつも羽織っていた闇色マントも、肩の辺りにほんの少し布が残っているだけだ。
左肩の怪我がひどい。今も血がにじみ続けるその傷は……ラースの牙でつけたものだった。
自分の服を一部裂いて傷口に押し当てる。簡単だが、止血しなければ命の危険に直結してしまう。
涙がにじんできた。
視界がぼやけていく。
「うっ……」
嗚咽が漏れた。
ダメ。泣いちゃダメだ。
唇をかみ締めた。
どうしてこんなことしちゃったんだ。
ぽつりと涙がアレイさんの頬に落ちた。
「ごめん……ごめんね。ごめんね……」
痛かったと思う。すごく辛かったと思う。
そんな目に遭わせたくなかったのに。
自分の周りのヒトが傷つくところなんて見たくないのに……!
涙を零さないように見上げた空は、大好きな初夏の真っ青な色に彩られていた。
金目の鷹は、味方を連れて戻ってきた。
「ウォル先輩!」
青ざめたフェルメイが馬を駆って来た。
その後ろに『覚醒』と兵の一団を連れている。
自分の前で急停止したフェルメイは馬から飛び降りてすぐ横たわったアレイさんの傷を確認した。真剣な顔で脈を取り、呼吸を確かめて全身の傷をチェックした。
後ろから来た『覚醒』と兵は自分たちを通り過ぎて、ほとんど外壁が崩れてしまったトロメオに侵入していく。
「すぐに運びましょう。セフィロト軍はカーバンクルまで退きました。このままトロメオを制圧します。グリフィス女爵は兵団と共にトロメオに向かってください。まだセフィラが残留していたら突撃隊が大きな被害を受けてしまいます」
「でも、おれ……」
アレイさんの傍を離れたくなかった。
でも。
考え直す。
きっとアレイさんはそんな事望んでいない。グリモワール軍のために突撃隊の援護する事を望むだろう。だから、自分は今出来る事をする。
ぎゅっと唇をかんだ。
「アレイさんをお願い」
一度だけ頬に触れてから、フェルメイにアレイさんを渡して立ち上がる。
そしてアガレスさんの加護を受けて空に飛び上がった。
本当はもうとっくに挫けそうになっていた。
だってねえちゃんはもういない。
アレイさんは自分のせいで大怪我して、取り戻すはずだった城塞都市トロメオは半壊している。
何もかも放り出して逃げ出したかった。
全部嘘だと思いたかった。
軍に戻ったらねえちゃんが笑って待っていてくれるんじゃないかって、アレイさんがイジワルな声で迎えてくれるんじゃないかって期待していた。
どうしておれはここにいるんだ。おれはここで何をしているんだろう……?
何度も何度も泣きそうになり、何度も何度も崩れ落ちそうになった。
それでも無理やり手足を動かして、『覚醒』のメンバーと共に城塞都市トロメオを次々取り押さえていった。
セフィロト国は本格的にトロメオから退去したらしい。
兵はほとんど残っておらず、あまりに呆気なくトロメオを奪還する事が出来たのだった。
一段高い位置にあるシェフィールドの屋敷から見下ろすと、遠くから黒い旗印のグリモワール本軍がトロメオに向かって来る所だった。
その日のうちにシェフィールド公爵家の屋敷の一部屋に、騎士団長とレメゲトンが集められた――と言っても動けるレメゲトンは自分とベアトリーチェさんだけだったが。
大きな天蓋付きベッドのあるその部屋には、一人の女性が眠っていた。
永遠に目覚める事のない眠り。
その顔をのぞくのには相当な勇気と覚悟が必要だった。
「……ねえちゃん」
声が震えた。
完全に冷たくなってしまった手を握る。その手は固く、よく知っている温かい手とは全く違っていた。頬も青白い。瞼も硬く閉じられている。
服はレメゲトンの正装に着替えさせてあった。
それは初めて見る――遺体だった。
人間は、死んでしまうとこんなにも冷たく固くなってしまうんだ。
それも、自分の大好きなヒトが……
部屋は暗い空気で満たされていた。誰も何も言えず、ただ沈黙が支配している。
動く気配のない魂の抜け殻を見て、少しずつねえちゃんがもういないのだということを実感していった。現実を拒否していた心が現実を納得するまでずっとねえちゃんの横顔を見つめ続けた。
「明日には棺を用意します。葬送を行った後、遺体は王都に送られる事になります」
「……ね、少しだけでいいから……二人にしてもらっていい?」
フェルメイにそうワガママを言うと、悲しそうに微笑んだ彼は騎士団長さんたちを連れて部屋を出て行った。
ベアトリーチェさんも静かに部屋を後にした。
全員出て行ったのを確認してから、そっとねえちゃんの頬に一つキスをした。
眠れない夜ねえちゃんがいつもそうしてくれたように。
「ねえちゃん、何でもういなくなっちゃうの……? まだまだ一緒にやりたいこと、いっぱいあったよ? ずっとずっと、まだまだ一緒にいられると思ってたんだよ?」
ぽろり、と涙が零れ落ちた。
3年間ずっとねえちゃんに迷惑も心配もかけないように我慢していた。
ねえちゃんの前では絶対に泣かないって決めていた。
でも、もういいかな?
我慢せずに涙が流れるままにした。我慢をやめたら涙は次から次へと溢れ出してきた。
「どうして? おれ、強くなっただろ? これで一緒に……隣で戦えると思ったのに。どうして? どうして……!」
何も出来なかった。
ねえちゃんと肩を並べて戦うことだけを目標にしてきたのに。隣で守る事だけを目指してきたのに。
これまでやってきたことは全部無駄だったんだろうか。
千里眼を使えたって、『風燕』を使ったって、ラースの力を使ったって。
自分は何も出来やしなかった。
喉から嗚咽が漏れる。
「嫌だよ。ねえちゃんがいなくなるなんて、嫌だよ……!」
もしねえちゃんが戻ってくるんなら、自分は何だってするだろう。世界の果てにも行くだろう。どんな強い相手にでも戦いを挑むだろう。
でも、何をしてもどうすることも出来ないと分かっている。
分かっているんだ。
理屈では。
「もっと心配してよ。おれはまだ一人じゃ何も出来ないよ。強くなんてなれないよ。ねえちゃんがいない世界で生きていくなんて嫌だよ。ねえちゃんが、ねえちゃんが……」
絶望の心に反応して左手が熱くなる。
また衝動に身を任せそうになって、ぞっとする。
こんな自分を見たらねえちゃんは呆れているだろうか。トロメオを半壊させたこと、ねえちゃんはどう思っているんだろう。ラースを暴走させた事、怒っているだろうか。
もう、全部分からないのだ。
「いかないで……ねえちゃん。いかないで……!」
涙と嗚咽の中で、愛しいヒトの死を少しずつ受け止めていった。
たくさんたくさん泣いて、たくさんたくさんの言葉をねえちゃんに向けた。
もう、返事はないけれど。
こっそりと一人、ねえちゃんに別れを告げた。
決別する事はできない。だってねえちゃんはおれの世界そのものだから。3年前に拾ってもらって、ラックと言う名をくれたヒト。
おれが全てをかけた「ひとつだけ」に選んだヒト。
世界の終わりの日、空はこの上なく青く澄んでいた。
風はとても暖かかった。
トロメオの周りに草木はなくなってしまったけれど、新緑の匂いがどこからともなくただようように爽やかな初夏の晴天だった。