SECT.10 絶望
ありえない。こんな事あっていいはずがない。
強くなったのに。ねえちゃんと一緒に戦えるよう強くなったのに。
どうして?どうして?
世界の全てをかけて大切なものに選んだのに。
何がなくても傍にいたかったのに。
「ねえちゃん」
落ちたコインを拾い上げた――ひどく冷たい。でも、握り返した手はまだほんのり温かい。
信じられない出来事に、思考がうまく働かない。
白い頬に触れた。真紅の衣を纏った体も、固く閉じられた瞼も、目に焼き付くほどに見つめた。
ああ、何だろう。
いま何が起きているんだろう?
そうか、世界が壊れたんだ。
おれの住んでいた世界。幸せな世界。温かくて優しくて――大好きな世界が。
「もう……いいよ」
何もいらない。
ねえちゃん以外何も要らない。
白い頬から指をはずした。
ゆっくりとした動作で両腕につけていた篭手をはずすと、黒く変色した羽根が二枚零れ落ちた。
立ち上がって振り向く。
打ち合っているのが誰なのか、そんな事すらどうでもよかった。
時折見える光の束が黒いヒトを追い詰めているのが分かったけれど。
「もう何も要らない」
左手が熱くなる。
心の中を占めるのは絶望だけで、恐怖も慈悲も何も残っていなかった。
コインの埋め込まれた左手を真直ぐトロメオの門に向けた。
最後にねえちゃんが門を壊せって言ったから。
「壊して。全部」
おまえならできるんだろう?
心が完全に麻痺していた。
次に何が起こるかなんて、どうでもよかった。
「ラース……!」
――世界が闇に包まれた。
目の前に降りてきたのは一年ぶりに見る殺戮と滅びの悪魔の姿だった。
闇の特殊空間に浮かぶ炎妖玉の嵌め込まれた眼、全身から噴出す殺気とも呼べる鋭い気、闇を思わせる毛並みと禍々しい膜翼……それは最凶の悪魔の名に相応しい。
自分の左隣、コインの埋め込まれた左手に擦り寄るようにして地面に降り立った悪魔は、幼い声でたどたどしく喋った。
「待ってタよ ルーク」
前に会った時はその姿が恐ろしかったのに。
今はねえちゃんを失った心の欠落に、ぴったりとはまり込むみたいだった。
「君の心ガ 絶望ニ染マる コのとキガ 待ち遠シかったヨ」
生暖かい舌が自分の左手を這ったのが分った。
どこか現実を離れた感触に心地よさを感じ、お返しに喉を撫でてやると大きな黒い狼は嬉しそうに目を細めた。
目の前には3つの人影があった。
誰なのかとか、強いんだろうかとか、敵なのかとか味方だとか……全部どっちでも良かった。
ねえちゃんのいない世界に興味なんてなかった。
「お前なら出来るんだろ? ラース」
「ルーク キミの望ミヲ口に出しテ そシタら僕ハ 実行するカラ」
躊躇いなどない。
他に欲しいものなんてない。
だって誰も助けてなんてくれなかった。
「壊して。全部」
望んだわけじゃない。
でも、そうなってもいいと思った。
心を占めたのはそれだけだった。
「いいヨ」
ラースは軽く返事をした。
その声もどこか遠い世界の出来事のように思えた。フィルターがかかっているように視界も音もはっきりとしない。
頭が働かない。
「ハルファス どいてテヨ メタトロンは僕ガ貰う」
「ひひ! 久しぶりだってのに我侭な奴だな!」
「お前も 消されタイのカ?」
それなのに、ラースが声を向けた相手にはなぜか目を惹かれた。
なぜだろう。
呆然として青ざめた端正な顔に、なにより切れ長の眼に嵌め込まれた紫水晶に胸の底がかき回される思いだった。
なぜだろう。
心が……痛い。
「仕方ないな! 譲ってやるよ!」
甲高い声を聞いて満足したのか、ラースは黒い霧と化し自分の左手に吸い込まれた。
「それがイイ 僕ニ 逆らうナ」
左手が熱くなる。
悪魔に授けられた左手は、再び悪魔の加護を受けて史上最悪の武器と化した。
全身をラースと共有している感覚が湧き上がる。細胞全部が湧き上がるように活動し、今にもはじけそうなくらいの衝動を注ぎ込まれていた。
ゆっくりと足を前に出す。まるで地に足をついている感覚がない。
それでも背後に金冠を負った天使――メタトロンに少しずつ近づいていった。
その途中、ラースは一度見覚えのある人影の前で停止した。
腰まである黒い髪のストレート。切れ長の眼に収まる美しい紫水晶……どうしてだろう、何故こんなにも胸が痛い。
「お前トモ いずれ 決着ヲつけテやる 悪魔デモ天使デも人間でもなイ 半端モノ」
ラースの発した言葉の意味を考える前に、視線が再びメタトロンに戻っていた。
闇の空間の中でメタトロンの金冠は絶対的な光を支配している。それよりずっと後ろに大きな門がぼんやりと見えた。
あれだ。
ねえちゃんはあの門を破壊しろって言ったんだ。
――あれを壊して
「仕方ナイな じゃア めたトロんハ 後ダ」
自分の体がふわりと重力から開放されるのを感じた。
金の光を放つ天使を見下ろして、在るだけで凄まじい気を放つ左手をはるか向こうに霞むトロメオの門に向ける。
何かがメタトロンの方向から飛んできたようだったが、ラースは視線を向けることすらせずに何かで撃墜したようだ。
完全に自分のあずかり知らぬところで戦いが進んでいる。
これがきっと天界の長と最凶の悪魔の戦いなんだろう。
「消 え ロ」
ラースの声が闇の特殊空間に響き渡った。
今にも暴走しそうな凄まじいエネルギーが自分の中に一瞬で膨れ上がる。
一体どんな力を使ったのかも分からないまま、トロメオの門は灰塵に帰した。
門が破壊された瞬間、安堵で力が抜けた。
――ありがとう、ラース
これでもう、いい。
後はもう何も要らないから。
ねえちゃんがいない世界なんて……
そう思ったけれど、何かが引っかかった。
何だろう。
忘れちゃいけないことだった気がする。
とてもとても大切な事。
いったい何だっただろうか?それを考えようとすると、どうしてこんなに胸が苦しくなってしまうんだろう?焦がれるように足掻く胸の奥底に何を忘れたんだろう?
紫水晶の瞳がふと浮かぶ。
どうしてそんなに悲しそうな顔をするの?
どうしてそんなに優しい瞳でこっちを見てるの?
どうしてこんなに温かい気持ちになるの?
ねえ、どうして……?
目の前の景色がくるくると変わっていく。
それは金の光だったり闇の色だったりする事が分かるくらいで、その変化が激しすぎて千里眼を発動しているわけでもない自分には認識できなかった。
ただたまにきぃんと耳を劈くような音が響いたり、全身を大きな力で押さえつけられたような感覚を受けたりした。
「強くなったネ ルーク」
嬉しそうなラースの声に、かすかに心が動く。
そうだ。
だってねえちゃんの隣で戦うために……
動かなくなった体を、固く閉じられた瞼を思い出してもう一度絶望に突き落とされた。
「いいネ その絶望ハ 僕を強くスル」
抜け落ちた心にラースが入り込んでくる。
欠落した部分は殺戮と滅びの悪魔が埋めていった。破壊と言う衝動と滅びを願う心で。
その度にどんどん自分の意識がなくなっていくのは分かっていた。
でもどうすることも出来なかった。
だってそれに抵抗する力は残っていなかったから。抵抗するには強い願いが必要だったけれど、ねえちゃんがいなくなった世界で願う事なんて一つもなかったから。
絶望で欠けていく心。
埋めるように入り込んでくる衝動。
強まっていくラースの力。
その連鎖をとめる術はなかった。
そしてとめるつもりもなかった。
あの声を、聞くまでは。