SECT.9 世界の崩壊
戦場を見渡したが、あたりにゲブラの姿もない。もうどこかへ逃げてしまったんだろうか。
結局あの手品師の望む事は分からずじまいだった。
もっと話してみたかった。
それでも、迷っている暇はない。感傷に浸っている場合でもない。
前に進まなくては。
自分の中のリュシフェルさんのことも、ゲブラの行く末も、カマエルさんが本当に消滅したのかも……たくさん気になったけれど、いまはそれよりやらなくてはいけない事がある。
カマエルさんとの戦いで疲労したはずのフラウロスさんを魔界に帰し、アガレスさんを召還した。
「凄惨な闘い 二つの同じ魂は 惹かれあい 互いに滅ぼしあう」
アガレスさんの声が心に染み渡った。
「もしかして滅ぼすんじゃなくて吸収したの? フラウロスさんがすごく……強くなった気がするよ」
「こうして 闇は光を吸収し 安定へと向かう 最後に必要なのは世界を支える柱」
アガレスさんの言う事は相変わらず良く分からなかった。
でも、疑惑も疑念も何もかも打ち払うようにしてアガレスさんの加護を受け、空に飛び立った。
飛び荒ぶ風が焼けた皮膚を撫でると、ぴりりと引きつるような痛みがはしる。炎の爆発を受けて地面に伏せたせいか、背中の痛みが特にひどかった。
フラウロスさんに抱きついたときほどではないが、かなり広い範囲に軽い火傷を負っているようだ。ねえちゃんとアレイさんに怒られるかもしれない。
でも、自分の怪我は後でいい。
とにかく今できることをこなさなくてはいけない。
カマエルさんを消滅させてゲブラを撃退したはずなのに、不安だけが心を支配していた。雨空に広がる暗雲のように膨れ上がったそれは、苦しいほどに胸の中を支配していく。
心臓が脈打っている。
たいした運動をしたわけでもないのに息苦しい。
震えるほどの恐怖は、いったい自分に何を伝えようとしているんだ?
どうしてこんなに震えてしまうのか、その理由は分からなかったが、とにかくトロメオの門を破壊すべく飛び立った。
眼下の戦場では、黒旗のグリモワール軍が押している。いまトロメオの門を破壊すれば、あるいは勢いでなだれ込む事も可能かもしれない。
「フラウロスさん」
二人の悪魔の加護を受けると、さすがに内側から暴れだすような力に翻弄されそうになった。
が、それを押し留めて力をコントロールし方向を定める。
狙うのはトロメオの鉄門。
つい最近セフィロト国のセフィラの一人ケテルが吹っ飛ばしたと聞いた。そのせいか、修理の跡が色濃く残っている。さほど力を加えなくても弾き飛ばす事が可能だろう。
そのためにはまず、門の周辺にいる両軍の兵にどいてもらわなくてはいけない。
警告のために当てないようにいくつか炎球を飛ばそうか、と思ってよく見ると、トロメオの門の周辺は避けるようにヒトがいなかった。
なぜだろう?
アガレスさんの加護を受けて目を凝らすと、千里眼を使わなくともよく見えた。
中央にヒトが立っている。
白い神官服の二人はセフィラだろう。ねえちゃんが言っていたホドとケテルと思われた。
その向かい側。
「門の前で戦ってたのか」
見覚えのある黒髪。そして、ブロンド。
でも、何かがおかしい。
ねえちゃんがアレイさんの腕の中にいる。
さっと血の気が引いた。心臓が跳ね上がる。頭の中で警鐘が鳴り響いていた。
先ほどからずっと襲ってきた恐怖感。何日も前から消えなかった不安感。
だいじょうぶ、ねえちゃんは強いから――
そんな言葉、いまは全く意味を成さない。
血が逆流する感覚で全身が震えた。とてもとても嫌な感じだった。フラッシュバックのときよりももっと、ずっと、ずっと。
天使に近づくとアガレスさんの加護が消滅した。落下するようにしてトロメオの門の前に着地する。
フラウロスさんの加護もかなぐり捨ててねえちゃんを抱えるアレイさんの下に駆け寄る。
「ねえちゃん!」
敵の前だと言うことも忘れて背を向け、アレイさんの腕の中をのぞいた。
蒼白な顔で息を荒くしたねえちゃんがいた。
心臓を抉り取られるような衝撃に襲われた――その様子から、命が危険にさらされていることは一目瞭然だったのだ。
「ねえちゃん!」
泣きそうな声で叫ぶと、ねえちゃんはうっすらと目を開けた。
「ラック……ゲブラは?」
「カマエルさんが消滅したよ。あとは門を破るだけだ」
「そう。よくやったわ、えらいわ……」
メゾソプラノが霞んでいく。
ねえちゃんに触れる手が震えた。
視界の隅に微かに映る赤いものは直視できなかった。
見てしまえば絶望の淵に叩き落される事はわかっていたから。
「危ないっ!」
バリトンが鋭く響いて、浮遊感が体を支配する。
強い風が自分を包んでいた。
いつも不敵に輝いていた金の瞳。美しく流れ落ちるストレートブロンド。
「ラック、これを……」
ねえちゃんは5つのコインを押し付けた。
受け取れない。
受け取ってしまったらきっと――
「アレイ、お願いよ。お願いだから……」
「そんなこと言わないでくれねえさん」
感情のこもったアレイさんの声が切迫した事態を知らせていた。
何も考えられなくなっていた。
ここが敵陣の真ん中だと言う事も、真後ろにセフィラが二人控えている事も。
「私はこの場を離れるわ。さあ、ラック。門を破壊しなさい。グリモワール軍を引き入れるの」
離れるわ、と言ってもねえちゃんの体はぐったりとしていて動かなかった。
不意にアレイさんの姿が消える。
でもねえちゃんと自分は強い風に守られたままだった。
金属音がする。
それが何の音か分からなかった。
ただ、地面に横たわったねえちゃんのとなりに跪いてふるふると首を振った。
「ねえちゃん……やだよ、行かないで」
「駄目よ。あなたにはやる事があるでしょう? 守りたいものがあるでしょう?」
「守りたいのはねえちゃんだよ! 一番大切なのはねえちゃんだよ!」
「もう、違うでしょう? あなたは『ひとつだけ』を見つけたはずよ」
「わかんないよ、何言ってるんだよ……!」
ねえちゃんの腹部から真紅の液体がどろどろと流れ出していた。
向こう側が見えるくらい大きく丸い口を開けた傷は生々しく、触れることすらできなかった。
致命傷だ。
頭の片隅、どこかに残っていた冷静な自分が判断する。
「大丈夫よ、私は」
「大丈夫なんかじゃない!」
目から涙があふれ出た。
もう分かっていたから。
どうすることも出来ないって分かってしまっていたから。
「やだよ、ねえちゃん。やめて。行かないで。お願い……」
誰でもいい。助けて欲しい。
絶体絶命の時に力を貸してくれたラースのように。
誰か力を貸して。
ねえちゃんを助けて!
金の瞳が少しずつ閉じられていく。
コインを持った手から力が抜ける。
滑り落ちたコインは、鈍い金属音を立てながら地面に転がった。
視界がにじんでいる。
ダメだ、泣いちゃダメだ。ねえちゃんが心配するから。ねえちゃんに迷惑かけるから……
「助けて……」
うめくように喉から漏れた声に、応えはなかった。
絶望の中で、世界が崩壊する音を聞いた。