第四章 風
「イーデ、そっちはー?」
「うーん…。」
イーデは、持っていた分厚い本を閉じて首を振った。
スメラが帝都へと発って数日、村人たちへの聞き込みをした後、ルチア達はディルバの書斎で『柱』に関する資料を漁っていた。
スメラによると、シルヴィーの『柱』において、崩壊は今のところはない、という事なので、聞き込みは、村人たちが何の変化も感じ取っていないことの確認が主で、実際何も無い事を確認した。
しかし、スメラがシルヴィーを去る前に、もっと長い期間で、『柱』に変化が無いか調べるように言われていたため、こうして資料が無いか漁るはめになっていた。ちなみにシリルは早々とどこかへと、とんずらしていて、ここにはいない。
今、シルヴィーの『柱』の管理を一任されているのは、ルチアとなっていたが、彼女が実物を見たのはついこの間であったため、前とどうかなど分かるはずもなかった。また、シルヴィー村でルチアの前任となる精霊使いは、ルチアが精霊使いとなるのを見届けると、いずこかへと姿を消し、どこへ行ったのかは村人の誰も知らなかった。
「でもね、父さんって、なぜかシルヴィーの『柱』には、出来る限り、近付かないようにしてるみたいなんだよね…。」
ルチアはめくっていた書類から目を離すと、溜息を吐いた。
「え、じゃあ、調べても意味ないんじゃ……。」
「なら、何。他に手掛かりあるの?」
ルチアはムッと眉根を寄せて、イーデを睨んだ。どうやら、実りのない資料探しに飽き、苛々し始めているらしい。
「え、いや…だって。」
イーデは冷や汗をかきながら、まごまごと弁明しようとしたが、それをじとっと見ていたルチアの眼光がさらに鋭くなり、ついでに彼女の方からブチッと音がした気がした。
「反論するなら、代替案ぐらい提示しなさいよ! バカ!!」
ルチアが腕を振りかぶる。
そして、ルチアが手に持っていた書類の束が、イーデの額にキレイに当たった。そして、イーデが後ろ向き倒れて、その束はイーデの顔の上に落ちた。
「もう、嫌ぁ……。」
ルチアもルチアで、そう言った後、書類の山と化した床に突っ伏した。
イーデも暫く顔に書類をのせたまま、仰向けで倒れていたが、ゆっくりと身を起こすと、顔にのっていた書類を手に取って、ぺらぺらと読みはじめた。
「ねぇ、ルチア、これ…。」
「何よぉ…。」
ルチアは突っ伏した格好のまま、顔だけ上げた。ルチアの眼前には、ルチアが投げつけ、イーデが読んでいた書類があった。
しばらくやる気のない目でその書類を見ていたルチアだったが、その内容を理解した瞬間、がばっと身を起こした。
「これ…。」
ルチアはイーデから書類をひったくると、じっくりその書類を見た。
書類の上の方には「シルヴィー」の文字と、その右側には結界の中で見た『柱』にそっくりの岩の塊のようなものの、スケッチがある。字はディルバの字ではなかったため、誰か違う人物が書いた報告書のようだが、日付は今から約十七年程前だった。
「でも、これ…。あの結晶みたいなの付いてないよね。」
「それは、これ見て。」
そう言うと、イーデは自分の後ろに積まれていた本の山から一冊を抜き取って、中ほどのページを開いて、指差した。その先には石がところどころ付着したような剣のスケッチとその説明が書かれていた。
「『『柱』は、結晶のようなものを創りだすことがある』…?」
本の説明によると、極稀にではあるが、そういう事例が報告されているらしい。未だ理由は解明されていないものの、一説では、力を吸収し中に溜められなくなった魔力を外に出すためだとも言われているらしい。
おそらくこの剣も、どこかの『柱』のスケッチなのだろう。
「これが本当なら、なんか…矛盾してる気がするけど。」
『柱』が崩壊する際は、中の魔力がどんどんと弱まっていくらしい。ルチア達はスメラからそう聞いていた。しかし、この記述を信じるならば、十七年前に比べ、シルヴィーの『柱』は崩壊に向かうどころか、逆に力を溜めこんでいる事になる。
「明日、もう一度見に行ってみようよ。それから、帝都まで報告に上がって、指示を仰ぐ方が良いんじゃないかな?」
イーデは、考え込んでいるのか座ったままのルチアから本を取り上げると、元あった本棚になおした。
「そうだね…。」
「『柱』の崩壊」には矛盾が生じるが、自分が感じている変化の説明は、これでついてしまう。しかし、ルチアはふるふると首を振ると、とりあえずこの事は脇に置いておくことにした。今考えても、仕方がない。
ルチアは息を吐くと、大きく伸びをして、辺りを見回した。
イーデの性格を表すような、彼のまわりの綺麗に詰みあげられた本や書類と、自分の周りに散乱した紙たちを見て、ルチアはうんざりとした表情で溜息を吐いた。
「片付け…したくない……。」
どうしてこんなに散らかしたのだろう。ルチアは自分に憤りを覚えながらも、大人しく書類を纏めはじめた。
その日の夜。深夜というにはまだ少し早い時間。イーデの家の戸が凄まじい勢いで叩かれた。
「イーデ! 私、シリル! 開けて!」
ちょうどイーデの家族三人で、食後に談笑しているときだった。
シリルのこんなに切羽詰った様な声を聞いたのは、初めてに等しい。イーデは父母と顔を見合わせながらも、シリルの声にただならぬ気配を感じ、急いで扉を開けた。
「シリル? いったい―――わっ!」
イーデが扉を開けるやいなや、シリルは彼の胸に飛び込む、というよりは胸ぐらをつかむような勢いで、イーデに突進した。
「どうしよう、ルチアがいないの!」
「え?!」
イーデはともかくシリルを中へ入れると、食卓の縁に座らせ自分はしゃがんで、彼女と目線を合わせて話を聞くことにした。
「何があったの。」
「それが…。」
シリルの話を聞くうちに、イーデはどんどん顔色を変えていった。
イーデはシリルの話を最後まで聞き終ると、イーデはすくっと立ち上がった。
「それは間違いないんだね。」
「イーデ…。」
シリルは頷きながらも、心配そうにイーデを見上げた。拳を固めて、肩をふるふると震わせている彼は、シリルが、いや彼の両親さえも見た事が無いほど、尋常でなく怒っていた。
「僕が連れ戻す。シリルはここで待ってて。」
そう言い捨てると、イーデは家を飛び出していった。
シリルはイーデを追うように、玄関先まで出たが、肩を落として中に戻ってきた。自分が行っても何もできる事は無いのが分かっていたからだ。
ルチアがいなくなったのに気が付いたのは、ついさっきのことだった。夕食の時にはちゃんとそこにいたルチアだったが、その後家から忽然と姿を消した。
ルチアとシリルは契約関係にあるため、知ろうと思えば、お互いの大体の位置を知ることぐらいは出来る。
そのため、森に入ったことまでは分かった。
しかし、『柱』の近くでは、何故か上手くその力を使うことが出来なかった。だから、森、とぼんやりした事しか分からず、結界の中か外かさえも分からなかった。
ルチアが誰にも何も言わずに姿を消すのは、初めてのことだった。それが森の中ならば、なおさら心配だった。たとえ結界の中に入っていなくとも、迷うかもしれない。結界の中に入っていればどうなるか、シリルの不安は尽きなかった。
シリルは悲しげに溜息を吐いた。
私にあと、できるのは、待つことだけ…。
シリルは食卓に座りなおすと、膝を抱えて丸くなった。
何もできない自分が悔しかった。
冬の夜はとても寒い。森の中は日光が入りづらい為か、ところどころ雪が残っていた。
しかし、ルチアはそれほど厚着もせず、意気揚々と歩いていた。
こういうときは、火魔法で良かったなーって思うなぁ。
自分の周囲の空気を少し温めるだけで、かなり暖かい。
ルチアが結界の中に入ったのは、つい先程のことだった。自分一人では結界に入れないかもしれない、という不安は杞憂に終わり、あっさりと結界に穴を開けると、そこから中へと足を踏み入れた。『柱』の力に圧倒されそうになりながらも、身構えてから行けば、それほど恐ろしいものではなかった。
少し歩くと、すぐに『柱』である大きな岩が見えてきた。
昼間には分からなかったが、あの周囲にくっ付いている結晶は、ほんのりとではあったが、自力で発光しているらしい。闇夜の中で、淡く発光しているそれらからは、武骨な岩にはそぐわないような、繊細さを感じた。
ルチアは、意を決して『柱』に近付いた。
スメラもいた時に、この『柱』に触れて感じた違和感。明日、イーデと共に来る前に、どうしても確かめたかった。シリルに言えば、心配して止められるだろうから何も言わずに来たルチアは、家にいないとばれる前に帰ろうと思っていた。
ルチアは『柱』に手をかざした。そして、ゆっくりと手を近づけていった。
しかし、『柱』に手が触れる寸前のことだった。
「ルチア!」
突然名前を呼ばれたルチアは、驚いて思わず手を引っ込めた。ここには誰もいないはずだが、『柱』が喋るはずもない。
ルチアはおそるおそる後ろを振り返った。
「イ、イーデ…?」
そこには、口を真一文字に結んで、見た事が無いほど厳しい表情をしたイーデがいた。イーデは何も言わないまま、ずんずんとルチアに近付いて行った。
そして、左手でルチアの腕をつかむ。そして、それと間髪入れず、辺りに乾いた音が響いた。
「えっ……。」
何が起こったのか、ルチアも一瞬理解が出来なかった。しかし、左頬がじんじんと痛むのを感じ、ようやく叩かれたのだと自覚した。
イーデは顔を真っ赤にして、肩で息をしていた。しかし、眉を吊り上げていた彼は、一転して、泣きそうな表情になると、掴んだルチアの腕を引っ張って抱きしめた。
「バカ! 心配させるな!」
イーデは、腕は震え息も上がっていた。
それを感じてようやくルチアは、こんな真夜中に出歩くなんて、何てばかな事をしたのかという事に気が付いた。
こんなに必死になって探してくれるなんて、思わなかった…。
ルチアは失ってしまわないようにするかのように、ぎゅっと自分を抱きしめるイーデの背に腕をまわした。
「うん…。心配かけてごめん。」
「……僕も、殴ってごめん。」
ぽそっとルチアの耳元でそう呟いて、彼女を解放したイーデは、すっかりいつものイーデに戻っていた。
「ル゛チ゛ア゛~!」
イーデに付き添われて戻ってきたルチアに、シリルは涙でぐしゃぐしゃの顔で、彼女の胸に飛び込んでいった。
ルチアは、えぐえぐとすすり泣いているシリルの頭を、ぽんぽんと叩いて宥め、シリルにこれほど心配をかけたとはと、イーデに叩かれたときよりも、より反省していた。
ルチアはシリルが涙と鼻水を擦りつけるのを、自分が悪いのだからと大目に見ることにして、黙って抱きしめてやっていると、暫くして落ち着いたのか、シリルは涙を手で拭って顔を上げた。
「心配したんだから!」
「うん、ごめん…。」
ルチアが苦笑いすると、シリルはむっと眉根を寄せて、ルチアの腕からすり抜けると、ルチアの顔の真近くまで飛び上がった。
そして、ルチアの鼻を小さな指でパシッと弾いた。
「あたっ…。」
「私からはこれで勘弁してあげる。…次したら、その腫れてるほっぺ、もう一発殴るからね。」
シリルは腕を組んで、ふんとそっぽを向いた。ルチアはシリルに苦笑を返した。
「手厳しい…。」
シリルは、ルチアが自分を宥めようと差し出してきた手に、ぎゅっと抱きつくと、定位置と化したルチアの肩に飛んで行って座った。
「帰ろ、ルチア!」
「送るよ。」
二人のやり取りを見ていたイーデがそう言って、三人はルチアの家へ向かって歩き出した。
「でも、イーデがルチアを殴るとはね…。」
「一応、グーじゃないからね。…ていうか、気にしてるんだから。」
掘り返さないで、てイーデが決まり悪そうにしているのを見て、シリルはクスクスと笑った。
ルチアの家まで着いたのはつい先程のことで、今、彼女の家には、ルチアと彼女の母リディアの二人だけで、シリルとイーデは家の外で二人の話し合いが終わるのを待っていた。
イーデはルチアの家の壁に背を預け、自分の右手を、ルチアを叩いてしまった方の手のひらをじっと見つめた。
当たる直前になって、しまった、と思い、力を抜いたものの、ルチアはかなり痛かったはずだ。あの後、大慌てでイーデは自分の水魔法を使って、患部を冷やしたため、一時の腫れよりはマシにはなっていたが、それでもルチアの頬は痛々しいほど赤くなっていた。
「ねぇ、イーデ。」
「……なぁに?」
「ルチアのこと好き?」
「うん、……………。」
ぼんやりと相槌を打っていたイーデは、はっと顔を上げ、シリルの顔を見た。
そして、自分が何を言ったのか思い出した途端、イーデは顔をぼっと赤くした。
「な、な…。え、えっと。」
「イーデ…。多分、ルチア以外皆知ってるよ。」
その言葉にイーデは、え!とだけ言うと、暫く固まって、腰が抜けたようにずるずると地面に座り込んだ。
シリルはそれに合わせるように、座っていた窓の桟から、地面まで飛び降りた。イーデは恥ずかしさからか、膝に顔を埋めてじっとしていた。
暫くすると、諦めたらしく大きく溜息を吐いて顔を上げた。まだちょっぴり頬が赤い。
「そうです。好きです。……でもね、シリル。僕はこのままで良いって、思ってる。」
イーデはふぅと息を吐くと、夜空を見上げた。自分の想いは、星の光も月の光も無い夜空のようだと思った。導になる光も無く、ただ暗いだけ。
「人間と妖精の恋愛が御法度なのは、知ってるでしょ、シリル。」
イーデの自嘲するような笑みをシリルは悲しげに見上げた。
人間と妖精は姿も生きる世界も、とても近い。だが、その二つの種族が交わることだけは許されていなかった。まず、子ができにくいのが一つ。そして、たとえできたとしても、異形が生まれるとされていた。そして「魔女」と呼ばれる、精霊使い以外の人間で魔法が使える者以上に、彼らは禁忌とされている。どちらの禁忌も破れるのはリュグナーツ帝国家一族のみだ。
二つの種族は、近しく暮らしながらも、その世界は大きく隔たれていた。
「おまたせー。……って、どしたの、二人とも。」
母リディアとの話が終わったらしいルチアが、けろっとした様子で外へと出てきた。しかし、イーデは何故か地面に座り込んでおり、シリルもそれに合わせるように地面に立っているのを見て、怪訝な顔をした。しかし、イーデは今までの深刻そうな顔はどこへやら、まるで何もなかったかのように、にこにこと立ち上がった。
「何でもないよ。大丈夫だった?」
「こってり、しぼられた。」
照れたように笑うルチアの方にイーデが歩いて行くのに当たらないように、脇に避けながら、シリルは二人を見上げた。
私はお似合いだと思うんだけどなぁ。
シリルは二人を見上げて、肩を竦めた。
翌朝、日が昇って暫くした頃。昨夜に引き続き、イーデの家の扉が叩かれた。
「イーデ! 起きてる?」
「ルチア?!」
予期せぬ声にイーデは飲んでいた茶を吹くと、口元と机を拭くのもそこそこに、大慌てで家の外に出た。
扉を開けると、出かける準備万端といったところのルチアと、そのルチアに抱えられた、というより羽交い絞めにされたシリルがいた。シリルは大きく溜息を吐いて、イーデを見上げた。
「ごめんね、イーデ。ルチアったら、『柱』の調査行くんだー、って聞かなくて。」
「ええ?! 今日ぐらいは安静にしててよ!」
もちろん、昨夜に自分がつくったルチアの頬のあざを心配してのことだ。今は、湿布が貼られていて、どうなっているかは見えなかったが、湿布越しにでも腫れているのは分かる。
そのため、今日予定していた『柱』の調査は、その次の日にまわそうと、イーデとシリルで示し合わせていたのだった。しかし、当のルチアはそんなことお構いなしに、ふんと鼻であしらう。
「嫌よ、病気じゃないんだから。」
イーデはどうにか説得を試みたが、ルチアは全く聞く耳を持たない。
暫く説得を続けていたイーデだったが、聞き入れてもらえない事を悟り、大きく溜息を吐いて、首を振った。
「分かったよ…。用意するから待ってて。」
「やった!」
小さくガッツポーズをするルチアは、文句なしに可愛かった。
結界内に入ると、昨日やスメラがいた時と同じように、すぐに『柱』のあるところまで着いた。見たところ特に変わりも無く、違いといえば、朝が早い為に空気がきんとしているような気がするぐらいだろうか。
イーデは『柱』のまわりをぐるっと回って、ルチアの側までもどってきた。そのルチアはというと、持ってきた鞄を何やらごそごそと探っている。
「で、どうする? スケッチでもしてみる?」
報告するにしても、口答や筆答だけよりは、何か視覚情報があった方が良い。比較対象はあの十七年前のスケッチしかないが、ないよりはいいだろう。
そう思ったイーデの提案に、ルチアはふふふ、と不敵な笑みを返しながら、鞄から何かを出して、イーデの眼前につきつけた。
「それ…。」
イーデの目の前には、片側の尖った金槌があった。
「あの結晶を、少し頂いてこようかな、って! どう?」
「どう、って……。」
ルチアは、この上ない妙案だとでも言いたげに、したり顔をしている。だが、イーデの方は、今にも頭を抱え込まんばかりといった内心だった。
「それ、良いの…? 『柱』を傷付けたりなんかしたら…。」
「大丈夫だってー。」
『柱』自身ではないから、大丈夫だというのがルチアの主張らしい。イーデは思いとどまらせようと、何回か説得を試みたが、やはり、口でルチアには勝てない。そんなルチアは、イーデの心配をよそに、あっけからんと笑っていた。
再び鞄をごそごそとしはじめたルチアの頭の上で、シリルも微妙な表情を浮かべていた。そしてシリルは、ぽかっとルチアの頭を、軽く叩いた。
「ルチアー、怒られても知らないか………。」
シリルの声が不自然に途切れ、ルチアの頭から重みが不意に消えた。
「大丈夫だっ……―――え?」
ルチアが自分の頭を触ると、つい先程までいたはずの、シリルの姿が無かった。
「ルチア、あれ……!」
イーデの声にルチアが後ろを振り返ると、その先には当たり前ながら『柱』があり、そしてシリルもいた。
だがルチアは、驚きを通り越して呆然と、その先を見た。
「な、何、あれ……。」
つい先程まで何事もなかったはずの、『柱』であるその大きな岩は、太陽の陽射しの元でも分かる程、緑色に発光していて、周りについている結晶もギラギラと光っている。
だが、それよりもルチアとイーデが目を疑ったのは、その岩から生えているようにしか見えない、無数の緑で半透明の長い紐のようなものだった。
その紐のようなものに、シリルは縛られて自由がきかず、口も塞がれており、声もあげられないようだった。
「ルチアはここで待ってて。」
「イーデ!」
ルチアの制止も聞かず、イーデはシリルを助けるため飛び出していった。
イーデは、攻撃してくる紐のようなそれをよけながら、シリルを縛るそれを千切ろうと、魔法で手の周りに水をつくりだし、それを針のように鋭くして飛ばした。
だが、相手もそれを器用に避けて、それは当たらなかった。何度かイーデも攻撃を続けたが、当たっても、シリルが解放される程度の傷にはならず、すぐに修復されていった。
あれは一体何なのか、イーデはそれが分からない事には適切な方法がとれないと思った。だが、それが分かるまで、待つこともできない。イーデは小さく舌打ちをした。
イーデは足元に繰り出される攻撃を間一髪避けて、一旦少し後ろへ退避した。
「イーデ!」
「僕は大丈夫。でも、シリルが…。」
シリルは何とか抜け出そうとバタバタともがいているが、縛られ空中にいるためか、踏ん張りがきかず、上手くいっていない。
どうしたら…。
ルチアはもがいているシリルを見た。
二人で出来ることは限られている。だが、応援を呼んだとしても、その間にシリルがどうなるか分からない。生身でいくには、武器となるものが少ないことを考えると、やはり魔法を使うしかない。そうなれば、とるべき方法はひとつだ。
「私が囮になる。」
「そんな危ないこと、させられるわけないでしょ、ルチア!」
考え直して、と肩を掴むイーデにルチアは、睨むような勢いで彼を見上げた。
「他にどうしろ、っていうのよ! …それに、危ないのはお互い様よ。」
イーデは彼女の剣幕にたじろいだ。ルチアを囮にするなどという作戦を、簡単に受け入れられるわけはなかった。だが、ルチアの言うことがもっともなのも、イーデ自身分かっていた。だが、承服しがたいことであるのは変えようがない。
だが、シリルの事を考えると、とやかく言っている暇もない。イーデは仕方がないと頷いた。
「わかった。でも………ルチア、どうしたの?」
掴んだルチアの肩から微かな震えを感じた。ルチアは先ほどまでの威勢の良さはどこへやら、少し青ざめたような顔で、手で胸を抑えていた。
そして、バッと顔を上げて、シリルの方を見た。イーデも引かれるようにそちらを見ると、バタバタともがいていたはずのシリルはぐったりとした様子で、たまに自分を縛るそれに爪をたてる程度で、動きが弱々しくなっていた。
「ルチア、あれは……。」
ルチアは今にも泣きそうな顔でイーデを見上げた。
「魔力が…。魔力が、吸いとられてる……。」
ルチアはぎゅっと自分の手を握り締め、どうしようもない後悔を覚えていた。
スメラとここに来た時に感じた違和感は、気のせいではなかった。それがどうしようもなく恐ろしかった。
ルチアはもう一度シリルの方を見た。火の力がどんどんと弱まっていくのを、ルチアは感じた。このままではシリルがどうなってしまうか分からない。
早くしなければ。だが、二人でやっていては、手遅れになるかもしれない。
もし私が……。
ルチアはぎゅっと拳を固めた。一つだけ方法があった。イーデと二人でシリルを取り返そうとするよりも、確実な方法が。しかしそれをした後は、自分がどうなるのかが分からなかった。
だが、もう、後悔はしたくなかった。
「魔力? それってどういう……ルチア?」
ルチアはイーデの側から離れて、シリルの方に数歩近寄った。イーデは驚いて、ルチアの手を取った。
「待って、ルチア! いったい、何を……。」
「下がってて。怪我させるかもしれないから。」
ルチアは悲しげに微笑むと、イーデの手をゆっくりとはがして、安心させるようにきゅっと握って、手を離した。
「ごめんね。」
ルチアはもう一歩岩に近付くと、片手を岩の方に向かって前に出した。
ルチアは目を閉じて、自分の中の力に意識を集中させる。
真っ暗な意識の底から、光が溢れてくるように感じた。シリルを捕らえるあれと同じ緑色の光が。
「風よ。」
ルチアの小さな声に呼応するように、ルチアの足元から、薄く緑に色づいた風が舞いあがった。服と髪が風に煽られて舞いあがった。
ルチアはゆっくりと目を開いた。「借りもの」の火とは比べようがないほど、身体に馴染む風。まるで手足のように動く。
「そんなに魔力が欲しいなら、こっちを喰えばいいわ。同じ力だから、大層美味いんじゃない?」
ルチアは皮肉るようにそう言うと、風を操り、『柱』を取り囲んだ。
『柱』から生えたそれの勢いは明らかに穏やかになって、シリルは何とか脱出し、地面まで落ちた。だが、ルチア達の方まで来る体力は残っていなかったのか、地面で倒れたまま動かなかった。
「イーデ、シリルを…!」
「わ、わかった!」
ルチアはイーデが走って行くのを横目で見ながら、彼とシリルのまわりの邪魔をしようとする紐のようなそれを、風圧で切り落としていった。
本体と思われる『柱』から切り離されたそれは、霧散して消えていった。
イーデがシリルを抱えて戻ってくると、ルチアは風を解き、荷物を拾って結界の外へとイーデと共に走って行った。
追っては来なかったようだが、結界から出るまで二人は止まらずに走った。そして、ようやく結界の外へと飛び出すと、二人は近くの木の側に腰を下ろした。
暫くは息が上がり何も言えなかった二人だったが、なんとか息が整ってくると、イーデはシリルを抱えたまま、ルチアの方を向き直った。
「ルチア…、今のは………」
しかし、イーデが何かを言い終わる前に、近くの草むらがガサッと音をたて、結界の方から気配がした。ビクッと二人がそちらを向くと、そこには思いがけない人物がいた。
「残念です、ルチアちゃん―――」
ルチアはそこにいた彼女に悲しげな笑みを向けた。
彼女は真っ白な外套を翻して、ルチア達に近付いて来た。
「何で、ここに……。」
イーデは呆然と口を開けたまま、ここにはいないはずの人物、スメラの顔を見上げた。
「ヘルデリット陛下の御名において…、ルチア・エルストル、貴女を「魔女」の嫌疑で捕縛します。」