第7話
建物の間を縫うように走り続けていた翡翠は、村のかなり奥まで逃げてきたところで足を止めた。
人一人がようやく通れる幅しかない、家と家の間に身をさらさないように隠れて、外の様子を窺う。
できればこちらとは反対側の、村の入り口に向かいたかったが、あの状況ではそれは不可能だったので、ここまで後退するしかなく……
遠くで重い振動音が聞こえる。
どうやら自分たちが逃げたことに気づかれたようで、探し始めたのだろう。
瓦礫をめくらましにしてここまで逃げて来たものの、村の中にいればいずれ見つかる。
どうにかして村から出なければ……
思案する翡翠の背後で、そのとき苦しげな呼吸が聞こえた。
振り返ると、ここまで手を引いてつれてきたヴェルがその場に座り込んでいる。
その呼吸は、明らかにおかしい。
吐いてばかりで吸えていない、完全に過呼吸の状態だ。
すぐに状況を悟った翡翠はヴェルの前に膝をついて屈むと頬を軽く叩いたり、肩を揺すったりしたが、呼吸が落ち着く気配はなく。見開かれた目は虚ろで何も映っていない。
そんなヴェルを、やおら翡翠が抱きしめる。
触れた温もりにすがりつくかのように、痛みを感じるほどの力でしがみつくヴェルの背中に手を廻した翡翠は、トン、トン、と緩やかなリズムでその背を優しく打つ。
心臓の鼓動にも似たそれにつられるようにして、ヴェルの呼吸は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
温かい―――
まどろむような感覚の中で、ヴェルの意識は心地よい温もりを感じていた。
そのあまりにも優しい、心を解きほぐしてしまいそうな温かさに、ずっとつつまれていたいと思うものの、意識はゆっくりと覚醒へと向かっている。
駄目―――もう少し、もう少しだけ、ここにいたい。
いくらそう願っても、意識は徐々に浮上していき……
ゆっくりと開かれた目が最初に映したのは、見知らぬ狭い場所。薄暗いそこは、路地だろうか。
何故、こんなところに自分はいるんだろうと、まだぼんやりする頭で考えていたヴェルの頬を、さらりと何かがくすぐる。
視線を少しだけ横に向けると、見事な銀糸が視界の端に入った。
日の届かない暗がりでも輝きを失わない銀色の細いそれは、まるで内面に秘めた輝きをそれ自体が放っているようである。
銀……銀色。その色を見てまず思い浮かんでくる人物は、ヴェルの中ではただ一人。
そこでふと気付く。
先のまどろみの中で感じていた温もりが、今も自分を包み込んでいることに。
それは人の温もりだった。そして今、頬に触れているのが銀色の髪―――それが誰のものか、また自分がどういう状態なのかも理解した途端、ヴェルは驚きに大きく身じろいだ。
「っっっ!」
とっさに声を上げようとしたが、喉から上がってきたのは音を伴わない……声にならない声だった。
それに気づいたのか、温もりが……ヴェルを抱きしめていた翡翠が体を離す。
瞬間。寂しいような、名残惜しいように感じてしまい、ヴェルはたまらない気恥ずかしさで顔を赤くして狼狽えた。
「あ、あの……えぇと、その……」
何をどう言えばいいのかわからず、おろおろしながら俯くばかりで、とても翡翠の顔を直視することは出来ない。
そんなヴェルを見て、翡翠が小さく安堵の息を吐いてから、口を開こうとして―――
すぐ間近から、地を揺らす振動と音が聞こえてきた。
言いかけた言葉を飲み込み、素早く立ち上がった翡翠は建物の壁に背を張り付けて外の様子を窺う。
それで思い出す。轟音と突風をまき散らして突然現れた、あの異形のことを。
再び、大地を震わせる振動と、建物が倒壊するような騒音が今度は先程よりも近くで聞こえた。
それらを生み出しているのがあの異形であるということ、そしてどうやら自分たちを探しているのだということに理解が及んだ瞬間、ヴェルの体は小刻みに震え始めた。
何故、自分たちを探しているのか。それよりもあの異形と呼ぶ他ない物体は一体何なのか。
考えかけて……やめた。あんな、なんとも形容しがたい―――ヴェルがこれまで生きてきた十六年という人生の中で一度も見たことがない、完全なる未知なものについて考えたところで、その正体がわかるはずもない。
むしろ理解しようと考えるだけ混乱し、今感じている恐怖が増すだけだろう。
そう思い、思考を中断してヴェルが顔を上げると、壁に背を張り付けている翡翠の姿が目に入る。
建物が日の光を遮ることで生まれる影の中、その表情は普段と変わらず感情の読みとりにくい、見た者に冷たい印象を与える無表情。
その様子からは翡翠が怯えや狼狽などまるで感じてないことが窺い知れる。
だが、この状況下において常と変わらぬその平静さは不自然極まりなく……ヴェルは、一つの確信を抱いた。
翡翠は知っている。あの異形がなんなのか。そしてこの村に、一体何が起きたのか。
臆病とは無縁の本性を持つのであろう翡翠のことだ。
ただ震えて途方に暮れるばかりの自分のようにはならなくても、動揺一つしないでいられるのはこの異常事態を異常と思わないほどに知っているからに他ならないからではないだろうか。
「翡翠は……何か知っているんだよね?」
だから、確信を以て尋ねたのだが、翡翠は答えない。
否定、肯定ですらないその反応は明確な答えを言葉にして聞くより、ヴェルの問いに知っていると答えているようなものだ。
「知っているなら教えて。今、ここで何が起こっているのか。村の人たちは……あれは、一体何なの?」
震える足に力を込めてヴェルは翡翠に歩み寄りながら訊く。
「……」
しかし、翡翠は返答に応じる気配はなく、沈黙を通していたが……
しばしの間を置いてから、静かに口を開いた。
「……人鬼がどうやって生まれてくるか、知っているか?」
この場、この時、思いも寄らない言葉をかけられて、ヴェルは小さく「えっ?」と声を上げた。
ヴェルの問いに対して翡翠が返したのは、唐突な問い。
何故自分の質問を無視するような形で、いきなりわけのわからないことを訊いてくるのか……
内心で首を傾げながら、ヴェルは翡翠の問いに返答するため思考を巡らせかけて……そんなこと今まで考えたことすらないことに気づいた。
ヴェルの中では晴れた日に空が青いように、風が大地を吹き抜けどこまでも駆けていくように、それらと同じく人鬼とは人々を襲う害悪の存在として、この世界を構成するものの一つであることを無意識のうちに容認してしまっていた。
だから翡翠の言う、人鬼がどうやって生まれてくるのかなど、考えたこともなければ疑問に思ったこともなく。
その問いに、わからないと首を振って答えようとしたヴェルの脳裏にふと、蘇る言葉があった。
―――何人も被害を出している村だって聞いて、期待していたのに、《種》が芽吹いたのはあれだけしかいなかったのよ―――
それを言ったのは、先程出会った真紅のマントを羽織った見知らぬ美貌の男。
《種》が芽吹く―――
それが草木などではなく、この場合において何を指しているのかわからない……わからないというのに、ヴェルの直感はその言葉に秘められた真意を見抜き、理解してしまった。
先程までの怯えからくる震えとは違う、感づいてしまったその事実に恐怖し、ヴェルの体はがくがくと目に見えるほど大きく震え出す。
誰もいなくなってしまった村。そこに村人とまるで入れ替わるようにして存在していた多数の人鬼。そしてあの男の言葉。
まさか……
何も知らないヴェルであろうとも、想像するのもおぞましいその答えにたどり着くのには充分すぎるほどの要素が揃っていた。
「人間が……人鬼になるの?」
か細く震える声で口にした自身の言葉を、出来ることなら否定して欲しかった。
しかし願いも虚しく翡翠が首肯するのを見て、ヴェルは驚愕のあまり呼吸が止まるのではないかと思うほどの衝撃を受けた。
人間が人鬼になる―――
そんなことがありえるはずがない。たちの悪い妄言としか思えない。
だが、ヴェルは今その信じ難き渦中にいて、目の当たりにした真実を理解し、現実に起こったことなのだと認めるに至ってしまっている。
では……今まで人間だった者が人鬼となり、他の人間を襲い、その人鬼を今度は同じく人間である狩人が討ち取るという、人間が人間を殺すことをずっと続けてきたというのか。
何よりも、人間である自分もまた誰かを襲い、その果てに狩人に狩られることになる人鬼になり得てしまうのかという想像がヴェルによりいっそうの恐怖を抱かせた。
「全ての人間が、人鬼になり得るというわけではない」
受けた衝撃の大きさに打ちのめされたヴェルの様子から、その心情を察したのだろう翡翠が言う。
「強い負の感情―――憎しみや怒りや恨みなどを持つ者が《種》を植え付けられて苗床となり、芽吹くことで初めて人間は人鬼へと変貌を遂げる」
つまりは、全ての人間が人鬼になり得るというわけではないのだと翡翠の言葉から理解することは出来たが、だからといって安心や納得などしない。むしろ更なる疑問を生み出した。
「……翡翠。どうして、そんなことを知っているの?」
当然だが、そんな話はこれまで誰からも聞いたことなどない。
長年人鬼と渡り合ってきた狩人からも、仲介屋であるハイヤーからも……
誰も知り得ない、考えたことすらないようなことを、何故翡翠はこうも詳しく知っているのか。
「……」
答えは、すぐには返ってこなかった。
だが、しばしの沈黙の後ゆっくりと翡翠がヴェルの方へと向き返る。
切れ長の双眸の中に浮かぶ銀の瞳が、まっすぐに見つめてくる。
その眼差しに込められた、意志を固めたことにより発せられる強い輝きに圧倒されながらもヴェルは目を反らすことなく翡翠の視線を真正面から受け止めた。
そんなヴェルの覚悟に応えるかのように、翡翠が口を開く。
「人間に《種》を植え付け、その生ある限り殺戮を繰り返す人鬼として芽吹かせる、その者たちのことを―――」
「〈王者〉と、呼ぶのよ」
上から突如、声が降ってきた。
同時に翡翠が素早い動作で伸ばした手でヴェルの頭を掴むなり、そのまま地面に叩きつける勢いで押さえ倒す。
次の瞬間。倒れ伏した頭上を、破壊が奏でる轟音と瓦礫混じりの突風が通り過ぎていく。
すぐ間近で響いた音の大きさに驚いて身を竦ませていたヴェルだったが、程なくして轟音と突風の嵐は止んだ。
きつく閉じていた目をそっと開き、伏した状態からゆっくり体を起こしたところで―――
そこに広がる光景を見て、愕然とした。
ついさっきまで身を潜めていた路地を形成する建物が跡形もなくなっている。
それだけではない。周囲にあったのであろう家々もほとんどが全壊、もしくは半壊状態で、この辺り一帯にあった建築物は瓦礫の山へと姿を変えていた。
一瞬のうちに変わり果ててしまった村の有様を見て忘我状態となるヴェルに、そのとき背後から覆い被さる巨大な影があった。
恐る恐る振り仰いだヴェルの喉から、ひきつったような悲鳴が上がる。
そこにいたのは、あの異形。その巨体と形状は先程見たときと何ら変わるところなどないが、球体状の本体からは無数の黒く薄っぺらい帯状のものが生えていて、更に異様さを増していた。
その異形が、視界を全て埋め尽くすほどの近距離にいる。
「うふふ。見ーつけた」
忘れていた恐怖が蘇り、震えながら後ずさっていたヴェルの足を止めたのは、異形より聞こえてきたその声。
聞き覚えがあった。低く落ち着いた声色にひどく不似合いな女の口調。それは真紅のマントを羽織った、あの美貌の男の声である。
何故それが、目の前の異形から聞こえるのか。
驚きと最大級の疑問により生じた混乱が、感じている恐怖に拍車をかける。
今にもその場にへたりこみそうなほど震えるヴェルの前に、そのとき颯爽と翡翠が前に進み出る。異形とヴェルの間に立ちはだかるようにして。
こちらに背を向けているので、翡翠が今どのような表情をしているかはわからない。が、その姿が視界に入った途端、恐怖が少しだけ和らいだような気がした。
「それにしても、あなた詳しいのねえ。〈王者〉のことを知っている人間なんて、アタシ初めて出会ったわ」
素直な驚きを声に込めて、異形は言葉を続ける。
「ひょっとして……あなた以前にも〈王者〉に会ったことがあるのかしら? そうじゃないと説明がつかないんだけど」
「……」
異形の問いに、翡翠は言葉を返さない。
だが、別にどうしても訊きたいことではなかったようで、異形はすぐに話題を変える。
「まあ、そんなことはどうでもいいとして……あなたにはこの村で芽吹いた《種》を全滅させられたのと、さっき足蹴にしてくれたお礼をきっちり返さないとねえ」
異形がそう言うなり、本体から生えた無数の触手がゆっくりと空中に持ち上がる。
その切っ先がすべて翡翠とヴェルが立っている場所に向けられているのを見れば、嫌でもその意図は理解できた。
建物をいとも簡単に破壊できる触手―――そんな威力を持つものを全て放たれたらどうなるのか、想像しただけで絶望的な思いに心を折られそうになっていると……
「私が奴の気を引きつける。その隙に村の外まで全力で逃げろ」
小声でそれだけ言うと、ヴェルの返答を待たずに翡翠が異形に向かって走り出す。
「へえ。〈王者〉のことを知っていながら真正面から立ち向かってくるなんて勇敢ねえ。……馬鹿がつくほどに」
嘲りもあらわに異形がそう言うなり、触手が翡翠めがけて一斉に放たれた。
刺殺せんと迫ってきた触手数本を、翡翠はわずかに身をひねっただけでかわし、刀を振るって切断する……が、切り裂かれた触手は一瞬で切られた箇所から再生して翡翠に襲いかかる。
驚愕に値するその再生能力に、しかし翡翠は眉一つ動かすことなく避ける。
そこへ、別の触手が背後から迫る。それに対して翡翠は、これ以上はないと言うほどの動きで振り向き様に回避、刀を一閃させて反撃を繰り出す。
しかし、その触手も瞬く間に再生してしまう。
触手が迫る。翡翠はそれを避ける、または切り裂く。すぐに再生する。
その繰り返しであった。
一見すると、常人ならば対応どころか反応すらできずに串刺しにされているだろう速度で迫る触手と同等、いやそれ以上の速さで的確に回避や攻撃をする翡翠は優位に見える。
だが、切っても切っても際限なく再生する触手相手に、その速さを維持する体力がいつまで持つか……
どれだけ切ろうとも、異形から苦悶の声が一つも上がらないあたり、苦痛は一切感じていないようで、もしかしたら無尽蔵に再生可能なのではないかとさえ思えてしまう。
なにも知らないヴェルとて、それだけのことを見て取れるのだから、翡翠が気付かないわけはない。
だというのに、翡翠は動きを止めることなく戦い続ける。
もしかしたら本当に、今なら逃げられるかもしれない。
全ての触手は翡翠に集中しており、ヴェルの方へは一本たりとも襲ってくる様子はない。
できることならば、逃げたい。すぐにでもここから逃げ出して安全な場所に避難したいというのがヴェルの偽らざる本音だった。
そしてそれは可能だ。翡翠が気を引きつけてくれている、今ならば……
しかし、ヴェルはその場から動けずにいた。
逃げ出したいと思う反面、翡翠を見捨てて一人で逃げるという卑劣さを赦さない気持ちもまた、ヴェルの中には存在しているが故に。
相反する二つの気持ちがせめぎ合うことにより生じる葛藤から、その場より動けないでいるヴェルの背筋を、不意にぞくりと悪寒が走った。
突然生じた悪寒の正体を探るべく周囲を見回したヴェルの目に映ったのは、こちらをじっと見下ろしている異形の姿。
異形には目のような器官など存在していないにもかかわらず、そのとき異形は、確かにヴェルのことを〝視て〟いた。
そのことを理解した途端、ヴェルは弾かれたように身をひるがえして駆けだしていた。
翡翠を見捨てて逃げることを決めたわけではない。
今まで感じたことのない危険な予感が本能に働きかけて、ヴェルの意志とは関係のない行動を取らせただけのことである。
そんな不可抗力のもと、全速力で走り出したヴェルだったが、十歩もいかないうちに伸びてきた触手に全身を絡め取られて空中へと持ち上げられてしまう。
驚きと恐怖にたまらず口から悲鳴が上がった。
持ち上げられたまま、異形の本体の間近まで引き寄せられる。
「あらあら、どこへ行こうというのかしら? お友達を見捨てて逃げるだなんて、ヒドい子ねえ」
全身に巻き付いた触手を何とかふりほどこうともがくヴェルの姿がおかしくてたまらないようで、異形は笑い声を含ませて言う。
それでも絞め殺すような意図はないのか、触手に力が込められることはないが、だからといって非力なヴェルがどれほどもがこうともふりほどくことは不可能なほど、触手による拘束は強固だった。
と、宙吊り状態にあるヴェルの目の前で、異形の本体から何かが浮かび上がるかのように出現する。
それは、夜の闇と同色の表面とは対照的に、抜けるように白い肌をした希有なまでの美貌を持つ、人型だった。
あり得ない場所から現れ出でたその美貌の主を、ヴェルは知っている。
翡翠が人鬼の群れと戦っている間にどこからともなく現れて話しかけてきた、あの奇妙な喋り方をする男だ。
驚愕のあまり抵抗も忘れて目を見開いているヴェルに、本体から上半身だけを生やした男は魅惑的なまでの笑みをその端正な顔に浮かべた。だが、そんなものはヴェルの目には入っていない。
ヴェルの視線を釘付けにしたのは男の右腕―――そこにある、腕と一体化した片刃の長剣。
刀、だ。刃の細さと長さ。柄の形も、翡翠が扱っているものと酷似している……唯一、刀身から立ち昇るような陽炎を纏っていることを除けば。
それを持つ者は、人鬼以外にありえない。
しかし、今目の前にいる男が人鬼ではないことは、すでにヴェルは充分すぎるほど理解している。
人鬼など比べものにならないほど強大な、人の手になど決して負えない、正真正銘の化け物―――〈王者〉と、言っていた。
人鬼とは明らかに一線を画する証拠のように、その刀身に纏う陽炎の色は鮮血の紅ではない。
人鬼のもつ禍々しさを越える、もはや紅ではなく黒と見紛うほどの濃密に深すぎる色。
「ああ、そう言えば……まだ自己紹介していなかったわねえ」
不意に思い出したかのように、異形から生えた男が言う。
ヴェルの目を釘付けにした妖刀を軽く掲げ、左手を胸に当てる仕草を取り、告げる。
「アタシは〈王者〉虐食。《種》の運び手であり、苗床を見出す者よ。よろしくねー……って、言っても、この後に殺しちゃうから関係ないか」
一方的な名乗りをあげた後、死の宣告を言い渡されて、ヴェルは恐怖に顔をひきつらせた。
そんなヴェルの様子を見て、男―――いや、今し方名乗った虐食という名で呼ぶべきだろう―――は、憐憫の表情を浮かべる。ただし、その双眸に残忍な本性をうかがわせる愉悦の輝きを宿したまま。
「ほんと、ごめんなさいねえ。あなたには何の恨みもないから、出来れば見逃してあげたいんだけど……この姿を見られたからにはそうもいかないのよ」
声にすらヴェルに対する哀れみを含ませて、虐食は続ける。
「アタシたちって、普段人間に擬態して行動しているんだけど、正体を知られたらその人間は消さないといけないの。やりづらくなるっていうのも理由のひとつなんだけど、見つかると少々厄介なのがいるのよねぇ」
最後の方の言葉は、誰に対して言ったでもない、独白のようであった。
小さく息を吐いて一度目を閉じた後、再び開いた虐食の顔には、もはや取り繕っていた哀れみなど微塵もなく、持ち前の邪悪さを剥き出しにした人外の笑みをヴェルに向けた。
「そんなわけで悪いんだけど、あなたもここで―――」
饒舌な喋りを締めくくろうとした虐食の言葉を遮るように、地上で旋風が巻き起こる。
斬撃を伴った風が、凄まじい速さで触手を寸断していく。
触手の驚異的な再生速度を上回る速さで刀を振るいながら、翡翠は前進していた。
もはやどの角度から、どれだけの攻撃を仕掛けようとも、翡翠の歩みを止めることは出来ない。
さながらそれは、風が刃と化した、触れるもの全てを切り裂く竜巻のようであった。
「へえ」
眼下の光景を見ながら、虐食は素直な驚きと賞賛の声を上げる。
それから何かを思いついたかのように底意地の悪い笑みが、顔全体に広がっていた。
虐食が視線を見下ろす地上からヴェルへと戻した途端。
トン、と軽い衝撃がヴェルの胸に響いた。
「え……?」
思わず、そんな呆けた声が口から出た。
あまりにも自然な動きで、虐食は右手をヴェルへと突き出しており……
その切っ先が、自身の胸に深々と突き立てられていることに気付くには、少しだけ時間がかかった。
刺されたというのに、不思議と何の痛みも感じない。そのせいか充分驚いているにも関わらず、取り乱すようなこともなく。
ただ自分の身に起きた事実のみを受け入れて、呆然とするヴェルの目の前でゆっくりと妖刀の刃が引き抜かれる。
刃の半ば辺りまで身に沈めているというのに、引き抜かれる最中も痛みはおろか血の一滴すら流れ出る様子はない。
まるで身を貫いたことが嘘のように、紅とは到底呼べない色をした陽炎を纏う妖刀は、ヴェルの体を一切傷つけることなくするりと離れてく。
「あなたにはあまり素質はなさそうだけど……」
妖刀の切っ先が引き抜かれる瞬間、虐食が言った。
「まあ、この際それはどうでもいいわ。芽吹くもよし、芽吹かずに灰と化して散っていくのも、それはそれでおもしろそうだし」
笑いを含んで言う虐食の言葉を聞きながら、今し方まで妖刀の突き刺さっていた自身の胸を見下ろしていたヴェルを、不意に言いようのない不快感が襲う。
自分の体の中に、何か別のものがいてじわりじわりと全身に広がっていく、おぞましい感覚。
「あ、うあ、あ……うわあああああああああああ!」
浸食される恐怖に、ヴェルの喉から絶叫が迸った。
際限なく再生する触手を切り払いながら前進を続けていた翡翠の耳に、その叫び声は突如として聞こえてきた。
動きは止めないまま、視線だけを一瞬上に向けただけでヴェルの身に何が起きたのか、即座に理解する。
《種》を、植え付けられた!
最悪の事態に、表情には出さないものの内心に動揺が走る。
《種》を植え付けられた者の末路は、その人間が持つ素質次第で決まっている。
苗床としての素質―――強い怒りや憎しみ、恨みなどの負の感情―――を持っていた場合、《種》はそれらを糧として芽吹き、人鬼として変貌を遂げる。
反対にそれらの素質とは無縁の者は、たとえ《種》を植え付けられたとしても芽吹くことなく、その体は灰塵となり散っていくのみだ。
小さいとはいえ、あれだけの人数がいたルクタ村の村人たちが忽然と姿を消してしまったのも、おそらくは後者の理由であろう。
どちらにしても、《種》を植え付けられたら最後、もはや取り返しがつけようのない事態であることは確かである。
その証拠に、地面に降ろされ、触手の拘束を解かれたというのにヴェルは逃げるどころかその場に座り込んだまま動かない。
見開かれたままの栗色の瞳からは、光が消え失せかけている。
後はヴェルの持つ素質次第で、間もなく結果は出るだろう。
変貌による新生か、灰塵と化して消滅か。
もう誰にも、何の手の施しようなどない状態であるというのに……
それなのに、翡翠は止まらない。
これまでよりも速く、より苛烈に、触手を切り裂きながら進み続ける。
前を見据えるその瞳には、諦めも、絶望も浮かんではいない。
翡翠は知っていた。一つだけ、ヴェルを救う方法があることを。
しかしそれは、希望と呼ぶにはあまりにも可能性の低い―――だが、決して皆無というわけではない方法。
けれど、それ以外にヴェルを救う道は他にない。
すべては《種》を植え付けられた当人―――ヴェル次第だ。
だから翡翠はその可能性に賭けて、ヴェルを信じて、声を張り上げて叫んだ。
「聞け! お前は何故狩人になった。何故、命を懸けて人鬼を狩る側につこうと思った!?」
ヴェルが翡翠のことをほとんど知らないのと同様に、翡翠もまたヴェルのことは何一つと言っていいほど知りえていない。
だから、ヴェルが一体何を想って狩人になったのかも当然知る由もなく……そもそも、知る必要すらないと思っていた。
ミタの町を拠点に仕事をする間だけという約定で預かった子供。
近い未来、必ず別れることになるだろう相手ならば、打ち解ける必要などない、と。
だから翡翠は最低限の言葉とやりとりだけで今までヴェルと接してきた。
そんな風に割り切って、理解を深めようとなどしてこなかった翡翠だが、この数日間、行動をともにしてきたあの小さな少年が、他の多くの者たち同様の理由で狩人になろうときめたのではないことを看破していた。
「お前はそれでいいのか? 狩人になろうと決めた志を果たさないまま、ここで終わるのか!?」
今の世、狩人を目指す者の大半はその高額な報酬金目当てによるものか、家族や友人、恋人など大切な人を人鬼に奪われて復讐に憑りつかれたかのどちらかだ。
だが、ヴェルはそのどちらでもなく……限りなく少数の、狩人に対する憧憬を抱いてたゆえの軽率にして無謀な理由ですらもない。
ならば、ヴェルが狩人になろうとした理由は……
不明。全くの不明だ。
しかし、その不明にこそ、奇跡を起こす可能性が秘められているかもしれない。
そう信じて、翡翠は言葉などもはや届いているかどうか定かではないヴェルに向かって言葉を投げかける。
《種》に自我のほとんどを呑み込まれかけているのだろう、光を失いかけて虚ろな目をしたヴェルに翡翠はありったけの意志と熱意を声に込めて、吼えるが如く、初めてその名を呼び叫ぶ。
「戻ってこい! ヴェル!」
その瞬間。喪心していたヴェルの肩がびくんと震えた。
明らかに自分の呼びかけに反応したかのようなヴェルの様子に、翡翠の胸中に安堵が広がりかけた瞬間―――
それは、まるでその時を待ちかまえていたかのような動きだった。
ヴェルに目を奪われたことにより、刀を振るう翡翠の速さが減じた瞬間、地に切り落とされていた触手の一本が跳ね上がり襲いかかる。
気付いた時には、すでに遅かった。
鋭利な刃物のような触手の先端が、翡翠の右脇腹から左肩までを斜めに大きく切り裂く。
鮮血が、紅の花びらのように宙に舞い散る。
ぐらりと傾ぐ体。悲鳴はおろか、苦悶のうめき声一つ漏らすことなく、翡翠の体は重い音を立てて地に落ちた。
「ちょっとぉ、余計なことしないで頂戴。変に刺激して〝アレ〟にでもなったらどうしてくれるのよ」
遙か高みの頭上より、口調こそ剽けた風ではあるものの不機嫌さを声に滲ませながら虐食が言う。
倒れ伏した翡翠からは当然、返事などない。その代わりのように体の下からじわじわと赤い血が溢れだし、血だまりを作っている。
「あらら、結構深くいっちゃったみたいねえ」
まるで小さな失敗を犯したかのように、虐食が気安く言う。
「まあ、あなたは少し元気が良すぎるから、これくらいがちょうどいいかしら」
その言葉の後、宙に持ち上げられた触手の切っ先が、地に伏せる翡翠へと向けられた。
「ああ、大丈夫。まだ殺しはしないわ。あなたにはあの坊やの末路を見届けてもらわないといけないから。ただ、ちょっとばかし手足を串刺しにするだけよ」
残酷な言葉を、何でもないことのように言うと同時に、狙いを定めていた全ての触手が翡翠に向かって放たれた。