第6話
翡翠が人鬼を倒したことにより、ルクタ村の脅威は払われた。
これで村人たちは、怯えながら毎日を過ごすこともない。
村は以前のような、平穏な日々を取り戻すだろう。
それはとても喜ばしいことだとは思うが、ヴェルの胸の内は決して晴れやかなものではなかった。
ルクタ村までの道を、無駄口一つせずに歩いている翡翠の後ろに続きながら、ヴェルは沈んだ気持ちのまま考えていた。
自分は人鬼を憎んでいる。ずっと、そう思っていた。だから狩人になった。人鬼を憎んでいるなら、戦わなければならない。倒さなければならない。
そう信じて、疑わなかった。―――今日までは。
念願叶い、ついに果たした人鬼との対峙。
待ち望んだ瞬間―――そのはずなのに、ヴェルは何も出来なかった。体は震えるばかりで動かず、短剣を鞘から引き抜くことすらままならず。
あげくに迫ってきた人鬼を見るなり、腰を抜かす始末だった。
そんな無様を晒した今、この時になってようやく、ヴェルは自身の中にあった疑問を、疑問として認識していなかったことに気付く。
―――自分は何故、人鬼を憎んでいるのか、ということを。
思えば、おかしな話である。
自分は人鬼を憎んでいる。だが、その理由がヴェルの中には見当たらなかった。
何故、人鬼を憎んでいるのかという自問に対しての答えは空白。何もないのだ。
おかしい。
これでは物事の道理として成立していない。
どうして、そんな当たり前のことに今まで気付かなかったのだろう。
考えれば考えるほど、思考は混迷し、わからなくなっていく。
そんな疑問の渦から抜け出せなくなって、一時的に現実を忘れていたヴェルを我に返らせたのは、突如顔面に触れた感触だった。
「ぅぶっ!」
硬すぎず、けれど柔らかすぎず。一体何にぶつかったのかと、顔を上げれば目の前には翡翠の背中。
どうやら立ち止まった翡翠に気付かずに歩く速度のまま、背中に衝突してしまったようである。
「ご、ごめん……!」
慌てて謝ったが、翡翠は振り向かない。
「翡翠?」
呼び掛けてみるが、返ってくる反応はない。それどころか、翡翠は立ち止まったまま動かない。
先程も同じようなことがあったな、と思いながらヴェルは首を傾げる。
「どう……」
どうしたの? と訊こうとした瞬間、翡翠は隙のない素早い動作で振り返ると、ヴェルに何かを強引に押しつけるよう手渡した。
「すぐに戻る。ここで待っていろ。動くな」
それだけ言うと、いきなりその場から駆けだした。
「え、あの、翡翠?」
ヴェルがようやく困惑の声を出した時にはもう、翡翠の姿は遙か先の方にまで行ってしまっていた。
信じられないほどの脚の速さである。
とっさに追いかけ出したヴェルだったが、ふと翡翠に手渡された物に視線を落としたところで、驚きに足を止めた。
ヴェルの手には、人鬼を討ち取ったという証―――先程翡翠が仕留めたばかりの、妖刀のなれの果ての姿があった。
何故、こんなものを渡すのか。
答えを求めるように顔を上げたが、もう翡翠の姿はどこにも見えない。
何がなんだかわからないまま、ここがどこかも知れない森の中に一人置き去りにされて、ヴェルは途方に暮れたように立ち尽くす他なかった。
「すぐに戻る。ここで待っていろ。動くな」
言われた通り、ヴェルはその場から動くことなく、翡翠の帰りを待っていた。
どれくらいの時間が経っただろう。
立っているのが疲れたので座り込んだまま、枝葉の隙間から覗く空を見上げてみると、まだ十分に明るい。
それほど時間は経過していないようだが、何もせずにただ待ちぼうけていると時が流れるのがひどく長く感じる。
翡翠は一体、どこに行ってしまったのだろうか。
きっとすぐに戻ってくるだろう。最初は能天気な構えでいたヴェルだったが、時間が経つにつれて徐々に不安が胸の内に広がっていく。
もしかしたら翡翠はこのまま、戻ってこないのではないだろうか……
胸の内をいっぱいに占める不安が、そんな囁きをこぼす。
とっさに首を横に振りたくり、その言葉を振り払った。
そんなことはない。翡翠は戻ってくると言っていた。翡翠が嘘をつくはずがない。きっと、すぐにでも……
翡翠のことを信じていないわけではない。
だが、言い置いていった言葉はあまりにも足らなくて。
ヴェルは翡翠と会ってからまだ日が余りにも浅くて。
全面的に信じきるには、やはり多少の無理があった。
沈んだ気持ちにつられるようにして、いつの間にか下を向いていた視線が、ふと手の中にある物に向けられる。
人鬼を倒した証。妖刀のなれの果ての姿。
本来ならこれは、人鬼を倒した当人である翡翠が持つべきはずなのに。
翡翠は何故、これを自分に預けていったのだろうか。
そんなことを考えながら、ぼんやりと妖刀の躯を見つめているうちに、胸中に一つの思いが生まれた。
ルクタ村に、帰ろう。
人鬼の脅威に怯えている村人たちに、その人鬼を倒したことを一刻も早く教えて、不安を取り去って上げた方がいいだろう。
思いつくままに行動に移ろうとしたヴェルだったが、脳裏に翡翠の言いおいていった言葉が蘇る。
一瞬躊躇ったものの、この場にいなければきっと先に村へ戻ったと判断するだろう。自分にだって思いつくのだから、翡翠もきっと同じ考えをするに違いない、半ば強引に思いこんで、ヴェルは顔を上げた。
立ち上がり、一歩踏み出そうとしたところでまた、翡翠の言葉が蘇る。しかし、湧き上がった罪悪感に対して翡翠だって一方的に言って勝手に行動したのだから、これでおあいこだと自分を弁護しながら歩きだした。
自分の記憶力も中々捨てたものではない。
見覚えのある風景が目に映り、ヴェルはそう思った。
天高く上った太陽が徐々に降下し始める頃、ヴェルは森を抜けてルクタ村まで続く細道に出ていた。
うろ覚えの記憶と勘だけを頼りに歩み進んできたが、意外にも自分の方向感覚は優れているようで、無事にここまで来ることができた。
視線の先には、もうルクタ村の入り口が見えている。
小さく安堵の息を吐いたヴェルだったが、そこでふと遠目ながらも異変に気がついた。
昨日ルクタ村を訪れた時も、そして今日の朝に村を出るときも見張り役として門の前に立っていた村人二人組の姿がない。
それどころか人鬼の襲撃を受けて以来、ずっと閉じられていた村の門が開いているのを見て、ヴェルは首を傾げた。
村の門を閉じていたのは、人鬼の侵入を防ぐためだ。
だから、門が開くのはその脅威がなくなった時である。
そして今日、人鬼は討ち取られた。
だが、そのことを知っているのは今のところ翡翠とヴェルだけであり、村人たちにはこれから伝えるところだったというのに……
もしかしたら、翡翠はもう村に戻っているのだろうか?
そうでなければ説明がつかない。誰かが人鬼は討ち取られたという事実を伝えなければ
―――そしてそれは、ヴェルを除けば翡翠以外に知り得ない。だから、きっとそうだろうと半ば無理矢理そう結論つけて、開け放たれた門をくぐり―――
それが、まったくの見当外れであることを思い知った。
そこは確かに、昨日から今朝までを過ごした場所―――ルクタ村だ。
しかし、あるのは石造りの建物ばかりで、人の姿はない。
ほとんどの村人たちは家に立てこもっている状態で、出歩いているのは農具を武器に見立てた男性ばかりだったが、それすら今はどこを見ても姿は見えない。
というよりも、まるで人の気配というものがしなかった。
空っぽな、がらんどうな空間。まさに廃墟と呼ぶに相応しい光景が、目の前には広がっている。
何なのだ、これは……
村を離れている間に変貌を遂げてしまった光景を前に、呆然とその場に立ち尽くしていると―――
ヴェルの耳が、かすかな物音を拾い取る。
本来なら人の住まう場所の、人々が奏でる雑多雑音にかき消されているだろう小さな音。
しかし、静寂に満たされたこの場では何に邪魔されることもなく、ヴェルの耳まで届いていた。
一体、どこから……
物音の出所を探るべく、止めていた足を再び動かしてヴェルは村の中を進む。
まるで導くかのように、物音は一定の間隔をあけながら断続的に聞こえてくる。
そうして辿り着いたのは、一軒の家。
何の変哲もないその家の、閉じられた扉の奥から、物音は聞こえていた。
誰かいるのだろうか……いや、当然だ。ここは人の住まう場所なのだから、誰かしらいる。いなければそれこそおかしい。
そうは思うものの、誰の姿も見えない、気配もないというのに、視線の先にある一軒の家からのみ、微かな物音が聞こえてくることに少なからず違和感を抱きつつも、ヴェルは扉に近づいていった。
あと少しで手を伸ばせば扉にふれられる距離まで来たところで―――
「うわっ!」
つま先が何かに当たり、驚きの声がヴェルの口から出た。
扉ばかり凝視していたせいで、玄関の前が一段高い段差となっていることに気づかずに躓いたヴェルは、そのまま前のめりに体勢を崩す。
これは、転ぶな……
短い時間経過の後に訪れる転倒の衝撃を覚悟して、ヴェルが目をつむりかけたそのときである。
扉を貫いて、何かが勢いよく飛び出してきた。
それが何なのか、理解し、認識するよりも早くヴェルはその場に倒れ込むようにして転んでいた。
今の、頭上を通過した何かに気を取られて、感じるはずの痛みや衝撃は、不思議と感じなかった。
うつ伏せで、その場に倒れ込んだ姿勢のまま、ヴェルはゆっくりと視線を上に向ける。
そこにあったのは、扉を貫いて生える一本の刃。
片刃で細身の、そしてその刀身にまとわりつくようにして空気中を漂っている、紅い陽炎。
もしもヴェルが段差に躓くことなく近づいていたならば、扉同様に腹部を貫通していただろうその刃を、ヴェルは知っている。
知っているものの、何故、その刃がこの場の目の前にあるのかということは、理解できなかった。
呆然と、頭上を見上げているヴェルの前で扉が軋む音を立てながらゆっくりと開かれる。
そこにいた存在を、ヴェルは知っていた。
先刻、確かに討ち取られたのをこの目で見た、もはやこの世にいないはずの存在。
だというのに、そいつは確かにそこにいて、自分を見下ろすように扉の向こう側に立っているのを見た瞬間。
ヴェルは村中に響きわたるような悲鳴を上げると同時に、その場から跳ね起きて駆け出した。
何故、何故、何故―――
駆けながら、ヴェルは何度も胸の内でその言葉を繰り返した。
何故……ルクタ村の脅威は取り払われたはずだ。
確かにこの目で、翡翠に討ち取られた光景を見たのに。
なのに何故、村の中に……誰もいなくなった廃墟のようなこの場所に、まだ人鬼が存在しているというのか。
理解の及ばない事態に、ヴェルの思考はもはや混乱の極みに達していたが、それでも今、やらなくてはいけないことだけはわかっている。
逃げなければ。この場から、今すぐに逃げなければいけない。
先の戦闘で、人鬼が脅威的な生命力を持っていることを知った今、ヴェルの中に戦意など生まれるはずもなく。
ヴェルはただひたすら走った。家々が軒を連ねる通りを抜けて、村の出入り口まで続く道を全力で駆けた。
走って、走って、走って……
とにかくこの場から逃げることだけを考えて走り続けていたヴェルは、不意に奇妙な既視感に襲われる。
必死になって走る自分。何かから逃れるために、助かるためにただがむしゃらに走り続けた……だが、それも、視界が村の入り口を捉えた瞬間に湧き上がった安堵で、かき消されてしまう。
これで助かる。あの門をくぐって外に出れば、助かることができる。
もはや先の既視感のことなど気にもせず、ヴェルが更に足を早めた、そのとき。
村の入り口近くにある建物の陰から、ゆらりとした動作で人影が現れ出でるのを見て、ヴェルの足がぎくりと止まる。
ヴェルの行く先を遮るかのように現れた人影―――その名の通り、人の形に映し出された影が実体を持って動き出したかのような姿を見て、ヴェルは驚愕する他なかった。
「な、何で……」
思わずそんな呟きがもれたのは、当然のことである。
そこにいたのは、民家の中に潜み、つい先ほど自分を殺そうとした存在。その存在から逃げてここまできたというのに、何故、今目の前にいるというのか……
立ち竦むヴェルのことなどお構いなしに、そいつが―――人鬼が、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくるのが見えた。
迫り来る危機感に、凍り付いたかのように動かなかった体が逃げようと動く。
反射的にきびすを返して背後を振り返った途端―――ヴェルは小さな悲鳴を上げた。
家々の扉から、窓から、屋根の上、さらには建物と建物の間の隙間から、続々と現れる人の姿を象った黒い影、黒い影、黒い影。
その光景は、悪夢と呼ぶに相応しいものだった。
数えるのも嫌になるほどの人鬼が、ルクタ村の中に溢れかえるように集まっている。
あり得ない、それは決してあり得ない光景だった。
これまで狩人が人鬼を討ち取ることが出来たのは、一般人でも数で押せば追い払うことくらい出来たのは、一つの箇所に一体の人鬼しか現れなかったためである。
つまり人間は、一体の人鬼に対して武練を積んだ者なら一人か、そうでない者なら複数人でなければ対抗できないということだ。
人鬼は群れをなすことはない。詳しい理由などは解明されていないが、その特性は人間にとって唯一の救いであった。
だが、今ヴェルが目にしている光景には、そんな僅かな救いさえ、微塵も見当たらない。
もし、この場に凄腕と呼ばれるほどの狩人が複数人いたとしても、これだけの数の人鬼を見たら、たちまちのうちに戦意も、逃げる気力も根こそぎもぎ取られて動けなくなってしまうだろう。
それだけ絶望的な数……もはや人間がどう足掻こうとも対処出来るとは思えない数だ。
そんな絶望に取り囲まれ、立ち尽くすヴェルに、気付けば一体の人鬼が肉薄していた。
振り上げられている右手には妖刀がある。
もう今更どう動いたところで、避けることは不可能だ。
一瞬先に待ち受ける、振り下ろされた妖刀の刃を受けて絶命する未来を、諦めと共に受け入れかかったその時。
傍らを、疾風が通り抜ける。
風を切り裂くような、鋭い音がした。
同時に、妖刀を持ったままの人鬼の腕が宙に舞う。
その様に、一瞬視線を奪われていたヴェルだったが、はたと気付く。
自分の目の前―――正面に誰かの背中があることを。
その人のことを知っている。
銀の髪を風になびかせ、背を向けているその人の名を―――
「翡―――」
呼びかけた瞬間、首だけを動かしてこちらを見る、銀の瞳。
これまで見たことがないほど、鋭く強い視線に射抜かれて、ヴェルは思わず口を閉ざしてしまう。
―――何故、来た!?
その人―――翡翠が胸の内に宿す焦りと怒りは、言葉に出さなくてもヴェルに伝わった。
気圧されて小さく肩を震わせたヴェルの腕を、素早く伸びてきた翡翠の手が掴むなり、近くにあった民家の外壁へと突き飛ばされる。
強かに肩を打ちつけた痛みに、小さなうめき声を漏らして顔を上げると、視界の端に襲いかかってくる人鬼の姿が見えたが……
その人鬼はそれ以上ヴェルに近づいてくることはなかった。
何故なら、ヴェルがそちらへと視線を向けたと同時に翡翠が一撃で妖刀を叩き折って勝負を決めていたためである。
だが、それで終わりではない。
前方、左から右……壁に背中をつけている背後以外から、人鬼が次々と襲いかかってくる。
翡翠は、確かに強い。
だが、首を切り落とされても死なない化け物に多勢で責められては、さすがの翡翠でも手に負えるはずがないと、諦観を受け入れかかって絶望に心が沈みかけたヴェルだったが……
しかし、そこで信じられない光景を目にする。
殺到するようにこちらへと向かってくる人鬼が、ただの一体たりとも近づけないでいる。
翡翠が、接近してくる人鬼を次々と片しているからだ。
驚くべき事に翡翠は、前に進むこともなく、後ろに下がることもなく、その場から一歩も動かずに人鬼を切り伏せていく。
翡翠が刀を振るう。
正面にいた人鬼の右手を切り落とし、攻撃手段を失った相手を蹴り飛ばして後方に押しやり、横手から斬りかかってきたもう一体を一撃の下に屠ってから、先ほど切り落として地面に落ちていた妖刀を破壊する。
流れるような、一切の無駄と隙のない動きと戦い方で、一体、また一体と、確実に人鬼をしとめていく。
それは……その強さは、圧倒的に過ぎるほどだった。
一体どれほどの鍛練を積み、死地をくぐり抜ければ、これほどの強さが、あの若さで手にはいるのか。
多勢に無勢などという定義は、今ここにはない。
襲いかかってくる人鬼の姿は、まるで自ら翡翠に殺されに行っているようにさえ見える。
と、猪突猛進に立ち向かうばかりであった人鬼の動きに、変化が起きた。
何体かの人鬼が、じりじりと後退したかと思いきや、そのまま背を向けて逃げ出そうとしている。
そのいずれもが、人間であれば致命傷級の傷を負っていた。
肉体の損傷が一定に達したための一時退却。
驚異的な生命力と再生能力を持っている人鬼だが、決して不死身というわけではない。人のそれを凌駕するとはいえ、損傷箇所を再生させるのには多少の時間を要する。
人鬼は人間のような知能や感情は持ち合わせていない。だが、生存本能は備えているようで、これ以上の損傷を負うことは危険と判断しての行動である。
しかし、逃げるには少々遅すぎた。
今までその場に留まり続けていた翡翠が、ここで初めて動く。
もはや残っているのは、この場から逃走を決めた人鬼ばかりで、立ち向かってくる者は皆無だ。
故に、背後に庇ったヴェルを守るために立ち止まっている必要性はない。
翡翠が駆ける。
無防備に背を向けて逃げに徹していた人鬼をしとめると、立ち止まることなく次を追い、同じように息の根を止めるために刀を振るう。
そうやって、次々と逃げようとする人鬼すらも討ち取っていく。
この場から逃げられるのは、おそらく一体もいないだろう。
じきに全滅するのは目に見えていた。
あれだけの数の、人鬼がいたというのに。
絶対的な絶命の状況だったというのに。
自分は、助かってしまった。
だが、そのことを喜ぶよりも、信じられない気持ちの方が大きくて、ヴェルが呆然とその場に立ち尽くしていると―――
「あら? まだ誰か残っていたのかしら?」
不意に聞こえてきた声があった。
反射的に声のした方に視線を向けると、
「と、思ったけど……どうみてもこの村の人間じゃないわよねえ」
奇妙な話し方―――流れるような女言葉だというのに、その声は女には決して出せない低音域の声色―――をするその人物も、一目見ただけで村の人間でないことは容易に理解できた。
まず目に付いたのは、その衣装。
鮮烈なまでの赤を基調とした、踝まで届く丈の長いマントは明らかに旅装のものではない。
触れなくても生地のなめらかなさと上質さとを窺い知ることができる高級品で、ところどころに金糸の刺繍と金色の装飾が施されている。
派手、と言っていい格好だが、それを身に纏っているのはその華やかすぎるほどの色と仕立てに負けないほどの美貌の主だった。
中性的に整った顔立ち。その色白で細面の顔を縁取っているのは緩やかに波打つ金色の長い髪。
切れ長の双眸の中にある瞳は極上の宝石のような輝きを放つ、美しい緑色。
絶世の美女……のように見えた、がそうではないだろう。
先ほどの低い声といい、よくよく見れば相当な長身で、肩幅も女にしてはがっしりとしていて広い。
一瞬見ただけでは美女と見紛う容姿をした、背の高いその男は今、ヴェルがいる場所から十歩ほど離れた場所に立ってこちらを不思議そうに見つめている。
いったいどこから現れたのか、その男が何者なのかまったく判断できずにいると、不意に男がにっこりと笑みを浮かべた。
そのまま、ゆっくりとした歩みでこちらに近づいてくる。
美しく整ったその顔に浮かんでいるのは穏やかで優しげな微笑。本来なら見た者を同じように微笑ませることができるはずなのに、ヴェルはなぜか得体の知れない不気味さを感じ取り、後じさった。
歩み寄ってくる分後ろに下がるが、目の前の男とヴェルとでは一歩の歩幅が違う。
あっという間に手を伸ばせば触れられる距離まで、近づいてきた男に、そのとき銀色の閃光が襲いかかるのが見えた。
触れれば斬り裂かれるはずの刃。それを男は片手で……勿論素手で易々と掴み取って止めてしまった。
「……気配が次々と消えていくから、何事かと思って戻ってきてみれば」
ヴェルが驚愕の眼差しで見ている男はため息混じりに言いながら、ちらりと視線を横に向ける。
そこにいる翡翠は掴み取られてしまっている刀を引き抜こうと、柄を持つ両手に力を入れているが、まるでビクともしない様子だ。
ふだんは表情らしい表情など見られない、冷たく整ったその顔には、今、明らかな焦りの色がはっきりと浮かんでいる。
だが、男が見ているのはそんな翡翠の姿ではなく……その背後。
つい今し方、最後の一体である人鬼がその体を灰塵へと変えて消えていくところだった。
それを見た男の目が、剣呑な光を宿してすうっと細められる。
「何て事をしてくれたのかしら、あなた」
声色が、明らかな怒りと殺意を宿し、冷酷な響きを帯びる。
「何人も被害を出している村だって聞いて、期待していたのに、《種》が芽吹いたのはあれだけしかいなかったのよ? それを、よくも……到底、許せることじゃな―――」
男の言葉を遮るように、翡翠がいきなり蹴りを放つ。
予期していなかった攻撃に、男は防ぐこともよけることも出来なかった。
蹴り飛ばされた男の体が、遙か後方に吹き飛び、そこにあった民家の窓を突き破り、室内へと姿が消える。
その様を確認することなく、素早くきびすを返した翡翠は、ヴェルの腕を掴むなり走り出す。
「逃げるぞ」
「え……?」
「人間の敵う相手ではない」
訳がわからないままでいるヴェルの腕を引き、その場か駆けだそうとした二人の足を止めたのは、背後より響いた轟音だった。
思わず立ち止まり、振り返った二人に突風と土ぼこりが押し寄せる。
とっさに腕をかざして顔を守りやり過ごし、風が止んだところでゆっくりと目を開けたヴェルは見た。
もうもうと立ち上る土煙の向こうに浮かぶ、巨大な影。
家などではない。本来そこにあった建物は瓦礫と化して周囲に散らばっている。
では、あれは―――
徐々に土煙が晴れていき、その影の実体があらわになる。
それは……一体何と、表現すればいいのだろうか。
土煙の向こうから現れたのは夜の闇を凝縮させたような、底なしに黒い、巨大な球体。
それが二階建ての建物よりも高い場所に……最初、宙に浮いているかのように思えたが、よくよく見ればその球体から長大な針状の脚が左右から一本ずつ地面に向かって生えており、本体を支えている。
見上げた先にある物体の特徴を言い表せば、そのようにしか言いようがないもの。
おおよそこの世に存在する、あまたの姿形にまるで分類されない……類似する点すらない特異過ぎる個体。
故に異形と呼ぶにふさわしいそれから、突如爆発的な殺気が放たれる。
それは目に見えることのない、ただ殺意という意志をはらませた気迫に過ぎないというのに、無防備な状態で立っていたヴェルの心身を恐慌状態に陥らせるには充分な威力であった。
体が硬直する。
心が恐怖一色に塗りつぶされる。
まるで見えない手に喉を握りつぶされているかのように、声どころか息をすることすらままならず、大きく見開いたヴェルの目に映ったのは……
異形より飛来する何か。先の殺気とは違い今度は目に見えていたが、あまりにも速すぎるそれの正体を見極めることは出来なかった。
その、何かの直撃を受けた周囲の建物はいともたやすく破壊され、瓦礫と化した残骸が雨のように降り注いでくるのを、ヴェルは恐怖に縛られたまま見ていることが出来ず……
崩落の激しい音を最後に、視界は真っ黒に埋めつくされた。
それから、ほどない時間が経過した頃。
崩落の音がやみ、周囲が静寂を取り戻したのも束の間。
再び、瓦礫同士がぶつかり、こすれあう、やかましい音色が辺りにまき散らされたいた。
「これは……ちょっとやりすぎちゃったかしら?」
そこに混じる、男の声色で女の言葉を紡ぐ声。
しかしその場には人の姿などない。
いるのは異形だけ……その異形から声は響いていた。
異形がいる場所から正面にある、決して大きいといえない通りの道は今、瓦礫によって塞がってしまっている。
その瓦礫を掘り起こす作業を行っているのは数本の、妙に薄っぺらい帯状のもの。
異形から長く伸びる……触手とでもいうべきそれこそ、先程ヴェルが一瞬だけみた何かの正体だった。
同時に、道の左右両側に建っていた建物を破壊したのもその触手の仕業である。
それが今、瓦礫の山をせっせと掘り起こしている。
道を塞ぐ瓦礫が邪魔ならば、触手でなぎ払えば一瞬で片が付きそうなものだが、触手は少しずつ少しずつ掘り起こしていく作業を続けている。
建物四棟分の瓦礫は相当な量だ。もし人間がこの下敷きにされたのなら、その時点で生存は望むべくもないだろう。
先程の二人組も、この下にいるなら既に生きてはいないはずだ。
それでも触手は掘り起こし続け……やがて、地面が見えるほどまで瓦礫を取り除いたが、そこには死体どころか血の一滴もない。
そのことが示す答えは一つだけ。
「逃げたって、ことかしら?」
にわかには信じられないことだが、不思議と驚きは湧かなかった。
もしかしたらこの結果を心のどこかで予想していたのかもしれない。
なにしろ自分が《種》を植え付け芽吹かせた……人間たちはあれのことを人鬼と呼んでいるが、その人鬼数十体を一人でしとめ尽くしてしまうような強者だ。
あれしきのことでくたばってくれては、逆におかしいとさえ思えてしまう。
「そう……生きているのね」
呟きの後、異形から響いたのは笑い声。
昏い愉悦に満ちた、それはひどく不気味な声色だった。
「それじゃあ、探さないとねぇ。さてさて、あの足癖の悪い銀髪の子は、どこに隠れたのかしら?」
隠しようのない残虐さを声に滲ませて、異形はゆっくりと、その場から一歩を踏み出した。