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剣の名の下に  作者: 朝倉ひかる
第一章
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第5話

 ルクタ村は周囲を、広大な森に囲まれている。

 土地勘のない余所者はもちろん、村人たちですら迷うことをおそれ、あまり奥まで立ち入らないその深い森の中を今、翡翠とヴェルは歩いていた。

 草や茂みばかりの、歩きにくい道だというのに、翡翠は舗装された平らな道を散歩するようにすいすいと先に進んでいく。

 そんな翡翠の後ろを追いながら、ヴェルは村を出る前のことを思い出していた。


 ルクタ村滞在二日目。

 現在の村の状況を聞くために、翡翠とヴェルはルクタ村の村長の家を訪れていた。

村長の話によれば三日前、人鬼が襲撃をかけてきた際に、一人の勇敢な村人が命と引き替えに深手を負わせて以来、村に現れていないらしい。

通常、村に被害が出ている場合、狩人はそこで人鬼が現れるのをひたすら待ち続け、襲撃をかけてきたところを討ち取る。

 いつ人鬼が出現するかは誰にも予測できず、下手をすると数日待ちぼうけになることも珍しくはないが、それ以外のやり方はないのだから、仕方ないと諦めるしかない。

 今回のルクタ村も同様に、傷を癒した人鬼がもう一度現れるまで待機している他ない―――ヴェルも村長も、口には出さないが同じ考えに落ち着いていた所に、翡翠が突然、言い出した。


「森に入る」


 その一言を聞いた瞬間、すぐに理解の及ばなかったヴェルと村長は、思わず「は?」と聞き返していた。

 森に入る? それはもしかして、人鬼が逃げ込んだという、ルクタ村周辺に広がる、あの森のことを言っているのだろうか。

 唖然とする二人を余所に、用事は済んだとばかりに立ち上がった翡翠を、当然ながら村長は慌てて引き留めた。

 森は広大で、村人の案内もなしに立ち入るのは危険だと訴える村長に、翡翠は一言で返答する。

「必要ない」

 短く、きっぱりと言い放つ翡翠に、如何にも気弱で人の良さそうな見た目の村長は気圧されたように黙り込んだ。

 しかし、それでも譲れないところがあるらしく、小声で、おずおずと控えめに言い募る。

 なら、せめてどちらか一人は村に残ってくれ、と。

 村長の言うことはもっともである。二人いるのだから、一人が森に入って人鬼を追うのであれば、もう一人は村に残って人鬼が現れた場合に備える。

 この場合、翡翠が森に入るのであれば、ヴェルが村に残ることになるだろう。

 そのことに対して異論はない。ないのだが……

 翡翠が留守にしている間に人鬼が現れたのなら、当然ヴェルが戦うことになる。

 その時自分は、狩人としての役割を果たすことができるだろうか?

 そんな一抹の不安は、たちまちのうちに胸中に広がり、弱気を呼び込んだ。

 どうしよう。一人で村に残るのは不安などとは言える雰囲気ではない。かといって、翡翠を引き留める勇気もない。

 途方に暮れた視線が、思わず助けを求めるかのように翡翠の方に向けられる。

 気付いた翡翠がこちらを一度だけ、ちらっと見た。

 一瞥。たったそれだけでヴェルの心情を汲んでくれたのか、再び短く言い放つ。

「必要ない」

 きっぱりと言い放たれた二度目の言葉に、村長はそれ以上何も言えない様子だった。


そんな無理を押しきるようなやりとりの末に、今二人はここにいる。

 村に一人残されなかったことには安堵したが、ヴェルの中にはそれとはまた違った不安が居座り続けていた。

 もし、今ルクタ村が人鬼に襲われたら……

 どうなるか、なんて考えるまでもない。また多数の負傷者、もしかしたら死者を出すことになるだろう。

 そうなった場合、責任を問われるのは狩人である翡翠とヴェルではなく、むしろ仲介屋であるハイヤーだ。

 狩人が、何らかの理由で人鬼を打ち取れなかったり、依頼主といざこざを起こしたりした場合、仲介屋は謝罪と共に違約金を支払う事があるらしい。

 以前、ハイヤーがそう教えてくれたことがある。

 ハイヤー自身は、仲介屋業を初めてからまだ一度もそのような支払いを請求されたことはないらしいが。

 と、いうことは、もしも今、ルクタ村が人鬼の襲撃を受けた場合、自分たちは腕利きと有名な仲介屋に初めて違約金を支払わせた狩人となるのだろうか。ついでにハイヤーがこれまでに築き上げてきた信頼も、大幅に落とすことになるだろう。

 しかも、違約金を請求された理由が、二人揃って人鬼を捜索中に村が襲撃を受けました、ということをハイヤーが知ったのなら……

 もはや怒りを通り越して、呆れるを通り越して、卒倒してしまいかねない。

 ここに至ってヴェルは、事の重大さにようやく気付いて、全身からさーっと血の気が引く気がした。

 やはり、あの時―――村長の家で翡翠が森に入ると発言したときに、渾身の勇気を振り絞ってでも、断固として引き留めるべきだった。

 後悔しても遅い……いや、今からでもすぐに引き返して村に戻るべきではないだろうか。

 賛同してくれるかはわからないが、翡翠に言うだけ言ってみようかな……

 そう思い、いつの間にか下を向いていた視線を上げると、前を歩く翡翠の背中が遠ざかっている。

 慌てて小走りになりながら開いてしまった距離を詰め、大股で二歩ほどの間隔を保ちながら、再び翡翠の後ろを歩き続ける。

 それにしても……

 森に入ってからずっと、翡翠の歩調はまったく変わらない。

 立ち止まることはおろか、迷いや躊躇う素振りすら一切見せずに歩みを進めている。

 まるで、この広い森の中に潜む人鬼がどこにいるのか、最初からわかっているかのように……

 ―――まさか、ね。

 いくら翡翠でも、そんなことがわかるわけがない。

 首を振る動作で、あり得るはずもない想像を否定した時である。

 翡翠が突然、足を止めた。

 あまりにも急だったので、ヴェルは危うくその背中にぶつかる寸前、何とか立ち止まることが出来た。

「翡翠?」

 いきなり、どうしたのだろう。

 森に入ってから初めて立ち止まった翡翠を不思議に思い、声をかける。

 しかし、翡翠は振り返らない。

 聞こえていないわけはないはずだが、反応がないことに首を傾げていると、

「離れていろ」

 短く言い、翡翠は片手で下がれというように軽く後ろに振った。

 とりあえず、その指示に従って数歩後退したヴェルは、その理由を訊こうとして―――

 そこでようやく、翡翠が急に立ち止まった理由を知ることになる。

 真正面に立っていた翡翠がわずかに体をずらした先―――

 そこに、そいつはいた。

 まるで地面に写し出された人影が、厚みを持って浮かび上がったかのような、黒一色に覆われた姿。

 目や鼻や口などの器官が一切見当たらない顔はのっぺりとしており、そこに確かにいるというのにどこか存在感が希薄で、錯覚か幻を見ているような気になる。

 だというのに、そいつの右手―――そこに握られている深紅の陽炎を纏う片刃の長剣。その、何と禍々しいことか。

 妖刀と呼ばれる、普通ではありえないその剣を持つ存在。

 人の姿を形どり、鬼の気迫を宿す剣を携えた者。

 故に人々はその存在のことを、人鬼と呼ぶ。

 人鬼。

 人鬼、だ。

 ルクタ村で多くの村人たちを手に掛けた殺戮者。

 依頼を受けて討ち取るべき標的。

 そしてヴェルの憎むべき対象。

 こいつを倒すために、ヴェルは狩人になった。

 そして今、目の前に人鬼はいる。

 待ち望んだ時だ。

 さあ、早く武器を手にしてこいつを―――

 懐に隠し持った短刀を取り出そうとしているが、何故か上手く取り出せない。

 指先が思うように動かないことにじれて視線を落としたヴェルは、そのわけを知る。

 手が、震えていた。

 いや、震えているのは手だけではない。全身がガクガクと目に見えるほど震えている。

 自分の体なのに、意図していない反応をしている自身に首を傾げそうになる。

 何故、自分はこんなに震えているのだろうか?

 目の前に人鬼がいるのに。憎むべき、倒さなければいけない相手がいるというのに。

 どうして、体は思うように動いてくれないのか。

 と、今まで微動だにしなかった人鬼が、その場から動き出す。

 時間の流れがひどく遅く感じる中で、地面を蹴って人鬼がこちらに向かってくる。

 近づいてくる人鬼の姿を見て、ヴェルはようやく体が震えている理由を理解した。

 怖い、のだ。自分は今、とてつもなく恐怖している。

 迫ってくる人鬼に対する恐怖故に、体が震えていた。

 そんな馬鹿な! と、ヴェルは胸の内のみで叫んだ。

 自分はそいつを憎んでいる。その証拠に思考は恐怖になんて呑まれていない。普段通りだ。

 だから早く、短剣を鞘から引き抜いて、そいつに―――

 だが、接近してくる人鬼の姿にヴェルがとった行動は、その場から一歩後退すること。

 しかも、足がもつれてその場に尻もちをつく形で後ろに倒れ込んでしまった。

 そんな自分の様に呆然としながら顔を上げると、人鬼はすぐそばまで迫っていた。

 この体勢では逃げられない。手には武器もない。

 このままでは殺される。

 ヴェルの思考が、そんな単純明快なまでの結論に到ると同時に、人鬼が妖刀を振り上げようとして―――

 その首から上が、突然消えた。

 同時に、妖刀を持つ右腕をふりあげかけた体勢のまま、人鬼の動きが止まる。

 一拍間をおいた後、頭部を失った首からおびただしい量の血が噴き出した。

 赤、赤い血。これまでその手にかけてきた人間と同じ血が流れ出しているのを、どこか不思議に思いながら見つめていると―――

 ゴトン、と何か重い物が地面に落下したような音がした。

 音がした方に視線を向けると、そこには人鬼の頭部が転がっている。

 何が起こったのか。

 それは地面に落ちた頭部と、首から上を失った人鬼の向こう側にいる翡翠が、刀を抜きはなった状態で停止しているのを見れば一目で理解できた。

 翡翠がゆっくりと構えを解き、手にしている刀を下ろす。

 呆気ないほど簡単に、一瞬でかたがついてしまったが、とりあえずこれで人鬼は倒した―――

 そう思いかけた矢先、凍り付いたかのように動きを止めていた人鬼の体が動き出す。

 すでに命尽きていたものとばかり思っていた人鬼が、身を捻るようにして手にした妖刀を翡翠に向けて振るう。

 常軌を逸した、頭部を失ってもなお生命活動を失わない驚異的な生命力を目の当たりにし、ヴェルは驚愕と恐怖を覚えた。

 これこそ、人鬼が恐れられる最大の理由。

 常識で考えれば死んで当然な程の傷を負わせ、倒したと油断して近づいた途端、予想もしていなかった反撃を繰り出してくる。

 今、この時のように。

 翡翠はまだ、背を向けたままである。

 とっさに叫んで危険を知らせようとしたが、それよりも格段に早く妖刀の刃が翡翠を切り裂く―――

 そう思った瞬間、翡翠が振り向きざまに刀を振るう。

 下からすくい上げるかのように放った一撃は、今まさに 翡翠を切り裂かんとしていた妖刀を持つ右手を肘から切り飛ばした。

 これにはたまらずに数歩後退する人鬼には目もくれず、翡翠は地面に落ちた妖刀目掛けて刀の切っ先を振り下ろす。

 パキィンッ!

 刃の部分に切っ先を突き立てられた妖刀が、甲高い音を響かせて折れた。

 途端に、人鬼の体が再び動きを止めたと思いきや、力を失いぐらりと傾いで地面に倒れる。

 すると、たちまちのうちにその体は灰色に染まりだし、灰塵と化して形を崩し消えていく。

 切りとばされた頭部と、右腕も同様に。唯一残ったのは、刃の部分をへし折られた妖刀の柄の部分だけ。

 翡翠はそれを拾い上げると、座り込んだまま呆然としているヴェルの前までやってきた。

「人鬼を見るのは初めてか?」

 そう訊かれて、ヴェルは今の自分の姿を思い出した。

 翡翠がそう思うのも無理はない。

 今のヴェルは正に、初めて人鬼を目の当たりにした恐怖で、腰を抜かしているようにしか見えないだろう。

 そんな情けない姿を晒していることがたまらなく恥ずかしくなり、俯いてしまったヴェルの前にそっと差し出された手。

 明らかに、ヴェルを助ける意図で差し出されたその手を取ることに、少し躊躇いを覚えた。

 しかし、せっかく示してくれた親切をむげにはできず……

 結局はその手を借りて立ち上がる。

 翡翠はそのまま、何も言わずに歩き出す。

 その後ろを、ヴェルも何を言うこともなく追って歩きだした。

 


 その男は、歩いていた。

 目的地に向けてただひたすらに足を動かし、歩き続けていた。

 道中にある村には必ず立ち寄り、方向と距離、かかる日数を尋ねては目的地に間違いなく近づいていることを確認しながら進んでいたというのに……

「ここは、どこかしら?」

 低く落ち着いた声であるというのに、女のような口調で呟いて、男は周囲をぐるりと見回した。

 頭上にあるはずの空は重なり合うように広がる木々の枝葉で遮られて見えない。

 どこに視線を向けても、あるのは木々と鬱蒼と茂る緑だけ。

 人が立ち入った形跡などまるでない、深い森の中で、男は立ち尽くしていた。

 確か最後に立ち寄った村では、目的地まで徒歩で三日ほどかかると言っていたが、自分の感覚が確かなら三日はとうに過ぎているというのに……

「おかしいわねぇ」

 何故、今自分は目的とする場所ではなく、こんな森のただ中にいるのか。

 男にはそれが全然わからなかった。

 目的地のある方向へとまっすぐ、ただひたすらまっすぐ進んできたというのに、いつのまにか道がなくなり、気づけば見知らぬ場所にいる……ということは今回に限ったことではなく。

 男は懐に手を入れると、そこに仕舞っておいたものを取り出した。

 取り出されたのは地図と方位磁石。

 旅をするには必須であるこれらは、あまりにも目的地にたどり着けないことの改善になればと、少し前に購入したものだった。

 まずは、地図を広げてみる。

 あまり広範囲を記したものではなく、村や町の場所、そこに続くまでの道筋がそれなりに大きく描かれたわかりやすいものだが……

「今いる場所がどこかわからないと、意味ないわよねえ」

 ため息をつきながら言って、男は地図を畳むと再び懐にしまい込む。

 続いて、方位磁石。

 手のひらに収まるほど小さなそれは、いついかなる時も南北の方向を正確に示している。

 もちろん今も、硝子で蓋付けされた中で針は北と南を指しているのだが……

「えぇと、これってどうやって使うんだったかしら?」

 小首を傾げながらそんなことを言って、軽く揺すってみたりしていたが、いまいち使い方がわからず……

 結局、懐にしまいこむこととなった。

「困ったわねえ……」

 言ってから、ため息を一つした後、男は歩きだした。

 がさがさと茂みをかき分けて前進する。

 困ったなどと言っていたわりには、その行動に迷いはない。

 実際、男はそれほど困ってなどいなかった。

 中々目的地に辿り着けないことは確かにもどかしいが、別段急ぐ必要性はないのだ。そのうち辿り着ければそれでいい。

 だからとりあえず、前に進む。

 立ち止まっていてはいつまでたっても目的地につけはしない。

 前にさえ進めば、いつかは辿りつける。

 これまでだって、ずっとそうだったのだ。

 なら、進むしかないだろう。

 今自分がいる場所すらわかっていないというのに、そんな前向きな思考で茂みをかき分けながら進んでいると……

「あら?」

 不意に茂みが途切れて、人が通れそうな道に出た。

 舗装こそされていないものの、そこは確かに人が通るために整えられた道に出てきた男は、思わぬものを見つけて声を上げる。

「あら! これって……」

 男が見つけたのは、二つの分かれ道の行き先を示している道標。

 そこに取り付けられてから、かなりの年数が経っているのか、一つは文字が消えかかっていて読めないが、そちらはどうでもいい。

 男が注目したのはもう一つの方、かろうじてルクタ村と読みとれた方だ。

 ルクタ村。それこそが男の目的としている場所だった。

「うふふ、ようやくここまで来れたわ」

 嬉しそうに笑って道標に小さく書かれた距離を見る。

 半刻も歩けば辿り着けるだろう距離であることを確認して、男はルクタ村へと続く道を、上機嫌な様子で足取り軽く歩いていった。

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