第4話
とある村の、とある酒場の夜。
酒場の店主は後片づけをしながら、ふと店内を見回した。
夜もそれなりに遅い時間。店内に客の姿はない。
いつもは完全に出来上がっているか、酔いつぶれて床に寝ころんでいる常連客も、今日は珍しくさっさと家路についていた。
今日は早めに店を閉めようと、そう店主が決めた時である。
店の扉が、ゆっくりと開かれた。
「悪いね、お客さん。今日はもう―――」
テーブルを拭く手を止めて、背後の扉を振り返った店主は言いかけた言葉もろとも息を呑んだ。
開かれた扉の向こう、夜の闇の中にぼうっと浮かび上がる白い顔は鼻から下の部分だけしかない。
そのほっそりした顎の輪郭の中で紅い唇が笑みの形を作り、言葉を発する。
「こんな夜分にごめんなさいね。ちょっと、訊きたいことがあるの」
「き、訊きたいこと……?」
穏やかな口調と声に、店主は少しの安堵と共に詰めていた息をほうっと吐き出した。
よくよく見れば、店の入り口に誰かが立っているだけであった。
顔の半ばしかないように見えたのは、おそらくフードでも被っているのだろう。
外の暗がりにとけ込んでしまっており、格好までは見て取れないが、多分旅人であろうと店主は思い込んだ。
「ええ。この辺りで……人鬼、だったかしら? それの被害を受けている村があるって聞いたのだけれど」
「あ、ああ……」
それを聞いて、店主は頷きながらあの村のことだろうと思い至り、知っていることを話した。
「ふぅん。死者も結構出ているのねぇ」
話を聞いて、何故か感心したように頷く旅人に、店主は今更ながら不審の念を抱いた。
低くてよく通るその声からして、おそらく性別は男だろうが、妙な言葉遣いである。
そもそも何故こんな時間に、よりによって人鬼の被害を受けているあの村のことなど尋ねるのか……
「わかったわ。ところで、ここからその村までどのくらいかかるかしら?」
徒歩で、と訊かれて、店主は一瞬呆気にとられた。
「は? 徒歩で……なら、四、五日はかかると思うが……」
答えてから、店主は怪訝な表情を浮かべた。
あの村に人鬼が出没して、少なくない被害が出ているということを知りながら、この旅人は何故、そのようなことを訊くのか?
それではまるで、今や誰も近寄らずに孤立した状況にある、あの村に向かうような口振りではないか。
「四、五日、ね。ふふ、どうもありがとう」
そんな店主の疑念に満ちた心情など知りもせず、旅人はきゅっと唇の端をつり上げて笑う。
その笑みは、どこまでも楽しげであり、見る者の背筋に悪寒を走らせるほど、おぞましくも禍々しいものだった。
すうっと闇夜に溶けるようにして旅人の姿が消えた後、店主はその場にへたり込んだ。
体が微かに震えている。得体の知れない恐怖で。
「な、何だったんだ。今の……」
開け放たれた扉を呆然と見つめながら、持ち上げた指先で自分の頬をつねってみる。
痛かった。
悪い夢をみているようでは、ないようだった。
ルクタ村が人鬼から最初の被害を受けたのは、今から二月以上も前のことである。
ある日突然、村に現れたその人鬼は、恐慌状態に陥り逃げまどう人々を手当たり次第に手に掛け、初日だけで数多くの負傷者と、数人の死者を出した。
何故、それほどの被害を出しているのに、狩人に討伐の依頼を出さなかったのか。
ルクタ村のことを知らない人間が聞いたなら、誰しもが首を傾げてそう言うだろう。
ルクタ村は、ほとんどの糧を自給自足で補い生活している小さく貧しい村で、狩人に支払う報酬が用意できる余裕など、どこにもありはしない。
そのため、村人たちは敵わないとわかっていながらも、自分たちの手で人鬼に対抗する自衛手段を取るほか道はなく……
当然、被害は日をおうごとに増すばかりであり、死者の数が二十人を超えると、流石に村長をはじめとする村人たちも、もはやこれ以上黙って見過ごすことはできなくなった。
村中の金目になるものを売り払い、家畜を手放して、ようやく狩人に支払えるだけの金額を用意できると、腕利きと有名なミタの町にいる仲介屋へと依頼書を送った。
それから数日後。ミタの町から狩人が到着したと聞いた村人たちは、身の安全の為に引きこもっていた家から飛び出して、村を救ってくれるだろう英雄を一目見ようと集まり、そして驚愕した。
そこにいたのは屈強な体躯を誇る大男でも、見るからに強そうな偉丈夫でもなく。
一人は長身痩躯に旅装のマントを纏い、目深に被ったフードで顔立ちすらよく窺えない人物だが、村人の何人かがフードに隠れた端正な容貌と、一度見たら忘れられないような銀の瞳を目撃している。
もう一人は栗色の髪と瞳をした小柄の、見る者に愛らしいという印象をあたえずにはいられない可憐な容姿の……少女なのか少年なのか判断しづらい、とにかくまだ子供。
狩人と聞いて誰もが想像していた姿からは、あまりにもかけ離れ過ぎたその二人組に、村が一時騒然としたのは無理からぬことであった。
ルクタ村に一件しかない小さな宿屋。その一階にある食堂で、ヴェルは独り早めの夕食をとっていた。
食堂といっても、広さはロフィンの酒場の半分もなく、ヴェルが今使っている丸テーブルに椅子が二脚添えられた席が二つと、申し訳程度のテーブル席に椅子が三つ並んでいるだけだ。
本来ならテーブル席の向こう側にある調理場で食事を作ってもらえたのだろうが、この宿屋の店主が軽くない怪我を負ってしまったため、毎回の食事は近所の家庭で作られたものをここに届けてくれるらしい。
食事は特別豪勢なものではなく、一般的な家庭料理だ。
豆と根菜のスープに蒸した鶏肉と葉野菜の和え物。それから焼きたてのパン。
ヴェルは凝った料理よりも、こういう食べてほっとするような家庭の味の方が好みだ。
昨日は一晩野宿となり、食事は味も素っ気もない携帯食料と水のみだったため、素朴ながらも温かい料理は大変うれしい。
だというのに、ヴェルの口からはため息が出てしまう。
料理のせいではない。原因は……考えるまでもなくわかっている。
ルクタ村に到着した時、自分たちに向けられた村人たちの目。
諸手を上げて歓迎される、などとは思っていなかったが、あそこまであからさまに驚愕と疑いの眼差しを向けられるとも想像していなかった。
しかし、それも無理のないことだろうと、理解している部分もある。
もしもヴェルが村人たちの立場であれば、期待して待ち望んでいた狩人が想像していた姿とはまるで違う、しかも二人組でやってきたら、きっと同じような反応をするだろう。
ふと視線を上げて、向かい側の席を見やる。
そこにはヴェルと同じ食事が、ほとんど手つかずのまま残されていた。
つい先程までその席に座っていた翡翠は、スープを二口、パンを三分の一ほど、他の二品に至っては味見程度口にしただけで、さっさと二階の部屋に引き上げてしまった。
翡翠も村人たちの反応を気にして……というわけではない。
ここまで行動を共にしてきた中でわかったことだが、翡翠は相当に食が細いようである。
ヴェルもそれなりに少食な方だが、翡翠はそれ以上に、小鳥の食事といっても過言ではないくらい食べ方が少ない。
折角作ってもらった食事を、こんなに残してしまうのはもったいないと思いつつも、そのことを翡翠に注意する勇気もなく。
せめて自分くらいは、残さず美味しく頂こう。
料理を作ってくれた、顔も知らない相手に翡翠の分を詫び、自分の分を感謝しながら、ヴェルは食事を平らげた。
食事を終えて、二階へと上がったヴェルが部屋の扉を開けた途端、飛び上がらんばかりに驚く光景と出会した。
日が落ちて暗くなった部屋の中で、ランプの明かりを反射して光る白刃。
翡翠が抜き身の刀を手に床に座り込んでいた。
「な、な……」
何をしているのかと、口にする寸前ではたとヴェルは気づいた。
自分が、部屋を間違えたということに……
ヴェルに宛がわれた部屋は、もう数歩行った先にある隣の部屋だ。
廊下に明かりの類が一切なく、暗かったから……というのもあるが、ここまでの旅の疲れもあり、ぼんやりしていたのも間違えてしまった理由の一つである。
翡翠はいきなり扉を開けたヴェルに何をいうでもなく一瞥しただけで、手元を照らすランプの明かりを頼りに作業を再開した。
どうやら、刀の手入れをしているらしい。
床に座り込んでいる翡翠の近くにはランプの他、見たことのない道具がいくつか置かれていた。
それらを使って刀身の手入れをする翡翠の動作は実に手慣れているものの、その目は真剣そのものである。
そんな翡翠の様子を、部屋の入り口に突っ立ったまま眺めながら、ヴェルはここまでの旅を振り返った。
ミタの町を発ってから四日。
それだけの時間を共に過ごしながら、ヴェルは未だ翡翠に対する苦手意識が完全に払拭できないでいた。
悪い人ではないことは充分にわかるのだが、とにかく翡翠は必要なこと以外は一切喋らない。
そのため二人の間に流れる沈黙が、大変気まずい……そう感じているのは、ヴェルだけのようだが。
こんなことではいけないと、少しでも打ち解けるためにヴェルから色々話しかけてみたこともあるのだが、ある時、もの凄く嫌そうな顔をされたことがある―――実際には表情など何も変わっていないのだが、ヴェルにはその時、そう見えた。
ただし、それは話しかけられたのが不快だったのではなく、ヴェルが翡翠のことをどう呼ぼうか悩んだ末に、「翡翠さん」と口にしたことに当惑していただけだった。
その後、呼び捨てで構わないのと、敬語もやめて欲しいと翡翠に言われた。
何でも慣れていないそうで……今まで誰も自分をそんな風に呼んだことも、堅苦しい口調で話かけたこともなかったのだと、話してくれた。
最初は躊躇ったヴェルだったが、対等に接していればそのうち気まずさもなくなるかもしれないと、頑張って翡翠の言うとおりにしてみようと決めたのは、二日目のとある宿屋でのこと。
……今思えば、あれがここまでの旅の中で、一番長く言葉を交わしたやりとりだったのではないだろうか。
そんなわけで、思わず敬語しゃべりになりそうなのを懸命に対等なしゃべり方に変える努力をしてはみたものの、それで親しくなれたかといえば、まったくそうでもなく。
むしろ名前を呼び捨てにし、対等な喋り方をしなければならないと考えるようになってからは、ますます話しかけ辛くなってしまった。
結局、打ち解けるどころか逆に会話が減ってしまい、今まで以上に気まずい空気になったのが、三日目の野宿でのこと。
こんなことで、この先翡翠と上手くやっていけるのだろうか……
不安な気持ちがため息として出そうになるのを、ヴェルはかぶりを振る動作で振り払う。
その時、ふと目に留まった刀の刃。
ぽつりと頭に浮かんだ言葉が止める暇もなく、口を衝いて出る。
「その刀って、僕にも扱えるのかな?」
言ってしまってから慌てて口を押さえたが、もう遅い。
翡翠は一瞬、動きを止めたが、ヴェルに言葉を返すことはなかった。
そのかわりに、手入れを終えた刀を鞘に収めて立ち上がると、そのままヴェルの前までやってきて、鞘込めの刀を目の前に突き出した。
持て、と言われているようで、恐る恐る差し伸ばした両手の上に刀が落ちてきた。
「ぅわっ!」
ヴェルの口から驚きの声が上がり、刀を受け止めた両手がその重みで軽く沈む。
細身の刀身と、翡翠が片手で軽々と持っているのを見て、軽いものだと思っていたが、実際はそれなりの重量があるようだ。
「お前には重すぎる」
それだけ言って、翡翠はヴェルの手から刀を取り上げると元の位置に戻って行ってしまった。
あれなら、もしかすると自分でも扱えるんではないかというヴェルの期待は予想以上の自身の非力さに打ち砕かれて、少々気落ちしているうちに翡翠は手早く手入れの道具を片づけ終える。
元々、この部屋の備え付けだろうランプと刀を手にして、翡翠は寝台の方へ足を向けた。
どうやら、もう休むつもりらしい。
眠るには少し早すぎる気もするが、この先に待ち受ける人鬼との戦いを考えれば、長旅の疲れは解消しておくべきだろうと思う。
……思うのだが、翡翠は何故、ランプを枕元の小机に置くなり、寝台の上で片膝を立てて座り込んでいるのだろうか?
「……翡翠、寝ないの?」
ヴェルは思わず訊いた。
訊かずにはいられなかった。
「私は寝るとき、いつもこの体勢だが?」
ヴェルのわかりにくい問いから、訊きたいことを正確にくみ取った翡翠は、何でもないことのように返答した。
つまり翡翠は、寝るとき横にならないということか?
これまで宿屋に泊まった時はヴェルの希望で別々の部屋を取り、野宿の際にはヴェルの方が先に寝てしまうことばかりだったため、翡翠の就寝格好というのを見たのはこれが初めてだった。
「そ、そう。じゃあ、僕ももう寝るね」
お休み、と言ってヴェルは扉を閉めた。
あんな体勢で寝たら、次の日体中が変にかたまってしまいそうである。そもそも、あれで眠れるのだろうか。
そんなことを考え、しきりに首を傾げながら、ヴェルは今度こそ間違いなく自分に宛がわれた部屋へと入っていった。
「それじゃあ、今日の仕事を配るぞ!」
その一声が店内に響いた途端、待ちかねていた狩人たちはこぞって一箇所に集まり出す。
ロフィンの酒場の、いつもの光景。
しかし、いつもと違うのは―――
「これで最後っと。そこのお前とお前と、それからお前! すぐに次を書くから、ちょっと待ってろ!」
依頼書の内容を書き写した洋皮紙を配り終えるなり、ハイヤーは椅子に腰掛け、ペンを手に取り、もの凄い速さで洋皮紙の上に走らせ始める。
その表情には鬼気迫るものがあり、引き留められた狩人数人は互いの顔を見合わせて、言われたとおりその場で依頼書の写しが出来上がるのを待っていた。
「いやあ、今日はずいぶん仕事熱心じゃないか」
テーブル席を挟んだ向かい側から、感心したように言われて、ハイヤーはペンを持つ手を止めてじろりと視線を上げる。
「……ずいぶん嬉しそうじゃねえか」
低く押さえた声で指摘した通り、そこに立っているロフィンの顔は、これ以上ないというほど満ち足りた幸せに輝いていた。
「そりゃあ、だって、ねえ……」
いつもの仏頂面はどこへやら。満面の笑みを崩さないままロフィンは、その理由に視線を向ける。
ロフィンの視線の先―――そこにあったのは年季の入った店内にはまるで似つかわしくない、恐ろしく精緻な彫刻を施された、特一級品と思しき黒壇の家具。
それも一つではない。数日前に起こった乱闘で破壊された数と同じテーブルと椅子のセットが、場違いなほどの存在感をもってそこに鎮座している。
狩人たちは、見たことのない上等の家具を前にして「すげー」「何だこれ」と口々に言いながら集まってくるものの、その圧倒的な高級感を前に誰も椅子に腰掛け、テーブルを使おうとはしない。
「いやあ、夢だったんだよね。ロギヌ木製の家具を店に置くのが」
絵に描いたような幸せ顔のロフィンとは対照的に、ハイヤーの顔はさも面白くないと言わんばかりに憮然としている。
それも当然だ。何せあの家具を買ったのはロフィンではなく、ハイヤーなのだから。
この店に、翡翠の出入り禁止を撤回する条件としてロフィンがハイヤーに出したのは、壊れた家具を弁償することだった。
それくらいなら造作もないことだと、一にも二もなく了承したハイヤーだったが、まさか最高級の黒壇品を買わされることになろうとは、この時には知りもしなかった。
その事実をハイヤーが知ったのは昨日、届けられた商品と共に目玉が飛び出しかねないほどの金額が記された請求を目にした時である。
『え? こんなの聞いていない? そりゃあそうだよ。お前さん、説明する前に了承しちゃったんだから』
ハイヤーの抗議を前に、しれっと、何の悪気もなくそんなことを言うロフィンの顔面に渾身の拳を打ち込んでやりたい気持ちを抑えるには、相当の忍耐力が必要だった。
そういうわけで―――
ハイヤーは今、ロフィンにハメられた形で購入してしまった高級家具の支払いのために、必死で仕事をこなしていた。
幸いなことに仕事には事欠かないのが唯一の救いであり、一括での支払いではなく月々の分割という方法になってはいるが、それでも相当な出費だ。
昨日までは翡翠と共に旅立ったヴェルのことが気にかかり、いまいち集中力を欠いていた問題はこれで解決されたのだが、そのことでロフィンに感謝しようという気持ちは、当然ながらこれっぽちも湧いてこない。
「しかしねえ、ロギヌ木製の家具には満足しているんだけど、何だか店内が余計に古ぼけて見えるんだよねえ。……いっそのこと、全部買い換えるべきだったかも……」
独り言のように言いながら、ロフィンが期待を込めた目でこちらを見てくる。
それに対して言いたいことは色々あるが、今はその僅かな時間すら惜しい。
徹底的な無視を決め込んで、ハイヤーは洋皮紙の上にペンを走らせ続けた。