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剣の名の下に  作者: 朝倉ひかる
第一章
3/16

第3話

 暗い、暗い―――

 日が落ちた夜の森は、底抜けに暗かった。

 濃密なまでの闇に支配された森の中を、今、走る。

 どこに向かっているのか、どこへ行けばいいのか、わからない。わからないけれど、走る。

 まるで、何かから逃げるように……

 逃げる? 何から? やはり、わからない。わからないけれど、走る。

 遠くへ。どこか遠くへ―――

 後ろを振り向くことなく、一度たりとも足を止めることもなく。

 繋いだ手を決して離さないように、きつく握りしめながら。

 ただ必死に、ひたすらに、走り続ける―――



「―――、ッ!」

 唐突な覚醒に、目覚めたと認識するよりも早く、ヴェルは掛け布をはねのけて飛び起きた。

 肩で大きく息を繰り返しているうちに、徐々に現実感が戻ってくる。荒く乱れていた呼吸も同時に落ち着きを取り戻していく。

 ゆっくりと首を巡らせて室内を見回す。

ここはロフィンの二階にある一室。いつも自分が寝起きしている部屋だ。

 簡素な寝台に古い収納棚が置かれただけの、生活感の乏しい空間。決して広いとはいえない部屋面積に対して、不釣り合いなほど大きな窓からは朝日の柔らかい光が差し込み、室内を優しく照らしている。

 見慣れきった自室。そしていつもの朝の光景をぼんやりと眺めているうちに、自分が夢を見ていたのだと理解した途端―――

 ぽつりと、ヴェルの両目から熱い雫がこぼれた。

 わけもわからずに流れ落ちるその感触に、しかしヴェルは驚きも戸惑いもしない。

 いつものことだ。あの夢を見た後はいつも、涙があふれて止まらなくなる。

 あの夢は……おそらく、ミタの町に来る前にあった出来事なのだと思う。だが、その内容は不明瞭かつ断片的で判然としない。

 なのに何故、こんなにも涙が溢れて止まらないのか。

 その理由を知りたくて、あの夢を……部分的に欠けてしまっている自身の過去を思い出すための試みは、これまで何度も試みてきた。

 だが、その度に足下が竦むような恐怖―――深い霧の中、断崖絶壁に立たされているような感覚が、いつも邪魔をする。

 まるで、思い出してはいけないと言わんばかりに……

 そんな報われない試みの繰り返しに疲れ、正直嫌気がさしていたある時。

 ふと、ハイヤーの仕事を手伝いたいと思いついた。

 どこにも行くあてのないヴェルを、赤の他人だというのに養ってくれているハイヤーに、自分に出来ることはないだろうか。以前から、ずっと考えていた。

 だが、本当は思い詰めるばかりの日々から、逃げたかったのではないかと、今になって思う。

 読み書きは人並み以上に出来たので、少しは役に立てる自信はあった。しかし、実際にやってみると、ハイヤーの仕事は想像以上の忙しさである。

 近くは往復で三日程度、遠くは片道だけで一週間以上もかかる場所から寄せられる依頼の数々。

「俺のとこじゃなくて、もっと近くの仲介屋に送れよ」というハイヤーのぼやきを隣で聞きながら、ただペンを洋皮紙の上に走らせ続ける毎日。

 余計なことを考える暇もなく、一日一日があっという間に過ぎていく。

 そうやって日々を送るうちに、毎夜のように見ていた夢は三日に一度、一週間に一度とその頻度を減らしていき、ここ最近では全く……夢のこと自体を忘れていたほどだ。

 けれど……

 ―――本当に、これでいいのかな?

 頭の片隅でひっそりと問いかけてくる声を、いつも聞いていた。

 どれだけ意識の外へ押しやろうとも、決して消えることのないその声を、完全には無視できなかったからだろうか。今になってあの夢を、また見ることになったのは。

 ―――このままでは、いけない。

 不意に強く訴えかけるような声が、胸の奥から聞こえてきた。

 このままでは、この先何度でも、あの夢は眠りの度にヴェルの前にやってくるだろう。

そうして、目が覚めたら、わけがわからないのにまた涙が溢れて止まらない。その繰り返しだ。

 もうやめにしよう。こんな意味のない、逃避するばかりの日々は。

 目の端に残る涙を手の甲で拭うと、息を吸い込み、吐き出す。

 それだけで覚悟は簡単に決まった。

 当然だ。猶予は一年もあったのだから。

 一年―――そう、一年ぶりに過去を思い出す試みをするために、ヴェルはそっと目を閉じた。



「ヴェルの奴、寝坊なんて珍しいな」

 洋皮紙の上にペンを走らせながら、ハイヤーは呟いた。

 いつもならハイヤーよりも早くに起きて、先に一階の酒場で待っているヴェルの姿は今、隣にない。ハイヤーは一人で仕事道具を広げ、本日の仕事を始めたところである。

 別段、そのことを咎めようなどという気はない。普段が早起き過ぎるくらいなのだから、たまに寝坊するのもいいだろう。

 その程度に、最初は思っていた。しかし、依頼書の写しを三枚書き終えたところで、気づいた。

 寝坊、し過ぎではないだろうか。

 もう日はかなり高く上がっている時間である。

 あの生真面目なヴェルがこんな時間まで寝過ごすことなど、あるだろうか。

 ……もしかして、体調でも崩したのかもしれない。

 ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。

 体調が悪くて、起きたくても起きられずに部屋で一人寝込んでいるのではないか。

 そんなヴェルの姿を想像してしまったら、いても立ってもいられなくなり、ハイヤーが椅子から立ち上がった時である。

 二階へと続く階段から下りてくる、ヴェルの姿が目に入ったのは。

「よお、ヴェル。今日は随分と寝坊したな」

 顔には出さないが、内心で大いに安堵したハイヤーは、挨拶代わりにそう声をかける。

 しかし、それも束の間。ヴェルの様子がおかしいことに、即座に気がついた。

「どうした?」

 いつもなら微笑んで朝の挨拶を返すヴェルの顔に笑みはなく、俯いたまま無言。

 明らかに普段とは様子が違うヴェルのもとに、ハイヤーは早足で駆け寄る。

「どこか具合でも悪いのか?」

 身を屈めてヴェルの顔を覗き込み、「ちょっといいか?」と、その額に手を当ててみる。

 熱はないようだが……

「ハイヤー、相変わらずのお父さんっぷりだな」

 酒場内にいた狩人の中の一人が、そんな風にからかいの言葉をかけてくる。

 しかしハイヤーは、ヴェルを心配することを優先してきれいに無視した。

「どうしたんだよ?」

 包み込めそうなほど細い肩に手を置いて、軽く揺すりながらハイヤーは訊いた。

 熱はなかったが、どこか痛いところや苦しいところがあるのではないか。

 それを口に出さずに我慢しているのではないかと、ハイヤーは心配のあまり、あれこれ考え出す。

 もしかして、遠慮しているのか? そんなこと気にする必要などないのに……

 もし、ヴェルが体の不調を訴えるなら、すぐにでも知り合いの薬師に診せるなり、薬を用意するなりしてやるつもりだ。

 そんなヴェルを気遣うハイヤーの姿は、誰がどう見ても子供を心配する父親にしか見えないのだが、当人はまるで自覚していない。

「ハイヤーさん……」

 小さく呟くような声が耳に届いたのは、その時だった。

 はたと目を見張るハイヤーの前で、ヴェルは俯いていた顔を上げる。

「ん? どうした。どこか具合が悪いなら言ってみろ。遠慮なんかすることない―――」

「僕、狩人になりたいです」

 唐突に放たれたその言葉で、酒場が一瞬静まり返る。

 互いの顔を見合わせていた狩人たちは、次の瞬間どっと弾けるような笑い声を上げた。

「聞いたかよ、おい!」

「ヴェル坊やが狩人になりたいって?」

「ははは! こりゃあ傑作だぜ!」

 よほど可笑しいようで、腹を抱えて笑う狩人たちからは次々とそんな言葉が上がる。

「うるせえぞ、お前ら!」

 ハイヤーの鋭い一喝で、周囲の笑い声は徐々に小さくなり、やがて消えていく。

 静かになったところで、ハイヤーはヴェルの顔を真っ直ぐに見つめながら、訊いた。

「悪い、ヴェル。今言ったことをもう一度言ってくれないか」

 ハイヤーは我が耳を疑っていた。今、ヴェルはなんと言った? 

絶対にヴェルの口からは出てこないだろう言葉を聞いたような気がする。

 いいや、きっと聞き間違いだ。そうに違いないとハイヤーは自分に言い聞かせていたのだが……

「僕、狩人になりたいんです」

 声が小さくてハイヤーにはよく聞こえていないと思ったのだろうか。

 ヴェルは先ほどよりも大きな声で、はっきりとそう言った。

 再び、店内にどっと笑い声が湧く。

 今度は、ハイヤーの制止がかかることはなかった。

 と、いうよりも、聞き間違いなど出来ないほど確かな口調で発せられたヴェルの言葉が信じられず、ハイヤーは思考もろとも固まっている状態だった。

 制止のかからない狩人たちの笑い声は、先ほどより長く大きく店内に響き続ける。収束するには、時間の経過を待つより他にない。

「……ヴェル。確認のためにもう一度訊きたいんだが」

 ややあって、周囲の笑い声が小さくなった頃、ハイヤーは静かに尋ねる。

「お前、狩人になりたいって言ったか?」

「はい」

 その問いに、ヴェルは即答を返した。

 ハイヤーは額に手を当てて、深い、深いため息を吐く。

「……何でだ?」

 それは至極もっともな疑問だった。

 昨日までヴェルは狩人になりたがっている素振りなど、まるで見せなかったというのに……

 何故、今日になって突然そんなことを言い出すのか、ハイヤーにはまったくわからなかった。

ハイヤーの問いに、ヴェルは唇を噛みしめる。まるで、何かを堪えるかのようにしてから、低く落とした声で、言った。

「……人鬼が、憎いからです」

 その返答を聞いて、ハイヤーは小さく息を呑んだ。

 だが、何故? と更なる疑問が浮かぶ。

 ヴェルは何故、突然……いや、今頃になって人鬼が憎いなどというのか。

 わからない。全くもってわからない。

 そんな解けない疑問を紐解くため、更なる問いを投げかけようとしたハイヤーだったが、ふと目に留まったヴェルの拳を見て、口を噤んだ。

 小さなその拳は、頑なに握りしめられていた。途端に、ハイヤーの表情が変化する。

 子供を心配するような父性の情に溢れたものから、一切の私情を排した仲介屋としての顔に。

「……なあ、ヴェル。狩人っていうのはどんなことを仕事にしている?」

「それは……」

 即座に返答しようとしたヴェルの答えを待たずに、ハイヤーは頷く。

「知っての通り、狩人は人鬼を狩るのが仕事だ。お前、人鬼と戦えるのか?」

「……出来ます。いえ、僕は、やらなきゃいけないんです」

 ハイヤーに、というより自分に言い聞かせているようなヴェルを見て、ハイヤーは目を眇める。

「どうやって?」

「え、どうって……それは、その……色々、努力して」

「努力って、お前なあ……」

ハイヤーは少々どころかだいぶ呆れた。

 今まで喧嘩すらしたことのない気優しい子供が、努力してどうにかなることではない。

 片手で顔を覆って完全に呆れた様子のハイヤーに、ヴェルは必死に言い募る。

「ハイヤーさん、言っていたじゃないですか! 狩人は実力さえあれば子供や老人でも出来るって」

「確かに言ったな」

「だったら、僕だって……」

「無理だ」

 容赦ないほどはっきりと、ハイヤーは言い放つ。

「お前には無理だよ。そんなこと、本当はわかっているんじゃねえのか?」

「……っ!」

 言い返したいが、とっさに言葉が出ない様子のヴェル。それだけハイヤーの言ったことは、ヴェルの本心に響くものだった。

 それで話は終わりとばかりに、立ち上がったハイヤーがヴェルに背を向けて、席に着こうとした時。

「お願いします! 狩人になれるなら……人鬼を倒せるなら、どうなってもいい! たとえ、死んだって構わないから―――」

「ふざけたことを言うな!」

 一気に沸点を超え、爆発した感情に気づいたときにはもう、ハイヤーは座ろうとしていた椅子を力任せに蹴り飛ばしていた。

 蹴られた瞬間と、吹き飛んだ後に床へと叩きつけられた二回に渡り激しい音を立てた椅子の効果により、言いかけていたヴェルの言葉は封じられた。

「死んだって構わないだ? ふざけんな。最初から死ぬつもりの奴に狩人をやる資格なんてねえよ!」

 すべての音が消えてしまったかのように静まり返る店内に、隠しようのない怒りの込めて言い放つハイヤーの声が響く。

 ハイヤーは蹴り飛ばした椅子の代わりに、隣にあったもう一脚を乱暴に引き寄せて腰を下ろした。

「ハ、ハイヤーさ……」

「うるせえ! さっさと仕事しやがれ!」

 まだ何かを言いかけたヴェルの言葉を、聞きたくないとばかりに声を荒げて封じる。

 これまで仕事の手伝いを強要したことのないハイヤーに、初めて命じられた言葉と、普段とは人が変わってしまったかのような様子に怯えながら、ヴェルはおずおずと自分の席に腰掛けた。

 そんなことがあり、いつも何かと騒々しく賑やかなロフィンの酒場はその日、嫌な静けさが漂う一日となった。



 たとえ日常に普段とは違う、どんな変わったことが起ころうとも、夜はやってくる。

 ロフィンの酒場は本日も閉店の時間を迎えようとしていた。

「ハイヤー、今日はもう閉店だよ」

 入り口の扉に錠をかけて戻ってきたロフィンは、テーブル席で酒瓶に囲まれながら突っ伏すハイヤーに声をかけた。

「うるせーな。閉めたきゃ勝手に閉めろよ」

 自分はここの二階に泊まっているのだから、店を閉められたところで何の問題もない。

 それを聞いたロフィンは呆れたようにため息を吐いてから、飲みかけの酒杯をひょいっと持ち上げた。

「あ! 何すんだよ!」

「閉店だって言っただろう。聞こえなかったのかい?」

 そう言って、ロフィンは酒杯の中身を流しに捨てる。

 ハイヤーは不満そうに睨みつける視線を送ったが、ロフィンはきれいに無視して取り合わず、テーブルの上の酒瓶を素早く回収していく。

 あっという間に片づけられてしまい、これ以上は無意味と悟ったハイヤーは再びテーブルの上に突っ伏した。

「……狩人になりたい、か」

 ぽつりとこぼした呟きを耳にしたロフィンは、洗い物をする手を止めないまま、ハイヤーの隣の席に視線を向ける。

 今日一日の仕事が終わった後、ヴェルは夕食もとらず逃げるようにして二階へと上がって行ってしまった。

「……素人には詳しいことはよくわからないが、お前さんの言ったことは正しいと思うよ」

 ハイヤーも自分の言ったことが間違っているとは思わない。が、何もあんな怒鳴りつける必要はなかったのではないかと、今更ながら後悔しているだけで……

 初めて見た、ヴェルが自分に向ける怯えの表情。その時の記憶を消し去りたい思いから、酒精に溺れてみたものの、酔いが回れば回るほど、忘れたいと願う出来事は鮮明になっていくだけで、逆の効果となってしまっている。

 頭がふわふわとする酩酊感の中でも、消えることのない後悔にため息をつくハイヤー。そんな様をみて、ロフィンは小さな笑いを漏らした。

「何だよ」

「いや、ね。ちょっと昔を思い出してさ……」

 ハイヤーが先ほどまで使っていた酒杯を洗い終わり、乾いた布で拭きながら、ロフィンは懐かしむように遠い目をして、昔を振り返る。

 今でこそミタの町の住人となっているハイヤーだが、元々はこの町の生まれではない。

 この国の人間であることに間違いはないが、どこの出身であるか、どういう経緯を経てミタの町までやってきたのか、幼かった本人の記憶にも残ってなどいない。

 ただ気付けば路地の片隅に一人で座り込んでいて。

 そんなハイヤーに手を差し伸べたのが、ミタの町で仲介屋を生業としていた一人の男だった。

 ハイヤーが孤児だということを知って、男は自分が寝起きする塒に連れ帰り、その時に男の親友だというロフィンと出会ったことは覚えている。

 だから、ロフィンとはその頃からの、もうかなり長い付き合いだ。

「昔はあんたも結構いい男だったのに、すっかり老けちまって……」

「そういうお前さんは、子供の頃はもっと可愛げがあったね」

 憎まれ口を交わしながら、二人は苦笑する。

「けどねえ、まさかお前さんがあいつの後釜になるなんて、あの時は思いもしなかったよ」

 ロフィンが思い返したのはハイヤーが十六歳の頃。

 突然、仲介屋になりたいと言い出した時のことだ。

 別に何かきっかけがあったわけではない。

 ただ、子供が親の仕事を見て育ち、影響を受けて同じ職に就きたがる。

 そんな理由だったのだと思う。

「あいつ、お前さんが仲介屋になりたいって言った夜、ずいぶんと悩んでいたようだよ?」

 その時の姿が、今のお前さんとそっくりだと言われて、ハイヤーは言葉に詰まった。

 思い返してみれば、仲介屋になりたいと言ったとき、ハイヤーの恩人である彼は反対こそしなかったものの、やや困ったような笑みを浮かべていた記憶がある。

 気優しい人だった彼は、仲介屋として生きていくことの厳しさを知っていながら、それでもハイヤーの夢を否定することなどできなかったのだろう。

 そんな養い親である彼の当時の心情など知りもしなかったハイヤーは、努力に努力を重ねた後に念願の仲介屋となる夢を果たす。

 同時に、ハイヤーが一人前の仲介屋になるのを見届けた彼は現役を引退した後に、ほどなくして病で急逝したため、ハイヤーがその跡を継ぐ形で今日までに至る。

 月日はあっという間に経ち、ハイヤーはいつしか名の売れた仲介屋として日々を送っていた。

 仕事は忙しく、それでも充実した毎日。

 そんな時だ。一年前のある日、道端に座り込んでいたヴェルと出会ったのは。

「それにしてもねえ、まさかあいつの真似して仲介屋になるだけじゃなく、見ず知らずの子供を拾ってくるところまで似るなんて……」

 蛙の子は蛙というわけか。と、ロフィンは笑って言う。

 もちろん、ロフィンは冗談で言った言葉だったが、ハイヤーはその通りなのかもしれないと思った。

 何故、あの時ヴェルを見捨てられなかったのか―――今ならわかる。

 ハイヤーは、ヴェルにかつての自分の姿を重ねて見ていたのかもしれない。

 頼る者もいない、ひとりぼっちの子供。不安で不安でたまらないときに差し伸ばされた手。

 その手で救われたハイヤーだからこそ、どれだけ養う余裕も暇もなくても、ヴェルのことを放ってなどおけなかったのだ。

 しかし、意外にもヴェルはしっかりしていて、手間がかかるどころか今や逆にハイヤーが助けられているほどである。

 最近では仕事の要領もよくなり、もしかしたらこのまま、自分の跡を継いで仲介屋にでもなるのではないかと、本気ではないがまるっきり冗談でもないことを考えていた矢先だ。


―――僕、狩人になりたいです―――


 何故、ヴェルが突然そんなことを言い出したのか……驚いたには驚いたが、ハイヤーには一つ心当たりがあった。

 あれはまだ、ハイヤーに引き取られて間もない頃。

ヴェルは毎夜のようにうなされた挙げ句、悲鳴を上げて飛び起きていたようである。

 ロフィンの酒場の二階は、部屋と部屋を隔てる壁が薄い。

 聞く気はなくても、隣の部屋で寝ていたハイヤーには聞こえてしまった。

 苦しげにうなされた後、自分の悲鳴で目が覚めて泣くヴェルの声が。

 それでヴェルがどういう境遇を辿ってきたのか、何となく想像はできた。

 今の世、家族や友人や恋人など、大切な存在を人鬼に殺されたといった話は珍しくはない。そのことがきっかけで狩人になったという者も大勢いる。

 狩人になりたい理由を尋ねたら、ヴェルは人鬼が憎いという答えを返している。

 つまり、そういうことなのだろう。

 もしも……と、ハイヤーは思う。自分も人鬼に大切な誰かを殺められたなら、仲介屋ではなく狩人になりたいと願っていただろうか?

 そこまで考えたところで、ハイヤーはその想像を頭から振り払う。

 自分の中には人鬼に対する憎しみなどない。

 もしかしたら孤児となって路頭に迷う羽目になったのは、そういったことが原因なのかもしれないが、その時の自分は幼すぎて何も覚えてなどいないのだ。

 似たような境遇を持つハイヤーとヴェルだが、二人の決定的な相違点はそこだった。

 ハイヤーには、ヴェルの気持ちを本当の意味で理解してやることはできない。

 あの小さな少年が心に負った傷は、どうやったら癒してやれるのか……

 自分は一体、ヴェルに何をしてやれるのだろう。

 思案を巡らすハイヤーの胸中に生まれたのは、一つの想い。

 何とか、してやれないだろうか。

 どんなに無理なことだとしても、それでヴェルの気が少しでも晴れるというなら。

 望みを、叶えてやりたい。

「……お前さん。まさか、あの子に狩人をやらせようって考えているんじゃないだろうね?」

 まるでハイヤーの心の内を読み取ったかのように、ロフィンが厳しい顔で訊いてきた。

 伊達に長く付き合ってきただけはあるな、と改めて思い知らされてハイヤーは苦笑を浮かべる。

「やめときなって。あの子には無理だよ。お前さん、昼間自分で言ってたじゃないか」

 確かにな、とロフィンの言葉にハイヤーは内心頷く。

 ヴェルの望みを叶えてやりたいと思う反面、危ない目にはあわせたくないという矛盾した願いもある。

 仲介屋であるハイヤーなら、仕事を与えるのは簡単だ。

 しかし、戦えもしないヴェルを一人で人鬼のいる場所に向かわせるなど、わざわざ死に行かせるようなものである。

 どうしたものかと、瞼を閉じて考えを巡らせるハイヤーの脳裏に蘇る、一つの記憶があった。

 あれは、誰が言ったものだったが……そう、ハイヤーにとって恩人であり、師でもある、あの人は言ったのだ。

 狩人というのは、元々―――

「……そうだ。その手があった!」

 突然声を上げて、椅子をひき倒す勢いで立ち上がったハイヤーに驚き、ロフィンは危うく片付けようとしていた杯を落としそうになった。

「な、何だい。急に……」

「ヴェルと組んでくれる狩人がいればいいんだよ!」

 その言葉に、ロフィンは怪訝な顔をして首を傾げた。

「組む? 二人で狩人をやるっていうのかい?」

 ハイヤーは頷く。

 今でこそ単独での仕事が当たり前となっている狩人だが、ずっと昔―――まだ狩人という名で呼ばれない頃は複数で人鬼に挑んでいたとか。

 一体の人鬼に対して複数の人間で取り囲み、討伐するそのやり方がまるで狩りを行うようだったため、そこから狩人という呼び名が生まれたという。

 何故、仲介屋を目指す自分に狩人の由縁なぞを話すのか。聞いた当初は全く関係ないことだと、適当に相槌をうっていただけだったが、まさかこんなところで役に立とうとは……

 今はもう、記憶の中にしかないあの人の柔和な笑顔を思い出し、ハイヤーは心の中で感謝した。

 この時、この瞬間、今までずっと忘れていたことを記憶の奥底から引き上げることができたのは、まるで困っている自分にあの人が答えを示してくれたように感じていたのだが……

「ふーん。で、誰と組ませるつもりなんだい?」

 そんなハイヤーの心情など知り得ないロフィンは、素朴な疑問を投げかけてきた。

「あ……」

 途端にハイヤーの表情から笑みが消えるのを見て、ロフィンは盛大なため息を吐く。

「よく考えてから言いなよ」

「う、うるせえな。今思いついたばかりなのに、考えるも何もないだろっ」

 つい今し方まで脳裏に浮かんでいたあの人の笑顔が輪郭を崩して消えていく。

 ……ここから先は自分で考えろ。そう、言われているような気がした。

 ヴェルを誰と組ませるか。簡単なようで非常に難しく、且つ重要な問題である。

 後ろに引き倒した椅子を起こして腰掛け、いつになく真剣な面持ちでハイヤーは思案する。

 実力はもちろん、性格やヴェルとの相性なども考慮しながらロフィンの酒場を出入りしている狩人―――ハイヤーが記憶している限りを一人一人思い浮かべて判断していく。

その結果―――

「……駄目だ、誰もいねえ」

 導き出されたのは、適任となる人物は該当者なしという答えだった。

 そもそも荒くれ者の多い狩人と、見た目通り大人しい性格のヴェルでは相性もへったくれもない、何をどう工夫しようが上手く組み合うことなどあり得ないだろう。

 それだけではない。狩人の中にはヴェルのことを妙な目で見ている輩もいる。そんな相手と二人きりにするなど、ある意味では人鬼と遭遇するより危険だ。一体、なにをされるかわかったものではない。

 いい着想だと思ったのだが、ふさわしい人材がいなければ実現させることは不可能だ。

 落胆に沈みかけたハイヤーに、ロフィンがふと思い出したかのように言った。

「お前さん、あの人のこと忘れてないかい?」

「はあ? あの人って、誰だよ」

「ほら、つい最近入ってきた、あの銀髪の人……」

 銀髪、と聞いて思い浮かぶ人物は、一人しかいない。

「翡翠か。うーん、確かに……」

 言われて、ハイヤーは天井を見上げながら翡翠の姿を思い浮かべる。

 まだこの町にやってきたばかりで、付き合いが浅い……というより、まだ二回しか顔を合わせていなかったためにすっかり忘れていた。

 確かに翡翠なら、ヴェルと組ませてもいい条件をほぼ満たしている。

 初日にリグを膝蹴り一発で簡単にのしたのだから、実力は相当なものだと思う。

 年齢もミタの町にいる狩人たちの中では一番若い。

「けどなぁ。あいつ何ていうか、冷たそうなんだよな」

 銀の髪。銀の瞳。すらりとした、狩人にしては少々頼りなさげに見える細身の体躯。

 そして思わず目を奪われるほどの端正な顔立ち。

 見る者を魅了するような要素をすべて兼ね備えているというのに、翡翠はロフィンの酒場に出入りする狩人の誰よりも他者を寄せ付けない雰囲気を常に纏っている。

 ヴェルは多分、ああいう感じの相手は苦手だろう。

「けど、その翡翠って人、あの坊やを助けてくれたんだろう? 手を出したら巻き添えを食らうとわかっていて助けてくれたのだから、案外いい人なのかもよ?」

 翡翠を擁護するようなロフィンの言葉に、ハイヤーは一瞬呆気にとられた後、多分にからかいを含んだ笑みを浮かべた。

「へえ。意外だな。翡翠のことをそんなに薦めてくるなんて、昨日の今日でもう溜飲は下がったのか?」

「それとこれとは別問題。まだ出入り禁止を解く気はないよ」

 それだけ言って、ロフィンはそっぽを向いてしまった。

 素直じゃねえなあ、と内心で苦笑混じりに呟いた後、ハイヤーはロフィンが推薦する翡翠について考えた。

 いや、考えようとして、自分は翡翠のことをほとんど知らないことに気付く。

 何せ一回きり仕事を渡しただけの相手なのだ。仕事柄、人を見る目はあると自負しているハイヤーでも、それだけでその人物のすべてを理解するのは流石に無理なことである。

 それに翡翠が駄目ならば、もうヴェルを任せられそうな者は他にいないのだ。

「一応、訊くだけ訊いてみるか」

 人は見かけによらないかもしれないしな、とハイヤーは頷きながら明日に取るべき行動を決定する。

「そうしてみれば。まあ、受けてくれるかどうかは知らないけどね」

 薦めたのは自分だというのに、無責任な風に言って、ロフィンは拭き終わった杯を棚に片付けた。



 翌日、仲介屋業を始める前の時間にハイヤーは翡翠が泊まっている宿屋を訪れていた。

「すまねえな。こんな早い時間に」

「……別に。構わない」

 朝もそれなりに早い時間、突然やってきたハイヤーを、翡翠は素っ気ない言葉と共に部屋に招き入れた。

「しかし、結構いいとこに泊まってるなぁ」

 翡翠が泊まっていたのは、ミタの町にある宿屋の中ではそこそこの、等級でいうならば中の上くらいの宿屋だった。

 どんな安宿に泊まっているのかと思いきや、意外や意外である。

 一人部屋だというのに、ハイヤーが寝起きしているあの狭い部屋が優に二つは入るほどの広さだ。

 寝台や調度品なども腕のいい職人が手がけたと思われる品で、大判の窓から差し込む朝の柔らかな日差しまで気品が漂っているように見える。

「それで、何の用だ?」

 物珍しそうに室内を見回していたハイヤーは、その言葉ではっと我に返った。

 見れば翡翠は窓辺にある、テーブルに添えられた椅子に足を組んで腰掛けていた。

 その姿を、ハイヤーは思わずまじまじと眺め入ってしまう。

 ロフィンの酒場にやってきた時は旅装のマントを羽織っていたが、流石に今は身に着けていない。

 翡翠が着用しているのは何の飾り気もない、白を基調とした上下と、膝まで丈のある頑丈そうな長靴。

 実に簡素な、地味ともいえる格好なのに、翡翠が着ているとそうは見えないのが不思議だった。

 美人は得だということだろうか……

 瞬きもせずにじっと見つめてくるハイヤーに、翡翠は僅かながら眉間に皺を寄せた。

 その表情は怪訝を表しているようである。

「わ、悪い。何でもねえ」

 ちょっと見惚れていたなど言えるはずもなく、ハイヤーは翡翠と向かい合うように置かれている椅子に手をかけたところで精緻な彫刻が彫られているのに気付き、一瞬座っていいものか躊躇った後に意を決するように腰掛けた。

「今日は、お前に頼みたいことがあってな」

 着席するなり、ハイヤーがそう切り出すと翡翠は両腕を組み少しだけ首を傾げる。

 話の先を促しているようだ。

「あー……。その前にちょっと訊いておきたいんだが……。お前、誰かと組んで仕事する気とかあるか?」

「何故そんなことを訊く?」

間髪入れずに翡翠が言葉を返してきた。

「い、いや。ちょっと訊いてみただけだ。もしかしたら、お前にそういう気があるかなーっと……」

 どう言おうか、ハイヤーは今になって迷っていた。

 下手な言い方をすれば断られることは必須である。かといって、この場を上手い嘘で塗り固めたところで後から話が違う! と文句を言われるのは実に想像にたやすい。

 なら、もう変な小細工なしにそのままを話すのが一番いいだろう。

「……実はよ、お前と組んでもらいたい奴がいるんだ」

 単刀直入に、ハイヤーは言い出した。

「名前はヴェルっていってな。覚えているか? 俺の隣に座っていた、栗色の髪の……あ、言っておくが、あいつはああ見えて男だからな」

 一応、ヴェルの性別も言っておいた。翡翠なら心配はないと思うが、まあ、変な気をもたれないよう念のためである。

 翡翠は少し考え込むように目を閉じた後、そっと瞼を上げてから一つ尋ねる。

「……あの子供は、狩人なのか?」

 まだ二度しかロフィンの酒場に顔を出していない翡翠だが、誰だ、それは? と言わない辺り、どうやらヴェルのことは認識していたようである。

「いや、今まで喧嘩もしたことのないまったくの素人だ。けどよ、突然狩人になりたいなんて、言い出して……」

「それで、私と組めと?」

「お、おう。ヴェルはまったく戦力にはならないと思うが……」

 言っているうちに、どんどん声が小さくなっていくハイヤーの言葉に、翡翠はふうっとため息のようなものを吐き出す。

「……それは組むというのではなく、預けるというのではないか?」

 至極もっともな台詞に、ハイヤーは言葉を返せなかった。

 翡翠の言うとおりである。

 まるで戦力にならないヴェルの存在は、はっきり言ってお荷物以外の何者でもない。

 それは二人で組んで仕事をするというより、実際に仕事をこなすのは全部翡翠ということになり、組む意味があるのか、疑問に持つのは当然であろう。

 それでも―――

「そこを承知で、何とか引き受けてくれねえか?」

 テーブルの上に身を乗り出して、ハイヤーは頼み込む姿勢に出た。

「不向きだなんてことは、本当は本人が一番よくわかっているはずだ。それでも狩人になりたいなんて言ったのには、相当な理由があるんだよ」

 頼む! と、両手を合わせて頭を下げながら、ハイヤーは頼み込んだ。

 翡翠からの返答はなく、しんと部屋の中にしばし沈黙が流れる。

 ……やはり駄目だろうか。

 一縷の望みが落胆に沈みかけた時。

「……お前、何か忘れていないか?」

「は?」

 唐突に言われて、きょとんとしながらハイヤーは顔を上げる。

「私は今、あの酒場に出入り禁止中の身だ」

「お、おお。それは忘れてねえよ」

 だから、出入り禁止が解除されたら……

 そう言おうとしたハイヤーから、翡翠が視線を外す。

 翡翠の視線の先には寝台の傍に置かれた、旅をするには些か小さい荷袋と旅装のマントがあった。

「今日にでも発とうと思っていたところだ」

 言って、椅子から立ち上がった翡翠をハイヤーは必死に止めにかかる。

「ま、待った! 待ってくれ! 大丈夫だ。ロフィンの親爺はお前が悪くないってことはちゃんとわかっているから、近いうちに出入り禁止を解除してくれるって……」

「それは、いつだ?」

 一度立ち止まり、振り返りながら訊かれてハイヤーは言葉に詰まった。

 一月はかかりそう、などと言える雰囲気ではない。

「……二週間、とか?」

 予想している日数よりもかなり短く言ってみたのだが……

「……」

 翡翠は再びハイヤーに背を向けて歩きだした。

「ま、ま、待て! 宿代のこととか気にしてるんだろ? 知り合いがやっている安い宿屋があるんだ。ここと違って少々年季が入っているが、部屋は悪くねえ。俺が頼み込めば、それくらいの間はツケで泊まれるから―――」

「金銭的なことを気にしているのではない」

「あ? そうなのか?」

 てっきり、日々の宿代が払えないから仕方なく出て行くのかと思ったのだが、違うようだ。

「仲介屋はこの世でお前一人というわけではない。この町で仕事が請けられないなら、他の場所に移るまでのことだ」

「いや、まあ、それはそうだが……」

 尤もな言い分にハイヤーが納得して頷いていると、その隙に翡翠は素早くマントを羽織り、荷袋を持ち上げようとしたところで―――

「ああ! わかったよ。今日、いや今すぐにでも仕事くれてやるから、思いとどまってくれ!」

 咄嗟に口をついて出た言葉で、今にも扉に向かって歩きだそうとしていた翡翠の動きが止まる。

 何とか引き止めることに成功してほっとしたのものの、とんでもないことを口走ってしまったとハイヤーは早々に後悔し出す。

 昨日のロフィンの様子からして、まだまだ店で暴れた当人たちを許す気はなさそうだ。

 一応、説得は試みるが、自信はまったくない。

 それでも、もう後には引けない状況だった。

「……一つ、条件がある」

 ゆっくりと荷袋を床に下ろしながら、翡翠が静かに言い出す。

「私は一つの場所に留まることはしない。この町を拠点としている間だけなら、その話を受けよう」

「本当か!?」

 色よい返事、とまではいかないが、承諾と取っていい言葉に、ハイヤーは目を輝かせた。

「……この町にいる間だけ、だ」

 まるで念を押すかのように、翡翠は言葉の一部を繰り返した。

「あ、ああ。で、お前はいつまでここにいるんだ?」

「特別決めてはいない。今までも、一月いる場合もあれば、数日程度で去る場合もあった」

 それを聞いて、ハイヤーは心底不思議でたまらない、という顔をする。

「はあ。しかし、お前本当に変わってるなあ」

 狩人は普通、そこと決めたら拠点を動かすことはしない。

 その理由は翡翠がこの町にやって来た時の通りだ。

 いくら前にいた場所で腕が立ったといっても、他の地に移れば最初は新入りとしか見られない。

 やれ実力を見せろだの、新入りが生意気だの、面倒なことこの上ないため、よほどの理由がない限り移動しようなどとは考えもしないはずだが……

 翡翠の口振りからすると、方々を転々としているように聞こえる。そこまでするには一体どんな理由があるのだろう? 気になったが、今は翡翠の事情はどうでもいいとして。

 先ほど聞いたばかりの言葉を、ハイヤーは胸の内で反芻する。

 この町にいる間だけ……つまり期間限定ならヴェルを狩人にしてやれるということか。

予想だにしていなかった返答には驚いたが、それならそれでもいいのではないかと、ハイヤーは思った。

 やはり本音中の本音を言えば、ヴェルを危険な目に合わせたくはない。

 翡翠がいつまでこの町に留まるつもりかはわからないが、その間にヴェルが心変わりしてくれれば、それにこしたことはないのではないだろうか。

 いや、そうなってくれればいいと、ハイヤーは密かに願ってさえいる自分の気持ちに、この時初めて気付いた。

 実際に狩人の仕事を体験して、自分にはやはり無理だと、諦めてくれたなら。

 そうしたら、また、これまで通り仲介屋の仕事の手伝いをしながら日々を過ごせばいい。

 諦めることは、別に悪いことでも恥ずかしいことでもない。

 生きていれば、何かしら諦めなければいけないことなんて多かれ少なかれある。

 生涯で一度も何かを諦めたりせずに生きている人間なんて、まずいないはずだ。

 だから、もしヴェルが狩人になることを諦めざるを得なくて、落ち込んで帰ってきても、何事もなかったかのように接してやればいい。

 そのことについて何か言うような奴がいたら、今度はロフィンに代わって自分が酒場から叩き出してやれないいだけの話だ。

 ハイヤーがそんな風に考えをまとめている間に、翡翠は先ほどまで座っていた椅子に戻り、腰掛けていた。

「店が開くまで私はここにいるが、仕事を請けたらすぐに出立する」

「いっ……! そんなすぐにかよ?」

「今すぐにでも仕事をくれてやると言ったのはお前だろう? 覚えているか、自分の言葉を」

 ハイヤーに返す言葉はない。

 その場の勢いとはいえ、先ほど確かにそう言ってしまったのだから。

 よく考えてからものを言えと、昨夜ロフィンに言われたことを思い出し、今更ながら反省するが、一度口から放たれてしまった言葉は撤回することは出来ない。

「あー……。ちょっとばかし店の外で待ってもらうことになるかもしれねえが、いいか?」

 構わない、と翡翠が頷くのを見て、ほっとした。

 それくらいの猶予は残されているようだ。

「じゃあ、後でな……」

 ハイヤーは踵を返して、部屋から立ち去る。

 昨日まで頭を悩ませていた問題は一応解決した。しかし、今度はロフィンをどうやって説得したものかと、また新たな悩みを抱えることになったせいで、塒兼仕事場に戻るその足取りは、かなり重いものとなった。



ロフィンの酒場の二階にある部屋は、広さや調度品などは他の宿屋とは比べるべくもないほど質素だが、日当たりだけは抜群に良かった。

 粗末な寝台の上で、上体を起こしたまま、ぼんやりとしていたヴェルはふと、顔を上げた。

 この部屋は陽の光がよく入るように作られている。

 寝台で眠っている者に対して容赦なく光が当たるように設置された窓からは、明る過ぎるほどの陽光が入り込んでいた。

 とっくに目は覚めていたが、寝台から下りるのにどうしても踏ん切りがつかない。

 しかし、明るい光で満たされた室内に、まるで早く起きろと言われているような気がして、もそもそと寝台を抜け出した。

 窓から差し込む光は、すでに朝日のものではない。もう、昼に近いのではないだろうか。

 こんなに日が高くなるまで部屋にいたのは初めてだった。

 着替えを済ませて、部屋を出ようとしたところでヴェルはそっとため息をつく。

 ハイヤーさんと、顔合わせ辛いな……

 思い出されるのは昨日のこと。

 ヴェルが狩人になりたいと言ったことに対して、まさかハイヤーがあそこまで怒るとは思ってもいなかった。

 だが、それも仕方のないことなのかもしれない。

 ハイヤーの指摘は、極めて真っ当なものだ。

 どれだけ狩人になりたくても、自分にはそれを実現させるための力なんてない。

 力がなければ狩人として認めてもらえない……人鬼を、倒すことなど不可能だ。

 でも……それでも、狩人になることを諦めるという選択を取ることなど、ヴェルには出来ない。

 何故なら―――

 自分は人鬼を憎んでいる。

 それが昨日―――久方ぶりに見た夢を、自身の断片的で不鮮明となっている過去を思い出す試みをした結果、得た答え。

 そこには一体、どういう経緯や理由が存在しているのか……全くの不明であるというのに、ヴェルは手に入れたその答えを、何の不思議もなく受け入れることができた。

 自分は人鬼を憎んでいる。

 その事実だけあれば事足りる。充分だ。他のことなんて考える必要はない。どうでもいい。興味もない。

 答えを得たら、次にとるべき行動も自然と決まった。

 自分は人鬼を憎んでいる。

 ならば、戦わなければならない。人鬼を、倒さなければならない。

 確固たる目的を持っている自分にとって、、昨日までのように机に向かうだけの日々など、もう必要ない。

 だから……

 ヴェルは決然と顔を上げると、ドアノブに手をかけて扉を開ける。

 短い廊下を歩きながら、既に心は決めていた。

 もう一度、ハイヤーと話してみよう。昨日はあまりにも唐突過ぎたために、ハイヤーを驚かせてしまったが、一日時間を置いた今なら、きっと……

 漠然とした期待を胸に、階段を下りきって一階へと着いた途端。

「ヴェル! ようやく起きたか。今呼びに行こうと思っていたところだ」

 普段と何ら変わることなく声をかけてきたハイヤーは、大股に歩み寄ってくるなりヴェルの腕を掴むと、何を言う暇も与えずにそのまま引きずるようにしてカウンター席の前へと連れて行った。

 いつもヴェルとハイヤーが二人並んで座っている席まで来たところで、ハイヤーがテーブルの上に置いてあった物をヴェルに差し出す。

「着てみろ」

 ハイヤーの有無を言わさない口調と態度に、これが何なのかわからないままに、きちんと折りたたまれたそれに手を触れる。

 受け取り、広げてみると、それは一枚のマントだった。

 何故こんなものを渡されたのか、判然としないながらも、言われたとおり、肩から羽織るようにして着込む。

 マントを身につけたヴェルの姿に、ハイヤーは満足そうに頷いた。

「丈が長いと思って、仕立屋に急いで直させたが丁度いいな」

 ヴェルは視線を下に落とし、ふくらはぎの真ん中くらいにあるマントの裾を見下ろした。

「あの、これって……」

 今、羽織っているのはどうみても旅装のマントだ。

 何故、ハイヤーは突然こんなものを寄越したりするのか。

「ほれ」

 困惑するヴェルに、次いでハイヤーが差し出したのは両肩に背負う形の荷袋だった。

「水に携帯食料、地図に金子。その他必要な物は全て入っているからな」

 言うなり、背後に回ったハイヤーは半ば強引にヴェルに荷袋を背負わせる。

「ハ、ハイヤーさん?」

 旅装のマントに荷袋。これはもう、立派な旅支度である。

 困惑は最高潮に達していた。そんなヴェルに、ハイヤーは身を屈めて真面目な顔で訊いた。

「昨日言ったこと、諦めることは出来ねえんだろ?」

 それが何を指しているのか、すぐにわかった。

「はい……」

だから、ヴェルは素直に答えて、頷いた。

 ハイヤーがあからさまなため息をはいて、頭をがしがしとかく。

「狩人っていうのは、お前が想像しているより、ずっと大変で危険な仕事なんだぜ?」

 それは充分に理解しているつもりだ。

 簡単な手伝いだけとはいえ、ヴェルだってこの一年、少なからず狩人に関わってきたのだから。

 どれほど腕の立つ狩人でも、一瞬の隙や油断が命取りになる。常に死と隣り合わせの職業だなんてこと、嫌でも理解させられてきた。

 それでも……

「僕は、狩人になりたいです」

 声は小さかったが、ヴェルは決然と言い放った。

 そんなヴェルを、ハイヤーは瞬きすることなくじっと見つめる。まるで瞳をのぞき込むことで、その奥にある心の中まで見通そうとしているかのように。

 ヴェルもハイヤーをまっすぐに見つめる。

 自分の覚悟の程を知って欲しいと、ハイヤーの鳶色の瞳から放たれる視線を真っ向から受け止める。

 しばし、その状態が続いた後、先に視線を逸らしたのはハイヤーだった。

「ったく、お前がこんなに頑固だとは知らなかったぜ」

 苦笑を浮かべるハイヤーに、ヴェルは目を二度三度瞬かせる。

「だったら、俺はもう何も言わねえよ」

 かぶりを振りながら、ハイヤーはどこか吹っ切れたように笑った。

「ハイヤーさん?」

 それは、ヴェルが狩人をやりたければやっていい、ということなのだろうか?

 そんな内心の問いに答えるかのように、ハイヤーが首肯するのを見て、ヴェルは驚きに目を見開いた。

 しかし、望みが叶った喜びよりも、疑念が先に立つ。

 昨日、あれだけ反対していたというのに、何故今日になって突然人が変わったかのような態度に出るのか。

 言葉には出していない、ヴェルの胸中にあるだけの疑問に答えるように、ハイヤーはあっけらかんと笑って言った。

「まあ、あいつがいれば、とりあえずは安心だろうしな」

「……あいつ、って?」

 一体誰を指している言葉なのかわからずに、ヴェルは首を傾げた。

「ん? お前と組んでくれる奴のことだよ」

 さらっと何でもないことのようには放たれた言葉を消化するには、少し時間がかかった。

「組むって……。え、え? だって、狩人は……」

「ああ。今は単独の行動が当たり前だけどな。ずっと昔は人鬼を狩る時に数人がかりで挑んでいたんだ。そこから、狩人って名前が生まれたんだぜ」

 簡素でありながらわかりやすい狩人の成り立ちを聞いて、ヴェルは昨日とは全く違うハイヤーの態度の理由にようやく納得がいった。

 つまり、人鬼に複数人で挑んでいたという昔のように、ヴェルも誰かと一緒なら狩人としてやってもよいということなのであろう。

 そうなると当然のように思い浮かんだ疑問を、ヴェルは口にした。

「相手の人って、誰なんですか?」

「それは会ってからのお楽しみだな」

 ニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべて答えたハイヤーは、ふと何かを思い出したかのようにテーブルに目を向けた。

「こいつを忘れるところだったぜ」

 言いながら、テーブルの上に置かれていたものを手に取る。

「大丈夫と思うが、万が一、ってこともあるからな」

 ハイヤーがヴェルに差し出したのは、一本の短剣だった。

 革製の鞘に収められた短剣の外観を、しばし見つめていた後、柄に手をかけてゆっくりと引き抜いてみた。

 露わになった銀色の刃は、刀剣類の中では最小級のものであるが、これとてれっきとした武器だ。

 急所を突けば、その者の命を奪うことだって出来る。

 小さく喉を鳴らし、短剣の刃に見入っていたヴェルだったが……

「さて、準備も整ったし。そろそろ行かねえと待ちきれなくて置いていかれちまうぞ」

 そう言われて、はたと我に返り慌てて短剣を鞘にしまう。

「南門のところで、もう大分前から待っているはずだ。急いで行ってやってくれ」



 ミタの町の大通りは、今日も普段通り活気に満ちた賑わいをみせていた。

 道行く人々が交わす、さざめきの声と、露店を構える行商人や建物の店からは客引きのために威勢のいい声が飛んでいる。

 そんな中を、ヴェルは行き交う人々にぶつからないよう気をつけながらも急ぎ足で進んでいた。

 一体、誰なのだろう。自分と組んでくれた人とは……

 ハイヤーは会ってからのお楽しみといって教えてくれなかったが、ヴェルには相手が誰なのかわからないことに期待や楽しみを感じるよりも、不安や心配の方が大きかった。

 はっきり言って、ヴェルはこの町の狩人たちのことが苦手である。

 大半の者たちは面白半分に、時には卑猥な言葉でヴェルをからかうし、一部の者―――古株と呼ばれる者たちは話しかけづらいし、あの威圧するような感じがどうしても好きになれない。

 中でも、一番苦手なのはリグだ。

 ハイヤーにどれだけ注意されても、どこ吹く風、一番執拗にからんでくる。

 ロフィンの酒場に出入り禁止になったのは気の毒だと思うが、正直ほっとしていた。

 ―――もし、そのリグが相手の人だったら……

 ふと、よぎった考えに、思わず足が止まる。

 しかし、かぶりを振りながらすぐにその可能性を否定して再び歩き出す。

 ハイヤーだって、ヴェルがリグを苦手にしていることくらい知っているはずだ。

 そんな相手と組ませるなんてこと、間違ってもしないはずである。そう、信じたい。

 そんなことを考えながら進んでいたら、いつの間にか目指していた南門まで来ていた。

 ミタの町には東西南北に四つの門がある。

 日の出と共に開き、夕暮れに閉められる巨大な門は、今は大きく開かれて人の出入りを自由にしていた。

 南門から外に出て行く者、町に入ってくる者は丁度誰もいない。

 だから、門の脇に一人佇むその人の姿に、すぐ気がついた。

 旅装のマントに身を包み、フードを目深に被った背の高い人物。

 歩く速度を落としながら、ゆっくりと近づいていくと、ヴェルの気配に感づいたかのように顔をこちらに向ける。

 その瞬間、思わずヴェルは足を止めて驚きに目を見開いた。

 フードの下に隠れていた銀色の瞳が、こちらを見つめている。

 翡翠だった。

 しかし翡翠は、リグ同様にロフィンの酒場に出入り禁止になっていたはずではなかったか?

 その場で固まってしまったかのように動かないヴェルを余所に、翡翠は足下に置いてあった小さめの荷袋を肩にかけると、黙って歩きだした。

 その背中に向けて声をかけようとしたが、言葉が出てこない。

 あなたが僕と組んでくれる人ですか? と訊けばいいのか……。いや、もしかしたら翡翠はこの町を去るだけなのかもしれないのに、そんなこと訊いたらおかしなものでも見る目をされるかもしれない。

 どうしたらいいのかわからず、途方に暮れたように立ち尽くしていると、

「行かないのか?」

 立ち止まって振り返り、短く、素っ気なくそう訊かれた。

 この場にはヴェルしかいないので、それが誰に向けられた言葉なのかは考えるまでもない。

「い、行きます!」

 思わず、そう返していた。

 何故、ロフィンの酒場を出入り禁止にされた翡翠がここにいるのか。どうして自分と組んでくれたのか。

 多大なる疑問はとりあえず保留にして、再び歩きだした翡翠の背中を追い、ヴェルは南門を通り抜けた。

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