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剣の名の下に  作者: 朝倉ひかる
第一章
2/16

第2話

 ロフィンの酒場は、大通りから二本ほど入り込んだ路地の先にある。

 ミタの町には他にも二件、酒場があるのだが、そのどちらよりも古く、小さな店構えだ。

 だというのに、ミタの町で酒場と言えば真っ先にロフィンの酒場が上げられるほど名の知れた店である。

 ただし、そこに出入りするのは何らかの得物を携えた、屈強な男ばかり。

 故に広く知られていようとも、ロフィンの酒場には一般の客はほとんど近寄らない、特殊な場所として人々の間に知れ渡っていた。



 店の扉が開く音がして、視線を入り口に向ける。

 入ってきた狩人が、顔なじみの何人かに賑やかな声で話しかけているのを見てから、向けていた視線を元に戻した。

「どうした? ヴェル」

 突然訊かれて、ヴェルは隣に座るハイヤーの方に顔を向ける。

「え、何がですが?」

「お前、さっきから扉の方ばっかりチラチラ見ているじゃねえか」

「そんなこと……」

 ありませんよ、と答えようとしたが、再び店の扉が開く音がして、ついそちらへと視線が向いてしまう。

 だが、入ってきたのが名前も知らない狩人であることを見て、すぐに目はハイヤーの顔へと戻った。

「誰か待っているのか?」

 別にそういうわけでもなく、そういうつもりでもなかったのだが、内心でずっと気になっていることがつい無意識のうちに行動として出てしまっていたようである。

それを言おうかどうか、やや迷ってから、隠すことでもないので白状することに決めた。

「はい。あの、この前の……銀髪の人なんですけど……」

 それだけで、ハイヤーは誰のことなのか、すぐにわかったようである。

「ああ。翡翠のことか。あいつがどうかしたのか?」

「いえ、そういうわけじゃないですけど……。あんなに若い狩人の人って、初めて見たんでちょっと気になって……」

 ロフィンの酒場に出入りしている狩人の中にはまだ二十代くらいの若者もいるが、それ以上に若い、ヴェルと大して年の変わらない翡翠のような狩人を見たのは初めてで驚きだった。

「ああ、まあ確かにな。でも、狩人は年齢制限なんてないから、実力さえあれば子供だって老人だってやれるさ」

 長らく狩人に関わってきたハイヤーも、翡翠ほど年若い狩人は初めて見たが、狩人という職業を深く知っているためヴェルのようにいつまでも気にはしていなかった。

 先ほどから気になっていたヴェルの挙動の原因を解消し、テーブルに向き返って洋皮紙にペンを走らせようとしたところで、ハイヤーはふと顔を上げた。

「もしかしたら、あいつは東国の生まれかもしれないな」

「東国、ですか?」

ハイヤーと同じように、洋皮紙にペンを走らせかけていたヴェルは首を傾げる。

「ああ。前に各地を旅しているっていう商人に聞いたことがあるんだよ。東国には「翡翠」みたいな変わった名前をつける習慣があるんだとさ」

 それに、とハイヤーは続ける。

「あいつの持っていた刀とかいう剣は、東国造りの業物らしい。まあ、今のご時世にあんなモン持っている奴は東国の中でも珍しいだろうけどな」

 それを聞いて、納得したようにヴェルは頷いた。

 成る程。この地では聞かない発音の名前も、見たことのない髪や瞳の色も、異国の出身だと言われれば納得がいく。

「まあ、本人に聞いたわけじゃねえから、本当のところはわからないけどな」

 ハイヤーが肩をすくめながら小さく笑い、そう言っていると、入店してきた一人の狩人が歩み寄ってきた。

「ハイヤー。仕事は終わったぜ。報酬を貰おうか」

「おお、ジン。帰ったか」

 ハイヤーの元にやってきたのは、ロフィンの酒場に長らく出入りしている、古株の狩人だった。

 厳めしい顔つきの、壮年期も後半にさしかかるであろうその狩人は、他を威圧するような雰囲気を常に漂わせており、その動作にはまるで隙がない。

 これは場数を踏んで経験を重ねた狩人の特徴だ。

 彼らがどれだけの修羅場をくぐり抜けて、今日まで生きてきたのか、その姿で示している。

 古株と呼ばれる狩人たちは、確かに凄いとは思う。

 だが、ヴェルは彼らが放つ威圧感がどうしても苦手で、未だに古株の狩人たちとは一言も口をきいたことがない。

「っとと。いけねえ、証拠の品をまだ確認していなかったな」

 ハイヤーが報酬の入った袋を渡そうとする寸前で思い出したように言うのと、テーブルの上に荷袋から取り出された物が置かれたのは同時だった。

 それは一見すると石を削り上げて出来たような物。

 だが、その形は翡翠の得物である刀という剣の柄部分にそっくりだった。

 ハイヤーはそれを手に取って検分するように見てから、代わりに報酬袋を差し出した。

「確かに受け取ったぜ。ご苦労さん」

 報酬袋を受け取り、無駄口一つ言わずに去っていく古株の狩人。その後ろ姿を見送ってから、ハイヤーはテーブルに向き直る。

「ヴェル、こいつをそっちの袋に入れておいてくれ」

 ハイヤーに言われて、ヴェルは内心ぎくりとした。

 ハイヤーが差し出した物―――それは妖刀の刀身を叩き折られて柄の部分だけになったなれの果ての姿であり、人鬼を倒したという何よりの証拠。

 これを仲介屋に渡すことによって、狩人は報酬を得られることになっている。

 一瞬、躊躇ったが、そっと手を出して受け取ったそれを、足元で口を開けている袋へ投げ入れる。

 もう死んでいる、これはただの抜け殻だと頭ではわかっていながらも、妖刀が手から放れたことにヴェルはほっと息をついた。

 今、手にしていたのは少し前まで人鬼が人を殺すために扱っていたもの。

 そんな血生臭い代物なんて、出来れば触りたくもないが、ハイヤーの手伝いをしている身分ではそんなわがままは言えない。

 手の平を服にこすりつけるように拭いてから、気持ちを落ち着かせるために深呼吸を一つして、書きかけの洋皮紙にペンを走らせる。

 ペンを手に取り、文字を書き出すことに集中していると雑念は頭の片隅に追いやられて、やがて消えていった。

 ヴェルが書いているのは仲介屋であるハイヤーの許に届けられた、人鬼討伐の依頼書の写しだ。

 仲介屋とは、狩人と人々の間を取り持つその名の通りの職業である。

 人鬼の討伐依頼をするにはまず仲介屋へ。というのが今の世の習わしとなっているが、これは過去に金銭問題や自身を狩人と偽った詐欺紛いな輩が出たことに起因している。

 そんないざこざを避けるために仲介屋という存在は必要不可欠であり、人々から直接狩人に依頼を出すことはまずあり得ない、という見解が今や常識として世に広まり浸透している。

 仲介屋に届けられた依頼書―――そこには人鬼による被害状況や被害が出た場所、依頼者の名前や村の名称などが記されており、それらを洋皮紙に書き写した後に適任と認めた狩人に依頼書の複写版が渡される。

 ちなみに原紙である依頼書を渡さないのは、荒くれ者が多い狩人たちが依頼書を綺麗なまま持っていられるはずもなく、これがなくなったら何もかも不明となってしまうためであり、紙よりも丈夫な洋皮紙を使う理由もそこにあった。

 取りかかっていた依頼書の全てを書き写し終えたハイヤーは、洋皮紙と依頼書を横に避けると、今度は上質な白い紙を手に取った。

 ヴェルが手伝っているのは依頼書の写しのみである。依頼が終わった際に依頼主に送る、討伐完了を知らせる手紙は仲介屋であるハイヤーのみが手をかけている。

 真っ白い紙の上に慣れた様子でペンを走らせていくハイヤーの姿は、何度見てもヴェルに感嘆の念を抱かせる。

 ヴェルも字を書くことは得意だが、それでもハイヤーにはまったく及ばない。

 今では二人でこなしている仕事も、元々はハイヤー一人でやっていたのだから、彼がどれだけ多忙でありながら、それをものともしない器用さを持ち合わせているかが窺い知れるだろう。

 ミタの町にいる仲介屋はハイヤーだけだ。昔は他にも何人かいたようだが、ハイヤーが周辺地域で有名になってからは年々その数は減り、今では彼が一人で近場から遠方に至るまで、寄せられる依頼を一手に引き受けている。

 仲介屋という仕事をするには、狩人同様に特別な資格や年齢制限などはないので、最低限の読み書きさえ出来れば誰でもなれるなどと言われているが、人気を博する仲介屋となると話は別だ。

 依頼書を正確かつ素早く書き写す技量。狩人の力量を見極める眼識。他とは一線を画するものを示してこそ、人々からの信頼を集め、それが結果として仕事に繋がっていく。

 以前、ヴェルにそう語っていたハイヤーも、今では人気仲介屋としてその名を馳せているが、ここに至るまでにどれだけの苦労と、それを乗り越えるために努力を重ねてきたのか、ヴェルには計り知れるものではない。

「そういえば、トニオの奴まだ帰って来てなかったな」

 ふと思い出しように、ハイヤーがペンを持つ手を止めて呟いた。

「あいつ……。あんな近場だっていうのに、一体何日かかってるんだよ」

 まったく……と、苛立ちを振り払うようにかぶりを振って、止めていた手を動かし出す。

 人鬼の討伐には特別期限は設けられていないが、それでも無期限というわけではない。

 状況や依頼のあった場所によってかかる時間はまちまちだが、早い者なら四日か五日ほどで仕事を終わらせて帰ってくる。

 ハイヤーのいうトニオという狩人は、ミタの町からそう遠くない場所へと出向いて、もう八日目になるだろうか。

 依頼にあまり時間を取りすぎると、人気仲介屋としてのハイヤーの名誉に関わる。

 ハイヤーが苛つくのも当然であった。

そんな彼の隣で黙々と依頼書を書き写していたヴェルは、最後の一文字を書き終えて、次の依頼書に取りかかろうと顔を上げたところで洋皮紙の残り枚数が少ないことに気付いた。

「ハイヤーさん。洋皮紙が残りこれだけだから、僕、買ってきましょうか?」

 言われて、ハイヤーもそのことに気付いたようだった。

「お、本当だ。じゃあ、すまねえが頼めるか?」

「はい」

 ハイヤーから洋皮紙を買うのに必要な分の金額を受け取り、ヴェルは店を出ていった。



 洋皮紙を買うのに、それほど時間がかかったわけではない。

 大通りにあるいつもの店で、すっかり顔見知りとなった店主と二言三言の言葉を交わして戻ってきただけなのだから、時間にして半刻も経っていないはずである。

 だというのに、ロフィンの酒場内にはいつもと違う変化が生じていた。

「あれ?」

 扉を開けるなり、違和感を覚えたヴェルは思わず声に出して呟いていた。

 違和感の正体―――それは店内にハイヤーの姿がなかったこと。

 いつも彼が座っている席は空っぽで、テーブルの上には依頼書の写しである洋皮紙が、書きかけのまま依頼書と一緒に放置されていた。

「だからぁ、こんなに時間がかかったのは人鬼が中々現れてくれなかったせいで……。違うって! ビビッてたんじゃないんだって!」

 そんな声がした方に視線を向けると、そこには一人を囲んで笑っている狩人たちの姿があった。

 その中心にいるのは、他の狩人に比べるとやや体格の劣る男。名前は……確かトニオだ。

 そういえば、トニオがまだ帰ってこないとハイヤーがぼやいていたのを思い出す。

 その彼が今、この場にいるという事は無事に仕事を終えたのだろう。

 おそらくハイヤーは、慌てて討伐完了の返事を出しに行ったに違いない。

 そういうことは珍しくない。たまにある。

 だからハイヤーが不在というだけならばさして珍しくもないのだが、今日はロフィンの姿も店内になかった。

 こちらはどこへ行ったのか? 店を開けたままどこかへ出かけることは考えられないので、もしかしたら奥の貯蔵庫にでも行っているのかもしれない。

 そう結論づけてヴェルは買ってきたばかりの洋皮紙をテーブルに置き、席に着いた。

 ペンを手に持ち、依頼書の写しを始めようとしたその肩に、ポン、と大きな手が置かれる感触。

 その手が誰のものなのか、振り向かなくても何となく予想はできたが無視することも出来ない。仕方なく少しだけ体をひねって後ろを振り返る。

「よお、ヴェル坊や」

 そこには予想に違わない、人相の悪い男―――リグが立っていた。

 数日前、翡翠に一撃で打ちのめされた後、しばらくは蹴られた腹をさすりながら大人しくしていたが、すっかり回復したらしい。

「今日は一人かい? お父さんはどうしたんだよ」

「……ハイヤーさんは今出かけていますけど、すぐに帰ってくると思います」

 硬い声でそれだけ言うと、、ヴェルはテーブルに向き返った。

 それと同時に、肩から大きな手が離れてほっとした次の瞬間。

 するりと、髪の間に指が滑り込んでくる感触に、ヴェルは椅子を引き倒して弾かれたように振り返った。

 リグは自分の手とヴェルの顔を交互に見ながら、にやりと笑う。

「柔らかい髪だな。男のものとは思えねえ触り心地だ」

 その視線と、ねっとりと耳にねばりつくような声色に、とてつもなく嫌な予感がした。

 ちらりと、二階に続く階段に視線を向け、駆けだしたヴェルだったが、素早く伸びてきたリグの手に細い手首を掴み捕らえられた。

「こりゃあ、また細い手だな。少し力を入れただけで折れそうだ」

「は、放してください!」

 情けなくも震える声で叫び、何とかリグの手を解こうとするが、ヴェルの力ではびくともしない。

 ギリ、と掴まれた手に力を込められる。痛みで顔をゆがめるヴェルに、リグはその醜い顔に下卑た笑みを浮かべた。

「なあ、ハイヤーはお前のことを男だって言っていたが、本当のところはどうなんだよ?」

 一瞬、リグがなにを言っているのかわからなくて、首を傾げそうになった。

 本当のところも何も、最初にハイヤーが説明した通り自分は男でしかないのだが……

 リグの物言いは、まるでヴェルが性別を偽っているのではないかと、疑っているようだった。

 人から聞いただけでは、本当の性別が判断できないと言われているようで、ヴェルは唖然とする。

「せっかくだからよ。この機会に確認させてもらおうか? 俺だけじゃなく、皆も知りたいだろうしな」

「なあ! 皆そうだろう?」と、店内にリグの声が響く。

 店内にいる狩人たちは興味津々といった目をヴェルに向けている。

 誰も、リグを止める者はいない。ヴェルを助けてくれる者もいない。

 何故、こんなことになったのか。考えて、はっと気付いた。

 今、この場にハイヤーはいない。そして店内での騒ぎを何よりも嫌うロフィンさえも。

 これまでに、どれだけ二人に守ってもらっていたか痛感させられると同時に、どれだけ自分が無力なのかも今、この瞬間に思い知らされた。

ヴェルは悔しさのあまり唇を噛みしめ、俯く。

 リグが空いた方の手を伸ばす。しかし、その手がヴェルに触れることはなかった。

驚いたようなリグの短い悲鳴が上がる。

 椅子やテーブルがぶつかり合う音が激しく耳を打ち、顔を上げるとリグが目の前から消えていた。

 リグの代わりに、そこ立っていたのは、旅装のマントを羽織り、頭に被ったフードで顔の半ばほどまでも隠した、長身痩躯の人物。

 翡翠、だった。

 ……もしかして、助けてくれたのだろうか。

 そんな風に思ってしまうのも無理はないほど、見計らったかのような登場である。

「あ、あの、ありが―――」

「おいおい、いきなりやってくれるじゃねえか」

 言いかけた感謝の言葉は、不機嫌そうなリグの言葉で遮られた。

 横倒しになったテーブルや椅子と共に床に座り込む格好で、リグは自分を後方にすっ飛ばしてくれた相手の背中を睨みつける。

 目の前から消えたと思っていたリグは、どうやら窓側付近まで吹っ飛ばされていたらしい。

 どうやったのかは、その瞬間に下を向いていたヴェルには謎であるが……

「過激な挨拶の仕方だな。それとも何か? お前はやたら激しいのが好みなのか?」

 立ち上がりながらリグは下品な意味合いの言葉を投げかける。

 が、それに対して返ってくる言葉も、反応もない。

 無視された、ということに気づいて、リグのこめかみに青筋が浮かぶ。

「いい気になるなよ。この間は手を抜いてやったんだ。その男娼向きの、綺麗な顔に傷がつかねえようにな!」

 そこでようやく、翡翠は口を開いた。が、それは背後で喚くリグに対してではなく。

「あの仲介屋はどうした?」

 いきなり尋ねられて、驚いたヴェルはすぐに返答が出来なかった。

 一方、完全に黙殺されたリグは、屈辱と怒りで顔を赤くして、きつく握った拳をぶるぶると震わせている。

「……どうやらお前は、目上の者に対する敬意ってものを知らねえようだな」

 押さえきれないほどの怒りを声に滲ませながら、リグが床に倒れていた椅子の脚を掴む。

「いい機会だ……。今、この場で俺が、礼儀ってものを教えてやるよ!」

 怒声と共に、リグが翡翠めがけて椅子を投げつける。

 背後から投げつけられたそれを、翡翠は慌てた様子もなくひらりと軽く身を捻って避ける。同時に、ヴェルの腕を掴んで引き寄せた。

 もし、翡翠が自分だけ避けたのなら、確実にヴェルに直撃していただろう椅子は、カウンター席の端にある棚に激突。割れた酒瓶の破片と中身が派手な音を立てて床に散らばった。

 リグは次々と近くにある椅子を手に取ると、翡翠めがけて投げ続け、更にはテーブルまでも投げつける始末である。

 その様を、翡翠に押し遠ざけられて二階へと続く階段に避難していたヴェルは店内に響く破壊音に身を竦ませながら見ている他なかった。

 飛んでくる椅子やテーブルを、華麗とさえいえる動きで避けていた翡翠は、ふっと小さな息を吐くなり、床を蹴ると一気にリグとの距離を詰め、その鳩尾に以前のように膝蹴りを見舞おうとしたが―――

「おっとぉ」

 パシッと音がして、繰り出された膝をリグはいとも簡単に手で受け止めた。

「へっ。馬鹿の一つ覚えだな。同じ手が二度も―――」

 バキィッ! 言いかけたリグの顎を翡翠の拳が打ち上げた。

 仰け反ったリグの体が、そのまま重い音を立てて後ろへと倒れ込む。

 並みの男ならば昏倒していたであろう一撃も、見かけ通り頑丈なリグではそうもいかないようであった。

 殴られた顎を押さえて、しばし黙り込んでいたリグがゆらりと立ち上がる。

「ガキが。こっちが下手に出ていりゃあ、調子に乗りやがって……」

 リグの右手が腰に下げていた斧の柄に掛けられるのを見て、店内の端っこに避難していた狩人たちがぎょっとする。

「お、おい。リグ!」

「やめ―――」

 狩人たちの制止の言葉を遮ったのは、振り下ろされた斧が床を叩き割る激しい音だった。

「ぶっ殺してやる! このガキィッ!」

 完全に頭に血が上ったリグが滅茶苦茶に斧を振り回す度に店内の床が、テーブルが、椅子が、次々と破壊されていく。

 もはやこうなっては誰も止められず、狩人たちは壁に張り付いた状態で店内のあらゆるものが破壊されていく様を見ていることしか出来すにいた。

 もしも、今この場に古株の狩人が一人でもいたならばリグを止めることも可能だったであろう。

 が、不幸にも古株の狩人たちは全員が出払っており、今いる狩人の中には暴れ狂うリグを止めるだけの腕と度胸を持った者は一人もいなかった。

 翡翠は斧を避け、振り払った隙などに拳や蹴りを打ち込むが、怒りが痛みをも凌駕してしまったのか、リグはなかなか倒れない。

 このままいくと店が倒壊するのではないか、誰もがそう思いかけた時、騒ぎを聞きつけたロフィンが何事かと奥の貯蔵庫から出てきて、店内の惨状に絶句する。

 その目が暴れている二人の姿を捉えると、眦を吊り上げて鬼のような形相で叫んだ。

「お、お、お前らぁ! 二人とも出入り禁止だ!」

 雷鳴のように轟いた怒声に、暴走状態だったリグ、それから翡翠もぴたりとその場で動きを止める。

 と、そのとき、見計らったかのように店の扉が開いた。

「うおっ! な、何だ。何があったんだ?」

 短い時間で変わり果てた店内の様子に、用事を済ませて戻ってきたハイヤーは目を白黒させる。

 かくして、騒ぎを起こした当事者二人は、この酒場における「如何なる理由があろうと店内での争いは厳禁!」という掟の下、当面出入り禁止となった。



 日が暮れて、その日の夜。

「いやあ、今日は災難だったな。親爺」

 ははは、と笑いながらハイヤーは手にした酒杯を傾ける。

 ロフィンは不機嫌を絵に描いたような顔で、返事もせずに洗い場で食器を洗っていた。

「しかし、今日一日でこの店もすっかりボロくなっちまって……」

言いながら、ハイヤーは所々に置かれたランプの明かりだけが照らす、決して明るいとは言えない店内を見回した。

 昼間の騒動で店内にあるテーブルの半分と、椅子にいたってはその倍の数が壊れて使い物にならなくなり、撤去されたそれらは今、店の外に寄せ集めて置かれている。

 この酒場が出来た当初から使われてきたテーブルや椅子は、ロフィンが大事に大事にしてきたもので、少し痛んだ程度ならば修理して使っていたが、さすがに原型を留めないほどバラバラになっては直しようがない。

 更に被害はそれだけに留まらず、床にはリグが斧を振り下ろして開けた穴が数カ所、壁には無数の傷がいくつも刻まれ、棚に置かれていた様々な酒瓶はほとんどが割れてしまい、今ではすっかり隙間が空いている。

 テーブルや椅子が減ったことにより、すっかり寂しくなってしまった店内だが、それでも数人の狩人たちが被害を免れたテーブルを使い、椅子に腰掛けて食事や酒を楽しんでいた。

 そんな彼らの話題は、もっぱら昼間の騒動である。

「リグの奴、出入り禁止にされちまったけど、どうするんだろうな?」

「リグならここ最近、続け様に仕事をこなしていたからよ、それで食い繋ぐんじゃねえか」

「あの新入りは?」

「ああ? あいつは男娼の真似事でもすればいいんじゃねえのか?」

 そんな会話が聞こえてきて、ハイヤーの隣で食事をしていたヴェルの手が止まる。

「あの人は悪くないのに……」

 ぽつりと呟いたヴェルに、ハイヤーは視線を向ける。

 騒動の最中にいなかったハイヤーは、その場に居合わせた狩人たちから自分の留守中に一体何があったのか、話を聞いていた。

 狩人たちの証言によると、最初リグがヴェルにちょっかいを出したのが騒動の原因らしい。

 そこへ依頼を終えて戻ってきた翡翠と揉めて―――と、いうより勝手にリグが暴れ出したらしい―――その結果、店がこの有様になってしまった、とか。

 話を聞いただけでも、悪いのはリグのような気がするが……

「なあ、親爺。翡翠は喧嘩ふっかけられて、仕方なく相手してやったんじゃねえのか? 何もあいつまで出入り禁止にしなくても……」

 翡翠を擁護する言葉を口にしたハイヤーに、ロフィンは「ふん!」と荒い鼻息を一つして、背を向けてしまった。

 ……聞く耳持たないらしい。

 今回の騒動の原因であるリグは勿論のこと、翡翠も当面この酒場への出入り禁止を命じられてしまった。

 狩人に仕事を与えるのはハイヤーだが、その拠点となっているこの場所はロフィンのものだ。

 そのロフィンから出入り禁止を受けることは即ち、ハイヤーから仕事を貰えなくなることを意味する。

 過去にも店内で騒ぎを起こし、出入り禁止にされた狩人は何人かいる。彼らはその間、今まで稼いできた蓄えで日々をやり過ごすことになるのだが、何分狩人というのは色々と金がかかる職業である。

 寝泊まりする宿屋の支払いに、日々の食事代、討伐の仕事に向かう旅支度など、いくらあっても足りないくらいだ。

 そんな中で蓄えが出来るのは、よほど頻繁に仕事をこなしている、とびきり凄腕な狩人くらいなものである。

 ほとんどの者が貯蓄まで手が回っていないのが現実だ。

 そのため、出入り禁止中に他の場所へと移動してしまう狩人も少なくはなかった。

 ロフィンが出入り禁止を解除してくれるのは全く彼の気分次第で、被害が大きければ大きいほど長くなる。

 今回は、過去最大の被害状況であるため、どんなに短く見積もっても一月は覚悟せねばならないだろう。

 その間、リグと翡翠はどうやって過ごすのか、気になるといえば気にはなる。

 さきほど狩人たちが言っていたように、リグはここ最近立て続けに仕事をこなしていたから、よほど無駄遣いをしなければ一月くらいは食っていけるだろう。

 一方の翡翠は、どうするのか?

 一応、この町にやって来て早々にくれてやった仕事の報酬は渡したが、あれだけでどのくらい過ごしていけるやら……

 ヴェルは翡翠が出入り禁止になったのは自分のせいだと、気にしているようである。

 確かにことの発端にヴェルが関わっているのかもしれないが、それは断じてヴェルが悪いわけでも責任があるわけでもない。

 だから気にするな、などと安い気休めを言ったところでヴェルの気が晴れないだろうことを、この一年共に過ごしてきたハイヤーはよく知っている。

 そんなヴェルの沈んだ気持ちを晴らしてやるには、やはりロフィンになるべく早く翡翠の出入り禁止を解除してやるように言うべきだろう。

 ロフィンとて、本当は翡翠に非がないことは理解しているはずだ。

 今は店が滅茶苦茶にされたことにより頭にきているせいで聞く耳は持たないようだが、落ち着いた頃を見計らって言ってみよう。

 ハイヤーの考えがまとまったのと、ヴェルが最後の一口を平らげて「ごちそうさまでした」と食事を終えたのは同時だった。

「さて、そろそろ引き上げるか」

 残り少ない酒杯の中身を飲み干して、ハイヤーが椅子から立ち上がる。

 二人が寝起きをしているのは、この酒場の二階にある安宿だ。

 元々酔いつぶれた客を一晩泊めるためだけに作られた、二つしかない狭い部屋へと続く階段に足を向けようとしたその時、店の入り口が開いた。

「ハイヤー、いるか?」

 入ってきたのは一人の狩人。荒れ果てた店内の様子に少々驚いたように目を見開いたが、ハイヤーを見つけるなり小走りで駆け寄ってきた。

「おいおい、今日はもう店じまいだぜ。商売道具も片づけちまったし―――」

「ロダンが死んだ」

 声量を落として告げられた言葉に、ハイヤーの顔から瞬時に笑みが消える。

「何だって?」

「この町に戻ってくる道中、あいつの死体が転がっていた」

 ロダンは、ヴェルがこの町にやってきたのと同じ頃に狩人になった、まだ二十歳を少し越えたばかりの青年だ。

 槍の名手で、その腕前から短い時間でハイヤーや周囲に認められて仕事を与えられたほどである。

 その彼が、死んだ……

「背中に深い切り傷があった。おそらく、背後を取られてばっさりやられちまった後、逃げる途中で生き絶えたんだろう」

「そうか……」

「死体はそのままにしておけなかったから、近くにあった土地へ葬ってきた。……そのことを伝えようと思ってな」

「……すまねえな。帰ってきたばかりで疲れているっていうのに」

 ハイヤーにしては珍しい、殊勝な物言いに狩人は首を振った。

「なあに。ロダンが請けていた仕事は、すぐ他へ回さないといけないんだろう? あんたが干されたら、こっちも困るからな」

 狩人の言葉にハイヤーは苦笑で返したが、その笑みに力はなかった。

「報酬は明日、貰いに行くからよ。今日はゆっくり休ませてもらうぜ」

 それだけ言って、狩人はハイヤーに背を向けると店から出ていった。

「……だから言ったじゃねえか。調子に乗るなって」

 誰に言うでもなく、ハイヤーが呟く。

 ここ最近、ロダンは次々と仕事をこなして好調な様子だった。

 あまりにも順調すぎて、やや驕り気味な態度を取ることが多くなり、そんな彼を「調子に乗るな」とハイヤーは何回も諫めていたが、ロダンは聞かなかった。

 自分は強い。自分が死ぬはずがないと、過信を抱いていたのだろう。それが隙を生み、その結果命を落とした。

 狩人、などと名乗っていても人鬼にとって狩人は天敵というわけではない。

 逆に人鬼が狩人を狩ってしまう場合とて珍しいことではないのだ。

 今回のように……

 狩人は命懸けの職業だ。人鬼に立ち向かった際に己の命を失う場合も、覚悟しなければならない。

 ハイヤーとて、それは充分すぎるくらい承知してはいるが、やりきれない思いが胸の内を渦巻いていた。

 ロダンはまだ死ぬには若すぎた。

 あの仕事を、ロダンに任せていなかったら。

 もっと厳しく、彼を諫めていたら。

 ロダンは死ななかったのではないか……

 そう思うだけで、やりきれない思いは爆発し、ハイヤーは拳をテーブルに叩きつけていた。

 ガンッ! という音を伴った衝撃に、テーブルの上に並んだ食器同士がぶつかり合い、甲高い音をいくつも鳴らす。

 背後にいたヴェルが驚き、小さく悲鳴をあげたのが聞こえて、はっと振り返った。

「す、すまねえ。ヴェル」

「い、いえ……」

 ぎこちなく笑い、ヴェルが首を横に振る。

「僕、もう寝ますね。……お休みなさい」

 それだけ言うと、ヴェルは逃げるように二階へと上がっていった。

 いい年をして物に当たるなど情けない。

 額に手を当てて、ため息を吐いていると、横から声がかかる。

「ハイヤー」

「あ? 何だよ」

「食器、割れてないだろうね?」

 テーブルや椅子だけでなく、食器まで割られたら堪らない、とばかりに、険しい顔でテーブルを覗き込むロフィンに、ハイヤーは二人分の食器を重ねて目の前に突き出してやった。

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