第6話
「本当に、行くのかい?」
ここ数日続いた雨天が嘘のように、晴れ渡る青空の下、町の入り口まで見送りに来てくれた留衣が、心配そうに声をかけた。
留衣の前に立つ翡翠は小さく、だが決然と頷いてみせる。
「修羅と、約束したから」
その名を聞いた途端、留衣の顔が僅かに歪む。瞳に浮かんだ悲痛の色を悟られまいとばかりに、翡翠から視線を逸らした。
「まったく、馬鹿だよ。あいつは……」
顔を合わせる度に交わし合っていた憎まれ口。しかし、それと同じくらいの憎まれ口を返してくる相手は、もういない。
ともすればこぼれ落ちてしまいそうな涙を、唇を噛んで堪えていた留衣が、不意に身を屈めて翡翠を抱きしめる。
「辛くなったら、いつでも帰っておいで……」
「……ありがとう」
短い言葉に、感謝しきれないほどの思いを込めて。
けれど自分は、もう二度とこの町に帰ってくることはないだろうと、翡翠は思った。
抱きしめていた留衣が腕を解くと、翡翠はきびすを返して歩き出す。
一度も振り向くことなく、立ち止まることなく、小さくなっていくその後ろ姿を、留衣は見えなくなるまで見送った。
これからどこへ行けばいいのか、何をすればいいのか……まだ、明確には何も決めていない。
けれど翡翠には迷いも不安もなかった。
だって、自分は……いつ如何なる時も、決して一人ではないのだから……
視線を落とすと、そこには身の丈に全く合わない、一本の刀があった。
使い込まれた柄をそっと撫でる。かつて、その柄を握っていた人物に思いを馳せるかのように。
一瞬の追想の後に、決然と顔を上げた翡翠は真っ直ぐに前を向き、果てなき道のりへと歩きだした。
「―――翠。翡翠」
間近から自分を呼ぶ声が、意識を浮上させる。
閉じていた瞼をそっと開けると、優しい栗色の瞳と視線がかち合った。
「珍しいね、翡翠が寝過ごすなんて」
ふわりと、陽だまりのように穏やかな笑みを浮かべる少女―――のように見える少年、ヴェル。
ゆっくりと首を巡らせて、地面に置かれたランプの光が照らし出す、それほど広くはないが、窮屈と言うほど狭くはない空間を見回した翡翠は、ここに至るまでの経緯を思い出す。
昨日の夕暮れ時、突然降り出した雨。
近くに村などの人里はおろか、雨宿り出来そうな場所すら見つからず、途方に暮れていた時、偶然見つけた洞穴。
中を覗き込めば、二人が入っても充分な広さがあり、迷うことなく一夜をここで過ごすことに決めた。
……随分と、懐かしい夢を見たものだ。
遠い昔の記憶を奥底から呼び覚ましたのは、きっと一晩中降りしきっていた雨音のせいだろう。
ぼんやりとそんな風に思いながら、翡翠は目の前にいるヴェルの顔をまじまじと見つめた。
「翡翠?」
小首を傾げるヴェルの頭に、無造作に伸ばした手を置くと、そのままくしゃくしゃとかき混ぜるように撫でる。
「えっ、わっ!」
いきなりのことに、驚きの声を上げるヴェル。
時間にすればほんの僅かな間に、柔らかな栗色の髪を盛大に乱した手を、すっと退かす。
呆気にとられた表情で、瞬きを繰り返すヴェルを見た翡翠は、思わず滅多に浮かべない笑みを、その口元に浮かべた。
―――修羅。あなたもよく、私にこうしていたな。
記憶の中にある面影に向けて、そっと言葉を贈った翡翠の視線が、ふとランプの光とは違う明かりの方へと向けられる。
出入り口となる洞穴の裂け目からは、眩しい光が内部へと差し込んでいた。
どうやら雨は一晩のうちに上がったようである。
座り込んでいた姿勢から立ち上がり、洞穴を出ていく翡翠の後を、髪を乱されたままのヴェルは慌てて荷物をまとめてから追う。
空は晴天だった。雲一つない、青空が広がっている。
雨の日は終わった。ならば再び、自分は歩きだそう。遠い昔に、修羅と交わした約束を果たすために……
未だ見果てぬ旅路の先―――だが、かつて一歩を踏み出した時と同じく、翡翠には迷いも不安もない。
何故なら自分は―――
腰に差した刀の柄にそっと触れる。隣に立つヴェルの横顔を見つめる。
何故なら自分は、決して一人ではないのだから―――
視線に気付いて顔を上げたヴェルが、小さく微笑む。
その笑みを見届けた翡翠は、前を向き、ヴェルと並んで歩きだした。