第1話
初めて投稿します。一応見直しはしっかりやったつもりですが、誤字脱字など見つけたらご一報ください。
ソレを最初見つけたとき、男は酔いつぶれた酔漢か何かだと思った。
しかし、数歩近づいたところで、思い違っていたことに気付く。
その場に座り込んでいたのは……一人の子供だった。
時刻は夕暮れ。所用を済ませて塒と定めた場所への帰り道、狭い路地を通っていた時である。
暗がりと、俯いているせいでどんな顔をしているのか、性別すら判断し難いが、かなりやせ細っていることと汚れていることだけは見て取れた。
この町の人間ではない。
定住の地としてこの町にそこそこ長い年数住んでいるが、身寄りのない子供が路頭に迷ったところなど、見たこともないし、聞いたこともない。
おそらくは、町の外から流れ着いたのだろう。
そう、思い至ったところで、男はその場を後にした。
自分とは何の繋がりもない孤児を、助ける義理はない。
何より、男は多忙を極める身だ。
一時の同情で救いの手を差し伸べたところで、その後面倒をみてやれるはすもない。
思考はそう割り切っているというのに、しかし男の足は、十歩も行かないところで止まる。
立ち止まり、しばし葛藤するかのように動きを止めた後、ため息一つ。
自分には、子供の世話をする余裕なんて無い……
そのことを充分に理解していながら、男は踵を返し、来た道を戻っていった。
「それじゃあ、仕事を配るぞ!」
その一声で、店内に屯していた、いずれも屈強な肉体を持つ男たちは一斉に動き出した。
男たちが集まったのは、酒や料理を提供する調理場との間を仕切ったテーブル席。その前にいる一人の男の許。
年は三十代半ばにさしかかったくらいの、黒髪に鳶色の瞳という、この町では珍しい組み合わせを持つその男の手には、何枚かの洋皮紙。
集まった男たちの目当ては、その洋皮紙である。
「ハイヤー、そろそろ仕事くれよ。干上がっちまうぜ!」
一人の男が、人垣をかき分けるように前に出てくるなり、両手を合わせて頼み込んできた。
しかしハイヤーと呼ばれた男は無視して、その後ろにいた長身の男に洋皮紙を渡す。
「なあ、ハイヤーってばよ」
「……」
まったく取り合おうとはしないハイヤーを見て、男は諦めたようにため息を吐いて、くるりと背を向ける。
そして立ち去り際に、
「ちぇ。何だよ。ケチなお父さんだな」
吐き捨てられたその言葉に、ハイヤーのこめかみがぴくりと震えたが、それだけに止まった。
何人かは洋皮紙を貰い、何人かは諦めて去っていく。
そうやって、徐々に人の輪は小さくなっていった。
「これで最後……と。よし、後は書き上げたら渡していくからな」
最後の一枚を渡し終えて言った途端、しつこく残っていた数人から不満の声が噴出する。
「ちょっと待ってくれよ!」
「俺、まだ貰ってないぜ!」
「何であいつに渡して俺が貰えないんだよ!」
「あのなあ、お前ら……」
今にも掴みかかってきそうな強面の男たちに迫られても、ハイヤーは平然と……というより、呆れ顔で言った。
「仕事もらいたけりゃ、それなりの実力を見せてみろっての。そうだな……アインにユダ、それにザキス。こいつらに挑んで勝てたら最優先で仕事をくれてやるぜ」
酒場に出入りする者の中でも指折りの実力者の名前を出された途端、男たちは一様に黙り込んだ。
言い返したいが、言い返す言葉を持ち合わせていない。
そんな不満顔のまましばらくハイヤーを睨むように見ていたが、やがて諦めたように一人、もう一人と背を向けて立ち去っていく。
そして立ち去り際に、
「相変わらず腹立つな、あのお父さん」
「言ってやるなよ、きっと育児で疲れてんだよ。あのお父さんは」
「でもよ、もう少し言い方ってもんがあるだろ。お父さんなんだからよ」
悔し紛れにこぼしていくそんな言葉を耳で拾う度に、ハイヤーのこめかみはぴくぴくと痙攣を繰り返す。
「お前ら、いい加減に……」
そして遂に、我慢が限界に達しかけた時である。
「ハイヤーさん。昨日届いた依頼書、それと討伐が終わった分の依頼書の整理、終わりました」
筋骨逞しい男ばかりが集うこの場所には不似合いな声に、ハイヤーはそちらへと視線を向けた。
そこにいたのは一人の、可憐な容姿の持ち主。ハイヤーの隣の席に腰掛けて、整頓したばかりの手紙の束を差し出している。
その顔を見た瞬間、爆発寸前だったハイヤーの感情は、すとんと胸の奥に引っ込んだ。
「お、おう。じゃあ、俺は討伐が済んだ分の返事を書くから、お前は依頼書の写しを頼む」
「はい」
頷いて、手紙の束がテーブルに置かれた時である。
「よお、ヴェル坊や。今日もお父さんの手伝いかい? 偉いねえ」
ぽん、と細い肩に手を置かれて振り返った背後に、人相の悪い、一際大柄な男が立っていた。
「リグ! そいつに汚ねえ手で触るなって、言っているだろうが!」
ハイヤーに乱暴に手を振り払われても、リグと呼ばれた男は悪びれた様子はなく、ひょいっと肩をすくめるだけだった。
「はいはい。まったく、過保護なお父さんだぜ」
ブチッ。
こめかみの辺りでそんな音が聞こえたような気がした。
「だから! 俺をお父さんと呼ぶんじゃねえ!
ハイヤーが怒鳴ると、周囲からどっと笑い声が上がった。
まったく似通ったところがない容姿が証明しているとおり、二人は親子などではない。赤の他人同士だ。
にもかかわらず、周りから時折「お父さん」などと呼ばれている。
それはこうしてちょっかいを出してくるリグのような輩から守っている姿が、正に「お父さん」だから、らしい。
「大丈夫か、ヴェル」
「は、はい」
ぎこちなく笑みを浮かべてヴェルは頷いた。テーブルに向き直り、洋皮紙にペンを走らせ始める。
これでも最初の頃、リグにからかわれて硬直してしまっていたことを思えば、だいぶマシになった方だろう。
慣れる、とまではいかないが、少しは耐性がついたようである。
リグが離れていくのを見て取った後、ハイヤーも自分の席に腰掛け、洋皮紙にペンを走らせようとしたところで、ちらりと隣に座るヴェルを盗み見た。
柔らかそうな栗色の髪と、同色の瞳。肌は透き通るように白く、その体つきは小柄で華奢だ。
年齢はぱっと見ただけで判断すると十を二つ三つ超えたくらいにしか見えないが、ヴェルは今年で十六歳になる。
だが、なによりも驚くべきところは、この美少女にしか見えない容姿の持ち主が実は男であるということだ。
十六歳にもなれば身体も逞しくなり、顔つきも男らしくなってくる頃なのだが、今のところヴェルにそういう変化は一向に見られない。
むしろ、このまま年齢を重ねても男らしく成長するのではなく、今の容姿が少し大人びた風になるだけではないかとさえ思えてしまう。
本人は気にしているようなので、声に出しては言えないが、それだけヴェルはどこをどう見ても男には見えない。
少女めいている、というのではなく、ハイヤーや店内にいる男たちと同じ生き物であることが信じられない。むしろ何かの間違いではないかとさえ思える。
そんなヴェルがある日突然ハイヤーの仕事を手伝いたいと言い出したときは、最初驚き、正直嬉しく、だが躊躇った。
読み書きは得意らしいので、手伝いくらいならヴェルにでも出来ないことはないのだが、ハイヤーが懸念したのはそういうことではなく。
なにも知らない子羊を狼の群の中に放り込んだらどうなるかということで……
案の定、最初の数日は仕事にならないほどの騒々しさとなり、この分では早々に音を上げるだろうと思っていたが、意外にもヴェルは芯が強いらしく、弱音や不満を口にすることは一切なかった。
そうして、ハイヤーの隣にいるのが当然のような光景として周囲が見慣れた今では、以前のように下品な言葉を投げつけたり、気安く触ろうとしてくる輩はほとんどいなくなった。……若干一名を除いては。
先ほどのリグという男だけは、未だに無駄な不屈の精神で何かとちょっかいを出してくるので、もはや今日のようなやりとりは日常茶飯事だ。
その、あまりのしつこさに辟易しつつも、相手がその気ならハイヤーは徹底抗戦の構えでいる。
それが、今や優秀で頼りになる相棒を守るためであり、なによりも一年前、道端に座り込んでいたヴェルを拾ったハイヤーの責任でもある。
周囲が聞いたら「やっぱりお父さん」と笑いを含んでいわれそうな決意を新たにしていると……
店の扉が、静かに開かれた。
店の扉が開く音に、何気なく視線を向けたヴェルはペンを持つ手を止めた。
そこに立っていたのは、旅装のマントを羽織った背の高い人物。
その人物が店内に一歩踏み行った途端、そこらかしこで交わされていた男たちの雑談が止み、店に静寂が訪れる。
その場にいる全員から注目されているというのに、さして気にした風でもなく、澱みない歩調はハイヤーの傍までやってきたところで止まった。
「仕事を貰いたい」
開口一番に放たれた、短い言葉。
何やらペンを握りしめ、自分の世界に入っていたハイヤーはそこでようやく、傍に立っている人物の存在に気付いた。
はっとしてそちらに視線を向けるなり、思わず目を眇める。
見覚えのない人物である。というか、フードを目深に被っているため、顔立ちも年齢もよくわからない。
だが、先程聞こえた低音一歩手前の、耳に心地よい声。
張りのある、よく通るその声から、この人物がまだ年若いことだけは窺い知れた。
「おいおい、いきなり仕事をくれとは、随分と態度のでかい新入りが入ってきたなぁ!」
静まり返っていた店内から、そんな声が一つ上がる。
「まずは名前くらい名乗ったらどうなんだ?」
「そうそう。それにどんな面しているのか、お披露目しろや!」
「まあ、見せられねえような面構えだったら、無理にとは言わねえけどな」
次々に野次る声が上がり、そこに笑い声も含まれ始めた。
そんな男たちの要望に応えるかのように、そちらへと向き返ったその人物は、フードに手をかけて後ろに下ろす。
ざわっ、と大きなざわめきが一度起こった後、再び店内が静まり返る。
フードの下から現れた髪は、眩い輝きを放つ銀色。
理想的に整った切れ長の双眸に浮かぶ瞳も、目にかかるほど長めの前髪と同じ色だ。
だが、理想的に整ったのは、双眸だけではない。
すっと通った鼻筋も、薄くて形のいい唇も、抜けるように白い肌も、すべてが整いに整った、端正な容貌。
年は二十に二つ三つ足らないくらいだろうか。
ヴェルを除いてこの場にいる誰よりも年若い。
「へえ、こいつは……」
「別嬪さんじゃねえか」
ヒュウ、と誰かが囃し立てるかのように口笛を吹いた。
「よう、あんた。名前は何ていうんだい?」
「……翡翠だ」
問われて、その人物―――翡翠が答えた。
「翡翠だあ?」
「変な名前だな」
聞き慣れない発音の名前に、男たちはしきりに首を傾げる。
「翡翠、ねえ……」
ハイヤーは顎に指を添えて、目の前に立つ翡翠の姿を無遠慮なほど見つめた後、訊いた。
「で、仕事が欲しいんだって?」
黙って頷く翡翠に、ハイヤーは苦笑を浮かべる。
「悪いがな、俺は実力のわからない新入りに仕事はやらない主義なんでね」
その言葉に賛同するように、周囲からは「そうだ、そうだ」という声が上がった。
「そうだぜ。この仕事は遊びじゃねえんだ」
「その綺麗な顔に傷をつけたくなかったら、さっさと帰りな」
男たちはヘラヘラと笑いながら、翡翠にからかいの言葉を投げつける。
ハイヤーは、やれやれとばかりに肩をすくめた。
これが、この店での新入りに対する歓迎の仕方だった。
あからさまな嫌みや挑発に大抵の者はムキになり、食ってかかるのだが、翡翠は落ち着き払って黙っているだけである。
その様子を見て、ハイヤーは一つの確信を持った。
「……お前、まるっきりの素人じゃねえな。歴とした狩人なんじゃねえのか?」
ハイヤーにそう訊かれて、翡翠が首を縦に振るのを見た男たちは信じられない、とばかりにどよめいた。
狩人―――
その名の通り、狩る者の呼び名。
だが、今の時代、狩人と呼ばれる者たちが狩るのは鹿や狐などの動物ではない。
彼らが狩るのは人々を襲い殺める、人間にとって害悪以外何者でもないモノ。
人鬼と呼ばれている存在だ。
仲介屋であるハイヤーと、その手伝いをしているヴェル、そしてこの酒場の店主以外はここに集まっているのは全員狩人だ。
皆が皆、鍛え上げられた屈強な肉体と、一般人とはどこか違う雰囲気を漂わせている理由は、それ故だった。
「それはそうと。なあ、あんた得物は何を使っているんだい?」
男たち―――狩人の中の誰かが素朴な疑問を投げかける。
狩人の商売道具といえるもの、それは武器だ。
剣でも、槍でも、弩でも、何だっていい。
人鬼を倒すために狩人は何らかの武器を必ず携えている。
見たところ、翡翠はそれらしいものを持っていない、丸腰のように見えたのだが……
「もしかして、色仕掛けが武器とか言うんじゃねえだろうな?」
誰かが発した揶揄に、どっと笑いが起こる中、翡翠がマントの左側をそっとめくり上げて見せた途端、
「っ!」
ガタン! と椅子がいくつも倒れる音がして、笑い声が一瞬に消える。
大半の狩人は立ち上がり、それぞれの得物に手をかけていた。
その場の空気を一変させた理由は、翡翠のマントの下、腰の左側に括りつけられている一本の剣。
緊張に空気が張りつめる中、翡翠は柄に手をかけると一気に鞘から引き抜いた。
同時に狩人たちが飛びかかろうとした瞬間。
「待て!」
ハイヤーの鋭い一声に、狩人たちの動きが止まる。
「よく見てみろ」
顎で指し示された方―――翡翠の手が握っている剣を見て、狩人たちは呆気に取られた。
人に害なす人鬼は、刀身に真紅の陽炎を纏う、妖刀と呼ばれる変わった形の剣を持っている。
この場にいる何人かの狩人が持つ、厚みのある両刃の剣とは違い、刃の形状は片刃で細身。
一見すると細剣の類に似ているが、それは「突く」のではなく、あくまで「斬る」ことを目的とした造りになっている。
翡翠が今、手にしているのは、その人鬼が持っている妖刀と酷似したものだった。
だが、そこには真紅の陽炎などは存在せず、研ぎ澄まされた鋼の刃がそこにあるだけだ。
「……まったく、紛らわしいもの持ってんじゃねえよ」
誰かがため息混じりに呟く。狩人たちが各自の得物から手を放して引き倒した椅子を元に戻す中、翡翠は流れるような動作で刀を鞘に収めた。
彼らの頭の中では妖刀を持っていることはつまり、狩るべき対象という図が出来上がっている。とっさに飛びかかろうとしたのはもはや条件反射で、仕方のないことだった。
狩人たちが椅子を元に戻し、腰掛けたところでハイヤーが切り出した。
「それで、だ。さっきも言ったが、俺は実力のわからない奴に仕事はやらねえ。その理由は……素人じゃねえなら、わかるだろ?」
狩人とは、人鬼を狩るために戦う、命懸けの職業だ。
もしも実力のない者が仕事を請けようものなら、その先に待っているのは死のみである。
「つまり、お前が俺から仕事を貰うには……」
「私の実力を見せればいいというわけか」
「その通り」
にやりと笑って、ハイヤーは頷いた。
「新入りさん。言っておくが店の中で暴れたら、即出入り禁止だからね」
横から言葉を挟んだのは、カウンター席のテーブルを挟んで、ハイヤーの向かい側に立っている白髪と白髭の老人。この酒場の老店主であるロフィンだった。
「ここはれっきとした酒場だ。闘技場じゃあない。やるんだったら外でやっておくれ」
客は歓迎するが、店内で騒ぎを起こす輩は叩き出すぞ、といわんばかりの気迫を込めてロフィンは翡翠に警告している。
「まあ、そういうわけだからな。お前の実力は外で見せてもらうぜ」
苦笑して、ハイヤーはロフィンが掲げる鉄則が存在しない、外へと続く扉を指さした。
店の中に屯していた者たちは、店主のロフィンを除いて全員、店の外へと移動していた。
その顔は一様に、これから始まる出来事への好奇と愉悦を隠せないでいる。
「それじゃあ、誰を相手にするかな」
ハイヤーが集まった狩人たちの顔を見回していると、
「ハイヤー、俺にやらせてくれよ」
名乗りを上げたのは、人相の悪い、大柄な男―――リグだった。
実力の程をいえば、その大柄な体躯に見合った怪力の持ち主で、凄腕とまではいかないがそれなりに腕の立つ狩人である。
「よお、相手はあいつでも構わないか?」
集まった狩人たちから離れた場所、店の前の通り道に一人立つ翡翠は、ハイヤーの言葉に黙って頷いた。
リグが前に進み出て、翡翠と向かい合うようにして立つ。
二人の間にある距離は、大股で五、六歩といったところだ。
「おい、リグ! その綺麗な顔に傷はつけてやるなよ」
「男娼に転職した時に客が取れなくなるからな!」
野次混じりの声援に、リグは笑みを浮かべながら片手を上げて応えて見せた。
「翡翠、とか言ったな? 構えろよ」
言って、リグは腰に下げていた得物に手をかける。
リグの得物は斧だった。しかし、それは薪割りに使うものなどよりも数段に巨大で、持ち前の怪力で振るおうものならば牛の首すら一撃ではね飛ばせそうな代物である。
腰を落とし、両手で持った斧を地面に触れそうなほど低くして臨戦態勢を取るリグ。それに対して、翡翠はマントの下に隠れている得物に触れることなく、言った。
「その必要はない」
「何だって?」
「私がこの刀を抜くのは、仕事の時だけだ」
その言葉に唖然とした後、リグは声を上げて笑った。
「ははは! じゃあ、お前は素手で俺と戦うっていうのか?」
「そのつもりだ」
それを聞いたリグはひょいっと肩をすくめてから斧を地面に突き立てた。
「なら、俺も素手でやらせてもらうぜ」
バキバキと拳を鳴らして、リグが徒手空拳で構える。
対する翡翠は、構えることもせずに無防備とも見える状態で立っているだけだ。
「ハイヤーさん、止めたほうが……」
ヴェルは不安と心配で落ち着かずにおろおろとしていた。
数日前、まだ若い一人の青年が狩人になりたいとやって来た時のことが思い出される。
実力を計るため、その時相手になったのもリグだった。
青年は得物の剣をあっという間に折られて、丸腰になったところを殴る蹴るで暴行され続け、泣きながら逃げ帰ったということがまだ記憶に新しい。
体格で圧倒的に差があるというのに素手で戦うなんて、翡翠もあの青年と同じ目に合うのではないかと、気が気ではなかった。
そんなヴェルとは対照的に、隣に立つハイヤーはまるで心配などする様子はなく、ひょいっと肩をすくめる。
「大丈夫だって。心配はいらねえよ」
「で、でも、この前の人は……」
「この前の奴はまるっきりの素人だったからな。狩人に憧れているだが何だか知らねえが、夢を語るだけで食っていけるほど甘い仕事じゃねえよ。本当なら命取られているところを、骨の二、三本で済んだんだ。安いもんだぜ」
けど、とハイヤーは続けて言う。
「あいつは……翡翠は違う。本人も言っていたが、奴は正真正銘の狩人だ。この間のようにはまずならねえだろう」
だから心配ないと、ヴェルに向けてハイヤーは笑ってみせた。
「まあ、見ていろ」
言って、ハイヤーは対峙すリグと翡翠の方に視線を向ける。
「やっちまえ、リグ!」
「本物の狩人の実力、見せてやりな!」
「ここはテメエなんざ場違いだってこと、わからせてやれ!」
集まった狩人たちから、歓声と野次が飛ぶ。
はたから見ると、その様子は実力を計るための手合わせというより、ゴロツキどもの喧嘩のようである。
「安心しな。手加減はしてやるからよ」
余裕の笑みを浮かべてじりじりとにじり寄っていたリグが、突如吼えながら翡翠に向かって走り出す。
あっという間に距離を詰めたリグが巌のような拳を振り上げたその時。
今まで微動だにしなかった翡翠が一歩を踏み出し、そして―――
「ごぉうっ!」
リグのうめき声が一つ、その場に上がった。
今の今まで熱狂していた狩人たちが見たのは、目を見開き、拳を振りあげた状態で静止しているリグと、その鳩尾部分に膝をめり込ませた翡翠の姿。
誰もが予想しなかった展開に、狩人たちは言葉を失い、辺りはいきなり、しんと静まり返った。
すっと、翡翠が身を引くと、リグがその場に両膝をついてうずくまる。
「お、おい。リグ……」
狩人の中の誰かが呼びかけるが、リグは答えない。
いや、答えられない状態であるということを悟った狩人たちの顔から、一切の笑みが消えた。
「ほらな。言った通りだろう?」
隣で、ハイヤーだけはこの展開を予想していたかのように、得意げに言った。
勝負がついたのは一瞬。
接近したリグが拳を振るうよりも速く、翡翠が繰り出した膝蹴りの一撃で終わってしまった。
リグがうずくまり、翡翠が立っている。明らかすぎる勝者と敗者の姿。
目の前の光景が信じられなくて、ヴェルはじっと翡翠を見つめていた。
そんな視線に気づいたのか、翡翠がヴェルの方へと顔を向ける。
翡翠の銀の瞳と、ヴェルの栗色の瞳が、かち合う。
視線を交えただけの、だが、二人が初めて互いを認識し合った、瞬間だった。