死神のお仕事
行き交う人々でごった返す休日正午の繁華街。立ち並ぶ様々な料理店の厨房から流れてくる香ばしい匂いは、人々の空腹を刺激して止まなかった。多種多様――それこそ、和食から洋食、中華まで、洋の東西を問わない店の数々は、食事時にこそ眩いばかりの光彩を放っていた。
家族連れや恋人たちが、どのお店で昼食を過ごすのかと顔を付き合わせて悩んでいる。せっかくお金を出して食べるのなら、美味しい料理がいい。腹に入れば同じでも、その料理を舌で味わう瞬間こそが重要なのだ。
空腹と格闘しながらお店を吟味する人の群れの中、ひとりだけ異彩を放つ男がいた。いや、異彩というほどもない。平日の昼間ならば風景に溶け込んでいたに違いなかった。休日であったとしても、繁華街でさえなければ、特に目に付くこともなかったかもしれない。
男は、スーツを身に纏っていたのだ。淡いブルーのスーツ。新調したところなのか、スーツは真新しく、汚れ一つ、埃一つ付いていなかった。
ひょろ長いとしか形容しようのない男だ。身長が一八〇センチ以上あるのは間違いなく、その上細身であった。贅肉がないだけではなく、筋肉自体少なそうではあった。モデル体型と言えば聞こえはいいのだろうが、彼を見る限りはそうとは言い切れない、そんな雰囲気を纏っていた。
ブルーのスーツはそれだけで目立ったが、普通、それだけでは衆目を集めることなどできない。
彼の奇異な行動が、人々の好奇の眼を引いていたのだ。
彼は、ガラスのショーケースに映る自分の姿に満足げな笑みを浮かべていたのだ。ショーケースの内側にはラーメンやチャーハンのサンプルが並んでいるのだが、彼の目には入っていないようだった。ガラスに映る自分を見つめながら、顔の角度を変えたり、腕を組んだり、膝を曲げたりしてなにかしらポーズを決めていた。
まるでファッションショーのようだ。
傍から見れば異様な光景に違いない。
だが、だれも彼に近寄ろうとはしないし、ましてや声をかけようというものさえいない。
当然といえば当然だ。
見ず知らずの男がラーメン屋さんのショーケースを姿見にしていたからといって声をかけるなど、普通に考えればあり得ない。余程の物好きか、そうでなければ、道に迷った人が血迷った挙げ句彼に道を尋ねるくらいのものだろう。
赤の他人なのだ。だれがどこでなにをしていようと、自分たちに迷惑さえかけなければどうでもいい。それは無関心故、ではない。見知らぬ他人同士、深く干渉し合わないというのは、この人間社会を生きていく上で必要不可欠な要素だった。暗黙の了解といっていい。
その暗黙の了解によって、男の孤独なファッションショーは徐々にエスカレートしていくのだが。
周りには、気味悪がるよりもむしろ面白そうに成り行きを見守ろうとする人々のほうが多かった。無論、一定の距離を取って、だ。中には彼を指差して馬鹿にするものもいたし、空腹を満たすほうが大事だと言わんがばかりに彼の背後を通り過ぎていったものもいた。
そんな異様な空気にわずかながらも亀裂が入ったのは、スーツの男が滑稽なファッションショーを絶賛開催中のショーケース前に一組のカップルが歩み寄ったからだ。
十代の少年少女。高校生くらいだろうか。いかにもデートいった風情で、精一杯のオシャレをしていることは想像に固くなかった。まだまだ初々しい雰囲気を醸し出してはいたものの、その可憐な空気は今にも壊れそうだった。
少女の顔つきはやや険しく、少年に無理やりラーメン屋の前に引っ張り出されてきたのがその距離間でわかった。手を繋いだままで取ることのできる最大の距離に、少女は立っていた。
少女がスーツの男に近づきたくなかったのは、だれの目にも明らかだ。黙然とファッションショーを続ける男に近づくということは、それだけで周囲の好奇の視線に曝されることになるのだ。こんなことで注目を浴びたくないと思うのは、少女だけではあるまい。
(ね、やめよ?)
「ここのラーメンが美味しいんだって!」
少女の囁くような声に大声で応える少年は、無神経極まりないというべきか。少女の顔はいよいよ険しさを増していくのだが、少年はそんなことにまったく気づいていないようだった。
少年は、少女の細い手を強く握ったまま、ショーケースの中を覗き込んだ。ラーメン専門店のメニューを見事に表現したサンプルが無数に並んでいる。醤油に味噌、とんこつにチャーシュー、チャーハンに餃子……客を悩ませるには十分な品揃えではあったかもしれない。
と、そのとき、群衆にどよめきが走るほどの異変が起きた。
「そうそう、ここのラーメンが美味いんだよ。行列ができるほど人気があるわけじゃないけど、だからこそ、いつでも食べにこられるんだよね」
寸前まで、ひとりでファッションショーを開催して悦に入っていた男が、少年の話に食いついてきたのだ。少女はぎょっとしたが、少年の方はというと、スーツの男の反応に目をきらきらを輝かせた。少女としてはたまったものではなかっただろう。
そして、成り行きを見守る群衆にとっては、この新事態は歓迎すべきものであった。もはや見世物と化していたひとりきりのファッションショーが幕を閉じた先、一体どのような光景が繰り広げられるのか。
繁華街の人々は、空腹を堪えながらも、男と少年の様子を固唾を呑んで見守っていた。
「ああ、わかりますか!」
「わかるとも、わかるとも。しかし残念だよ」
「どうしたんです?」
「いやね、このスーツ、新調したばかりなんだよ。妻に土下座してまで買ってもらったものだからさあ、ラーメンの汁なんかを飛ばした日にゃあ目も当てられないだろう?」
男は、心の底から無念そうに首を振った。大袈裟な身振り手振りは、まるで大根役者の三文芝居を見ているような気分にさせる。それだけで観衆には大ウケだろう。当事者である少女にとっては、これほど辛いこともないが。
だったらこんなところにそんな格好で来るなよ――少女は、目だけで、間違いなくそのように突っ込んではいたのだが、男に届くはずもなかった。視線だけで思いを伝えられるような人間などそうはいないし、もし眼力だけで突っ込むことができたのだとしても、男はさして気にしなかったかもしれない。
男は、少女の存在など端から無視しているようだった。少年の話題に乗っかって会話を始めたのだから、当然といえば当然なのだが、少女としては面白くはないだろう。男と関わりたいわけではないし、むしろ関わりたくないのだが、無視されるのはこれはこれで癪に触る。かといって、これ以上、少年と言葉を交わされるのも嫌だった。遠巻きに男を見ている野次馬たちの視線が、少女の繊細な神経には無数の刃のように感じられた。
(ねえ、ねえったら)
少女は少年の手を強く引っ張るのだが、少年は、男との会話に夢中のようだった。少年の何がそうさせるのか、少女には理解できない。少年には元々そういうところがあった。人が好きなのだ。見知らぬ人とも会話を弾ませる才能があり、どんな相手ともすぐに打ち解ける一種の天才だった。それは少年の大きな長所なのだろうが、少女にとっては、少年の中の数少ない嫌いなところでもあった。
自分だけを見て欲しいと願うのは、恋する少女の偽らざる本心であろう。
少年は少年で、少女のその気持ちを理解していながらも、生来の人好きが、少女だけを歯科に捉えるということ許さなかった、だから、少女が引っ張るのを感じながらも、男との会話を続けようとしていた。
そんなとき、携帯電話の着信音が鳴った。どこか古めかしさを感じるような電子音。
「あ、ああ、ぼくだ。失礼」
男は、背広の胸のポケットから携帯電話を取り出すと、少年と少女に背を向けた。古めかしいのは着信メロディーだけではなかった。男の掌に収まらないサイズの携帯電話は、どう考えても数世代は以前の機種であり、いまでは生産されていないはずのものだった。
少年と少女は顔を見合わせた。男がいつから使っているかわからないが、不便ではないのだろうか。いやそもそも、正常に扱うことができるのだろうか。使うに使えなければ、持ち歩いていても仕方がない――そこまで考えたものの、少年は、目の前の男が電話に出ている以上、無駄な心配をする必要はないだろうと判断した。
「え、ああ、はい。聞こえていますよ。電波の状況が悪いらしく……ええ!? いきなりじゃないですか。いったいどうして……」
スーツの男は、携帯電話を耳に押し当てたまま、大袈裟に驚いたりして観衆の目を集めて離さない。男には、エンターテイナーとしての天性の素質があるのかもしれない――そんなことを考えさせるほど、男の一挙手一投足は注目を集めていた。
「なんなのよ……もう」
少女は、思い切り嘆息した。せっかくのデートを、たったひとりの男に台無しにされかけているのだ。愚痴の一つも吐きたくなるだろう。観衆の同情が少女に集まるのだが、それさえも少女にとっては最悪以外のなにものでもなかった。注目など、浴びたくない。少女はただ、愛しい少年と幸せな一日を過ごせたら、それだけでよかったのだ。
こんなくだらないイベントは不要だった。
「あ~……そういうことなら仕方ないですね。了解しました。それではまた後程」
男が携帯電話を耳に当てたまま、誰もいない空間に向かって一礼した。会社員としての癖なのかもしれない。男のスーツ姿は、どこかの会社に勤めているサラリーマンそのものであり、その印象はだれひとり否定しないだろう。ショーケースの前で様々なポーズを取るような男であっても、だ。
その男は、携帯電話を元あった場所に戻すと、心底困ったような顔をした。
「困ったな」
「どうしました?」
本当に困り果てたかのような表情を浮かべる男にお人好しの少年が声をかけたのは、成り行きとして当然だったのだが、少女としてはやりきれなかった。困っている人を見たら放ってはおけないというのは、その少年の美徳であり、少女としても嫌いなところではないのだが、やはり時と場合によるのだ。いま、衆目を集めているこのサラリーマン風の男と接点を持ち続けるなんて、少女からすれば嫌に決まっていた。
「いや、なに。大したことじゃない。大したことじゃないんだ。通り雨のようなものさ」
男は、表情一つ変えないまま、そんな詩的な言い回しをした。
ふと気になって、少女は男の顔を見上げた。少年を見下ろす困り果てた男の顔は、必要以上に老けて見えた。端正な顔立ちをしているはずなのに、そうとは感じさせない何かが、男にはあった。
一体何歳なのだろう。
少女は、男の困っている原因よりもそんなことが気になった。当初三十代半ばに見えていた男の顔は、いまや五十代といっても差し支えないくらいに変わり果てていた。
少年が、反芻するように問いかける。
「通り雨?」
「唐突に降って、忽然と上がる。それ自体にはなんの他意もないんだ。自然の摂理だからね」
「はあ」
「吉野亮太君だったね?」
生返事を浮かべる少年に、男が向き直っていった。とても静かな声音だった。いままでの男の言動からは考えられないほどに静かで、それでいて冷ややかな声音。それなのに繁華街の喧騒に掻き消されない。
少年と少女の耳には、しっかりと届いていたのだ。
「はい……え?」
一度は頷いた少年が、驚いて目を丸くしたのは当たり前だった、少年はまだ名乗ってはいなかったし、少女が少年の名前を口にしたこともない。無論その男は少年の知り合いではなかったし、知人の知人というわけでもないだろう。とはいえ、どこかであったことがあるのかもしれない。
少年は、記憶を探ろうとした。しかし。
「そうか……残念だ。君が否定してくれれば、スーツを汚さずに済んだんだが」
男は、仕方がない、とかぶりを振った。少年の後ろにいた少女は、男の瞳が淡く輝いていたのを見逃さなかったが、だからといって悲鳴を上げることもなければ、なんらかの反応を示すこともなかった。もはや、彼女の思考は正常に働いてなどいなかったのだ。
一方の少年は、男の淡く発光する双眸に居竦められていた。輝きは時間の経過とともに加速度的に膨れ上がり、いまや男の目を白く塗り潰さんとしていた。少年は混乱する。なにが起きているのか、まったく理解できない。見知らぬ男に名前を呼ばれたと思ったら、その男の両目が輝きだしたのだ。常軌を逸している。
「これも仕事だ」
男は、右手を手刀の形にすると、身動ぎ一つしない少年の頭に突き入れた。額を突き破り、頭蓋骨に穴を開け、血液と脳漿を撒き散らしながら脳髄をも破壊する。スーツの袖が、返り血を浴びてどす黒い色に染まった。少年の体はわずかに痙攣したものの、断末魔の叫び声もなかった。そして、痙攣さえしなくなる。絶命したのだろう。
それは、サラリーマン風の男が手刀で少年の頭を貫くという非現実的で異様な光景だったが、繁華街を埋め尽くす人の中のだれもが、なにひとつ反応しなかった。少女さえ、ただ立ち尽くしている。まるで時でも止まったかのように。
男は、少年の頭から手を引き抜くと、左手に持ったハンカチで付着した体液を丹念に拭った。血の臭いには慣れているのか、彼は眉ひとつ動かさない。彼が表情を曇らせるのだとしたら、新調したばかりのスーツが血塗れになったことが原因だろう。妻になんといって謝ろうか――地面に崩れ落ちた無残な死体を一瞥した男の脳裏には、そんなことが浮かんでいた。
止まった時の中を、男はひとり、悠然と歩いていく。微動だにしない人ごみの中へ。血に塗れた袖はズボンのポケットに突っ込んでいた。人目が気になったのだろうか。
止まっていた時計の針が再び動き出したのは、男が十数歩ほど歩いたころだった。
男の後方から轟音がして、悲鳴が上がった。悲鳴は波紋となって拡散し、伝播する。繁華街に恐慌が起きた。
天地をひっくり返すような騒動とはこのことだろうか。
男は、素知らぬ顔で、繁華街の人波を掻き分けるように進んでいく。群衆のだれも彼を引き留めようともしなければ、避けようともしなかった。
繁華街を満たす群衆の関心は、突然落下してきたラーメン屋の看板に頭を潰されて死んでしまった少年にあった。
あるいは悲鳴を上げ、あるいは無意味に騒ぎ立て、あるいは無関心を装い、繁華街を悲惨な死亡事故のニュースで塗り潰していく。怒号もあった。繁華街の混乱は膨れ上がる一方であり、しばらく収束することはないだろう。
今夜にはテレビのニュースでも取り上げられるかもしれない。
ラーメン屋の立て付けの悪かった看板が落下し、ショーケースを見ていた少年が押し潰されてしまったという不幸なニュース。ワイドショーのネタとしては十分すぎるかもしれないが、明日の午後まで引っ張るようなものなのだろうか。
もっとも、少年が死ぬ直前まで会話していた男のことなど微塵も触れられないだろう。ましてや、彼が少年を殺害したなどと、誰が証明するというのか。
男を馬鹿にしたり面白がっていた観衆の記憶にも、もはや残ってはいないのだ。例え観衆の中にいた誰かが携帯電話やデジタルカメラで男の姿を記録していたとしても、そのデータはもはや改竄され、ラーメン屋のショーケースだけが映っているだけだろう。
男の仕業は、自然現象や様々な事故として処理され、世界の記憶に刻まれる。今回のケースのように、だ。
男の足跡を追うことなどできるはずがなかった。
鼻歌交じりに繁華街を去る男の名は、御谷住人といった。
職業は死神である。
上から指示された人物に具体的な死を告げることが、主な業務内容であった。
そこに善も悪もなく、ましてやなんらかの思想があるはずもない。
そう、通り雨のようなものなのだ。
天気模様に左右されない通り雨は、明日もまた、どこかのだれかに死を告げるのだろう。