鳴かぬなら。
これで冒頭の部分にやっと戻れるかと。
「月の朝、この部屋の窓辺で申し込んだではないか?」
囁くように、愛撫するように、私の耳に上官殿の言葉がゆっくりと落ちてくる。
その甘く、誘惑するような吐息が私の耳を、首筋を、そして心の臓を震わせる。
その激しく、射るような強い視線が私の背を、瞳を、そして思考をも凍りつかせていく・・。
シズリは冷たき氷の男の甘く凍りつかせる視線に、その両肩に落とされた腕に抗うべくその唇を開いた。
* * *
そもそもその日の朝の私は少々、いや、かなりおかしかった。うん。
ただでさえ重くてつらい2日めで、前夜は下腹部の鈍痛が酷くて眠れず、同期の友人に半ば無理矢理押し付けられた、甘ったるい恋愛小説を夜半まで読んでしまったせいかもしれない。
主人公と恋人の身分差の恋、訪れる試練、運命の悪戯による別れ、そして運命は再び2人を結びつける…といういかにもな展開にもかかわらず、だぁだぁと流れる滝のような涙を拭き拭き読みふけってしまった。
気がつけばほとんど睡眠らしい睡眠をとっていないにもかかわらず、身体は規則正しくいつもの起床時刻に起きてしまう。
こんなときは軍隊で培われた、己の規則正しさに感謝しつつも少々恨めしくも思う。
なかなか覚めやらぬ頭をふりふり出仕すれば、そこにおわすは上官殿。
よりによってこんな日に。
ほとんど寝ていないため、寝不足で頭はぼんやり。
昨夜よりはマシになったものの、女性ならではの鈍痛で霞む思考。
恋愛小説で滂沱の涙を流したおかげで腫れぼったく潤んだ瞳。
慌てて走ってきたため、真っ赤になった頬。
上司の前ではあまり晒したくない姿だ。
よりによってこんな状態のときに限って2人とは。
早く誰か来てほしい、いっそ顔でも洗って来ようかしらと、ぼんやりしていたところに上官殿の言葉が耳に入った。
「―――毎朝味噌汁――――」
・・・しまった!私に話しかけてた!??
2人しかいないし、拙い、聞いてなかったよ!!
えっと、えっと、味噌汁っておっしゃいましたっけ?
私の故郷のソウルフードですが、ナニカ?
そのお顔は何か意見を期待されてますか!えっと美味しいかってこと??
シズリはさっといつもの笑顔を顔に貼り付けて窓辺に立つ上官に向き直った。
「―――そうですね。私は好きです」
「―――――!・・・そうか・・・」
ヒューバートは窓の外に向けていた顔を身体ごとシズリに向き直った。
普段は穏やかで、黒っぽくも見える群青の瞳が矢のようにシズリの瞳を射抜く。
「・・・ならいい。―――ありがとう―――」
ヒューバートは一度、二度まばたきをし、その瞳を伏せた。
無表情なので、はたから見ればその感情は表情からは読み取れない。
ただ、適当に相槌をうってしまったことにいたたまれず、思わず俯いたシズリはその氷の瞳にゆらめく情熱という名の炎に気づくことはなかった・・・・。
* * *
「・・・というわけです。申し訳ありません・・・」
シズリは消えいらんばかりの声で詫びた。
私の不注意です、申し訳ありませんと繰り返し、繰り返し。
ヒューバートに両肩を掴まれ、あわやのしかかられんばかり、という微妙な姿勢のままで。
「・・・・・・・・・・・・・・」
薄く、引き結ばれたまま何も言わない唇が怖い。
無表情のまま睨めつけてくるかのような、その瞳が怖い。
シズリの両肩に置かれたままのがっちりとした、大きな手がぴくりとも動かないのがまた怖い。
そして、その背筋から陽炎のように立ちのぼるかのように見える、
黒いオーラがとてもとても怖ろしい!!
寒くはないはずなのに、シズリの背をつ、と冷たい汗が伝っていく。
静寂と夜の帳が執務室を包み、しんとした空気だけが残っていた。
そして、その空気を破ったのはヒューバートであった。
「わかった。要は私の勘違いであった、と」
肩に置かれた手の力が緩み、その引き結ばれた唇がほどける。
空気が和らぎ、先程まであった淫靡な空気も、緊張感もどこかへ一瞬で離散した。
それに気がついたシズリはほっとする反面、落ち着かない心持ちにもなる自分自身に戸惑った。
(どうしてだろう。ほっとしたのに、誤解がとけたのに・・・私・・・?)
何とも面映い気持ちに戸惑いながらも面を上げると、群青の視線と視線がぶつかった。
そう、その瞳が告げるのであった。
―――再び狩という名の遊戯が始まったことを!
上官殿は仰いました。
「わかった。あのように、君の顔を見つめながら告げる勇気もないまま、遠まわしな申込をしてしまった私にも非がある」
いえいえ、あのとき話を聞いてなかった私が悪かったんです!
勇気がないなど、らしくない言葉と、同じくらい彼らしくない言葉の多さに思わず笑みがこぼれる。
「―――だから単刀直入に言う。結婚しよう」
はいぃぃ???
シズリはぽかんとしたまま、上官殿を見つめるのみ。
一方、ヒューバートはいつになく饒舌に言葉をつむぐ。
「それだけは君に伝えておきたかった。だが・・・今は返事は不要だ。何よりも回りくどいやり方で君自信を混乱させて悪かったと思う」
そこでいったん言を切り、唇を引き結ぶ。その双眸に強い感情という名の光が灯る。
「だが―――覚えておけ。私はやはり――――」
肩を掴んでいた手がシズリの腰に回り、ソファに沈みかけていた身体をぐっと抱き起こされた。
「―――ますます、きみがほしい――――」
柔らかな接吻が危険な吐息とともに頬にふってきた・・・。
舌なめずりする肉食獣のように囁く、危険な言葉を耳に残して。
シズリ・シノノメ少尉、21歳。
尊敬していた上官殿は、めげない・負けない・欲しがりますよ、勝つまでね。鳴かぬなら、鳴かせて見せようホトトギスな方だとようやく知りました・・・・。
その晩シズリは、狼に襲い掛かられる子羊になる夢を見たのであった――――!!
漸く1章終わり、かな。
まさか6話になるとは思いませんでした。
ここからが中佐殿にとっては恋のスタート地点というところでしょうかね。